第14話 鍵
国立の地下から地上へ出た時、夜の空気は異様に生暖かかった。雨はすでに止んでいる。
だが修司の服には地下の冷気が染みつき、まだ背筋の奥に寒さが残っていた。
結城翔太は歩ける状態ではなかったため、黒田が肩を貸している。
風間美緒はずっと翔太の手を握ったままだ。
「救急車を呼んだ方がいいんじゃ……」
美緒が不安そうに言う。
「警察には……まだ話せない……」
翔太は弱々しく首を振った。
「なぜ?」
「大庭さんだけじゃない……誰かが見張ってる……」
修司は地下で拾った真鍮の鍵を掌で転がした。
柄には逆さ三日月の紋章。
榊原遼のロッカーを開ける鍵。
そして三鷹の廃スタジオへ繋がる唯一の手掛かりだった。
「今夜は中野へ戻る。翔太さんは事務所で休んでもらう」
黒田が頷く。
「賛成だ。地下にもう一回潜るのは勘弁してくれ」
立花圭介と大庭沙耶は国立駅近くで別れた。
立花は最後に修司へ言った。
「もし三鷹へ行くなら、榊原のノートを探してくれ」
「何が書かれているんです」
立花は暗い顔で答えた。
「“六人目”の正体だ」
◆
中央線で中野へ戻った頃には、日付が変わろうとしていた。一階の喫茶店クイーンにはまだ灯りが点いている。
松田ジゼルは翔太の顔を見るなり、すぐに状況を察したようだった。
「奥を使ってください」
彼女は店の裏にある小さな休憩室を開けた。
簡易ベッドと救急箱が置かれている。
「ありがとうございます」 美緒が深く頭を下げる。
ジゼルは翔太の額の傷を確認し、手際よく消毒を始めた。
「かなり強く打っていますね。でも縫うほどではなさそうです」
「なんでもできるな、ジゼルさん」
黒田が感心したように言う。
「昔、少しだけ医療関係の勉強をしていました」
彼女はさらりと答えたが
……その横顔にはどこか影があった。
◆
二階の事務所。
修司は机に国立で得た資料を広げていた。
まどかがファインダーの中に現れる。
『翔太さん、かなり無理をしていましたね』
「死ぬ気だったのかもしれない」
『玲子さんを助けるために?』
「あるいは………自分の罪を、償うために」
修司は地下記録ノートを開く。
最後のページ。
『もし俺が消えたら、月島玲子を探せ』
翔太は十五年前、自分たちが玲子を見捨てたことを知っていた。だからこそ、地下へ戻った。
その時、ドアがノックされた。
「翔太、少し話せるみたいです」
◆
休憩室に入ると、翔太はベッドにもたれながら水を飲んでいた。顔色はまだ悪いが、意識ははっきりしている。
修司は椅子を引き寄せる。
「聞きたいことがある」
翔太は静かに頷いた。
「三鷹の廃スタジオについて教えてくれ」
その言葉に、翔太の表情が強張った。
「立花さんに聞いたんですね」
「ああ。榊原のロッカーがあると」
翔太はしばらく黙っていたが、やがて観念したように語り始めた。
「三鷹駅北口から少し離れた場所に、昔の録音スタジオがあります。十年以上前に閉鎖された建物です」
「なぜ榊原のロッカーがそこに?」
「榊原は大学卒業後、そこで舞台音響のアルバイトをしていました。地下倉庫を私物置き場みたいに使っていたんです」
美緒が不思議そうに尋ねる。
「翔太、なんでそんなこと知ってたの?」
「榊原が死ぬ前に、一度だけ会ってるんだ」
部屋の空気が止まった。
「三年前に?」
修司が確認すると、翔太は頷いた。
「事故の………一週間前です」
黒田が眉をひそめる。
「待て。榊原とまだ繋がってたのか?」
「偶然連絡が来たんです。
“黒い月は終わっていない”って」
翔太は震える指でコップを握り締める。
「その時、榊原はかなり怯えていました。“玲子が地下から出てきた”“観客が増えている”って」
修司は鋭く問いかける。
「事故について何か聞いたか?」
「“もし自分が死んでも、、、
三鷹のロッカーだけは 開けるな ”と言われました」
「なぜだ?」
「“あれを見たら、次の観客になる”って」
◆
その時、一階からカップの割れる音が響いた。
ガシャーン!
全員が顔を上げる。
黒田がすぐに立ち上がった。
「ジゼルさん!」
階段を駆け下りる。修司たちも後を追った。
喫茶店クイーンのカウンターでは、床にコーヒーカップが散乱していた。
ジゼルは入口の方を見つめたまま立ち尽くしている。
「どうしたんです?!」
修司が尋ねると、ジゼルはゆっくり入口を指差した。
ガラス扉の外。
雨上がりの路地に、白いワンピース姿の女が立っていた。
月島玲子。
街灯の下で、青白い顔がはっきり見える。
今度は修司だけではない。
黒田も、美緒も、ジゼルも、その姿を見ていた。
玲子は静かにこちらを見つめ、ゆっくり右手を上げる。
そして指差したのは――修司の胸のポケットだった。
そこには、三鷹の鍵が入っている。
次の瞬間、玲子の姿は夜の闇に溶けるように消えた。
「今の……本当に……」 美緒が震える声を漏らす。
黒田は珍しく冗談を言わなかった。
ジゼルは割れたカップを見下ろしながら、静かに言った。
「修司さん、その鍵……かなり危険なものですね」
◆
再び二階へ戻ると、事務所の空気はさらに重くなっていた。修司は鍵を机の上に置く。
まどかがファインダーの中でじっとそれを見つめている。
『玲子さん、鍵を渡してほしかったんじゃありません』
「じゃあ何だ」
『 “急いで” と言っていました』
その時、翔太が突然苦しそうに呻いた。
「……来る……」
美緒が慌てて肩を支える。
「翔太!?」
目は半分閉じ、夢でも見ているようだった。
「榊原が……ロッカーを開けるなって……でも……もう遅い……」
彼は震える手で修司を掴む。
「三鷹へ行くなら……地下の録音室に気を付けてください」
「録音室?」
「一番奥の部屋です……榊原は…
そこで “観客の声” を録っていた……」
修司の背筋に冷たいものが走る。
「観客の声?」
翔太は青ざめた顔で囁く。
「舞台を見ていたはずのない人たちの声です……十五年前の公演を……何十人もの知らない人間が拍手してる音が入っていた……」
部屋の時計が、午前二時を告げた。
中野の雑居ビルは静まり返っている。
だが修司には、どこか遠くから微かな拍手の音が聞こえた気がした。
パチ……パチ……パチ……パチ……パチ……パチ……
それはまるで、見えない観客たちが次の幕開けを待っているようだった。
修司は机の上の真鍮の鍵を静かに握り締める。
次の舞台――
三鷹の廃スタジオが、重く待ち構えていた。




