第4話 剥がされる早瀬莉乃
一階の騒ぎは、思ったほど大きな事件ではなかった。
少なくとも、表面上は。
サロンの入口近くで、銀の盆が床に落ち、グラスがひとつ割れていた。赤ワインが絨毯に広がり、血のような染みを作っている。美香が青ざめた顔で立ち尽くし、榊原が大げさに手を振りながら謝っていた。
「いや、すまない。少し袖が当たっただけなのだが」
榊原の声は大きい。
だが、その大きさは、場の注意を自分に集めるためのものにも聞こえた。
黒江瑠璃子は、階段を降りてすぐ、状況を一瞥した。
割れたグラス。
こぼれたワイン。
立ち位置を変えた客たち。
サロンの奥で、黙っている遠峰修一。
椅子の背に手を置いた真木沙織。
顔色の悪い宮園透。
動揺を見せない久世葉子。
そして、半歩遅れて階段を降りてきた早瀬莉乃。
瑠璃子の視線が、玲央の髪へ向いた。
乱れは直した。
だが、完全ではない。
栗色のウィッグは元の位置に戻っている。しかし、前髪の流れがわずかに不自然だった。白いカチューシャも、ほんの少し左へ寄っている。普通の客なら気づかない。使用人も、騒ぎの中では見落とす。
だが、瑠璃子は見落とさない。
玲央は、早瀬莉乃の顔で目を伏せた。
サロンでは、相沢がすでに美香から事情を聞いていた。割れたグラスの破片は集められ、絨毯の染みには布が当てられている。使用人の動きは速い。騒ぎを最小限に抑える訓練が行き届いていた。
「榊原さん」
瑠璃子が言った。
「お怪我は?」
「ありません。いや、本当に申し訳ない。私が少し身を乗り出した時に、彼女の盆に袖を引っかけてしまった」
榊原は美香を示した。
美香はすぐに頭を下げる。
「申し訳ございません、奥様。私の持ち方が悪く」
「美香さん」
瑠璃子の声は静かだった。
「謝るのは後でいいわ。怪我は?」
「ございません」
「なら、よかった」
瑠璃子はそこで榊原へ戻った。
「榊原さん。こちらこそ、狭い場所に盆を通してしまいました。どうぞお気になさらず」
「いや、黒江さんにそう言っていただけると助かります」
榊原は笑った。
だが、その額には薄く汗が浮いていた。
玲央はそれを見た。
グラスを割っただけにしては、少し汗が多い。
あるいは、酒のせいか。
いや、榊原には酒を控えめに注いでいた。酔うほど飲んではいない。
瑠璃子はサロン全体を見渡した。
「皆様、お騒がせしました。せっかくの夜ですもの。少し場所を替えましょうか。隣の談話室へ。相沢、こちらの片づけを」
「かしこまりました」
客たちは、瑠璃子の言葉に従って動き始めた。
この屋敷では、瑠璃子が空気を変えれば、誰も逆らわない。
遠峰が軽く笑った。
「黒江さんは、こういう時にも落ち着いておられる」
「慌てると、割れたものが戻るのですか?」
「戻りませんな」
「なら、慌てても仕方ありません」
「ごもっとも」
遠峰は談話室へ向かった。
真木は、玲央の横を通り過ぎる時、ふと足を止めた。
「早瀬さん」
「はい」
「髪、少し乱れているわ」
玲央は、静かに頭を下げた。
「申し訳ございません。急ぎましたので」
「そう」
真木はそれ以上言わなかった。
だが、目は言葉より長く玲央を見ていた。
玲央は、早瀬莉乃の微笑みを崩さない。
まだだ。
まだ、早瀬莉乃は終わっていない。
客たちが談話室へ移動し、サロンには使用人と瑠璃子だけが残った。相沢は美香へ片づけを指示している。瑠璃子は割れたグラスの破片ではなく、床に広がった赤い染みを見ていた。
それから、玲央へ視線を向けた。
「早瀬さん」
「はい、奥様」
「少し手伝ってちょうだい」
「かしこまりました」
玲央は一歩前に出た。
瑠璃子は言った。
「書斎へ戻ります」
玲央は、内心で警戒を強めた。
やはり、終わっていない。
「書斎、でございますか」
「ええ。先ほどの件を、途中にしたままだったでしょう」
「先ほどの件、とは」
「金庫」
相沢の動きが止まった。
美香は顔を上げかけたが、相沢に目で制され、すぐに視線を落とした。
瑠璃子は、玲央だけを見ている。
もう、ごまかしは効かない。
だが、認める理由もない。
玲央は女声を保ったまま答えた。
「奥様。私は、写真帳をお運びしただけでございます」
「そう。では、その話をもう一度、書斎で聞かせて」
「ここではいけませんか」
「だめ」
瑠璃子は短く言った。
その声には、主人としての命令があった。
相沢が静かに近づく。
「奥様。私も」
「ええ。あなたも来て」
「かしこまりました」
玲央は相沢を見た。
相沢の表情は変わらない。
だが、その目はすでに新人メイドを見るものではなかった。
不審者。
侵入者。
あるいは、まだ正体の分からない何か。
玲央は軽く頭を下げた。
「承知いたしました」
逃げるなら今か。
一階の談話室には客がいる。サロンには使用人がいる。玄関へ走れば、警備がいる。裏口は厨房奥だが、相沢が横にいる。窓はすべて内側から開けられるとは限らない。
そして何より、瑠璃子は逃げる動きを待っている。
逃げれば、早瀬莉乃はその瞬間に終わる。
ならば、まだ続ける。
早瀬莉乃として、書斎へ戻る。
*
二階の書斎へ戻るまで、誰も口を開かなかった。
先頭を瑠璃子が歩き、半歩後ろに玲央、そのさらに後ろに相沢が続いた。階段を上がる時、玲央は後方の気配を意識した。相沢は近すぎず、遠すぎない距離を保っている。逃走の隙を与えず、同時に客へ不自然に見えない位置だ。
使用人として有能。
監視者としても有能。
厄介だ。
書斎の扉が開く。
瑠璃子が中へ入る。
玲央も続く。
相沢が最後に入り、扉を閉めた。
鍵はかけられなかった。
だが、玲央は知っている。この部屋は鍵などなくても閉じられる。机の下の機構ひとつで、扉も窓も封鎖できる。
瑠璃子は机の前に立ち、床に落ちた書類を拾い上げた。
先ほど玲央が払った紹介状の写し、履歴書の写し、写真。
それらを整え、机の上に置く。
「早瀬さん」
「はい」
「もう一度、説明して」
「何をでございましょうか」
「なぜ、書斎の絵の裏にある金庫を開けていたのか」
相沢の顔がわずかに動いた。
彼女は金庫の存在を知っている。
だが、開けられたとまでは知らなかったのかもしれない。
玲央は落ち着いて答えた。
「絵が傾いているように見えました。直そうとしたところ、奥に金庫があることに気づきました。扉が完全に閉まっていないようでしたので、異常がないか確認しようと」
「金庫の中の箱まで?」
「高価なものと思われましたので」
「箱の蓋も開けたわね」
「中身に異常がないかと」
「宝石を持ち出す準備もしていた」
「そのようなことは」
瑠璃子は、机の上に小さな袋を置いた。
金属片の入った袋。
玲央が金庫の前で使おうとしていたものだ。
いつの間に拾ったのか。
「これは?」
玲央は一瞬だけ沈黙した。
「存じ上げません」
「あなたの袖から落ちたわ」
「私のものではございません」
「では、誰のもの?」
「分かりかねます」
「便利な言葉ね」
瑠璃子は袋を指先でつまみ、相沢へ見せた。
「相沢。これは使用人の持ち物?」
「いいえ。少なくとも、業務で使用するものではございません」
「そう」
瑠璃子は袋を机に戻した。
玲央はまだ崩れない。
メイドとして立つ。
両手を前で重ね、背筋を伸ばし、目線を下げる。乱れかけたウィッグは、なんとか保っている。メイクもまだ無事だ。声も、早瀬莉乃のまま。
証拠はある。
疑いもある。
だが、本人が認めなければ、早瀬莉乃という仮面はかろうじて形を保つ。
瑠璃子はその仮面を、正面から見ていた。
「早瀬さん。あなたは、本当にしぶとい」
「恐れ入ります」
「褒めていないわ」
「はい」
「でも、そのしぶとさは嫌いではない」
瑠璃子はゆっくりと玲央へ近づいた。
玲央は動かない。
ここで下がれば、怯えた犯人に見える。前に出れば挑発になる。使用人として、主人の言葉を待つ。そう見せる。
「相沢」
「はい」
「扉の前に」
「かしこまりました」
相沢が扉の前へ移動した。
出口を塞がれた。
瑠璃子は玲央の正面に立った。
距離は一歩半。
「早瀬さん」
「はい」
「あなたの髪を直してあげる」
玲央の背筋に、冷たいものが走った。
「いえ。自分で」
「遠慮しないで」
「勤務中に、奥様のお手を煩わせるわけには」
「命令よ」
瑠璃子の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさが、かえって逃げ場を消した。
玲央は目を伏せた。
「……かしこまりました」
瑠璃子の手が伸びる。
白い指が、栗色の前髪へ触れた。
玲央は息を止めない。
止めれば、緊張が伝わる。
瑠璃子はウィッグの流れを整えるように、指先を動かした。動作だけ見れば、主人が新人メイドの乱れた髪を直しているように見える。だが、実際には違う。彼女の指は、髪の自然な流れではなく、固定の位置を探っていた。
耳の上。
こめかみ。
前髪の生え際。
固定ピン。
境目。
玲央は、瑠璃子の指がウィッグの縁を確実に捉えたことを感じた。
「奥様」
「何?」
「それ以上は」
「それ以上は?」
「失礼にあたります」
「誰に?」
瑠璃子は微笑んだ。
「早瀬莉乃さんに?」
玲央は答えない。
瑠璃子の指に、少しだけ力が入った。
ウィッグが浮く。
額の端に黒髪が覗く。
相沢が息を呑んだのが分かった。
瑠璃子は、まだ外さない。
「最後の機会をあげるわ」
「何のことでしょうか」
「自分で外す?」
玲央は、早瀬莉乃の声で答えた。
「外すものなどございません」
「そう」
瑠璃子は短く言った。
次の瞬間、栗色の髪が外れた。
無理に引きちぎるような乱暴さではない。だが、ためらいもなかった。固定を外し、角度を読んで、ひと息で取り去る。瑠璃子の手の中に、栗色のウィッグが収まった。
書斎の空気が変わった。
早瀬莉乃が、最初に大きく崩れた。
そこに立っていたのは、黒い地毛を乱した若い男だった。
まだメイクは残っている。
制服も、補正具で作られたシルエットも残っている。
声も出せる。
だが、髪が取れたことで、全体の錯覚が一気に薄れた。清楚な新人メイドという像の上部が、ぱっくりと裂けたようだった。
相沢は、声を失っていた。
瑠璃子は手にしたウィッグを軽く見た。
「よくできているわね。毛流れも、色も、顔の印象に合わせてある」
玲央は、ゆっくりと顔を上げた。
女声ではなく、少し低い声で言う。
「返していただけますか」
「ようやく、その声」
「勤務中ですので、身だしなみを整えたいのですが」
「まだ言うの?」
「はい」
瑠璃子は笑った。
「早瀬莉乃は、もう難しいわ」
「髪型を変えただけです」
「では、黒髪のメイドということにする?」
「できれば」
「図々しい」
「よく言われます」
玲央は軽く息を吐いた。
この時点で、女声を維持する意味は薄い。むしろ、女声を続ければ滑稽になる。だが、完全に素の声を出すのも負けを認めることになる。
だから、間を取る。
低めの、しかしまだ柔らかい声。
早瀬莉乃の残骸と鴉羽玲央の本体が混ざった声。
瑠璃子は、その変化を面白そうに見ていた。
「相沢」
「はい」
相沢の返事は、少し遅れた。
彼女もさすがに驚いている。
「見た通りよ」
「……はい」
「早瀬莉乃さんは、少なくとも紹介所から来た新人メイドではない」
「そのようでございます」
相沢は玲央を見た。
怒りよりも、職務上の冷静さが先に戻っていた。
「あなたは、何者ですか」
玲央は答えた。
「臨時メイドの早瀬莉乃です」
「その言い分は、もう通りません」
「そうでしょうか」
相沢の目が鋭くなった。
「黒江邸に虚偽の身分で入り、奥様の書斎へ侵入し、金庫を開けた。これだけで十分です」
「金庫を開けた証拠は」
瑠璃子が机の上の袋を指す。
「あるわね」
「状況証拠です」
「それも、かなり強い」
「まだ裁判ではありません」
「ええ」
瑠璃子は頷いた。
「ここは、私の書斎よ」
玲央は、わずかに笑った。
「それは怖い」
「二度目ね。私を怖いと言うのは」
「もっと言ってもいいですか」
「後で聞くわ」
瑠璃子はウィッグを机の上へ置いた。
その動作は、戦利品を置くようにも、証拠品を置くようにも見えた。
「次」
玲央は目を細めた。
「次、とは」
「顔」
瑠璃子は机の引き出しを開けた。
中から、白い布と小さな瓶を取り出す。化粧を落とすためのクレンジング用のクロスと液体だった。宝石の手入れ用ではない。明らかに、肌に使うもの。
用意してあった。
玲央はそれを見て、初めて少しだけ表情を硬くした。
「奥様。そこまでなさる必要はありません」
「あるわ」
「不審者として扱うなら、警備員か警察を」
「警察に渡す前に、あなたが誰かを確認する必要がある」
「顔なら、もう見えているでしょう」
「いいえ」
瑠璃子は瓶を開け、クロスに少量を含ませた。
「まだ作り物が残っている」
相沢が一歩前に出た。
「奥様、私が」
「いいえ。私がやるわ」
「ですが」
「この人は、私の金庫を開けたの。私が確認する」
相沢は一礼し、引いた。
玲央は後ろへ下がろうとした。
だが、扉の前には相沢。
窓は封鎖されていないが、二階であるうえ、外側の格子はまだ下りている。机の下の機構を瑠璃子が使えば、すぐに閉じ込められる。
逃げるより、今は情報を残す方がいい。
玲央は動きを止めた。
「抵抗しないの?」
瑠璃子が尋ねる。
「ここで暴れても、品がないので」
「泥棒に品?」
「怪盗ですので」
「そこは譲らないのね」
「ええ」
瑠璃子は玲央の顎に手を添えた。
強く掴むのではない。
顔の向きを固定する程度。
それから、クロスを頬に当てた。
冷たい。
化粧が、布に移る。
最初に消えたのは、頬の柔らかい陰影だった。早瀬莉乃の顔を若く、清楚に、少し丸く見せていた色が落ちる。頬骨の線が変わり、顔の印象が締まる。
次に口元。
控えめに整えられていた唇の色が薄くなる。柔らかい表情を作っていた輪郭が消え、玲央本来の口元が出る。笑うと人をからかっているように見える、少し鋭い線。
瑠璃子は急がなかった。
乱暴にこすらない。
だが、確実に落とす。
それがかえって、玲央には不快だった。
戦いなら、奪い返せる。
乱暴なら、怒れる。
だが、これは検分だった。
絵の表面を拭い、下にある別の絵を出すような手つき。
怪盗が作った人物を、ひとつずつ解体していく作業。
「うまいメイクね」
瑠璃子が言った。
「ありがとうございます」
「骨格を完全に隠そうとしていない。むしろ、少し残している。だから不自然に見えない」
「奥様は、化粧にもお詳しい」
「人を見るのが好きだから」
「怖い趣味です」
「三度目」
瑠璃子は眉のあたりへクロスを移した。
そこで顔の印象がさらに変わった。
早瀬莉乃の目元は、柔らかく下がって見えるよう作られていた。眉の角度、影の置き方、目尻の処理。そのいくつかが落ちると、目の輪郭がはっきりする。
伏し目がちなメイドの顔ではない。
相手を測り、隙を探し、次の逃げ道を考える怪盗の目。
相沢が、小さく息を吐いた。
「……まったく別人ですね」
玲央は、顔を拭かれたまま答えた。
「それは傷つきます」
相沢は冷静に返した。
「褒めていません」
「今日は皆さん、そればかりですね」
瑠璃子は最後に額の生え際を拭った。
ウィッグで隠れていた部分の補正が落ちる。
早瀬莉乃の顔は、ほぼ消えた。
そこに残ったのは、メイド服を着た鴉羽玲央だった。
瑠璃子はクロスを畳み、机の上に置いた。
「これで、ずいぶん分かりやすくなった」
玲央は手袋をした指で、拭われた頬に触れた。
「せっかく時間をかけたんですが」
「どのくらい?」
「企業秘密です」
「怪盗の?」
「メイドの身だしなみの」
瑠璃子は笑った。
相沢は笑わなかった。
「奥様。この者を警備へ引き渡しますか」
「まだ」
「まだ、でございますか」
「ええ。顔は分かった。でも、仕掛けは顔だけではない」
瑠璃子の視線が、玲央の服装へ向いた。
玲央は、目を細めた。
「奥様」
「何?」
「それ以上は、やり方を考えた方がいい」
声は静かだった。
女声ではない。
鴉羽玲央の声だった。
瑠璃子は、その変化を受け止めた。
「もちろん。私は見世物にしたいわけではないわ」
「十分、見世物ですが」
「ここには相沢しかいない」
「相沢さんは数に入らない?」
「入るわ。だからこそ、彼女を呼んだの」
瑠璃子は相沢へ向いた。
「相沢。別室を使います。使用人用の点検室を。そこなら鏡と仕切りがある」
「かしこまりました」
「警備員は廊下の外に。中には入れないで」
「はい」
玲央は、瑠璃子を見た。
彼女は、線引きはしている。
屈辱を与えるためではない。
正体を確認するため。
変装の道具を証拠として押さえるため。
それは分かる。
分かるが、不愉快であることに変わりはない。
「逃げるつもりなら、今のうちよ」
瑠璃子が言った。
玲央は笑った。
「逃げ道を塞いでから言うのは、趣味が悪い」
「褒め言葉として受け取るわ」
「褒めていません」
「お互い様ね」
瑠璃子は机の上のウィッグを取り、相沢に渡した。
「証拠品として保管して」
「かしこまりました」
「それと、メイク道具、金属片の袋、偽造書類も」
「はい」
相沢は淡々と動いた。
玲央はその様子を見ながら、思った。
早瀬莉乃は解体されている。
髪。
顔。
書類。
道具。
ひとつずつ、黒江邸の管理下へ移されていく。
これが瑠璃子のやり方なのだ。
怒鳴らない。
殴らない。
慌てない。
ただ、相手の作ったものを観察し、分類し、剥がし、保管する。
怪盗にとって、これほど嫌な敗北はない。
*
点検室は、二階の奥にあった。
使用人が制服の乱れを整えたり、備品を確認したりするための小さな部屋だった。壁には鏡。棚には布、手袋、簡単な裁縫道具。奥には折りたたみ式の仕切りがある。部屋としては質素だが、清潔だった。
廊下の外には警備員が二人立った。
室内にいるのは、瑠璃子、相沢、玲央の三人だけ。
瑠璃子は椅子を示した。
「座って」
「命令ですか」
「ええ」
玲央は座った。
相沢が手袋を外すよう指示する。
玲央は従った。
手袋が外れると、白く整えられていた指先が現れる。メイドとしては綺麗すぎる手。相沢が最初から疑っていた手だった。
「やはり、水仕事の手ではありませんね」
相沢が言った。
「保湿を頑張りました」
「そういう問題ではありません」
「でしょうね」
相沢は、机の上に布を広げた。
そこへ、証拠として確認するものを置いていく。
袖口に隠していた細い道具。
小さな鍵用の器具。
予備のピン。
紙片。
折りたたまれた薄い手袋。
靴底に仕込まれた小さな滑り止め。
どれも、怪盗としては最低限の装備だった。
瑠璃子はそれらを見て、感心したように言った。
「少ないのね」
「多く持てば見つかります」
「少なくても見つかったわ」
「今回は、相手が悪かった」
「素直ね」
「負け惜しみを言うには、少し状況が悪いので」
瑠璃子は、玲央の首元を見た。
「服の下にもあるわね」
玲央は無言だった。
相沢が事務的に言う。
「変装用の補正具、でございますね」
「ええ」
瑠璃子は玲央へ向き直った。
「確認が必要です。逃走用の道具や、危険物を隠している可能性がある」
「危険物は持っていません」
「信じる理由がないわ」
「信用は大事ですよ」
「あなたが言う?」
玲央は肩をすくめた。
補正具は、彼にとって衣装の一部だった。
胸元のパッド。
腰まわりのパッド。
胴を細く見せるコルセット。
それらは、ただ形を変えるためだけではない。動作を変え、視線を誘導し、服の影を作る。早瀬莉乃という人物の輪郭を支える骨組みだった。
それを外されるということは、もう一段階深く仮面を剥がされることを意味する。
玲央は言った。
「自分で外します」
瑠璃子は頷いた。
「その方がいいでしょうね。相沢、仕切りを」
「はい」
相沢が折りたたみ式の仕切りを立てた。
完全な個室ではないが、視線は遮られる。瑠璃子は仕切りの外へ下がった。相沢は入口側に立ち、逃走を防ぐ位置を保つ。
線引きはされている。
だが、負けは負けだ。
玲央は仕切りの内側で、メイド服の構造を外していった。
まず、胸元の補正パッド。
それは服のラインを作るため、固定具と組み合わせて仕込まれていた。玲央は慣れた手つきで外し、仕切りの外に差し出す。相沢が布の上に置く。
次に、腰まわりのパッド。
歩いた時の布の揺れと、立ち姿の重心を変えるもの。これも外されると、メイド服の落ち方が変わる。
最後に、胴のコルセット。
これは最も厄介だった。長時間身につけていたため、外すと呼吸が一気に深くなる。玲央は息を整えながら、留め具を外した。
身体が自由になる。
同時に、早瀬莉乃の輪郭が消えていく。
外したものは、すべて相沢へ渡した。
相沢はそれらを一つずつ確認した。道具や危険物が隠れていないか、縫い目に何か入っていないか。確認は徹底しているが、必要以上に触れない。あくまで証拠品の検分だった。
「よく作られていますね」
相沢が言った。
「ありがとうございます」
「褒めていません」
「分かっています」
仕切りの向こうで、瑠璃子が言った。
「でも、私は褒めるわ」
玲央は、コルセットを外した後の服を整えながら答えた。
「それはどうも」
「体型を誇張するだけではなく、服の落ち方まで計算してある。だから自然だった」
「観察されると困りますね」
「そのために作ったのでしょう? 観察されても崩れないように」
「崩れましたけど」
「相手が悪かったのよ」
「慰めですか」
「評価」
玲央は、仕切りの内側で小さく笑った。
外した後のメイド服は、先ほどまでと印象が違っていた。清楚な新人メイドの柔らかい輪郭はなく、服だけが残っている。着ている人物の性別を隠しきれないほど、全体の構成が変わっていた。
早瀬莉乃は、ほぼ消滅した。
玲央は仕切りの外へ出た。
黒髪。
メイクの落ちた顔。
補正具を外され、服の線が変わった身体。
そこに立っていたのは、もう女装したメイドというより、メイド服を着せられた怪盗だった。
相沢はまっすぐに玲央を見た。
「あなたが、鴉羽玲央ですか」
玲央は一瞬黙った。
そして、笑った。
「そう呼ばれています」
初めて、認めた。
瑠璃子は満足そうに頷いた。
「ようやく」
「ここまで剥がされれば、さすがに」
「往生際は悪かったわね」
「怪盗なので」
「便利な肩書き」
「奥様も使えばいい。何でも説明できます」
「私は女主人で十分よ」
玲央は、机の上に並んだ自分の道具を見た。
ウィッグ。
メイク落としに汚れたクロス。
補正パッド。
コルセット。
小道具。
偽造書類。
早瀬莉乃を成立させていた要素が、すべて外側に並べられている。
まるで、解剖された標本だった。
「趣味が悪い展示ですね」
玲央が言った。
瑠璃子は平然と答えた。
「証拠品の整理よ」
「返してもらえますか」
「返すと思う?」
「思いません」
「正解」
瑠璃子は相沢へ指示した。
「すべて保管。特にウィッグと補正具は、あとで写真を撮って記録に残して」
「かしこまりました」
「偽造書類は封筒へ。道具類は別に」
「はい」
玲央はため息をついた。
「奥様は、本当に手際がいい」
「あなたほどではないわ。金庫を開ける手際は見事だった」
「開けたとは認めていません」
「さっき認めたでしょう」
「鴉羽玲央だとは認めました。金庫の件は別です」
「まだそこは粘るのね」
「職業倫理です」
「泥棒の?」
「怪盗の」
瑠璃子は笑った。
その時、廊下の外で足音がした。
警備員がノックする。
「奥様」
相沢が扉を少し開ける。
「何事ですか」
警備員の声は硬かった。
「談話室で騒ぎが起きています。真木様のブローチが見当たらないと」
部屋の空気が変わった。
玲央は、ゆっくり顔を上げた。
瑠璃子の目が細くなる。
「どのブローチ?」
「ルビーのものだそうです。奥様から以前お贈りになった品だと」
真木のブローチ。
ルビー。
盗難。
サロンでのグラス騒ぎ。
西側客間の上着。
宮園の動揺。
遠峰の視線。
榊原の汗。
情報が一気につながり始めた。
瑠璃子は玲央を見た。
「どう思う?」
玲央は肩をすくめた。
「私はただの不審者ですので」
「さっきまで怪盗だと言っていたわ」
「都合によって使い分けます」
「便利ね」
瑠璃子は警備員へ言った。
「談話室に戻ります。客を外へ出さないで。相沢、証拠品はこの部屋に施錠して保管。玲央さん」
そこで、初めて名だけで呼ばれた。
早瀬莉乃ではなく。
鴉羽玲央でもなく。
玲央さん。
「あなたも来なさい」
「私が?」
「ええ」
「警察に突き出す前に、もう一仕事ですか」
「察しがいいわね」
「嫌です」
「拒否権はないわ」
瑠璃子は、机の引き出しから細い金属製の拘束具を取り出した。警察で使うような大げさなものではない。片手を軽く制限するためのものだ。片方の手首と、上着の内側の固定具をつなぐ形式。
「念のため」
玲央はそれを見て、眉を上げた。
「準備がよすぎませんか」
「泥棒に入られる家だから」
「この家、物騒ですね」
「あなたが言う?」
玲央は少し考え、それから左手を差し出した。
「右手は使わせてください」
「理由は?」
「観察と説明に必要です」
「逃げるためではなく?」
「それもあります」
「正直でよろしい」
瑠璃子は、玲央の左手を拘束した。
きつすぎない。
だが、簡単には外れない。
相沢は証拠品を片づけながら言った。
「奥様、本当にこの者を連れていかれるのですか」
「ええ」
「危険では」
「危険よ」
瑠璃子は即答した。
「でも、今この屋敷で一番、盗人の動きを読める人間でもある」
相沢は沈黙した。
玲央は笑った。
「信用されているようで」
「信用はしていない。利用するの」
「分かりやすい」
「あなたも、その方がやりやすいでしょう」
「ええ。信頼関係より健全です」
瑠璃子は扉へ向かった。
玲央も続く。
もう早瀬莉乃ではない。
ウィッグはない。
メイクもない。
補正具もない。
ただ、メイド服の名残だけを身につけた怪盗として、彼は黒江瑠璃子の横に立った。
廊下へ出ると、警備員が一瞬だけ目を見開いた。
さっきまでの清楚なメイドが、まるで別人になっているのだから当然だった。
玲央はにこやかに言った。
「どうも。臨時でお世話になっております」
警備員は返事に困った。
瑠璃子が冷静に言う。
「見なかったことにして」
「……かしこまりました」
階段へ向かう途中、玲央は瑠璃子に言った。
「奥様」
「何?」
「なぜ、警察を呼ばないんですか」
「呼ぶわ。必要になれば」
「今すでに必要では?」
「まだ、誰が何を盗んだか見えていない」
「真木沙織のルビーでしょう」
「表面上はね」
瑠璃子は階段を降りながら続けた。
「でも、今夜この屋敷で狙われていたのは、本当にそれだけかしら」
玲央は黙った。
青の寵姫。
真木のブローチ。
遠峰の上着。
榊原のグラス騒ぎ。
宮園の音への反応。
久世の沈黙。
たしかに、まだ見えていない。
瑠璃子は言った。
「あなたは青の寵姫を狙った。けれど、あなた以外にもこの屋敷で動いていた人間がいる」
「私がその一味ではないと、なぜ言えるんです」
「一味なら、あのタイミングで金庫を開けない」
「なるほど」
「それに」
瑠璃子は、横目で玲央を見た。
「あなたは、盗むなら主役を狙うでしょう。脇役のブローチでは満足しない」
玲央は笑った。
「よく分かっていらっしゃる」
「褒め言葉として受け取るわ」
「今のは褒めています」
「では、ありがとう」
二人は一階へ降りた。
談話室の扉の向こうから、抑えたざわめきが聞こえる。
瑠璃子は扉の前で立ち止まった。
玲央は、左手の拘束具を軽く鳴らす。
「この姿で入るんですか」
「ええ」
「客の皆さん、驚きますよ」
「もう十分驚いているわ」
「私は説明が面倒です」
「説明はしない」
「では、私は何という扱いで?」
瑠璃子は少し考えた。
そして、静かに言った。
「防犯上の参考人」
「ひどい肩書きですね」
「怪盗よりは穏当よ」
瑠璃子は扉を開けた。
談話室のざわめきが、こちらへ流れてくる。
客たちの視線が、一斉に瑠璃子へ集まった。
そして、その隣に立つ玲央へ移った。
先ほどまでの新人メイドではない。
ウィッグを外され、メイクも落とされ、左手を拘束された謎の若い男。
真木沙織が息を呑む。
榊原が目を見開く。
宮園は顔色をさらに悪くする。
遠峰だけが、ゆっくりと笑った。
「これはこれは」
彼は言った。
「黒江さんの晩餐会は、最後まで退屈しませんな」
瑠璃子は静かに返した。
「退屈な夜にするつもりだったのですけれど」
玲央は、部屋の中央を見た。
真木の手元には、空の宝石ケース。
テーブルの上には、赤い布。
その上に、ブローチがあったはずの跡。
そして、客たちの足元には、それぞれ違う種類の嘘が落ちている。
早瀬莉乃は剥がされた。
だが、夜はまだ終わっていない。
次に剥がされるのは、誰の仮面か。
玲央は、拘束された左手を見下ろし、静かに笑った。




