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第3話 青の寵姫、開かれた金庫

 廊下の向こうで、悲鳴が上がった。


 それは長く尾を引く悲鳴ではなかった。短く、鋭く、すぐに飲み込まれるような声だった。驚きの声。恐怖というより、予想外のものを見た時に漏れる声。


 黒江瑠璃子は、扉へ向かう足を止めなかった。


 玲央――早瀬莉乃は、古い写真帳を両腕に抱えたまま、その半歩後ろに続いた。


 書斎の外へ出ると、二階の廊下はひどく静かだった。悲鳴は一階の西側から聞こえた。サロンではない。客の上着を預けている小部屋の方角である。


 瑠璃子は階段へ向かいながら、振り返らずに言った。


「早瀬さん」


「はい」


「あなたはその写真帳を客間へ。相沢が待っているはずよ」


 玲央は一瞬だけ、答えを遅らせた。


 瑠璃子の声は冷静だった。悲鳴に動揺していない。屋敷の中で異常が起きた時に、まず使用人を配置し直す。それが自然な反応なのか、それとも初めから想定していた反応なのか、判別しにくい。


「奥様は」


「確認に行くわ」


「お一人で、でございますか」


 言ってから、早瀬莉乃としては踏み込みすぎたと思った。


 だが、瑠璃子は怒らなかった。


「心配してくれるの?」


「使用人として、当然のことかと」


「では、使用人として命令を守りなさい。写真帳を届けて」


「かしこまりました」


 玲央は頭を下げた。


 瑠璃子は階段を降りていく。青いドレスの裾が、低い灯りを受けて夜の水面のように揺れた。その背中には隙がない。急いでいるのに、走らない。焦っているように見せない。


 玲央は写真帳を抱え、西側客間へ向かった。


 廊下を進みながら、頭の中で状況を整理する。


 悲鳴。


 西側客間。


 預けられた上着。


 遠峰の上着が動いていた。


 宮園の落ち着きのなさ。


 真木の青い染み。


 そして瑠璃子の指示。


 写真帳を届けろ。


 つまり、今すぐ書斎に戻るなという意味でもある。


 命令に従うべきか。


 もちろん、表向きは従う。


 だが、怪盗としては別の判断をする。


 瑠璃子が悲鳴の確認に行くなら、書斎は空く。相沢も西側客間にいる可能性が高い。使用人も客も、一階の騒ぎに意識を向ける。


 これは好機だ。


 いや、好機に見えるよう配置された罠かもしれない。


 だが、罠があるかどうかは、踏み込まなければ分からない。


 玲央は客間の前で立ち止まった。扉は半開きだった。中には相沢がいた。美香もいる。さらに、真木沙織が椅子のそばに立っていた。悲鳴を上げたのは美香らしい。彼女は青ざめている。


「どうしたのですか」


 玲央は、早瀬莉乃の声で尋ねた。


 相沢がこちらを見た。


「早瀬さん。写真帳はそこへ」


「はい」


 玲央は机の上に写真帳を置いた。


 部屋の中央では、預けられた客の上着が数着、乱れていた。真木が自分のバッグを確認している。床には、小さな銀色の留め具が落ちていた。衣服の金具か、バッグの装飾か。


 美香は小声で言った。


「さっき、扉が少し開いてたから見に来たら、誰かが部屋を出ていく影が見えて……」


「顔は?」


 相沢が聞く。


「見えませんでした。ただ、黒っぽい服で」


 黒っぽい服。


 この屋敷では、ほとんど全員が該当する。


 相沢は真木へ向いた。


「真木様。なくなったものはございますか」


「今のところは。バッグの中身も、宝飾ケースも無事です」


「そうですか」


 真木は玲央を見た。


「早瀬さん。あなた、今どこに?」


「書斎で写真帳をお預かりし、こちらへ運んでまいりました」


「奥様と?」


「はい。奥様は悲鳴をお聞きになり、確認へ向かわれました」


「そう」


 真木の目が、玲央の顔に留まった。


「あなた、怖がらないのね」


「怖がっております。ただ、私が慌ててもお役に立てませんので」


「本当にいい返事」


 真木はそう言ったが、口元だけで笑っていた。


 玲央は一礼する。


「家政婦長、私は何をいたしましょうか」


 相沢は少し考えた。


「サロンへ戻って、お客様に不安を与えないように。飲み物の補充を続けてください」


「かしこまりました」


 命令は明確だった。


 サロンへ戻れ。


 だが、そこには隙がある。


 客間を出て、サロンへ戻る途中、大階段の前を通る。そこから二階へ戻ることはできる。問題は、見られるかどうか。


 玲央は客間を出た。


 廊下では、ほかの使用人が慌ただしく動いている。だが、屋敷全体が混乱しているわけではない。黒江邸の使用人は、異常時にも声を荒げない。相沢の教育が行き届いている。


 だからこそ、わずかな動線の乱れがよく見える。


 一階西側に人が寄っている。


 サロンの入口には警備員が一人。


 大階段の下には、誰もいない。


 玲央は水差しを取りに戻るふりをして、廊下を曲がった。壁の鏡に映る自分を見る。早瀬莉乃は、まだ崩れていない。顔も髪も服も、使用人として自然だ。


 大階段の前へ。


 そこで一瞬だけ立ち止まり、サロンの方を見た。


 遠峰は中にいる。


 榊原もいる。


 宮園は見えない。


 瑠璃子は西側客間へ向かったはず。


 相沢もそこにいる。


 今しかない。


 玲央は階段を上がった。


 早足ではない。


 新人メイドが、主人に命じられた別件を思い出したような速度で。走れば怪しい。ゆっくりすぎても怪しい。使用人は目的があって動く。目的があるように見せる必要がある。


 二階へ上がる。


 右へ。


 東側廊下。


 先ほどと同じ絵、同じ灯り、同じ静けさ。だが、今は空気が違った。屋敷の注意が一階へ落ちた分、二階の闇が濃くなっている。


 書斎の扉の前に立つ。


 耳を澄ませる。


 中に人の気配はない。


 玲央はノックしなかった。


 今度は、仕事ではない。


 侵入だった。


 扉を開け、すべり込むように中へ入る。


 扉を閉める。


 鍵はかけない。


 鍵をかける音は残る。もし誰かが来た時、内側から鍵がかかっていれば、それだけで終わりだ。開いている部屋で、写真帳の置き忘れを探している。その言い訳を残す。


 書斎は、先ほどと同じように暗かった。


 机上のランプが、緑色の笠の下から柔らかい光を落としている。壁一面の本棚は、夜の森のように沈んでいる。革張りの椅子、地球儀、真鍮の時計。すべてが静かだった。


 そして、正面の壁には港町の絵。


 玲央は迷わずそこへ向かった。


 絵に触れる前に、手袋を確認する。指先の布が濡れていないか。先ほど客間で触れた埃がついていないか。大丈夫だ。


 額縁の下を支える。


 重い。


 だが、動かせる。


 玲央は絵を外さず、わずかに浮かせた。額の裏に指を入れ、留め金の位置を探る。単純な吊り金具ではない。一定の角度まで持ち上げないと外れない構造になっている。


 やはり、頻繁に動かすことを前提にした絵だ。


 玲央は額縁を少し上げ、右へ滑らせた。


 小さな金属音。


 絵が壁から離れた。


 その裏に、黒い金属板が現れた。


 金庫。


 古い邸宅に似合う重厚なものではない。外見は壁の一部に溶け込むよう、黒く平たい。中央に小さなダイヤル。横に認証用の細いスリット。さらに下部に、目立たない鍵穴。


 旧式と新式の混合。


 見た目は古いが、中身は更新されている。


 玲央は時計を見た。


 十一時八分。


 時間は少ない。


 ここからは、手順ではなく判断だ。


 彼は袖口から薄い道具を取り出した。細い金属片、小さな布、掌に隠れるほどの器具。どれも、具体的な仕組みを知らない者にはただの小物に見える。


 金庫破りの細部は、技術よりも観察に近い。


 音。


 手応え。


 内部で何かが動くわずかな抵抗。


 そして、持ち主の癖。


 黒江瑠璃子は慎重だ。だが、慎重な人間ほど、規則性を作る。完全な乱雑さは管理できない。彼女は管理する人間だ。ならば、管理のための癖がどこかにある。


 昼に温室で見た紅茶の好み。


 薄め。


 砂糖なし。


 レモンなし。


 白磁のカップ。


 無駄を嫌う。


 晩餐会での言葉。


 相手に余計な逃げ道を与えない。


 しかし、完全に塞がない。


 この金庫にも同じ思想があるはずだった。


 玲央はスリットの周囲を確認した。


 認証装置は生きている。だが、今夜は青の寵姫を見せる予定があった。つまり、夕方から夜にかけて一度以上開ける準備がされている。展示のための設定変更もあったはずだ。その直後なら、防犯システムの警戒状態が通常より複雑になる。複雑な状態には、わずかな遅れが生じる。


 その遅れを使う。


 警報を切るのではない。


 鳴るまでの時間を稼ぐ。


 玲央は金庫の前で膝をついた。メイド服のスカートが床へ広がる。補正具のせいで姿勢が取りにくい。コルセットが胴を締め、腰を曲げる角度を制限する。


 厄介だ。


 だが、こういう不自由さも含めて変装である。


 玲央は呼吸を浅く整え、手元に集中した。


 耳を金庫へ近づける。


 ダイヤルに触れる。


 少しだけ回す。


 音を聞く。


 金属の奥で、かすかに応答がある。


 旧式の仕組みを完全に捨てていない。瑠璃子らしい選択だ。新しいものだけを信用しない。古いものだけにも頼らない。二つを重ねる。


 玲央は笑いそうになった。


 厄介で、面白い。


 数分が過ぎた。


 廊下に足音はない。


 階下の騒ぎは遠い。


 金庫の内部で、ひとつ目の抵抗が外れた。


 小さな感触。


 次。


 認証装置の遅延。


 玲央は、あらかじめ用意していた薄い器具をスリットの横へ当てた。何かを解除するのではない。金庫自身が状態を確認する瞬間を、少しだけ迷わせる。その迷いの間に、古い機構を進める。


 額に汗がにじんだ。


 メイクが崩れるほどではない。


 だが、今は汗を拭けない。


 女声も、仕草も、体型も関係ない。ここにいるのはただの怪盗だった。目の前の箱を開けるために、全神経を指先へ落とし込む。


 十一時十三分。


 二つ目の抵抗。


 外れる。


 金庫の奥で、小さな音がした。


 開いたわけではない。


 だが、扉がわずかに浮いた。


 玲央はすぐに手を止めた。


 焦って開けるな。


 開けた瞬間に鳴る仕掛けがある。


 扉の縁を調べる。細い線。接触式の検知。開き方の速度か、角度か。一定以上開けば信号が飛ぶ。


 ならば、まずは少しだけ開ける。


 中を見る。


 必要なものだけ取る。


 警報が鳴る前に戻す。


 玲央は扉を数センチだけ開いた。


 何も鳴らない。


 さらに少し。


 内部に、黒い箱が見えた。


 宝石箱。


 青の寵姫。


 玲央の目が細くなった。


 見つけた。


 だが、ここからが本番だ。


 箱そのものにも仕掛けがある可能性が高い。金庫内に置いてあるから安全、という考え方を瑠璃子がするはずがない。箱を持ち上げた時、下の圧力が変われば信号が飛ぶ。箱の蓋を開けた時、光を検知するかもしれない。


 玲央は金庫内に手を入れる前に、息を止めた。


 黒い箱は、思ったより小さい。


 手のひら二つ分ほど。


 外側は革張り。角は金属で補強されている。蓋には紋章のような刻印。王冠にも、花にも見える意匠だった。


 青の寵姫の来歴に関わるものか。


 玲央は箱の周囲を確認した。


 箱の下に薄い台座がある。台座の端に、髪の毛ほど細い銀色の線。触れれば分かる。持ち上げれば鳴る。


 やはり。


 なら、持ち上げない。


 箱をその場で開ける。


 蓋に手をかける。


 鍵はない。


 いや、鍵をかけないこと自体が罠かもしれない。開けやすい箱ほど、開けた後に仕掛けがある。


 玲央は蓋をほんの少しだけ持ち上げた。


 内部から、青い光が漏れた。


 雨の夜の底から、深い海が覗いたようだった。


 青の寵姫。


 その石は、噂よりも静かだった。


 大粒のサファイアと聞けば、もっと豪奢で、もっと主張の強いものを想像する。だが、目の前の石は違った。光を弾くのではなく、吸い込む。青という色を表面に持っているのではなく、奥の奥まで青で満たされている。


 夜明け前の海。


 あるいは、古い記憶を閉じ込めた氷。


 玲央は、ほんの一瞬だけ盗むことを忘れて見入った。


 美しい。


 値段がつかないという噂は正しい。これは市場で売るための石ではない。人に所有欲を抱かせるが、同時に、所有した者を試す石だ。


 黒江瑠璃子が手放さない理由も、少し分かる気がした。


 だが、分かることと盗まないことは別である。


 玲央は蓋をもう少し開けた。


 石は薄い台座に固定されている。直接触れるには、留め具を外す必要がある。留め具にも細工があるだろう。時間が足りない。


 ならば、箱ごと。


 いや、台座に検知線がある。


 代替重量を置く必要がある。事前に持ち込んだ重りはあるが、箱の重量までは完全には一致しない。数秒ならごまかせるか。警報が遅延しているなら、可能性はある。


 玲央は袖から薄い袋を出した。


 中には、小さな調整用の金属片が入っている。


 だが、その時だった。


 背後で、拍手が聞こえた。


 一度。


 二度。


 三度。


 乾いた音が、書斎に響いた。


 玲央は動かなかった。


 動けば負ける。


 金庫の蓋は半開き。


 青い光は指先に落ちている。


 背後にいるのは誰か。


 考えるまでもない。


「お見事」


 黒江瑠璃子の声だった。


「本当に、手際がいいのね」


 玲央は、金庫の扉に手をかけたまま沈黙した。


 背後に気配はなかった。


 いや、気づけなかった。


 いつからいた。


 扉が開いた音はしなかった。足音もなかった。拍手をするまで存在を消していたのか。それとも、そもそも最初から別の入口にいたのか。


 この書斎には、隠し扉がある。


 その可能性を、玲央はこの瞬間に理解した。


 瑠璃子は静かに続けた。


「それ以上開けると、少し面倒なことになるわ」


 玲央はようやく口を開いた。


 女声で。


「奥様。これは――」


「写真帳を探していたら、絵の裏の金庫が開いた?」


 瑠璃子の声には笑みが混じっていた。


「その言い訳は、少し難しいわね」


 玲央は金庫の蓋を慎重に戻した。


 青い光が細くなり、消える。


 箱の蓋も閉める。


 金庫の扉を完全には閉じない。閉じ方を間違えれば警報が鳴る可能性がある。半開きのまま、ゆっくり立ち上がった。


 そして振り返る。


 瑠璃子は書斎の奥、左側の本棚の前に立っていた。


 扉の近くではない。


 やはり、別の入口がある。


 青いドレスの上に、黒いショールを羽織っている。サロンで見た時と同じ姿だが、表情は違った。晩餐会の主人としての微笑みではない。罠に獲物がかかったことを確認する、静かな笑みだった。


「奥様」


 玲央は頭を下げた。


「申し訳ございません。写真帳をお届けした後、こちらに戻りましたところ、絵が少し傾いておりまして――」


「続けて」


 瑠璃子は楽しそうに言った。


「絵を直そうとしたら、金庫が現れた?」


「はい」


「それで、金庫まで開けたの?」


「開いていたように見えましたので、確認を」


「中の箱まで?」


「高価なものかと思い、異常がないかと」


「使用人として?」


「はい」


「早瀬さん」


 瑠璃子はゆっくり近づいてきた。


「あなた、嘘をつく時も声が綺麗ね」


 玲央は沈黙した。


 瑠璃子は金庫の前に立ち、半開きの扉を見た。


「ここまで開けられる人間は、この屋敷には多くないわ」


「私は何も」


「まだ言うの?」


「はい。私は、奥様にお仕えする臨時のメイドです」


「そう。早瀬莉乃さん」


 瑠璃子はその名を、丁寧に呼んだ。


 それから、言った。


「その人は、いつから存在しているの?」


 玲央の指先が、わずかに冷えた。


 核心に来た。


 だが、まだ認めない。


「どういう意味でございましょうか」


「紹介所の名簿を確認したわ」


「はい」


「早瀬莉乃という名前はあった。書類もあった。身元保証も、経歴も、紹介状も整っていた」


 瑠璃子は机の引き出しから、薄い封筒を取り出した。


「ただし、整いすぎていた」


 封筒から数枚の紙が出される。


 紹介状の写し。


 履歴書の写し。


 そして、一枚の写真。


 玲央は、写真を見た。


 そこには、家政婦紹介所へ入る前の人物が写っていた。帽子を目深にかぶり、服装も今とは違う。完全な変装前の、曖昧な姿。


 顔ははっきりしない。


 だが、見る者が見れば分かる。


 早瀬莉乃ではない。


「この写真は」


「うちの者が撮ったものではないわ。紹介所の近くで、別件を調べていた知人から送られてきたの」


「偶然でございますか」


「偶然は嫌いではないけれど、都合のよすぎる偶然は疑うことにしているの」


 瑠璃子は紙を机に置いた。


「あなたの書類はよくできていた。印刷も、印鑑も、紹介所の形式も正確。でも、紙が新しかった」


「紙、ですか」


「ええ。紹介所の保管書類は、少し古い紙の匂いがする。あなたの書類だけ、匂いが違った」


 玲央は、内心で舌打ちした。


 紙の匂い。


 偽造の精度ではなく、保管された時間。


 そこを突かれるとは思わなかった。


「それだけで疑われたのですか」


「最初はね」


「奥様は、ずいぶん繊細でいらっしゃる」


「褒め言葉として受け取るわ」


 瑠璃子は微笑んだ。


「でも、決め手はそれではない」


「何でしょうか」


「あなたの目」


 書斎の灯りが、瑠璃子の瞳に反射した。


「新人メイドは、主人の顔色を見る。先輩使用人の手元を見る。食器の位置、掃除の手順、失敗しそうな場所を見る。けれどあなたは、屋敷に入った瞬間から、絵、鏡、廊下、窓、鍵を見ていた」


 玲央は答えない。


「玄関ホールの鏡。東翼の彫刻台。温室へ続く廊下の配線。西側客間の窓格子。食堂の壁の絵。サロンの飾り棚。全部、よく見ていたわね」


「奥様に、お客様の癖を見よと教わりました」


「それは温室での話。その前からあなたは見ていた」


 瑠璃子はさらに近づく。


「そして、完璧すぎた」


「完璧」


「ええ。声も、礼も、歩き方も、受け答えも。新人としては整いすぎている。けれど、本職の使用人としては、手に生活が足りない。水仕事の手ではない。重い食器を持つ時の体の使い方でもない」


「家政婦長にも、同じことを言われました」


「相沢はよく見ているから」


「奥様も」


「私は、もっと意地が悪いの」


 瑠璃子は金庫の扉へ手を伸ばした。


「触らないで」


 玲央は思わず言った。


 女声が少し低くなった。


 瑠璃子は動きを止め、玲央を見た。


「なぜ?」


「そのまま閉めると、警報が作動する可能性があります」


「詳しいのね」


 しまった。


 だが、言わなければ警報が鳴っていたかもしれない。鳴れば終わりだ。いや、もう終わっているか。


 瑠璃子は笑った。


「大丈夫。これは私の金庫よ」


 彼女は扉の縁に触れ、玲央が予想していたのとは違う角度で押した。


 小さな音。


 金庫の扉が、滑らかに閉じる。


 警報は鳴らない。


 玲央は、思わず目を細めた。


「変わった閉じ方ですね」


「開け方も変わっているわ」


「でしょうね」


 瑠璃子はそこで、少し楽しそうに言った。


「やっと本音の声が出た」


 玲央はすぐに表情を戻した。


「申し訳ございません」


「戻さなくていいわ。そろそろ疲れるでしょう、その声」


「何のことでしょうか」


「早瀬さん」


 瑠璃子は、机の上の写真を指で軽く叩いた。


「いいえ。そう呼ぶのも、もう少しで終わりかしら」


 玲央は、早瀬莉乃として微笑んだ。


「奥様は、私を何者だとお考えなのでしょうか」


「怪盗」


 瑠璃子は即答した。


「鴉羽玲央」


 その名が書斎に落ちた。


 雨音も、時計の音も、一瞬遠ざかった。


 玲央は表情を崩さなかった。


 だが、内側では状況が切り替わった。


 名を知られている。


 正体に近づかれている。


 ただし、まだ顔を完全に暴かれてはいない。変装は残っている。ウィッグも、メイクも、補正具も、声も残っている。早瀬莉乃はまだ死んでいない。


 玲央は、静かに頭を下げた。


「存じ上げません」


「でしょうね」


 瑠璃子は、予想通りという顔をした。


「あなたがすぐに認めるとは思っていないわ」


「では、警察をお呼びになりますか」


「それなら、あなたが金庫に触れる前に呼んでいる」


「なぜ、そうなさらなかったのですか」


「見たかったから」


「何を」


「あなたがどこまでやれるのか」


 瑠璃子の声には、怒りがなかった。


 怒っていない。


 それが一番厄介だった。


 怒りなら誘導できる。恐怖なら利用できる。侮りなら逆手に取れる。だが、瑠璃子は怒っていない。獲物を眺める観察者の冷静さで、玲央を見ている。


「ご期待に添えましたか」


 玲央は、あえて少しだけ声を低くした。


 莉乃の女声の範囲内で、しかし本音に近い声。


 瑠璃子は微笑んだ。


「ええ。予想以上」


「それは光栄です」


「でも、失敗ね」


「まだ宝石は盗んでいません」


「だから失敗で済んでいるの」


「なるほど」


 玲央は、机の位置、扉、窓、本棚、瑠璃子との距離を確認した。


 扉までは四歩。


 窓までは三歩。ただし格子か鍵がある可能性が高い。


 瑠璃子は正面やや右。


 彼女は格闘の心得があるか不明。だが、身のこなしは軽い。油断はできない。


 書斎の入口はひとつに見えるが、瑠璃子が本棚側から現れた以上、隠し通路がある。その位置を使えば逃げられるかもしれない。しかし、構造が分からない通路へ飛び込むのは危険だ。


 まずは扉。


 通常の脱出路を確保する。


 玲央はわずかに重心を移した。


 瑠璃子は、それを見逃さなかった。


「逃げるの?」


「まさか」


「嘘」


 瑠璃子が机の下に手を伸ばした。


 次の瞬間、書斎の空気が変わった。


 扉の方で、重い金属音がした。


 窓の外側で、何かが下りる音。


 本棚の奥でも、かすかなロック音。


 玲央は扉を見る。


 取っ手の下に、細い金属板が滑り込んでいた。内側から開かないようにする機構。窓には外側から格子状の板が下りている。さっきまで見えていた夜の庭が、細い影で切られていた。


 書斎そのものが閉じた。


 瑠璃子は机から手を離した。


「この部屋は、宝石をしまうためだけの部屋ではないの」


 玲央は目を細めた。


「人を閉じ込めるための部屋でもある、と」


「正確には、盗人を逃がさないための部屋」


「趣味が悪いですね」


「泥棒に言われたくないわ」


 玲央は小さく笑った。


 この状況で笑うのは、早瀬莉乃ではない。


 鴉羽玲央の癖だった。


「奥様は、ずいぶん用心深い」


「あなたほどではないわ」


「私はただのメイドです」


「まだ続けるの?」


「はい。雇用期間中ですので」


 瑠璃子は本当に楽しそうに笑った。


「根性があるのね」


「仕事には責任を持つ方です」


「盗みも?」


「何のことでしょうか」


 二人の距離は、三歩。


 この距離なら、一瞬で抜けられる。


 扉が封鎖されていても、ロックの構造を確認する時間を稼げればいい。書斎に閉じ込める仕掛けがあるなら、解除機構も室内のどこかにある。瑠璃子が押した机の下か、壁のスイッチか、隠し通路側か。


 まずは視界を乱す。


 玲央は机上のランプへ視線を走らせた。


 瑠璃子はそれを見た。


「倒してもいいけれど、高いわよ」


「弁償できません」


「でしょうね」


 玲央は、あえてランプへ手を伸ばす動きを見せた。


 瑠璃子の視線が一瞬そちらへ行く。


 その瞬間、玲央は逆方向へ動いた。


 扉へ。


 メイド服の裾が翻る。補正具のせいで動きは少し重いが、十分速い。扉まで四歩。二歩目で取っ手へ手を伸ばす。ロックの金属板を確認する。構造が分かれば、開けられる可能性がある。


 だが、玲央の手が取っ手に触れる前に、背後から声が飛んだ。


「そっちは無理」


 瑠璃子は追ってこない。


 いや、追う必要がないと分かっている。


 玲央は取っ手を回した。


 動かない。


 内側からの単純なロックではない。扉全体が枠に固定されている。道具があれば時間をかけて外せるが、今は無理だ。


 なら窓。


 玲央はすぐに方向を変えた。


 窓へ向かう。


 外側の金属板は完全には下りきっていない。隙間がある。いや、そう見えるだけかもしれない。近づいて確認する。


 その時、瑠璃子が初めて動いた。


 速い。


 ドレス姿とは思えないほど、移動の無駄がない。走るのではなく、最短の位置へ滑るように入る。玲央の進路の斜め前に立ち、窓への直線を塞いだ。


 玲央は足を止めなかった。


 止まれば捕まる。


 彼は右へ抜けるふりをして、左へ体を流す。


 瑠璃子の手が伸びる。


 玲央はそれをかわし、彼女の横をすり抜けようとした。


 だが、瑠璃子は腕を掴もうとしなかった。


 彼女は、メイド服のエプロンの端を軽く押さえた。


 たったそれだけ。


 だが、補正具で重心が変わっている玲央には十分だった。布が引かれ、足運びが乱れる。玲央は転ばないように体をひねり、机の角を避けた。


 瑠璃子はすぐに手を離す。


「動きは速い。でも、服に慣れすぎていない」


 玲央は体勢を整えた。


「奥様こそ、ドレスに慣れていらっしゃる」


「この家では、ドレスでも逃げられるように育つの」


「特殊なご家庭ですね」


「泥棒に入られる家だから」


 玲央は笑った。


 状況は悪い。


 だが、まだ終わりではない。


 窓は無理。


 扉も無理。


 なら隠し通路。


 瑠璃子が現れた本棚側。あそこに何かある。問題は、瑠璃子もそれを分かっていることだ。


 玲央は部屋の中央へ戻るふりをした。


 瑠璃子との距離を取る。


 そして、地球儀へ手をかける。


 地球儀は重いが、投げる必要はない。押せば動く。倒せば音と視線を作れる。


 玲央は地球儀を倒すふりをした。


 瑠璃子の目は動かない。


 こちらを見ている。


 ならば、彼女の予想をさらにずらす。


 玲央は地球儀を倒さず、足元の小さな敷物を蹴った。敷物がずれ、床の上を滑る。瑠璃子の足元へ向かう。


 瑠璃子は半歩下がった。


 その半歩で十分。


 玲央は本棚へ向かった。


 瑠璃子の現れた場所。


 左側の本棚。


 背表紙の並びが、そこだけわずかに不自然だ。一冊だけ使い込まれすぎている本がある。隠し扉の取っ手か、操作部か。


 玲央の指が、その本へ伸びた。


 届く。


 そう思った瞬間、背後から手が伸びた。


 瑠璃子の手が、玲央の肩ではなく、髪の端に触れた。


 栗色のウィッグの、耳の後ろの部分。


 玲央は反射的に頭を引いた。


 遅い。


 瑠璃子の指が、ウィッグの縁を掴んだ。


 強く引いたわけではない。


 だが、固定がわずかに浮いた。


 前髪の位置がずれる。


 額の生え際に、本来の黒髪が一瞬覗く。


 書斎の空気が、固まった。


 玲央は即座に手で髪を押さえた。


 早瀬莉乃の顔で、息を整える。


「奥様」


 声はまだ女声だった。


「乱暴は、おやめください」


 瑠璃子は、ウィッグの端を掴んだまま微笑んだ。


「乱暴?」


「はい。髪が」


「髪?」


 瑠璃子の目が、楽しげに細くなる。


「本当に、あなたの髪?」


 玲央は答えない。


 瑠璃子の指は、ウィッグの縁を離さない。


 逃げるには、彼女の手を振りほどく必要がある。だが、強く動けば、ウィッグがずれる。完全に外れれば、早瀬莉乃は崩れる。


 まだだ。


 まだ、崩すわけにはいかない。


 玲央は、女声のまま言った。


「奥様は、私を疑っておられるのですね」


「ええ」


「なら、家政婦長をお呼びください。私は、何もやましいことは」


「金庫を開けておいて?」


「開いていたものを確認しただけです」


「その言い訳、最後まで使うつもり?」


「はい」


「いいわね」


 瑠璃子は笑った。


「ここまで来ると、意地が美点に見える」


「恐れ入ります」


「褒めてはいない」


「では、手を離していただけますか」


「嫌よ」


 瑠璃子は短く言った。


 玲央は、初めて少しだけ表情を硬くした。


 その変化を、瑠璃子は見逃さない。


「ようやく困った顔をした」


「誰でも、髪を掴まれれば困ります」


「そうね。特に、それが外れる髪なら」


 玲央は沈黙した。


 瑠璃子は、ウィッグの端をわずかに持ち上げた。


 固定が軋む。


 玲央の手が、彼女の手首へ伸びる。


 瑠璃子はその動きを読んで、半歩横へずれた。玲央の手は空を切る。代わりに、ウィッグがさらに少しずれる。


 額に、黒髪がはっきり覗いた。


 瑠璃子は静かに言った。


「もう、早瀬莉乃でいるのは難しいわよ」


 玲央は、女声を保ったまま答えた。


「奥様の思い違いです」


「まだ言うのね」


「はい」


「本当に、見上げた根性」


 廊下の遠くで、人の声がした。


 西側の騒ぎが、まだ続いている。


 ここで時間を使いすぎれば、誰かが来るかもしれない。いや、来ないように瑠璃子が調整している可能性もある。


 玲央は判断した。


 このままでは、ウィッグを外される。


 なら、先に動く。


 彼は瑠璃子の手首を取るのではなく、自分の頭を彼女の手の動きに合わせて傾けた。引かれる力に逆らわず、近づく。距離を詰める。瑠璃子の懐に入れば、ウィッグを引く角度が消える。


 瑠璃子の目が、一瞬だけ開いた。


 玲央はそのまま、空いた手で机の上の封筒を払った。


 紙が舞う。


 写真と書類が床へ散る。


 視界が乱れる。


 玲央は、瑠璃子の手から髪を逃がそうとした。


 だが、瑠璃子は離さなかった。


 彼女は紙には目もくれず、ウィッグの縁を押さえたまま、玲央の動きに合わせて回った。ドレスの裾が静かに広がる。


 まるで、踊っているようだった。


 そして、瑠璃子のもう片方の手が、玲央の肩に触れた。


 押すのではない。


 止める。


 玲央の動きが止まる。


 その瞬間、栗色の髪がまた少しずれた。


 ほつれた前髪の奥に、黒い地毛が覗く。


 早瀬莉乃の輪郭が、音もなく崩れ始めていた。


 瑠璃子は、玲央の耳元に近い距離で言った。


「チェックメイト、にはまだ早いかしら」


 玲央は、低く息を吐いた。


 女声ではない。


 本来の声に近い息だった。


 瑠璃子はそれを聞いて、微笑んだ。


「やっぱり、そちらの方が自然ね」


 玲央はすぐに声を戻した。


「奥様」


「ええ」


「手を離していただけないなら、こちらも少し乱暴になります」


「どうぞ」


 瑠璃子は即答した。


 挑発ではない。


 自信だった。


 玲央は動いた。


 肩を落とし、手首を返し、瑠璃子の腕の下を抜ける。ウィッグが引かれる。固定が外れかける。だが、完全には外れない。彼は痛みを無視し、本棚から離れ、部屋の中央へ戻った。


 瑠璃子の手から、ウィッグの端が滑り抜ける。


 助かった。


 だが、髪はもう大きく乱れていた。


 栗色の前髪は斜めにずれ、地毛が額に出ている。白いカチューシャも傾いている。メイクと服はまだ整っているが、頭部の違和感は隠しきれない。


 瑠璃子は、少し離れた位置で玲央を見た。


「惜しいわね」


「何がでしょうか」


「本当に綺麗に作ってあったのに」


 玲央は、片手でウィッグを押さえた。


「褒め言葉として受け取ります」


「ええ。今のは褒めたの」


「ありがとうございます」


「でも、もう長くはもたない」


「まだ、もたせます」


「そう」


 瑠璃子は机の上に置かれた呼び鈴へ手を伸ばした。


 玲央は身構える。


 相沢を呼ぶ気か。


 警備を呼ぶ気か。


 だが、瑠璃子は呼び鈴を押さなかった。


 ただ、その上に指を置いたまま、玲央を見た。


「最後にひとつ聞くわ」


「何でしょうか」


「あなたは、青の寵姫そのものが欲しかったの? それとも、この屋敷で誰かが動くのを見たかったの?」


 玲央は答えなかった。


 瑠璃子の目が、深くなる。


「やっぱり、後者ね」


「奥様の想像です」


「否定が遅い」


「状況を考えていました」


「逃げ方?」


「はい」


「正直ね」


 瑠璃子は小さく笑った。


 その直後、一階からまた声が上がった。


 今度は悲鳴ではない。


 複数人の騒ぐ声。


 サロンの方角。


 瑠璃子の表情が、初めて明確に変わった。


 玲央も耳を澄ませる。


 使用人の声。


 客の怒声。


 何かが割れる音。


 今度は、明らかに事件だった。


 瑠璃子は呼び鈴から手を離した。


「どうやら、あなた以外にも動いた人間がいるようね」


 玲央は乱れたウィッグを押さえたまま、微笑んだ。


「申し上げたでしょう。私はただのメイドです」


「その髪で?」


「少し乱れただけです」


「ずいぶん大胆な言い訳」


「最後まで使うつもりですので」


 瑠璃子は、呆れたように息を吐いた。


 だが、その目には楽しげな光があった。


「いいわ。今は一階を優先する」


 玲央は一歩動こうとした。


 扉はまだ閉じている。


 瑠璃子は机の下に手を入れ、ロックを解除した。


 扉の金属板が外れる音。


 窓の格子はそのまま。


 本棚側の隠し扉も閉じたまま。


 出口は一つだけ。


 瑠璃子は扉へ向かった。


 玲央も続こうとする。


 だが、扉の前で瑠璃子は振り返った。


「早瀬さん」


「はい」


「その髪、直してから来なさい」


 玲央は、一瞬だけ黙った。


 瑠璃子はさらに言った。


「でないと、全員の前で説明することになるわ」


 玲央は乱れたウィッグを押さえ、静かに頭を下げた。


「ご忠告、ありがとうございます」


「どういたしまして」


 瑠璃子は書斎を出ていった。


 扉が閉まる。


 玲央は数秒、その場に立っていた。


 呼吸を整える。


 金庫は閉じた。


 青の寵姫は盗めなかった。


 正体は、ほぼ見抜かれた。


 ウィッグはずれ、変装は崩れかけている。


 そして一階では、別の事件が起きている。


 最悪に近い。


 だが、完全な最悪ではない。


 まだ早瀬莉乃は死んでいない。


 玲央は机の上のランプのそばへ行き、小さな手鏡を取り出した。前髪を戻し、カチューシャの角度を整える。乱れた部分を指先で押さえ、見える範囲の黒髪を隠す。


 完璧には戻らない。


 だが、薄暗いサロンならごまかせる。


 彼は鏡の中の自分を見た。


 早瀬莉乃の顔。


 その奥で笑う、鴉羽玲央。


「見ていればいい」


 声はもう、女声ではなかった。


 それから、彼は喉を切り替えた。


「まだ、終わっておりません」


 早瀬莉乃の声が戻る。


 玲央は書斎を出た。


 一階から、騒ぎが大きくなっている。


 青の寵姫は盗めなかった。


 だが、今夜の本当の獲物が何なのか、少しずつ見えてきていた。


 黒江邸の晩餐会は、すでに祝宴ではない。


 疑いと欲望と嘘が、屋敷の中で形を取り始めていた。

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