第2話 晩餐会と女主人の視線
黒江邸の夕暮れは、外の雨を屋敷の内部へ入れなかった。
窓硝子には細い雨粒が絶えず流れていたが、食堂の空気は乾いていた。磨き上げられた銀器、厚みのある白いテーブルクロス、背の高い燭台、切りそろえられた花。そこには水気の気配さえ許さない、徹底した管理があった。
早瀬莉乃――怪盗・鴉羽玲央は、食堂の入口近くに立ち、手元の席順表をもう一度だけ確認した。
黒江瑠璃子。
画商、遠峰修一。
宝飾商、真木沙織。
銀行家、榊原慎吾。
音楽家、宮園透。
財団理事、久世葉子。
ほか、瑠璃子の財団に関係する実業家、評論家、古美術商が数名。
表向きには、黒江瑠璃子の誕生日を祝う私的な晩餐会だった。だが、玲央にはそう見えなかった。
これは会食ではない。
品定めの場だ。
招かれた者たちは、瑠璃子の機嫌を見に来ている。瑠璃子は、彼らの欲と焦りを見ている。そして、おそらく客の中には、今夜この屋敷にあるはずのサファイア「青の寵姫」を狙っている者がいる。
玲央自身も、そのひとりだった。
だからこそ、彼は今、清楚な新人メイドとしてそこに立っている。
黒いメイド服は、晩餐会用に普段より整えられていた。白い襟は硬く、袖口は清潔で、エプロンには皺ひとつない。栗色の髪は肩のあたりで柔らかくまとまり、白いカチューシャの下に自然に収まっている。化粧は控えめに見えるよう計算され、目元の印象も強すぎない。
制服の下の補正具は、長時間の給仕に耐えられるよう、昼のうちに一度締め直していた。胴まわりを整えるコルセットは呼吸を浅くする。胸元と腰まわりのパッドは服の線を変えるが、動きの自由を少し奪う。歩幅を間違えれば不自然になるし、盆を持つ時に肩へ力が入りすぎると、女装の仕草ではなく訓練された男の動作が出る。
つまり、完璧な変装とは、鏡の前で完成するものではなかった。
他人の視線の中で、何時間も崩れずに存在し続けて、初めて完成する。
玲央はそれを知っていた。
「早瀬さん」
家政婦長の相沢が、食堂の入口で声をかけた。
「はい」
玲央はすぐに振り返った。
返事は少し高く、柔らかく。だが、幼くはしない。若い女性の声でありながら、使用人として落ち着いて聞こえる高さ。声帯の使い方だけではない。息をどこで抜くか、語尾をどこで落とすか、口の開き方をどう抑えるか。すべてが変装の一部だった。
相沢は銀縁眼鏡の奥から、玲央の顔を見た。
「席順は覚えましたか」
「はい。奥様を中央に、右手に遠峰様、左手に久世様。遠峰様の隣に真木様、久世様の隣に榊原様。宮園様は奥側のお席です」
「よろしい。飲み物の好みは」
「遠峰様は赤ワイン。真木様は白を少量。榊原様は食前酒を多めに求められることがあるため、注ぎすぎない。宮園様はアルコールを避け、水を。久世様は水を切らさないように」
相沢は小さく頷いた。
「記憶力はありますね」
「ありがとうございます」
「褒めているだけではありません。覚えすぎる人は、余計なことまで覚えます」
玲央は伏し目がちに答えた。
「必要なことだけ、覚えるようにいたします」
「そうしてください」
相沢はそう言うと、玲央の手元へ視線を落とした。
手袋をしている。
それでも、相沢の目は手を見る。
昼間にも言われた。水仕事に慣れていない手だ、と。
玲央は、盆を持つ指に余計な力が入っていないか確認した。関節が固くなってはいけない。男の手を隠すには、単に手袋をすればいいわけではない。物の持ち方、指の伸ばし方、手首の角度まで含めて変える必要がある。
相沢は言った。
「今夜は奥様の大切なお客様がいらっしゃいます。失敗しても取り返せるものと、取り返せないものがあります」
「はい」
「グラスを割ることは取り返せます。お客様の名前を間違えることも、まだ取り返せます。ですが、聞いたことを外へ漏らすこと、見てはいけないものを見たと悟られることは、取り返せません」
「心得ております」
「本当に?」
相沢の声は静かだった。
玲央は一拍置き、顔を上げた。
「はい。見たものを、見たように見せないことも、使用人の務めだと考えております」
相沢の目が、ほんのわずかに細くなった。
言葉の選び方を誤ったか。
そう思ったが、相沢はそれ以上追及しなかった。
「よろしい。では、持ち場へ」
「はい」
玲央は一礼し、食堂へ入った。
食堂の中央には長いテーブルがある。白いクロスの上に置かれた銀器は、左右対称に並んでいた。天井のシャンデリアは明るすぎず、グラスの縁だけを鋭く光らせる。壁には三枚の油絵。果物の静物画、海辺の風景、そして女の肖像。絵としての価値より、配置に意味がある。入口側から見れば装飾だが、部屋の中に立てば、鏡のように人の動きが映る面がいくつもある。
真正面の飾り棚には、今夜見せるための銀器や小さな工芸品が並んでいた。だが、青の寵姫はない。
当然だ。
あの石は、こんな開けた場所には置かない。
玲央は席の背後に立ちながら、頭の中で屋敷の構造を再確認した。
一階のサロン。
食堂。
西側客間。
東翼の温室。
二階東側の書斎。
北棟と地下保管庫は、通常の使用人動線から外れている。
青の寵姫が今夜、客へ披露されるなら、書斎に移されている可能性が高い。晩餐後、少人数を連れて二階へ移動し、金庫から出して見せる。あるいは、書斎からサロンへ運ぶ。いずれにしても、十一時前後に書斎周辺の動きが生じるはずだった。
問題は、瑠璃子がどこまでそれを意図しているか。
昼の温室で、彼女は玲央に言った。
十一時になったら書斎に来てちょうだい。
客間に運んでほしい古い写真帳があるの。
偶然ではない。
玲央はそう判断していた。
瑠璃子は玲央を試している。
あるいは、誰か別の客を試すために、玲央を配置している。
どちらにせよ、今夜の晩餐会はただの祝宴ではない。
やがて玄関ホールの方から、車の到着を知らせる気配がした。
屋敷の空気が一段整う。
最初の客が来た。
*
財団理事の久世葉子は、雨音を連れて玄関に現れた。
白髪を短く整えた女性で、派手な装飾は身につけていない。年齢は六十代ほどだが、姿勢に緩みがない。濃い紫のドレスの上に、黒いショールを羽織っていた。
玲央は玄関ホールの端で、他の使用人とともに控えた。
相沢が一歩前に出る。
「久世様。雨の中、ようこそお越しくださいました」
「瑠璃子さんのお招きですもの。雨くらいで欠席はできません」
久世の声は穏やかだった。
だが、玄関ホールへ入った瞬間、彼女の目は一度だけ壁の絵、階段、窓、使用人の配置を確認した。
普通の客ではない。
場を読む人間だ。
玲央は上着を受け取るため、静かに前へ出た。
「お預かりいたします」
「ありがとう」
久世は玲央を見た。
「初めて見る方ね」
「本日より臨時で入っております。早瀬でございます」
「そう。黒江さんの家に初日から入るのは、大変でしょう」
「皆様に教えていただきながら、務めております」
「よい返事ね」
久世は微笑んだ。
その微笑みは、人を安心させるものではなく、人の反応を測るものだった。
玲央は一礼し、上着を預かった。ポケットに不自然な重みはない。香水は控えめ。雨の匂いと、古い紙のような匂いがわずかに混ざっている。財団関係の書類か、古書か。すぐには判断できない。
二人目に現れたのは、銀行家の榊原慎吾だった。
大柄で、声が大きい。笑顔も大きい。黒いタキシードを着ているが、どこか服の方が彼に合わせられているように見える。手には高価な傘。靴には泥がついていない。車から玄関まで、使用人にかなり気を遣わせたのだろう。
「いやあ、黒江さんの誕生日に雨とは。風情がありますな」
榊原は玄関に入るなり言った。
相沢は表情を変えない。
「お足元の悪い中、ありがとうございます」
「足元は悪くありませんよ。黒江さんの家の石畳は、私の銀行のロビーより整っている」
榊原は笑った。
笑い声がホールに響く。
玲央は上着を受け取りながら、榊原の手を見た。大きい。指輪はしていない。腕時計は高価だが、目立ちすぎない。金を持つことに慣れた者の選び方だった。
「お預かりいたします」
「ありがとう。君は新しい方かな」
「はい。本日より臨時で入っております」
「黒江さんのところは、相変わらず人選がよろしい」
榊原の視線が、玲央の顔から首元、制服のラインへ一瞬だけ流れた。
不快なほど露骨ではない。だが、見る癖のある男だ。
玲央は視線を落とし、柔らかく答えた。
「恐れ入ります」
それ以上言わない。
褒め言葉に反応しすぎても、嫌悪を出しても、印象に残る。使用人として最適なのは、受け流すことだった。
三人目は、宝飾商の真木沙織。
銀灰色のドレスに、細い真珠のネックレス。宝飾商にしては控えめな装いだ。だが、それは宝石に興味がないからではない。宝石を扱う人間ほど、自分を飾る石を慎重に選ぶ。余計な石をつければ、自分の目の品位を疑われる。
真木は手袋を外しながら、相沢に挨拶した。
「相沢さん、今夜も大変ですね」
「お越しいただきありがとうございます、真木様」
「瑠璃子さんは?」
「ただいま支度を整えておられます」
「そう。あの方は、支度を整えるというより、場を整える方だけれど」
真木は軽く笑った。
玲央は上着を受け取る。
「お預かりいたします」
真木の手袋の内側に、薄い青の染みがあった。
昼に見たわけではない。今、初めて見た。しかし、玲央の目はその色を逃さなかった。
青。
染料か。
宝石用クロスの移りか。
それとも、サファイアを扱った痕跡か。
真木は玲央の視線に気づいたように、手袋を小さなバッグへ滑り込ませた。
「あなた、初めてね」
「はい。本日より臨時で入っております。早瀬でございます」
「そう。黒江さんの屋敷は、ただ綺麗に立っているだけでは務まらないわ」
「心得ます」
「いい声ね」
また、声。
玲央は心の中でわずかに警戒した。
瑠璃子も声を指摘した。真木も声に触れた。宝飾商という職業柄、細かな違いに敏感なのかもしれない。
「恐れ入ります」
「緊張していないの?」
「少ししております」
「そうは見えないわ」
「見えないように努めております」
真木は目を細めた。
「ますます面白い返事」
玲央は一礼し、余計な言葉を避けた。
四人目は、音楽家の宮園透だった。
細身で、顔色が少し悪い。髪は丁寧に整えられているが、雨の湿気をひどく気にしている様子だった。黒い上着の袖口を何度も直し、玄関に入るとすぐ、ピアノの状態を尋ねた。
「ピアノは、サロンですか」
「はい。調律は済ませております」
相沢が答える。
「湿気があるから、音が沈まなければいいのですが」
「暖房と除湿を調整しております」
「そうですか」
宮園は安心したようでいて、まだ落ち着かない。上着を脱ぐ時も、視線が何度も廊下へ流れた。ピアノが気になるというより、屋敷そのものに緊張しているようだった。
玲央は上着を受け取った。
「お預かりいたします」
「あ、はい。お願いします」
宮園は玲央を見たが、すぐに目を逸らした。
女性を直視できないタイプか。
あるいは、使用人の顔を覚えたくないタイプか。
どちらにせよ、彼の落ち着きのなさは記憶しておく価値がある。
最後に来たのは、画商の遠峰修一だった。
痩せた男で、年齢は五十代ほど。黒のスーツに、深緑のネクタイ。傘を閉じる動作も、手袋を外す動作も、無駄がなく丁寧だった。顔には薄い笑みが貼りついている。
人の品物を値踏みする目。
人そのものも値踏みする目。
遠峰は相沢に挨拶した後、ホールをゆっくり見回した。
「相変わらず、いい絵を置いておられる」
「奥様のお好みです」
「ええ。黒江さんの好みは、いつも分かりやすくて、分かりにくい」
遠峰はそう言い、玲央へ上着を預けた。
「お預かりいたします」
「ありがとう。新しい方かな」
「はい。本日より臨時で入っております。早瀬でございます」
「早瀬さん」
遠峰はその名を繰り返した。
玲央は少しだけ顔を伏せる。
「今夜はよく見ておくといい」
「はい?」
「黒江さんの晩餐会は、ただの食事ではありません。誰が何を話し、誰が何を隠すか。それを見ているだけで、勉強になる」
玲央は曖昧に微笑んだ。
「私には、まだ難しいかと」
「難しいものほど、見る価値がありますよ」
遠峰はそう言って、サロンへ向かった。
玲央は上着を抱えたまま、目だけでその背を追った。
あの男は危険だ。
単純に怪しいという意味ではない。自分が怪しいと見られることに慣れている。そういう人間は、疑われること自体を隠れ蓑にする。
全員が揃った頃、黒江瑠璃子が姿を現した。
食堂へ向かう前、サロンで軽く挨拶が交わされる。
瑠璃子は深い青のドレスをまとっていた。昼の落ち着いた装いとは違い、晩餐会の主人として場に立つための服装だった。だが、宝石は控えめだ。耳元に真珠。指に細いリング。胸元に小さなブローチ。
青の寵姫は身につけていない。
瑠璃子は客たちを見渡し、穏やかに微笑んだ。
「雨の中、お越しいただきありがとうございます。私の誕生日という名目ではありますけれど、どうぞ堅苦しくなさらずに。今夜は、よい話と、よい音楽と、よい食事を楽しむ夜にしましょう」
榊原が大きく笑った。
「黒江さんがそうおっしゃると、かえって緊張しますな」
「緊張なさる理由がおありなら、そうかもしれませんね」
瑠璃子は微笑んだまま返した。
周囲に笑いが起こる。
榊原も笑った。
だが、返答は鋭い。
たった一言で、瑠璃子は場の主導権を握った。
玲央は壁際に控えながら、それを見ていた。
この女は、やはり危険だ。
怒鳴らない。威圧しない。だが、言葉を置く位置が正確すぎる。相手が笑って受け流すしかない場所へ、針のような言葉を置く。
晩餐会は始まる前から、瑠璃子の支配下にあった。
*
食堂に客が入り、席についた。
玲央は相沢の指示に従い、他の使用人とともに給仕を始めた。
最初は食前酒。
榊原が軽くグラスを掲げる。
「今日は黒江さんの誕生日ですから、まずは主役に乾杯ですな」
「ありがとうございます。でも、乾杯の前に、榊原さん」
「はい?」
「今日は飲みすぎないでくださいね。前回、二杯目から声が大きくなりました」
榊原は一瞬固まり、それから豪快に笑った。
「いや、参りましたな。黒江さんは何でも覚えておられる」
「都合の悪いことほど、覚えています」
「それは怖い」
「ええ。怖がってくださって結構です」
また笑いが起きる。
玲央は榊原のグラスに注ぐ量を、相沢の指示通り少なめにした。
榊原は気づいたようだったが、文句は言わない。瑠璃子に先に釘を刺された以上、言いにくいのだ。
次に遠峰へ赤ワイン。
遠峰はグラスの色を見た。
「よい香りです」
「遠峰さんは、香りを褒める時、値段を考えていますね」
瑠璃子が言った。
「職業病です」
「絵でもワインでも?」
「価値のあるものは、何でも」
「価値のないものは?」
「価値がないと思われているものほど、後で値が上がることがあります」
遠峰は笑う。
「それを見つけるのが、私の仕事です」
瑠璃子は目を細めた。
「見つけるだけならいいのですけれど」
「手に入れるな、と?」
「手に入れ方によります」
食卓の空気が、わずかに硬くなった。
遠峰の笑みは崩れない。
「黒江さんの前では、襟を正さねばなりませんな」
「襟だけで足りますか」
今度の笑いは、小さかった。
玲央は、遠峰の指を見た。グラスを持つ指に力は入っていない。だが、左手が一度だけ膝の上で閉じた。瑠璃子の言葉は、刺さっている。
次に真木へ白ワインを少量。
真木はグラスを受け取り、色を見る。
「今夜のグラスは、いつもより薄いですね」
「分かるの?」
瑠璃子が尋ねる。
「分かります。縁の反射が違う」
「さすがね」
「宝石もグラスも、縁で印象が変わりますから」
「人も?」
「もちろん。輪郭の見せ方で、価値は変わります」
玲央は、盆を持つ手にわずかな意識を向けた。
真木の言葉は、宝石商らしい。だが、彼にとっては別の意味を持つ。
輪郭の見せ方。
変装とは、まさにそれだ。
胸元、腰、肩、首、顔の骨格。女装の完成度は、一点の派手さではなく、全体の輪郭の整合で決まる。真木のような人間は、その輪郭のわずかな不自然さに気づくかもしれない。
玲央は、真木の背後へ立つ時だけ、肩の力をさらに抜いた。
宮園には水。
彼は礼を言ったが、グラスへほとんど口をつけない。
瑠璃子が言った。
「宮園さん。ピアノの湿気は大丈夫そう?」
「先ほど触らせていただきましたが、問題ありません。ただ、低音が少し重いかもしれません」
「それは雨のせい?」
「雨と、部屋の空気ですね」
「人の空気も音に出るのかしら」
宮園は困ったように笑った。
「出ます。聴く人が緊張していると、弾く側も変わります」
「では今夜は弾きにくいでしょう」
「いえ、その……」
宮園は言葉に詰まった。
瑠璃子は微笑む。
「冗談よ」
だが、冗談ではない。
少なくとも、宮園はそう受け取っていなかった。彼は水のグラスを持ち直し、また出入口へ視線をやった。
久世には水。
久世は玲央へ小さく頷いた。
「ありがとう」
「失礼いたします」
久世は料理に手をつけながら、会話には必要な時だけ入った。だが、目は常に全体を見ている。瑠璃子の言葉に誰が反応したか。遠峰の笑みがどこで止まったか。真木の指がどこで動いたか。榊原が酒を欲しがる間隔。宮園の不安。
彼女もまた、観察者だった。
食事は進んだ。
前菜、スープ、魚料理、肉料理。
玲央は給仕しながら、客の癖を一つずつ拾った。
榊原は笑う時、右手で腹の前を押さえる。だが、緊張した時は左手でグラスの脚を触る。
遠峰は会話の途中で壁の絵を見る。絵を見るふりで、部屋の反射や人の位置を確認している。
真木は宝石の話題では饒舌になりすぎない。むしろ黙る。知識を隠す側の商人だ。
宮園は音に敏感すぎる。銀器が触れた音にも反応する。だが、反応する音としない音がある。廊下の足音には過敏だ。
久世は水を飲む量が多いわけではない。ただ、水が切れていないかを確認する使用人の動きを見ている。
瑠璃子は、その全員を見ていた。
会話の中心にいながら、誰よりも静かに観察している。
「遠峰さん」
肉料理が運ばれた頃、瑠璃子が言った。
「先月、あなたが扱った風景画、ずいぶん早く買い手がついたそうですね」
遠峰はナイフを置いた。
「ええ。ありがたいことに」
「どちらへ?」
「個人のお客様です。詳細は申し上げられません」
「もちろん。顧客情報ですものね」
「ご理解いただけて助かります」
「ただ、あの絵は以前、別の名前で市場に出たことがあったはず」
遠峰の笑みが、ほんの少し薄くなった。
「よくご存じで」
「記憶違いかしら」
「いえ。似た作品はあったかもしれません。ただ、来歴の確認は取れております」
「どこまで?」
「必要な範囲までは」
「必要な範囲。便利な言葉ね」
食卓は静かになった。
瑠璃子は責めていない。だが、遠峰は追い詰められている。ほかの客は、そのやり取りを楽しむような、避けたいような顔で見ていた。
玲央は赤ワインのボトルを持ちながら、遠峰の皿の横へ立った。
遠峰の指が、テーブルクロスを軽く押さえている。
焦り。
ただし、見せない程度に抑えている。
「黒江さん」
遠峰は穏やかに言った。
「美術品には、語られすぎた来歴と、語られなかった来歴があります。後者をすべて疑っていては、何も買えません」
「疑うために買う人もいるわ」
「黒江さんのように?」
「ええ。私は疑うために買うことがあります」
瑠璃子は微笑んだ。
「疑う価値のあるものは、退屈しませんから」
その言葉に、真木が反応した。
「それは宝石も同じですね」
「真木さんも、疑うために買う?」
「私は売る側です。疑いを取り除いて売るのが仕事です」
「本当に取り除ける?」
「取り除けるものと、取り除いたことにするものがあります」
榊原が笑った。
「怖い話ですな。銀行では、疑いは数字で処理します」
久世が静かに言った。
「数字に出ない疑いもあります」
「久世先生、財団運営には信頼が必要でしょう」
「だからこそ、数字だけでは足りません」
会話が、少しずつ「価値」と「疑い」へ集まっていく。
青の寵姫の話題へ近づいている。
玲央はそれを感じた。
榊原が待ちきれないように言った。
「そういえば黒江さん。今夜は、例のサファイアを拝見できるという噂を聞いておりますが」
瑠璃子は、ゆっくりとグラスを置いた。
「噂は、どこから?」
「いや、これは失礼。真木さんから少し」
真木は眉を上げた。
「私は、今夜見られるかもしれないとは言いましたが、確約はしておりません」
「同じようなものです」
「全く違います」
真木の声は静かだったが、鋭かった。
瑠璃子は二人を見て、楽しそうに言った。
「青の寵姫のことね」
その名が出た瞬間、食卓の空気が明確に変わった。
遠峰は興味深そうに微笑む。
真木は口を閉じる。
榊原は前のめりになる。
宮園は視線を落とす。
久世は、ただ瑠璃子を見る。
玲央はその反応を刻み込んだ。
「青の寵姫」
榊原が言った。
「名前だけでも美しい。実物は、さぞ見事なのでしょうな」
「石は美しいわ。名前は、人間が勝手につけたものだけれど」
瑠璃子は答えた。
遠峰が口を開く。
「あの石は、王家の首飾りに使われていたという説がありますね」
「説はいくつもあります」
「革命の時に失われたとも」
「ええ」
「その後、幾人もの収集家の手を渡った」
「そう言われています」
「そして、十年前に黒江さんのもとへ」
遠峰はそこで微笑んだ。
「まるで、石の方が持ち主を選んだようです」
瑠璃子は、遠峰を見た。
「遠峰さんは、品物が持ち主を選ぶとお考え?」
「そう思う時があります」
「では、盗まれた品は?」
「持ち主を変えたがっていたのかもしれません」
玲央は心の中で笑った。
画商としては危険な発言だ。
同時に、怪盗としては少し分かる言葉でもあった。
瑠璃子は微笑む。
「面白い考え方ね。けれど私は、盗まれた品がそう言ったのを聞いたことはありません」
「黒江さんは、品物の声を聞かない?」
「聞くわ。ただ、盗人の言い訳と品物の声を混同しないようにしているだけ」
食卓の笑いは、今度は起きなかった。
遠峰はそれでも笑みを保った。
「手厳しい」
「泥棒に優しくする趣味はないの」
瑠璃子のその言葉で、玲央は一瞬だけ自分に向けられた刃を感じた。
もちろん、彼女は遠峰に向けて言った。
だが、本当にそれだけか。
瑠璃子は自分を疑っている。
その疑いがどこまで深いのか、まだ見えない。
榊原が空気を変えるように笑った。
「まあまあ、今夜は誕生日の席です。泥棒の話より、宝石の美しさの話をしましょう。黒江さん、ぜひ後ほど見せていただけませんかな」
真木も言った。
「湿度と照明が許せば、私も久しぶりに拝見したいです」
宮園が小さく言う。
「宝石を見るのに、湿度も関係するのですか」
真木は答えた。
「石そのものより、台座や保管環境ですね。古い装飾品は、金属や布の状態もありますから」
「なるほど」
宮園は頷いたが、興味があるというより、会話に入らざるを得なかった顔だった。
久世が瑠璃子へ尋ねた。
「瑠璃子さん。今夜、見せるおつもりで?」
「迷っているわ」
「あなたが迷う時は、たいてい別の理由がありますね」
「久世先生には敵わないわ」
「長い付き合いですから」
瑠璃子は少しだけ考えるように間を置いた。
それから言った。
「では、食後に少しだけ。皆様にお見せしましょう」
榊原の顔が明るくなる。
遠峰の笑みが深まる。
真木は目を伏せる。
宮園は、手元のナプキンを握った。
久世は変わらない。
玲央は、肉料理の皿を下げるタイミングを待ちながら、内心で結論を出した。
青の寵姫は、今夜この屋敷にある。
そして、瑠璃子はそれを客に見せるつもりだ。
少なくとも、今この時点では。
*
食事の後半、玲央は使用人としての動きにさらに集中した。
大きな失敗はない。
客の名前も、飲み物も、料理を下げるタイミングも間違えない。会話の邪魔をしない。視線を置きすぎない。だが、必要な時にはすぐ動く。
変装は崩れていない。
美香がすれ違いざま、小声で言った。
「早瀬さん、すごいね。初日とは思えない」
「皆様に教えていただいたおかげです」
「その声で言われると、こっちが照れる」
「え?」
「いや、何でもない。あとで厨房で水飲みなね。ずっと立ってるときついよ」
「ありがとうございます」
美香も完全に信じている。
莉乃というメイドが、若い女性としてそこにいることを疑っていない。
ほかの使用人も同じだった。
だが、相沢だけは違う。
相沢は給仕の合間に、何度か玲央の手元を見た。手袋越しの指。盆を持つ角度。重い皿を支える時の腕の使い方。相沢は、玲央の外見ではなく、仕事の身体を見ている。
そこが危ない。
女装は視覚を騙せる。
声も騙せる。
だが、長年使用人を見てきた相沢にとって、性別よりも職歴の方が重要なのかもしれない。水仕事に慣れているか。重いものをどう持つか。客の後ろをどう通るか。そうした癖は、数日では作れない。
玲央は、あえて一度だけ小さな失敗をした。
皿を置く時、ほんのわずかに位置をずらす。
すぐに気づき、静かに直す。
相沢が見ていた。
完璧すぎる新人より、少し緊張している新人の方が自然だ。瑠璃子にも言われた。完璧すぎるものは目立つ。だから、目立たない程度の揺らぎを入れる。
しかし、それすら観察されている可能性がある。
玲央は内心で笑った。
面白い。
この屋敷は、盗みにくい。
盗みにくい場所ほど、怪盗の価値が試される。
デザートが出る頃、会話は少し柔らかくなった。
榊原は誕生日祝いとして、瑠璃子の財団への寄付をほのめかした。
「次の教育支援事業、私どもとしても協力できるかもしれません」
「ありがとうございます。ですが、榊原さん」
「はい」
「寄付は、名前を大きく出すためのものではありません」
榊原は笑った。
「いや、これは手厳しい」
「お名前は出します。ただし、事業より大きくは出しません」
「それで十分です」
「本当に?」
「……黒江さんには隠せませんな」
榊原はグラスを置いた。
瑠璃子は、笑顔のまま相手の見栄を削る。
久世はその様子を静かに見ていた。
遠峰は、瑠璃子の言葉より、榊原の反応を見ている。真木は、デザートの皿にはほとんど手をつけない。宮園は食後の演奏を気にしている。
玲央は、ふと違和感を覚えた。
青の寵姫に強く反応したのは、遠峰、真木、榊原。
だが、宮園の反応だけが異質だった。
彼は興味を示したのではない。
恐れた。
宝石を見たい者の反応ではない。むしろ、見せられると困る者の反応に近い。
音楽家が、なぜ青の寵姫を恐れるのか。
関係があるとすれば、宝石そのものではなく、今夜それを見せる場面で何かが起こることを知っている場合だ。
玲央は宮園の手元を見た。
指は細く、爪は短い。音楽家の手として自然だ。だが、右手の親指の付け根に小さな擦れがある。楽器とは別の何かを握った跡にも見える。
警戒対象に追加。
そう判断した時、瑠璃子の声が聞こえた。
「早瀬さん」
突然名を呼ばれた。
食卓の客たちの視線が、一斉に玲央へ向く。
玲央はすぐに一歩前へ出た。
「はい、奥様」
「真木さんのお水を替えて」
「かしこまりました」
特別なことではない。
だが、瑠璃子はなぜ今、名前を呼んだのか。
使用人に指示するなら、ただ目配せでもいい。相沢に言えばいい。それをあえて「早瀬さん」と呼んだ。
客へ、新人メイドの存在を認識させるためか。
あるいは、玲央の反応を見るためか。
玲央は、自然に真木の背後へ回り、水を替えた。
真木が軽く言う。
「ありがとう、早瀬さん」
「失礼いたします」
「あなた、手元が綺麗ね」
また、手。
玲央は少しだけ微笑んだ。
「恐れ入ります」
「家事仕事より、何か別の訓練を受けていたように見えるわ」
食卓の空気が、ほんの少し止まる。
瑠璃子は何も言わない。
相沢も動かない。
玲央は答えた。
「以前のお宅で、食器や器を扱う時は、手元を丁寧にと教えていただきました」
「そう。よいお宅だったのね」
「はい。学ぶことが多くございました」
真木はそれ以上言わなかった。
玲央は下がる。
完璧に受け流したはずだった。
しかし、瑠璃子は見ていた。
玲央の返答ではなく、真木の質問に対するほかの客の反応を。
遠峰は面白がっていた。
榊原は何も考えていなさそうに笑っていた。
宮園は、なぜか目を伏せた。
久世は、瑠璃子を見ていた。
つまり今のやり取りは、玲央への揺さぶりであると同時に、客への揺さぶりでもあった。
瑠璃子は、この場で複数の人間を同時に測っている。
玲央は改めて理解した。
黒江瑠璃子は、ただの富豪ではない。
場そのものを道具として使う人間だ。
*
食事が終わり、客たちはサロンへ移った。
サロンは食堂より柔らかい光に満ちていた。暖炉には火が入っていないが、赤いランプが炎のように揺れている。壁際にはピアノ。窓の外には雨。中央には低いテーブルとソファ。食後酒、紅茶、コーヒーが用意された。
玲央はサロンの入口付近に控えた。
使用人としては、必要な時にすぐ動ける場所。怪盗としては、部屋全体と出入口を見渡せる場所だった。
宮園がピアノの前に座った。
「一曲だけ、短いものを」
瑠璃子が言った。
「無理をなさらないで。湿気が気になるのでしょう」
「いえ。むしろ、雨の日の方が合う曲もあります」
宮園は鍵盤に触れた。
音が落ちる。
静かな曲だった。雨の夜に合わせたような、低く沈む旋律。客たちは会話をやめ、音に耳を傾けた。
玲央も聞いていた。
ただし、音楽そのものではなく、音楽の中で動く人間を見ていた。
遠峰は目を閉じているようで、時々薄く開ける。
真木は手元のグラスを持ったまま動かない。
榊原は曲に退屈しているが、退屈を隠そうとしている。
久世は音楽を聞いている。
瑠璃子は、宮園ではなく客たちを見ている。
曲の途中、廊下の奥でかすかな物音がした。
普通なら、ピアノの音に紛れて気づかないほどの音。
だが、宮園の指が一瞬乱れた。
玲央はそれを見た。
宮園は音に敏感だ。だが、ただ敏感なだけなら、演奏に出さない訓練を受けているはずだ。今の乱れは、予想していた音が聞こえた時の反応に近い。
廊下の音。
二階へ続く方向ではない。
西側客間の方か。
玲央は動かない。
使用人として、音に反応しすぎるのは不自然だ。
だが、視界の端で相沢を見る。
相沢も気づいていた。
彼女は美香に小さく目配せする。美香が静かに廊下へ出た。
瑠璃子は、そこまで含めて見ている。
曲が終わると、拍手が起きた。
宮園は軽く頭を下げた。
「素晴らしい」
榊原が言う。
「雨の音まで曲に入っているようでしたな」
「ありがとうございます」
宮園は微笑んだが、顔色は少し悪い。
瑠璃子が言った。
「宮園さん。途中で少し音が揺れましたね」
場が静かになる。
宮園は固まった。
「……お気づきでしたか」
「ええ。雨のせい?」
「指が、少し滑りました」
「そう」
瑠璃子はそれ以上追及しない。
だからこそ、宮園の緊張は消えなかった。
玲央は内心で確信を深めた。
宮園は何かを知っている。
青の寵姫を狙っているかどうかは分からない。だが、今夜の屋敷で起こる何かに関わっている可能性がある。
美香が廊下から戻ってきた。
相沢に小声で報告する。
相沢の表情は変わらない。
だが、玲央には分かった。
何かあった。
問題は、それが瑠璃子の仕掛けか、客の仕掛けか。
サロンでは食後酒が配られた。
榊原は当然のようにグラスを求めたが、玲央は注ぎすぎない。
「君、慎重だね」
榊原が言った。
「奥様より、そのように申しつかっております」
「黒江さんは私を信用していないらしい」
瑠璃子が遠くから言った。
「信用しているから、止めているのです」
「それはありがたい」
榊原は笑い、少なめの酒を飲んだ。
遠峰は赤ワインを持ち、壁の絵の前に立っていた。
食堂でも絵を見ていたが、サロンでも同じだ。
「遠峰さん」
瑠璃子が声をかける。
「その絵が気になりますか」
「ええ。以前はここに別の絵がありませんでしたか」
「よく覚えていますね」
「絵の場所は忘れません」
「人の顔より?」
「時々」
瑠璃子は笑った。
「失礼な人」
「絵は嘘をつきませんから」
「本当に?」
「少なくとも、人間よりは」
「絵を売る人がそれを言うと、少し疑わしいわ」
遠峰はグラスを揺らした。
「黒江さんは、今夜ずいぶん私に厳しい」
「心当たりが?」
「ありすぎて困ります」
周囲が笑う。
遠峰は自分が疑われていることを笑いに変えている。
うまい。
だが、瑠璃子は流されない。
「では、ひとつだけ聞きます」
「何でしょう」
「あなたは、青の寵姫をどこで初めて見たの?」
遠峰の手が止まった。
ほんの一瞬。
だが、止まった。
「写真で、です」
「どの写真?」
「海外の古い図録です」
「図録名は?」
遠峰は微笑む。
「そこまで覚えていません」
「絵の位置は忘れないのに?」
沈黙。
玲央は、サロンの入口でそのやり取りを聞いていた。
瑠璃子は、遠峰を明確に疑っている。
青の寵姫の来歴に、遠峰は何か関わっているのかもしれない。
真木が助け舟を出すように言った。
「瑠璃子さん。古い宝石の図録は、多すぎます。私でも全部は覚えられません」
「真木さんがそう言うなら、そうなのでしょうね」
瑠璃子はあっさり引いた。
遠峰は救われた。
だが、真木はなぜ助けたのか。
単に専門家として口を挟んだのか。
それとも、遠峰に黙っていてもらう必要があるのか。
玲央は、真木と遠峰の位置関係を記憶した。
その時、相沢が近づいてきた。
「早瀬さん」
「はい」
「厨房へ一度戻って、水差しを替えてきてください」
「かしこまりました」
玲央はサロンを出た。
廊下へ出た瞬間、空気が変わった。
サロンの音楽と会話が遠ざかり、屋敷の静けさが戻る。玲央は水差しを持ちながら、廊下の奥へ視線を走らせた。
西側客間の扉が、わずかに開いている。
先ほど物音がした方向だ。
本来、客の上着を預かっている部屋。晩餐中は使用人が管理するが、今は人の出入りが少ない。
美香は何を見たのか。
玲央は厨房へ向かう動線を外れずに歩いた。ただし、客間の扉の前を通る時、反射を使って中を見た。
鏡台。
椅子。
預かった上着。
その中で、遠峰の黒い上着だけが、ほんの少し位置を変えていた。
誰かが触った。
遠峰本人か。
使用人か。
別の客か。
玲央は立ち止まらない。
厨房へ入ると、美香がいた。
「あ、早瀬さん。水差し?」
「はい。替えるようにと」
「こっちに新しいのあるよ」
美香は水差しを渡しながら、声を落とした。
「さっき、西の客間で音がしたんだけど、誰もいなかった」
「そうなのですか」
「うん。でも、上着の位置が少し変わってた気がする。私の気のせいかもだけど」
「家政婦長には?」
「言った。相沢さん、顔色変えなかったけど、たぶん気づいてたと思う」
玲央は頷いた。
「お客様が何かを取りに戻られたのでしょうか」
「それなら声かけるはずなんだけどね」
「そうですね」
美香は玲央を見た。
「早瀬さん、落ち着いてるね」
「慌てても、私には判断できませんので」
「それ、相沢さんっぽい」
「そうでしょうか」
「うん。早瀬さん、初日なのに黒江邸に馴染みすぎ」
玲央は柔らかく笑った。
「必死なだけです」
美香は納得したように笑った。
だが、玲央は内心で考えていた。
遠峰の上着が触られた。
それが何を意味するか。
遠峰自身が何かを隠しているなら、サロンを離れる必要がある。しかし彼はサロンにいた。なら、別の誰かが触った可能性が高い。
遠峰を探っている人物がいる。
または、遠峰に罪を着せようとしている人物がいる。
青の寵姫を狙う者は、一人ではないかもしれない。
*
サロンへ戻ると、空気が少し変わっていた。
瑠璃子は久世と話していた。遠峰は窓際。真木は椅子に座り、榊原は暖炉の近くでグラスを持っている。宮園はピアノから離れ、部屋の隅に立っていた。
玲央は水差しを替えながら、各人の位置を確認した。
遠峰は上着の異変に気づいていないように見える。
真木は、気づいているかもしれない。
宮園は落ち着かない。
榊原は酒が少なくて不満そうだが、瑠璃子の目を気にしている。
久世は、サロン全体を見る位置にいる。
瑠璃子が玲央へ視線を向けた。
ほんの一瞬。
何かを確認する視線だった。
玲央は、目立たないように一礼した。
瑠璃子は久世との会話に戻る。
「来月の慈善オークションですが」
久世が言った。
「目玉が強すぎると、寄付の趣旨より話題性が先に立ちます」
「青の寵姫を出すつもりはありません」
瑠璃子は言った。
その言葉に、遠峰が振り返った。
「出さない?」
「ええ」
「では、展示だけでも?」
「それも未定です」
榊原が驚いたように言う。
「黒江さん、あの石を財団のために使えば、相当な注目を集められますよ」
「注目は集めればよいものではありません」
「しかし、資金調達には」
「青の寵姫は、資金調達の道具ではありません」
瑠璃子の声は静かだった。
だが、そこには明確な線が引かれていた。
真木が言った。
「瑠璃子さんは、あの石を売る気も、貸す気もないのです」
「もったいないですな」
榊原が言う。
「もったいない?」
瑠璃子が聞き返す。
「ええ。価値あるものは、動かしてこそ価値を生む」
「それは銀行家の考え方ね」
「資産とはそういうものです」
「では、人の記憶は?」
「記憶?」
「動かせない価値もあります」
榊原は困ったように笑った。
「黒江さんには敵いませんな」
遠峰が静かに言った。
「しかし、動かない宝石は、やがて伝説になります」
「伝説は、お好き?」
瑠璃子が問う。
「商売になりますから」
「正直ね」
「黒江さんの前では、下手に飾らない方が安全です」
「その判断は正しいわ」
瑠璃子は微笑んだ。
玲央は、そのやり取りの裏で、宮園を見ていた。
宮園は青の寵姫の話になるたび、わずかに体を硬くする。だが、欲しがっている様子ではない。むしろ、その話題から逃げたいように見える。
なぜか。
その答えは、まだ出ない。
真木が静かに口を開いた。
「瑠璃子さん。今夜、本当に見せるおつもりですか」
その言葉に、瑠璃子は真木を見た。
「不安?」
「少し」
「理由は?」
「今夜は、人が多い」
「誕生日会ですもの」
「それだけではありません」
真木は声を落とした。
「青の寵姫の所在を知りたがっている人間がいます」
遠峰が笑った。
「それは、ここにいる全員では?」
「知りたがることと、探ることは違います」
真木の視線は、遠峰へ向いた。
遠峰は余裕を崩さない。
「私を疑っておられる?」
「疑われるだけの評判はありますから」
「宝飾商に言われるとは」
「宝飾商だから言うのです」
榊原が面白がるように言った。
「いや、今夜は黒江さんの誕生日というより、尋問会ですな」
瑠璃子は微笑む。
「そう感じる方には、心当たりがあるのかもしれません」
榊原は笑ったが、やや引きつっていた。
久世はそこで初めて強めに言った。
「瑠璃子さん。場が荒れています」
「そうですね」
瑠璃子は素直に頷いた。
「では、話題を変えましょう。宮園さん、もう一曲お願いできますか」
宮園は驚いたように顔を上げた。
「今、ですか」
「ええ。雨が弱くなってきたから、先ほどとは違う曲を」
「分かりました」
宮園はピアノへ戻った。
客たちの意識が一度音楽へ向く。
瑠璃子はその間に、相沢へ小さく目配せした。
相沢は玲央の方へ来た。
「早瀬さん」
「はい」
「奥様からです。十一時になったら予定通り書斎へ。写真帳は右から二番目の本棚、下段。分かりますね」
「はい」
「今、十時四十五分です。それまではサロンで控えてください」
「かしこまりました」
相沢はさらに声を低くした。
「途中で誰かに声をかけられても、書斎へ行く件は話さないように」
「はい」
「それと」
相沢は玲央の手を見た。
「重いものを持つ時、手首だけで支えないこと。怪我をします」
玲央は一瞬、言葉を失いかけた。
注意としては自然だ。
しかし、相沢の視線は単なる親切ではない。
手首だけで支える。
それは、玲央が先ほど重い皿を扱った時に出した癖だった。怪盗として道具を扱う時、指先と手首で重さを制御する。家事労働に慣れた使用人なら、もっと腕全体と体で持つ。
相沢はそこを見ていた。
「ありがとうございます。気をつけます」
「ええ」
相沢は離れていった。
玲央は、呼吸を整えた。
相沢は職歴を疑っている。
瑠璃子は存在そのものを疑っている。
真木は手元と声に違和感を持っている。
遠峰は面白がっている。
宮園は何かを隠している。
榊原は欲を隠せない。
久世は全体を見ている。
いい晩餐会だ。
厄介なほどに。
宮園の二曲目が始まった。
今度は少し明るい曲だった。だが、明るさは表面だけで、低音には雨の湿りが残っている。玲央は音楽を背に、サロンの出入口を見た。
十時五十分。
あと十分。
書斎へ向かう名目はある。
だが、向かった先に何があるかは分からない。
金庫。
青の寵姫。
瑠璃子の罠。
あるいは、別の誰かの仕掛け。
玲央は、早瀬莉乃として静かに控えた。
怪盗としては、すでに次の手順を組み立てていた。
*
十時五十五分。
曲が終わった。
拍手。
宮園は頭を下げる。顔色はさらに悪くなっていた。演奏で疲れたというより、時間が近づいていることに怯えている。
瑠璃子は拍手をしながら言った。
「ありがとう。雨の夜に合う曲でした」
「恐縮です」
「宮園さん」
「はい」
「このあと、少し休んでください。顔色が悪いわ」
「大丈夫です」
「大丈夫に見えない時、人はたいていそう言います」
宮園は黙った。
真木が心配そうに見る。
遠峰は興味深そうに見る。
玲央は、その三者の視線を同時に捉えた。
真木は本当に心配しているように見える。
遠峰は、宮園の弱みを見つけたような目をしている。
瑠璃子は、宮園が何を恐れているか知っているのかもしれない。
十時五十八分。
相沢が玲央へ小さく頷いた。
合図。
玲央は水差しを整え、盆を置き、静かに一礼してサロンを離れた。
誰も不自然に思わない。
使用人が部屋を出ることは、晩餐会では珍しくない。
ただし、一人だけ玲央を見ていた。
黒江瑠璃子。
彼女は客と会話しながら、玲央が出ていくのを見ていた。
その目には、止める気配はない。
むしろ、予定通りに駒が動いたことを確認する目だった。
廊下に出る。
サロンの音が扉の向こうへ沈む。
屋敷の廊下は、先ほどより暗く感じられた。
玲央は歩き出した。
まずは大階段へ。
足音を抑えすぎない。瑠璃子に言われた。静かすぎる足音も目立つ。だから、新人メイドとして自然な足音を作る。軽く、しかし完全には消さない。
玄関ホールに出る。
シャンデリアの光が床に落ちている。外の雨は弱くなったが、窓にはまだ水滴が残っている。
大階段を上る。
一段。
二段。
コルセットが呼吸を浅くする。だが、乱さない。補正具の重みも意識しない。ここで姿勢を崩せば、階下から見られた時に不自然だ。
二階へ上がる。
右へ。
東側の廊下。
壁には絵が並んでいる。昼に見た時より暗い。廊下の奥に、書斎の扉がある。
十一時ちょうど。
玲央は扉の前に立った。
ノックする。
「早瀬莉乃でございます。写真帳を取りに参りました」
返事はない。
予定通りか。
それとも、返事をしない者が中にいるのか。
玲央は扉の取っ手に手をかけた。
冷たい。
手袋越しでも、金属の温度が伝わった。
扉を開ける。
書斎は暗かった。
机の上のランプだけが灯っている。
壁一面の本棚。
革張りの椅子。
古い地球儀。
そして、正面の壁にかかった港町の絵。
玲央は、部屋に入った。
扉を閉める。
鍵はかけない。
まず、本棚へ。
右から二番目。
下段。
古い写真帳がある。
玲央はそれを手に取り、重さを確かめた。
言い訳としては十分。
次に、耳を澄ませる。
廊下に足音はない。
階下からサロンの音楽も聞こえない。
屋敷の深い静けさだけがある。
玲央は写真帳を机へ置いた。
その動作の中で、壁の絵を見る。
港町の風景。
額縁の下辺に、微かな擦れ。
頻繁に動かされている証拠。
絵の裏に何かある。
金庫。
青の寵姫。
あるいは、瑠璃子の罠。
玲央は近づいた。
指先が額縁に触れる寸前、廊下の向こうで微かな音がした。
足音ではない。
布が擦れる音。
誰かが近づいている。
玲央は即座に写真帳へ手を戻した。あくまで仕事中のメイドとして、写真帳を持ち上げようとしている姿勢を作る。
扉の外で、気配が止まった。
ノックはない。
玲央は顔を上げた。
扉が、静かに開いた。
入ってきたのは――。
黒江瑠璃子だった。
深い青のドレスのまま、彼女は書斎の入口に立っていた。
サロンに客を残して。
まるで、最初からここで玲央を待っていたかのように。
「早瀬さん」
瑠璃子は微笑んだ。
「写真帳は見つかった?」
玲央は、早瀬莉乃として一礼した。
「はい、奥様。こちらをお持ちするところでございました」
「そう」
瑠璃子は部屋へ入り、扉を静かに閉めた。
その音が、やけに大きく聞こえた。
玲央は写真帳を抱えたまま、顔を伏せる。
瑠璃子の視線が、彼の手元から、顔、肩、胸元、腰、足元へと滑る。
人を見る目ではない。
偽装の継ぎ目を見る目だった。
「早瀬さん」
「はい」
「あなた、晩餐会の間、よく見ていたわね」
玲央は答えた。
「奥様より、お客様のご様子を見るようにと伺いましたので」
「ええ。言ったわ」
「差し出がましかったでしょうか」
「いいえ。むしろ、期待以上」
瑠璃子は机の前に立った。
「誰が一番怪しいと思った?」
玲央は、返答を選ぶ。
ここで「分かりません」は嘘になりすぎる。
だが、核心を言えば、自分の観察力を晒す。
「私には判断いたしかねます。ただ……」
「ただ?」
「宮園様は、音よりも廊下の気配を気にされているように見えました」
瑠璃子の目が細くなった。
「遠峰さんではなく?」
「遠峰様は、怪しく見えることに慣れていらっしゃるようでした」
「真木さんは?」
「見えているものを、あえて口にされない方かと」
「榊原さんは?」
「欲しいものを隠すのが、あまりお上手ではないように思いました」
「久世先生は?」
「場全体を見ておられました」
言ってから、玲央は自分が話しすぎたことを理解した。
だが、もう遅い。
瑠璃子は、満足そうに笑った。
「本当に、よく見ている」
「申し訳ございません」
「なぜ謝るの?」
「使用人として、余計な見方だったかもしれませんので」
「余計ね」
瑠璃子はゆっくりと近づいてきた。
「早瀬さん。あなたの観察は、使用人の観察ではないわ」
書斎の空気が、また張り詰めた。
玲央は写真帳を抱え直した。
「奥様、それは――」
「給仕に必要なのは、客の好みを見ること。水が減ったか、料理を残したか、寒がっているか、会話を邪魔されたくないか。けれどあなたは、逃げ道、嘘、手元、目線、音への反応を見ていた」
瑠璃子は微笑んだまま言った。
「まるで、誰かが何かを盗むのを待っているみたいに」
玲央は伏し目がちに答えた。
「黒江邸では、そこまで見るものだと考えておりました」
「誰に教わったの?」
「奥様に」
「私?」
「温室で、誰が何を欲しがり、何を隠しているかを見るようにと」
瑠璃子は一瞬黙った。
そして、笑った。
「うまい返しね」
「そのようなつもりでは」
「それも、うまい」
瑠璃子は机の端に手を置いた。
「では、もうひとつ聞くわ。あなたは何を欲しがっているの?」
玲央は答えない。
答えれば負ける。
沈黙も答えになる。
だから、彼は早瀬莉乃として困惑を作った。
「私は、ただ仕事を――」
「模範解答はもういいわ」
瑠璃子の声が、初めて少しだけ低くなった。
だが、その瞬間、廊下の奥で小さな悲鳴が上がった。
女性の声。
サロンの方ではない。
西側客間の方向。
瑠璃子の表情が変わった。
ほんのわずかに。
玲央も扉の方を見る。
何かが起きた。
晩餐会の中で。
青の寵姫をめぐる罠が動いたのか。
それとも、別の盗みか。
瑠璃子は玲央を見た。
玲央は写真帳を抱えたまま、早瀬莉乃の声で言った。
「奥様。確認に向かわれますか」
「あなたは?」
「ご指示があれば、従います」
「そう」
瑠璃子は短く笑った。
「本当に、最後までメイドの顔を崩さないのね」
その言葉の意味を、玲央は聞き返さなかった。
瑠璃子は扉へ向かう。
玲央も半歩後ろに続いた。
十一時を過ぎた黒江邸で、晩餐会の仮面が静かに剥がれ始めていた。




