第13話 五つの席
ギィ……ギィ……。
五脚の木椅子が、見えない力に押されるように軋みながら動き続けていた。
地下室の中央。
黒い円を囲むように置かれた椅子は、完全に修司たちの方を向いている。
まるで舞台の開演を待つ観客のように。
「やだ……何これ……」
風間美緒が震える声を漏らした。
「下がってろ」
黒田慎一が前へ出て、美緒を庇うように立つ。
修司は LXを構えたまま、黒い円を見据えていた。
円の中央には、まだ顔のない黒い影が立っている。
輪郭は人間に近いが、顔だけが暗い穴のように空洞になっていた。
『修司さん、見ないでください』
まどかの声が緊張を帯びる。
『あれは“視線”を返してきます』
だが修司はファインダーを外さなかった。
影の周囲で空気が歪んでいる。
まるでそこだけ現実の密度が違うようだった。
立花圭介は壁際で膝をつき、顔を覆っていた。
「また始まる……俺たちは終わらせたはずだったのに……」
大庭沙耶が苦しげに首を振る。
「終わってなんかいなかったのよ。玲子を置き去りにした時から、ずっと」
◆
その時、結城翔太が突然激しく咳き込んだ。
「翔太!」 美緒が支える。
翔太は苦しそうに呼吸を整えながら、修司の腕を掴んだ。
「……椅子を……見るな……」
「どういう意味だ」
「五つの席……座ったら、戻れなくなる……」
修司は椅子を観察した。
古びた木製。
しかし座面だけが不自然に黒く染まっている。
まるで長年、何かが染み込み続けたような色だった。
大庭が震える声で言う。
「十五年前、榊原は言ってた。
“観客が五人揃った時、月は完成する”って」
「観客?」
「舞台を見る者よ。役者じゃない」
修司の脳裏に、翔太の台本に書かれていた言葉が浮かぶ。
『五人目は観客』
つまり、この地下室で必要なのは
役者ではなく、 「見る者」 だった。
◆
突然、地下室の奥から低い唸り声のような音が響いた。
ゴォォォ……。
黒い円の表面がさらに激しく波打ち始める。
顔のない影が、ゆっくりと一歩前へ出た。
その瞬間、修司の頭に鋭い痛みが走った。
視界が揺らぐ。
気付くと、地下室の光景が変わっていた。
◆
そこは…十五年前?の地下スタジオだった。
照明が点き、若い観客たちが木椅子に座っている。
舞台中央には黒い円。
そして白い衣装を着た月島玲子が立っていた。
彼女はまだ生きている。
若く、美しく、しかしどこか怯えた表情をしていた。
客席には若い立花、大庭、翔太、榊原の姿もある。
そして最後の席に、顔の見えない誰かが座っていた。
榊原遼が興奮した声で叫ぶ。
「これで完成する! 五人の観客が揃った!」
玲子が首を振る。
「違う……その人、誰なの……?」
顔のない観客がゆっくり立ち上がる。
その瞬間、舞台の黒い円が裂け、闇が噴き上がった。
玲子の悲鳴。
観客たちの混乱。
そして――。
『修司さん!』
まどかの声が鋭く響き、視界が元に戻った。
◆
修司は地下室に立っていた。
額に冷たい汗が流れている。
黒田が肩を掴む。
「おい、大丈夫か!?」
「……見えた」
「何が?」
「十五年前の公演だ」
修司は荒い呼吸を整えながら、見た光景を説明した。
玲子。
榊原。
そして五人目の観客。
大庭の顔から血の気が引く。
「そんな……本当にいたの?」
立花が震える声で呟く。
「俺たちは四人しか観客を入れてないはずだ……」
「だが、榊原は“五人揃った”と言っていた」
修司は黒い円を見つめる。
「つまり、最初から一人多かったんだ」
翔太が弱々しく頷いた。
「俺も……夢で見た……顔のない観客を……」
◆
その時、地下室の入口付近で木が軋む音がした。
全員が振り向く。
五脚の椅子のうち、一脚がひとりでに前へ滑り出している。
ギギギ……。
そして修司の正面で止まった。
座面から黒い液体がじわりと滲み出す。
『座っちゃ駄目です!』
まどかが悲鳴のように叫ぶ。
黒い液体は床を這うように広がり、修司の足元へ近づいてくる。黒田が咄嗟に椅子を蹴り飛ばした。
椅子は壁に激突し、派手な音を立てて倒れる。
すると地下室全体に、何人もの怒鳴り声のようなノイズが響いた。
ウォォォォォ……!
ライトが激しく明滅する。
顔のない影が、今度ははっきりと修司を見た。
顔がないはずなのに、「見られている」と分かる。
その視線には、底知れない
飢えや…渇きのような物があった。
◆
突然、月島玲子が再び現れた。
今度は影の前に立ち、両腕を広げる。
彼女の表情は悲しみに満ちていた。
「まだ駄目……」
玲子の声が地下室に響く。
「この人たちは違う」
顔のない影が低く唸る。
すると玲子は修司を真っ直ぐ見つめた。
「相良修司……あなたは
“見る人” だけど、 “座る人” じゃない」
修司は息を呑む。
なぜ玲子が自分の名前を知っているのか。
玲子はさらに続けた。
「月を閉じるには、“最初の五人”
を揃えなければならない」
立花が顔を上げる。
「最初の五人……?」
「立花、大庭、翔太、榊原……そして私」
玲子の姿が少しずつ薄れていく。
「誰かが欠けたままでは、六人目が席を埋め続ける」
その言葉と同時に、地下室の奥から冷たい風が吹き抜けた。
顔のない影がゆっくり後退し、黒い円の中へ沈み始める。
しかし消える直前、その空洞の顔から囁き声が漏れた。
「……榊原は、まだ帰っていない」
次の瞬間、影は完全に闇へ溶けた。
地下室は急に静まり返る。
ライトの明滅も止まり、残ったのは荒い呼吸だけだった。
◆
修司は静かにカメラを下ろした。
玲子の言葉が頭の中で反響している。
“最初の五人を揃えなければならない”
だが、その五人の一人――
榊原遼は三年前に死亡しているはずだ。
修司が立花を見ると、彼は青白い顔のまま小さく首を振った。
「榊原は死んだ……俺たちは葬式にも出た……」
しかし修司は確信していた。
この事件の核心には、まだ榊原遼がいる。
生者としてか、死者としてかは分からないが……。
その時、翔太が震える手でリュックの奥を探り、小さな鍵を取り出した。
真鍮製の古い鍵。
柄の部分には、逆さ三日月の紋章が刻まれている。
「……榊原のロッカー……」
修司が鍵を受け取る。
「どこにある?」
翔太はかすれた声で答えた。
「三鷹……廃スタジオの……地下倉庫……」
地下室の冷たい空気の中で、修司はその鍵を静かに握り締めた。
黒い月の真相は、国立だけでは終わらない。
次の舞台は ―― 三鷹だった。




