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第4話 剥がされる早瀬莉乃

 一階の騒ぎは、思ったほど大きな事件ではなかった。


 少なくとも、表面上は。


 サロンの入口近くで、銀の盆が床に落ち、グラスがひとつ割れていた。赤ワインが絨毯に広がり、血のような染みを作っている。美香が青ざめた顔で立ち尽くし、榊原が大げさに手を振りながら謝っていた。


「いや、すまない。少し袖が当たっただけなのだが」


 榊原の声は大きい。


 だが、その大きさは、場の注意を自分に集めるためのものにも聞こえた。


 黒江瑠璃子は、階段を降りてすぐ、状況を一瞥した。


 割れたグラス。


 こぼれたワイン。


 立ち位置を変えた客たち。


 サロンの奥で、黙っている遠峰修一。


 椅子の背に手を置いた真木沙織。


 顔色の悪い宮園透。


 動揺を見せない久世葉子。


 そして、半歩遅れて階段を降りてきた早瀬莉乃。


 瑠璃子の視線が、玲央の髪へ向いた。


 乱れは直した。


 だが、完全ではない。


 栗色のウィッグは元の位置に戻っている。しかし、前髪の流れがわずかに不自然だった。白いカチューシャも、ほんの少し左へ寄っている。普通の客なら気づかない。使用人も、騒ぎの中では見落とす。


 だが、瑠璃子は見落とさない。


 玲央は、早瀬莉乃の顔で目を伏せた。


 サロンでは、相沢がすでに美香から事情を聞いていた。割れたグラスの破片は集められ、絨毯の染みには布が当てられている。使用人の動きは速い。騒ぎを最小限に抑える訓練が行き届いていた。


「榊原さん」


 瑠璃子が言った。


「お怪我は?」


「ありません。いや、本当に申し訳ない。私が少し身を乗り出した時に、彼女の盆に袖を引っかけてしまった」


 榊原は美香を示した。


 美香はすぐに頭を下げる。


「申し訳ございません、奥様。私の持ち方が悪く」


「美香さん」


 瑠璃子の声は静かだった。


「謝るのは後でいいわ。怪我は?」


「ございません」


「なら、よかった」


 瑠璃子はそこで榊原へ戻った。


「榊原さん。こちらこそ、狭い場所に盆を通してしまいました。どうぞお気になさらず」


「いや、黒江さんにそう言っていただけると助かります」


 榊原は笑った。


 だが、その額には薄く汗が浮いていた。


 玲央はそれを見た。


 グラスを割っただけにしては、少し汗が多い。


 あるいは、酒のせいか。


 いや、榊原には酒を控えめに注いでいた。酔うほど飲んではいない。


 瑠璃子はサロン全体を見渡した。


「皆様、お騒がせしました。せっかくの夜ですもの。少し場所を替えましょうか。隣の談話室へ。相沢、こちらの片づけを」


「かしこまりました」


 客たちは、瑠璃子の言葉に従って動き始めた。


 この屋敷では、瑠璃子が空気を変えれば、誰も逆らわない。


 遠峰が軽く笑った。


「黒江さんは、こういう時にも落ち着いておられる」


「慌てると、割れたものが戻るのですか?」


「戻りませんな」


「なら、慌てても仕方ありません」


「ごもっとも」


 遠峰は談話室へ向かった。


 真木は、玲央の横を通り過ぎる時、ふと足を止めた。


「早瀬さん」


「はい」


「髪、少し乱れているわ」


 玲央は、静かに頭を下げた。


「申し訳ございません。急ぎましたので」


「そう」


 真木はそれ以上言わなかった。


 だが、目は言葉より長く玲央を見ていた。


 玲央は、早瀬莉乃の微笑みを崩さない。


 まだだ。


 まだ、早瀬莉乃は終わっていない。


 客たちが談話室へ移動し、サロンには使用人と瑠璃子だけが残った。相沢は美香へ片づけを指示している。瑠璃子は割れたグラスの破片ではなく、床に広がった赤い染みを見ていた。


 それから、玲央へ視線を向けた。


「早瀬さん」


「はい、奥様」


「少し手伝ってちょうだい」


「かしこまりました」


 玲央は一歩前に出た。


 瑠璃子は言った。


「書斎へ戻ります」


 玲央は、内心で警戒を強めた。


 やはり、終わっていない。


「書斎、でございますか」


「ええ。先ほどの件を、途中にしたままだったでしょう」


「先ほどの件、とは」


「金庫」


 相沢の動きが止まった。


 美香は顔を上げかけたが、相沢に目で制され、すぐに視線を落とした。


 瑠璃子は、玲央だけを見ている。


 もう、ごまかしは効かない。


 だが、認める理由もない。


 玲央は女声を保ったまま答えた。


「奥様。私は、写真帳をお運びしただけでございます」


「そう。では、その話をもう一度、書斎で聞かせて」


「ここではいけませんか」


「だめ」


 瑠璃子は短く言った。


 その声には、主人としての命令があった。


 相沢が静かに近づく。


「奥様。私も」


「ええ。あなたも来て」


「かしこまりました」


 玲央は相沢を見た。


 相沢の表情は変わらない。


 だが、その目はすでに新人メイドを見るものではなかった。


 不審者。


 侵入者。


 あるいは、まだ正体の分からない何か。


 玲央は軽く頭を下げた。


「承知いたしました」


 逃げるなら今か。


 一階の談話室には客がいる。サロンには使用人がいる。玄関へ走れば、警備がいる。裏口は厨房奥だが、相沢が横にいる。窓はすべて内側から開けられるとは限らない。


 そして何より、瑠璃子は逃げる動きを待っている。


 逃げれば、早瀬莉乃はその瞬間に終わる。


 ならば、まだ続ける。


 早瀬莉乃として、書斎へ戻る。


     *


 二階の書斎へ戻るまで、誰も口を開かなかった。


 先頭を瑠璃子が歩き、半歩後ろに玲央、そのさらに後ろに相沢が続いた。階段を上がる時、玲央は後方の気配を意識した。相沢は近すぎず、遠すぎない距離を保っている。逃走の隙を与えず、同時に客へ不自然に見えない位置だ。


 使用人として有能。


 監視者としても有能。


 厄介だ。


 書斎の扉が開く。


 瑠璃子が中へ入る。


 玲央も続く。


 相沢が最後に入り、扉を閉めた。


 鍵はかけられなかった。


 だが、玲央は知っている。この部屋は鍵などなくても閉じられる。机の下の機構ひとつで、扉も窓も封鎖できる。


 瑠璃子は机の前に立ち、床に落ちた書類を拾い上げた。


 先ほど玲央が払った紹介状の写し、履歴書の写し、写真。


 それらを整え、机の上に置く。


「早瀬さん」


「はい」


「もう一度、説明して」


「何をでございましょうか」


「なぜ、書斎の絵の裏にある金庫を開けていたのか」


 相沢の顔がわずかに動いた。


 彼女は金庫の存在を知っている。


 だが、開けられたとまでは知らなかったのかもしれない。


 玲央は落ち着いて答えた。


「絵が傾いているように見えました。直そうとしたところ、奥に金庫があることに気づきました。扉が完全に閉まっていないようでしたので、異常がないか確認しようと」


「金庫の中の箱まで?」


「高価なものと思われましたので」


「箱の蓋も開けたわね」


「中身に異常がないかと」


「宝石を持ち出す準備もしていた」


「そのようなことは」


 瑠璃子は、机の上に小さな袋を置いた。


 金属片の入った袋。


 玲央が金庫の前で使おうとしていたものだ。


 いつの間に拾ったのか。


「これは?」


 玲央は一瞬だけ沈黙した。


「存じ上げません」


「あなたの袖から落ちたわ」


「私のものではございません」


「では、誰のもの?」


「分かりかねます」


「便利な言葉ね」


 瑠璃子は袋を指先でつまみ、相沢へ見せた。


「相沢。これは使用人の持ち物?」


「いいえ。少なくとも、業務で使用するものではございません」


「そう」


 瑠璃子は袋を机に戻した。


 玲央はまだ崩れない。


 メイドとして立つ。


 両手を前で重ね、背筋を伸ばし、目線を下げる。乱れかけたウィッグは、なんとか保っている。メイクもまだ無事だ。声も、早瀬莉乃のまま。


 証拠はある。


 疑いもある。


 だが、本人が認めなければ、早瀬莉乃という仮面はかろうじて形を保つ。


 瑠璃子はその仮面を、正面から見ていた。


「早瀬さん。あなたは、本当にしぶとい」


「恐れ入ります」


「褒めていないわ」


「はい」


「でも、そのしぶとさは嫌いではない」


 瑠璃子はゆっくりと玲央へ近づいた。


 玲央は動かない。


 ここで下がれば、怯えた犯人に見える。前に出れば挑発になる。使用人として、主人の言葉を待つ。そう見せる。


「相沢」


「はい」


「扉の前に」


「かしこまりました」


 相沢が扉の前へ移動した。


 出口を塞がれた。


 瑠璃子は玲央の正面に立った。


 距離は一歩半。


「早瀬さん」


「はい」


「あなたの髪を直してあげる」


 玲央の背筋に、冷たいものが走った。


「いえ。自分で」


「遠慮しないで」


「勤務中に、奥様のお手を煩わせるわけには」


「命令よ」


 瑠璃子の声は穏やかだった。


 だが、その穏やかさが、かえって逃げ場を消した。


 玲央は目を伏せた。


「……かしこまりました」


 瑠璃子の手が伸びる。


 白い指が、栗色の前髪へ触れた。


 玲央は息を止めない。


 止めれば、緊張が伝わる。


 瑠璃子はウィッグの流れを整えるように、指先を動かした。動作だけ見れば、主人が新人メイドの乱れた髪を直しているように見える。だが、実際には違う。彼女の指は、髪の自然な流れではなく、固定の位置を探っていた。


 耳の上。


 こめかみ。


 前髪の生え際。


 固定ピン。


 境目。


 玲央は、瑠璃子の指がウィッグの縁を確実に捉えたことを感じた。


「奥様」


「何?」


「それ以上は」


「それ以上は?」


「失礼にあたります」


「誰に?」


 瑠璃子は微笑んだ。


「早瀬莉乃さんに?」


 玲央は答えない。


 瑠璃子の指に、少しだけ力が入った。


 ウィッグが浮く。


 額の端に黒髪が覗く。


 相沢が息を呑んだのが分かった。


 瑠璃子は、まだ外さない。


「最後の機会をあげるわ」


「何のことでしょうか」


「自分で外す?」


 玲央は、早瀬莉乃の声で答えた。


「外すものなどございません」


「そう」


 瑠璃子は短く言った。


 次の瞬間、栗色の髪が外れた。


 無理に引きちぎるような乱暴さではない。だが、ためらいもなかった。固定を外し、角度を読んで、ひと息で取り去る。瑠璃子の手の中に、栗色のウィッグが収まった。


 書斎の空気が変わった。


 早瀬莉乃が、最初に大きく崩れた。


 そこに立っていたのは、黒い地毛を乱した若い男だった。


 まだメイクは残っている。


 制服も、補正具で作られたシルエットも残っている。


 声も出せる。


 だが、髪が取れたことで、全体の錯覚が一気に薄れた。清楚な新人メイドという像の上部が、ぱっくりと裂けたようだった。


 相沢は、声を失っていた。


 瑠璃子は手にしたウィッグを軽く見た。


「よくできているわね。毛流れも、色も、顔の印象に合わせてある」


 玲央は、ゆっくりと顔を上げた。


 女声ではなく、少し低い声で言う。


「返していただけますか」


「ようやく、その声」


「勤務中ですので、身だしなみを整えたいのですが」


「まだ言うの?」


「はい」


 瑠璃子は笑った。


「早瀬莉乃は、もう難しいわ」


「髪型を変えただけです」


「では、黒髪のメイドということにする?」


「できれば」


「図々しい」


「よく言われます」


 玲央は軽く息を吐いた。


 この時点で、女声を維持する意味は薄い。むしろ、女声を続ければ滑稽になる。だが、完全に素の声を出すのも負けを認めることになる。


 だから、間を取る。


 低めの、しかしまだ柔らかい声。


 早瀬莉乃の残骸と鴉羽玲央の本体が混ざった声。


 瑠璃子は、その変化を面白そうに見ていた。


「相沢」


「はい」


 相沢の返事は、少し遅れた。


 彼女もさすがに驚いている。


「見た通りよ」


「……はい」


「早瀬莉乃さんは、少なくとも紹介所から来た新人メイドではない」


「そのようでございます」


 相沢は玲央を見た。


 怒りよりも、職務上の冷静さが先に戻っていた。


「あなたは、何者ですか」


 玲央は答えた。


「臨時メイドの早瀬莉乃です」


「その言い分は、もう通りません」


「そうでしょうか」


 相沢の目が鋭くなった。


「黒江邸に虚偽の身分で入り、奥様の書斎へ侵入し、金庫を開けた。これだけで十分です」


「金庫を開けた証拠は」


 瑠璃子が机の上の袋を指す。


「あるわね」


「状況証拠です」


「それも、かなり強い」


「まだ裁判ではありません」


「ええ」


 瑠璃子は頷いた。


「ここは、私の書斎よ」


 玲央は、わずかに笑った。


「それは怖い」


「二度目ね。私を怖いと言うのは」


「もっと言ってもいいですか」


「後で聞くわ」


 瑠璃子はウィッグを机の上へ置いた。


 その動作は、戦利品を置くようにも、証拠品を置くようにも見えた。


「次」


 玲央は目を細めた。


「次、とは」


「顔」


 瑠璃子は机の引き出しを開けた。


 中から、白い布と小さな瓶を取り出す。化粧を落とすためのクレンジング用のクロスと液体だった。宝石の手入れ用ではない。明らかに、肌に使うもの。


 用意してあった。


 玲央はそれを見て、初めて少しだけ表情を硬くした。


「奥様。そこまでなさる必要はありません」


「あるわ」


「不審者として扱うなら、警備員か警察を」


「警察に渡す前に、あなたが誰かを確認する必要がある」


「顔なら、もう見えているでしょう」


「いいえ」


 瑠璃子は瓶を開け、クロスに少量を含ませた。


「まだ作り物が残っている」


 相沢が一歩前に出た。


「奥様、私が」


「いいえ。私がやるわ」


「ですが」


「この人は、私の金庫を開けたの。私が確認する」


 相沢は一礼し、引いた。


 玲央は後ろへ下がろうとした。


 だが、扉の前には相沢。


 窓は封鎖されていないが、二階であるうえ、外側の格子はまだ下りている。机の下の機構を瑠璃子が使えば、すぐに閉じ込められる。


 逃げるより、今は情報を残す方がいい。


 玲央は動きを止めた。


「抵抗しないの?」


 瑠璃子が尋ねる。


「ここで暴れても、品がないので」


「泥棒に品?」


「怪盗ですので」


「そこは譲らないのね」


「ええ」


 瑠璃子は玲央の顎に手を添えた。


 強く掴むのではない。


 顔の向きを固定する程度。


 それから、クロスを頬に当てた。


 冷たい。


 化粧が、布に移る。


 最初に消えたのは、頬の柔らかい陰影だった。早瀬莉乃の顔を若く、清楚に、少し丸く見せていた色が落ちる。頬骨の線が変わり、顔の印象が締まる。


 次に口元。


 控えめに整えられていた唇の色が薄くなる。柔らかい表情を作っていた輪郭が消え、玲央本来の口元が出る。笑うと人をからかっているように見える、少し鋭い線。


 瑠璃子は急がなかった。


 乱暴にこすらない。


 だが、確実に落とす。


 それがかえって、玲央には不快だった。


 戦いなら、奪い返せる。


 乱暴なら、怒れる。


 だが、これは検分だった。


 絵の表面を拭い、下にある別の絵を出すような手つき。


 怪盗が作った人物を、ひとつずつ解体していく作業。


「うまいメイクね」


 瑠璃子が言った。


「ありがとうございます」


「骨格を完全に隠そうとしていない。むしろ、少し残している。だから不自然に見えない」


「奥様は、化粧にもお詳しい」


「人を見るのが好きだから」


「怖い趣味です」


「三度目」


 瑠璃子は眉のあたりへクロスを移した。


 そこで顔の印象がさらに変わった。


 早瀬莉乃の目元は、柔らかく下がって見えるよう作られていた。眉の角度、影の置き方、目尻の処理。そのいくつかが落ちると、目の輪郭がはっきりする。


 伏し目がちなメイドの顔ではない。


 相手を測り、隙を探し、次の逃げ道を考える怪盗の目。


 相沢が、小さく息を吐いた。


「……まったく別人ですね」


 玲央は、顔を拭かれたまま答えた。


「それは傷つきます」


 相沢は冷静に返した。


「褒めていません」


「今日は皆さん、そればかりですね」


 瑠璃子は最後に額の生え際を拭った。


 ウィッグで隠れていた部分の補正が落ちる。


 早瀬莉乃の顔は、ほぼ消えた。


 そこに残ったのは、メイド服を着た鴉羽玲央だった。


 瑠璃子はクロスを畳み、机の上に置いた。


「これで、ずいぶん分かりやすくなった」


 玲央は手袋をした指で、拭われた頬に触れた。


「せっかく時間をかけたんですが」


「どのくらい?」


「企業秘密です」


「怪盗の?」


「メイドの身だしなみの」


 瑠璃子は笑った。


 相沢は笑わなかった。


「奥様。この者を警備へ引き渡しますか」


「まだ」


「まだ、でございますか」


「ええ。顔は分かった。でも、仕掛けは顔だけではない」


 瑠璃子の視線が、玲央の服装へ向いた。


 玲央は、目を細めた。


「奥様」


「何?」


「それ以上は、やり方を考えた方がいい」


 声は静かだった。


 女声ではない。


 鴉羽玲央の声だった。


 瑠璃子は、その変化を受け止めた。


「もちろん。私は見世物にしたいわけではないわ」


「十分、見世物ですが」


「ここには相沢しかいない」


「相沢さんは数に入らない?」


「入るわ。だからこそ、彼女を呼んだの」


 瑠璃子は相沢へ向いた。


「相沢。別室を使います。使用人用の点検室を。そこなら鏡と仕切りがある」


「かしこまりました」


「警備員は廊下の外に。中には入れないで」


「はい」


 玲央は、瑠璃子を見た。


 彼女は、線引きはしている。


 屈辱を与えるためではない。


 正体を確認するため。


 変装の道具を証拠として押さえるため。


 それは分かる。


 分かるが、不愉快であることに変わりはない。


「逃げるつもりなら、今のうちよ」


 瑠璃子が言った。


 玲央は笑った。


「逃げ道を塞いでから言うのは、趣味が悪い」


「褒め言葉として受け取るわ」


「褒めていません」


「お互い様ね」


 瑠璃子は机の上のウィッグを取り、相沢に渡した。


「証拠品として保管して」


「かしこまりました」


「それと、メイク道具、金属片の袋、偽造書類も」


「はい」


 相沢は淡々と動いた。


 玲央はその様子を見ながら、思った。


 早瀬莉乃は解体されている。


 髪。


 顔。


 書類。


 道具。


 ひとつずつ、黒江邸の管理下へ移されていく。


 これが瑠璃子のやり方なのだ。


 怒鳴らない。


 殴らない。


 慌てない。


 ただ、相手の作ったものを観察し、分類し、剥がし、保管する。


 怪盗にとって、これほど嫌な敗北はない。


     *


 点検室は、二階の奥にあった。


 使用人が制服の乱れを整えたり、備品を確認したりするための小さな部屋だった。壁には鏡。棚には布、手袋、簡単な裁縫道具。奥には折りたたみ式の仕切りがある。部屋としては質素だが、清潔だった。


 廊下の外には警備員が二人立った。


 室内にいるのは、瑠璃子、相沢、玲央の三人だけ。


 瑠璃子は椅子を示した。


「座って」


「命令ですか」


「ええ」


 玲央は座った。


 相沢が手袋を外すよう指示する。


 玲央は従った。


 手袋が外れると、白く整えられていた指先が現れる。メイドとしては綺麗すぎる手。相沢が最初から疑っていた手だった。


「やはり、水仕事の手ではありませんね」


 相沢が言った。


「保湿を頑張りました」


「そういう問題ではありません」


「でしょうね」


 相沢は、机の上に布を広げた。


 そこへ、証拠として確認するものを置いていく。


 袖口に隠していた細い道具。


 小さな鍵用の器具。


 予備のピン。


 紙片。


 折りたたまれた薄い手袋。


 靴底に仕込まれた小さな滑り止め。


 どれも、怪盗としては最低限の装備だった。


 瑠璃子はそれらを見て、感心したように言った。


「少ないのね」


「多く持てば見つかります」


「少なくても見つかったわ」


「今回は、相手が悪かった」


「素直ね」


「負け惜しみを言うには、少し状況が悪いので」


 瑠璃子は、玲央の首元を見た。


「服の下にもあるわね」


 玲央は無言だった。


 相沢が事務的に言う。


「変装用の補正具、でございますね」


「ええ」


 瑠璃子は玲央へ向き直った。


「確認が必要です。逃走用の道具や、危険物を隠している可能性がある」


「危険物は持っていません」


「信じる理由がないわ」


「信用は大事ですよ」


「あなたが言う?」


 玲央は肩をすくめた。


 補正具は、彼にとって衣装の一部だった。


 胸元のパッド。


 腰まわりのパッド。


 胴を細く見せるコルセット。


 それらは、ただ形を変えるためだけではない。動作を変え、視線を誘導し、服の影を作る。早瀬莉乃という人物の輪郭を支える骨組みだった。


 それを外されるということは、もう一段階深く仮面を剥がされることを意味する。


 玲央は言った。


「自分で外します」


 瑠璃子は頷いた。


「その方がいいでしょうね。相沢、仕切りを」


「はい」


 相沢が折りたたみ式の仕切りを立てた。


 完全な個室ではないが、視線は遮られる。瑠璃子は仕切りの外へ下がった。相沢は入口側に立ち、逃走を防ぐ位置を保つ。


 線引きはされている。


 だが、負けは負けだ。


 玲央は仕切りの内側で、メイド服の構造を外していった。


 まず、胸元の補正パッド。


 それは服のラインを作るため、固定具と組み合わせて仕込まれていた。玲央は慣れた手つきで外し、仕切りの外に差し出す。相沢が布の上に置く。


 次に、腰まわりのパッド。


 歩いた時の布の揺れと、立ち姿の重心を変えるもの。これも外されると、メイド服の落ち方が変わる。


 最後に、胴のコルセット。


 これは最も厄介だった。長時間身につけていたため、外すと呼吸が一気に深くなる。玲央は息を整えながら、留め具を外した。


 身体が自由になる。


 同時に、早瀬莉乃の輪郭が消えていく。


 外したものは、すべて相沢へ渡した。


 相沢はそれらを一つずつ確認した。道具や危険物が隠れていないか、縫い目に何か入っていないか。確認は徹底しているが、必要以上に触れない。あくまで証拠品の検分だった。


「よく作られていますね」


 相沢が言った。


「ありがとうございます」


「褒めていません」


「分かっています」


 仕切りの向こうで、瑠璃子が言った。


「でも、私は褒めるわ」


 玲央は、コルセットを外した後の服を整えながら答えた。


「それはどうも」


「体型を誇張するだけではなく、服の落ち方まで計算してある。だから自然だった」


「観察されると困りますね」


「そのために作ったのでしょう? 観察されても崩れないように」


「崩れましたけど」


「相手が悪かったのよ」


「慰めですか」


「評価」


 玲央は、仕切りの内側で小さく笑った。


 外した後のメイド服は、先ほどまでと印象が違っていた。清楚な新人メイドの柔らかい輪郭はなく、服だけが残っている。着ている人物の性別を隠しきれないほど、全体の構成が変わっていた。


 早瀬莉乃は、ほぼ消滅した。


 玲央は仕切りの外へ出た。


 黒髪。


 メイクの落ちた顔。


 補正具を外され、服の線が変わった身体。


 そこに立っていたのは、もう女装したメイドというより、メイド服を着せられた怪盗だった。


 相沢はまっすぐに玲央を見た。


「あなたが、鴉羽玲央ですか」


 玲央は一瞬黙った。


 そして、笑った。


「そう呼ばれています」


 初めて、認めた。


 瑠璃子は満足そうに頷いた。


「ようやく」


「ここまで剥がされれば、さすがに」


「往生際は悪かったわね」


「怪盗なので」


「便利な肩書き」


「奥様も使えばいい。何でも説明できます」


「私は女主人で十分よ」


 玲央は、机の上に並んだ自分の道具を見た。


 ウィッグ。


 メイク落としに汚れたクロス。


 補正パッド。


 コルセット。


 小道具。


 偽造書類。


 早瀬莉乃を成立させていた要素が、すべて外側に並べられている。


 まるで、解剖された標本だった。


「趣味が悪い展示ですね」


 玲央が言った。


 瑠璃子は平然と答えた。


「証拠品の整理よ」


「返してもらえますか」


「返すと思う?」


「思いません」


「正解」


 瑠璃子は相沢へ指示した。


「すべて保管。特にウィッグと補正具は、あとで写真を撮って記録に残して」


「かしこまりました」


「偽造書類は封筒へ。道具類は別に」


「はい」


 玲央はため息をついた。


「奥様は、本当に手際がいい」


「あなたほどではないわ。金庫を開ける手際は見事だった」


「開けたとは認めていません」


「さっき認めたでしょう」


「鴉羽玲央だとは認めました。金庫の件は別です」


「まだそこは粘るのね」


「職業倫理です」


「泥棒の?」


「怪盗の」


 瑠璃子は笑った。


 その時、廊下の外で足音がした。


 警備員がノックする。


「奥様」


 相沢が扉を少し開ける。


「何事ですか」


 警備員の声は硬かった。


「談話室で騒ぎが起きています。真木様のブローチが見当たらないと」


 部屋の空気が変わった。


 玲央は、ゆっくり顔を上げた。


 瑠璃子の目が細くなる。


「どのブローチ?」


「ルビーのものだそうです。奥様から以前お贈りになった品だと」


 真木のブローチ。


 ルビー。


 盗難。


 サロンでのグラス騒ぎ。


 西側客間の上着。


 宮園の動揺。


 遠峰の視線。


 榊原の汗。


 情報が一気につながり始めた。


 瑠璃子は玲央を見た。


「どう思う?」


 玲央は肩をすくめた。


「私はただの不審者ですので」


「さっきまで怪盗だと言っていたわ」


「都合によって使い分けます」


「便利ね」


 瑠璃子は警備員へ言った。


「談話室に戻ります。客を外へ出さないで。相沢、証拠品はこの部屋に施錠して保管。玲央さん」


 そこで、初めて名だけで呼ばれた。


 早瀬莉乃ではなく。


 鴉羽玲央でもなく。


 玲央さん。


「あなたも来なさい」


「私が?」


「ええ」


「警察に突き出す前に、もう一仕事ですか」


「察しがいいわね」


「嫌です」


「拒否権はないわ」


 瑠璃子は、机の引き出しから細い金属製の拘束具を取り出した。警察で使うような大げさなものではない。片手を軽く制限するためのものだ。片方の手首と、上着の内側の固定具をつなぐ形式。


「念のため」


 玲央はそれを見て、眉を上げた。


「準備がよすぎませんか」


「泥棒に入られる家だから」


「この家、物騒ですね」


「あなたが言う?」


 玲央は少し考え、それから左手を差し出した。


「右手は使わせてください」


「理由は?」


「観察と説明に必要です」


「逃げるためではなく?」


「それもあります」


「正直でよろしい」


 瑠璃子は、玲央の左手を拘束した。


 きつすぎない。


 だが、簡単には外れない。


 相沢は証拠品を片づけながら言った。


「奥様、本当にこの者を連れていかれるのですか」


「ええ」


「危険では」


「危険よ」


 瑠璃子は即答した。


「でも、今この屋敷で一番、盗人の動きを読める人間でもある」


 相沢は沈黙した。


 玲央は笑った。


「信用されているようで」


「信用はしていない。利用するの」


「分かりやすい」


「あなたも、その方がやりやすいでしょう」


「ええ。信頼関係より健全です」


 瑠璃子は扉へ向かった。


 玲央も続く。


 もう早瀬莉乃ではない。


 ウィッグはない。


 メイクもない。


 補正具もない。


 ただ、メイド服の名残だけを身につけた怪盗として、彼は黒江瑠璃子の横に立った。


 廊下へ出ると、警備員が一瞬だけ目を見開いた。


 さっきまでの清楚なメイドが、まるで別人になっているのだから当然だった。


 玲央はにこやかに言った。


「どうも。臨時でお世話になっております」


 警備員は返事に困った。


 瑠璃子が冷静に言う。


「見なかったことにして」


「……かしこまりました」


 階段へ向かう途中、玲央は瑠璃子に言った。


「奥様」


「何?」


「なぜ、警察を呼ばないんですか」


「呼ぶわ。必要になれば」


「今すでに必要では?」


「まだ、誰が何を盗んだか見えていない」


「真木沙織のルビーでしょう」


「表面上はね」


 瑠璃子は階段を降りながら続けた。


「でも、今夜この屋敷で狙われていたのは、本当にそれだけかしら」


 玲央は黙った。


 青の寵姫。


 真木のブローチ。


 遠峰の上着。


 榊原のグラス騒ぎ。


 宮園の音への反応。


 久世の沈黙。


 たしかに、まだ見えていない。


 瑠璃子は言った。


「あなたは青の寵姫を狙った。けれど、あなた以外にもこの屋敷で動いていた人間がいる」


「私がその一味ではないと、なぜ言えるんです」


「一味なら、あのタイミングで金庫を開けない」


「なるほど」


「それに」


 瑠璃子は、横目で玲央を見た。


「あなたは、盗むなら主役を狙うでしょう。脇役のブローチでは満足しない」


 玲央は笑った。


「よく分かっていらっしゃる」


「褒め言葉として受け取るわ」


「今のは褒めています」


「では、ありがとう」


 二人は一階へ降りた。


 談話室の扉の向こうから、抑えたざわめきが聞こえる。


 瑠璃子は扉の前で立ち止まった。


 玲央は、左手の拘束具を軽く鳴らす。


「この姿で入るんですか」


「ええ」


「客の皆さん、驚きますよ」


「もう十分驚いているわ」


「私は説明が面倒です」


「説明はしない」


「では、私は何という扱いで?」


 瑠璃子は少し考えた。


 そして、静かに言った。


「防犯上の参考人」


「ひどい肩書きですね」


「怪盗よりは穏当よ」


 瑠璃子は扉を開けた。


 談話室のざわめきが、こちらへ流れてくる。


 客たちの視線が、一斉に瑠璃子へ集まった。


 そして、その隣に立つ玲央へ移った。


 先ほどまでの新人メイドではない。


 ウィッグを外され、メイクも落とされ、左手を拘束された謎の若い男。


 真木沙織が息を呑む。


 榊原が目を見開く。


 宮園は顔色をさらに悪くする。


 遠峰だけが、ゆっくりと笑った。


「これはこれは」


 彼は言った。


「黒江さんの晩餐会は、最後まで退屈しませんな」


 瑠璃子は静かに返した。


「退屈な夜にするつもりだったのですけれど」


 玲央は、部屋の中央を見た。


 真木の手元には、空の宝石ケース。


 テーブルの上には、赤い布。


 その上に、ブローチがあったはずの跡。


 そして、客たちの足元には、それぞれ違う種類の嘘が落ちている。


 早瀬莉乃は剥がされた。


 だが、夜はまだ終わっていない。


 次に剥がされるのは、誰の仮面か。


 玲央は、拘束された左手を見下ろし、静かに笑った。

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