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第2話 晩餐会と女主人の視線

 黒江邸の夕暮れは、外の雨を屋敷の内部へ入れなかった。


 窓硝子には細い雨粒が絶えず流れていたが、食堂の空気は乾いていた。磨き上げられた銀器、厚みのある白いテーブルクロス、背の高い燭台、切りそろえられた花。そこには水気の気配さえ許さない、徹底した管理があった。


 早瀬莉乃――怪盗・鴉羽玲央は、食堂の入口近くに立ち、手元の席順表をもう一度だけ確認した。


 黒江瑠璃子。


 画商、遠峰修一。


 宝飾商、真木沙織。


 銀行家、榊原慎吾。


 音楽家、宮園透。


 財団理事、久世葉子。


 ほか、瑠璃子の財団に関係する実業家、評論家、古美術商が数名。


 表向きには、黒江瑠璃子の誕生日を祝う私的な晩餐会だった。だが、玲央にはそう見えなかった。


 これは会食ではない。


 品定めの場だ。


 招かれた者たちは、瑠璃子の機嫌を見に来ている。瑠璃子は、彼らの欲と焦りを見ている。そして、おそらく客の中には、今夜この屋敷にあるはずのサファイア「青の寵姫」を狙っている者がいる。


 玲央自身も、そのひとりだった。


 だからこそ、彼は今、清楚な新人メイドとしてそこに立っている。


 黒いメイド服は、晩餐会用に普段より整えられていた。白い襟は硬く、袖口は清潔で、エプロンには皺ひとつない。栗色の髪は肩のあたりで柔らかくまとまり、白いカチューシャの下に自然に収まっている。化粧は控えめに見えるよう計算され、目元の印象も強すぎない。


 制服の下の補正具は、長時間の給仕に耐えられるよう、昼のうちに一度締め直していた。胴まわりを整えるコルセットは呼吸を浅くする。胸元と腰まわりのパッドは服の線を変えるが、動きの自由を少し奪う。歩幅を間違えれば不自然になるし、盆を持つ時に肩へ力が入りすぎると、女装の仕草ではなく訓練された男の動作が出る。


 つまり、完璧な変装とは、鏡の前で完成するものではなかった。


 他人の視線の中で、何時間も崩れずに存在し続けて、初めて完成する。


 玲央はそれを知っていた。


「早瀬さん」


 家政婦長の相沢が、食堂の入口で声をかけた。


「はい」


 玲央はすぐに振り返った。


 返事は少し高く、柔らかく。だが、幼くはしない。若い女性の声でありながら、使用人として落ち着いて聞こえる高さ。声帯の使い方だけではない。息をどこで抜くか、語尾をどこで落とすか、口の開き方をどう抑えるか。すべてが変装の一部だった。


 相沢は銀縁眼鏡の奥から、玲央の顔を見た。


「席順は覚えましたか」


「はい。奥様を中央に、右手に遠峰様、左手に久世様。遠峰様の隣に真木様、久世様の隣に榊原様。宮園様は奥側のお席です」


「よろしい。飲み物の好みは」


「遠峰様は赤ワイン。真木様は白を少量。榊原様は食前酒を多めに求められることがあるため、注ぎすぎない。宮園様はアルコールを避け、水を。久世様は水を切らさないように」


 相沢は小さく頷いた。


「記憶力はありますね」


「ありがとうございます」


「褒めているだけではありません。覚えすぎる人は、余計なことまで覚えます」


 玲央は伏し目がちに答えた。


「必要なことだけ、覚えるようにいたします」


「そうしてください」


 相沢はそう言うと、玲央の手元へ視線を落とした。


 手袋をしている。


 それでも、相沢の目は手を見る。


 昼間にも言われた。水仕事に慣れていない手だ、と。


 玲央は、盆を持つ指に余計な力が入っていないか確認した。関節が固くなってはいけない。男の手を隠すには、単に手袋をすればいいわけではない。物の持ち方、指の伸ばし方、手首の角度まで含めて変える必要がある。


 相沢は言った。


「今夜は奥様の大切なお客様がいらっしゃいます。失敗しても取り返せるものと、取り返せないものがあります」


「はい」


「グラスを割ることは取り返せます。お客様の名前を間違えることも、まだ取り返せます。ですが、聞いたことを外へ漏らすこと、見てはいけないものを見たと悟られることは、取り返せません」


「心得ております」


「本当に?」


 相沢の声は静かだった。


 玲央は一拍置き、顔を上げた。


「はい。見たものを、見たように見せないことも、使用人の務めだと考えております」


 相沢の目が、ほんのわずかに細くなった。


 言葉の選び方を誤ったか。


 そう思ったが、相沢はそれ以上追及しなかった。


「よろしい。では、持ち場へ」


「はい」


 玲央は一礼し、食堂へ入った。


 食堂の中央には長いテーブルがある。白いクロスの上に置かれた銀器は、左右対称に並んでいた。天井のシャンデリアは明るすぎず、グラスの縁だけを鋭く光らせる。壁には三枚の油絵。果物の静物画、海辺の風景、そして女の肖像。絵としての価値より、配置に意味がある。入口側から見れば装飾だが、部屋の中に立てば、鏡のように人の動きが映る面がいくつもある。


 真正面の飾り棚には、今夜見せるための銀器や小さな工芸品が並んでいた。だが、青の寵姫はない。


 当然だ。


 あの石は、こんな開けた場所には置かない。


 玲央は席の背後に立ちながら、頭の中で屋敷の構造を再確認した。


 一階のサロン。


 食堂。


 西側客間。


 東翼の温室。


 二階東側の書斎。


 北棟と地下保管庫は、通常の使用人動線から外れている。


 青の寵姫が今夜、客へ披露されるなら、書斎に移されている可能性が高い。晩餐後、少人数を連れて二階へ移動し、金庫から出して見せる。あるいは、書斎からサロンへ運ぶ。いずれにしても、十一時前後に書斎周辺の動きが生じるはずだった。


 問題は、瑠璃子がどこまでそれを意図しているか。


 昼の温室で、彼女は玲央に言った。


 十一時になったら書斎に来てちょうだい。


 客間に運んでほしい古い写真帳があるの。


 偶然ではない。


 玲央はそう判断していた。


 瑠璃子は玲央を試している。


 あるいは、誰か別の客を試すために、玲央を配置している。


 どちらにせよ、今夜の晩餐会はただの祝宴ではない。


 やがて玄関ホールの方から、車の到着を知らせる気配がした。


 屋敷の空気が一段整う。


 最初の客が来た。


     *


 財団理事の久世葉子は、雨音を連れて玄関に現れた。


 白髪を短く整えた女性で、派手な装飾は身につけていない。年齢は六十代ほどだが、姿勢に緩みがない。濃い紫のドレスの上に、黒いショールを羽織っていた。


 玲央は玄関ホールの端で、他の使用人とともに控えた。


 相沢が一歩前に出る。


「久世様。雨の中、ようこそお越しくださいました」


「瑠璃子さんのお招きですもの。雨くらいで欠席はできません」


 久世の声は穏やかだった。


 だが、玄関ホールへ入った瞬間、彼女の目は一度だけ壁の絵、階段、窓、使用人の配置を確認した。


 普通の客ではない。


 場を読む人間だ。


 玲央は上着を受け取るため、静かに前へ出た。


「お預かりいたします」


「ありがとう」


 久世は玲央を見た。


「初めて見る方ね」


「本日より臨時で入っております。早瀬でございます」


「そう。黒江さんの家に初日から入るのは、大変でしょう」


「皆様に教えていただきながら、務めております」


「よい返事ね」


 久世は微笑んだ。


 その微笑みは、人を安心させるものではなく、人の反応を測るものだった。


 玲央は一礼し、上着を預かった。ポケットに不自然な重みはない。香水は控えめ。雨の匂いと、古い紙のような匂いがわずかに混ざっている。財団関係の書類か、古書か。すぐには判断できない。


 二人目に現れたのは、銀行家の榊原慎吾だった。


 大柄で、声が大きい。笑顔も大きい。黒いタキシードを着ているが、どこか服の方が彼に合わせられているように見える。手には高価な傘。靴には泥がついていない。車から玄関まで、使用人にかなり気を遣わせたのだろう。


「いやあ、黒江さんの誕生日に雨とは。風情がありますな」


 榊原は玄関に入るなり言った。


 相沢は表情を変えない。


「お足元の悪い中、ありがとうございます」


「足元は悪くありませんよ。黒江さんの家の石畳は、私の銀行のロビーより整っている」


 榊原は笑った。


 笑い声がホールに響く。


 玲央は上着を受け取りながら、榊原の手を見た。大きい。指輪はしていない。腕時計は高価だが、目立ちすぎない。金を持つことに慣れた者の選び方だった。


「お預かりいたします」


「ありがとう。君は新しい方かな」


「はい。本日より臨時で入っております」


「黒江さんのところは、相変わらず人選がよろしい」


 榊原の視線が、玲央の顔から首元、制服のラインへ一瞬だけ流れた。


 不快なほど露骨ではない。だが、見る癖のある男だ。


 玲央は視線を落とし、柔らかく答えた。


「恐れ入ります」


 それ以上言わない。


 褒め言葉に反応しすぎても、嫌悪を出しても、印象に残る。使用人として最適なのは、受け流すことだった。


 三人目は、宝飾商の真木沙織。


 銀灰色のドレスに、細い真珠のネックレス。宝飾商にしては控えめな装いだ。だが、それは宝石に興味がないからではない。宝石を扱う人間ほど、自分を飾る石を慎重に選ぶ。余計な石をつければ、自分の目の品位を疑われる。


 真木は手袋を外しながら、相沢に挨拶した。


「相沢さん、今夜も大変ですね」


「お越しいただきありがとうございます、真木様」


「瑠璃子さんは?」


「ただいま支度を整えておられます」


「そう。あの方は、支度を整えるというより、場を整える方だけれど」


 真木は軽く笑った。


 玲央は上着を受け取る。


「お預かりいたします」


 真木の手袋の内側に、薄い青の染みがあった。


 昼に見たわけではない。今、初めて見た。しかし、玲央の目はその色を逃さなかった。


 青。


 染料か。


 宝石用クロスの移りか。


 それとも、サファイアを扱った痕跡か。


 真木は玲央の視線に気づいたように、手袋を小さなバッグへ滑り込ませた。


「あなた、初めてね」


「はい。本日より臨時で入っております。早瀬でございます」


「そう。黒江さんの屋敷は、ただ綺麗に立っているだけでは務まらないわ」


「心得ます」


「いい声ね」


 また、声。


 玲央は心の中でわずかに警戒した。


 瑠璃子も声を指摘した。真木も声に触れた。宝飾商という職業柄、細かな違いに敏感なのかもしれない。


「恐れ入ります」


「緊張していないの?」


「少ししております」


「そうは見えないわ」


「見えないように努めております」


 真木は目を細めた。


「ますます面白い返事」


 玲央は一礼し、余計な言葉を避けた。


 四人目は、音楽家の宮園透だった。


 細身で、顔色が少し悪い。髪は丁寧に整えられているが、雨の湿気をひどく気にしている様子だった。黒い上着の袖口を何度も直し、玄関に入るとすぐ、ピアノの状態を尋ねた。


「ピアノは、サロンですか」


「はい。調律は済ませております」


 相沢が答える。


「湿気があるから、音が沈まなければいいのですが」


「暖房と除湿を調整しております」


「そうですか」


 宮園は安心したようでいて、まだ落ち着かない。上着を脱ぐ時も、視線が何度も廊下へ流れた。ピアノが気になるというより、屋敷そのものに緊張しているようだった。


 玲央は上着を受け取った。


「お預かりいたします」


「あ、はい。お願いします」


 宮園は玲央を見たが、すぐに目を逸らした。


 女性を直視できないタイプか。


 あるいは、使用人の顔を覚えたくないタイプか。


 どちらにせよ、彼の落ち着きのなさは記憶しておく価値がある。


 最後に来たのは、画商の遠峰修一だった。


 痩せた男で、年齢は五十代ほど。黒のスーツに、深緑のネクタイ。傘を閉じる動作も、手袋を外す動作も、無駄がなく丁寧だった。顔には薄い笑みが貼りついている。


 人の品物を値踏みする目。


 人そのものも値踏みする目。


 遠峰は相沢に挨拶した後、ホールをゆっくり見回した。


「相変わらず、いい絵を置いておられる」


「奥様のお好みです」


「ええ。黒江さんの好みは、いつも分かりやすくて、分かりにくい」


 遠峰はそう言い、玲央へ上着を預けた。


「お預かりいたします」


「ありがとう。新しい方かな」


「はい。本日より臨時で入っております。早瀬でございます」


「早瀬さん」


 遠峰はその名を繰り返した。


 玲央は少しだけ顔を伏せる。


「今夜はよく見ておくといい」


「はい?」


「黒江さんの晩餐会は、ただの食事ではありません。誰が何を話し、誰が何を隠すか。それを見ているだけで、勉強になる」


 玲央は曖昧に微笑んだ。


「私には、まだ難しいかと」


「難しいものほど、見る価値がありますよ」


 遠峰はそう言って、サロンへ向かった。


 玲央は上着を抱えたまま、目だけでその背を追った。


 あの男は危険だ。


 単純に怪しいという意味ではない。自分が怪しいと見られることに慣れている。そういう人間は、疑われること自体を隠れ蓑にする。


 全員が揃った頃、黒江瑠璃子が姿を現した。


 食堂へ向かう前、サロンで軽く挨拶が交わされる。


 瑠璃子は深い青のドレスをまとっていた。昼の落ち着いた装いとは違い、晩餐会の主人として場に立つための服装だった。だが、宝石は控えめだ。耳元に真珠。指に細いリング。胸元に小さなブローチ。


 青の寵姫は身につけていない。


 瑠璃子は客たちを見渡し、穏やかに微笑んだ。


「雨の中、お越しいただきありがとうございます。私の誕生日という名目ではありますけれど、どうぞ堅苦しくなさらずに。今夜は、よい話と、よい音楽と、よい食事を楽しむ夜にしましょう」


 榊原が大きく笑った。


「黒江さんがそうおっしゃると、かえって緊張しますな」


「緊張なさる理由がおありなら、そうかもしれませんね」


 瑠璃子は微笑んだまま返した。


 周囲に笑いが起こる。


 榊原も笑った。


 だが、返答は鋭い。


 たった一言で、瑠璃子は場の主導権を握った。


 玲央は壁際に控えながら、それを見ていた。


 この女は、やはり危険だ。


 怒鳴らない。威圧しない。だが、言葉を置く位置が正確すぎる。相手が笑って受け流すしかない場所へ、針のような言葉を置く。


 晩餐会は始まる前から、瑠璃子の支配下にあった。


     *


 食堂に客が入り、席についた。


 玲央は相沢の指示に従い、他の使用人とともに給仕を始めた。


 最初は食前酒。


 榊原が軽くグラスを掲げる。


「今日は黒江さんの誕生日ですから、まずは主役に乾杯ですな」


「ありがとうございます。でも、乾杯の前に、榊原さん」


「はい?」


「今日は飲みすぎないでくださいね。前回、二杯目から声が大きくなりました」


 榊原は一瞬固まり、それから豪快に笑った。


「いや、参りましたな。黒江さんは何でも覚えておられる」


「都合の悪いことほど、覚えています」


「それは怖い」


「ええ。怖がってくださって結構です」


 また笑いが起きる。


 玲央は榊原のグラスに注ぐ量を、相沢の指示通り少なめにした。


 榊原は気づいたようだったが、文句は言わない。瑠璃子に先に釘を刺された以上、言いにくいのだ。


 次に遠峰へ赤ワイン。


 遠峰はグラスの色を見た。


「よい香りです」


「遠峰さんは、香りを褒める時、値段を考えていますね」


 瑠璃子が言った。


「職業病です」


「絵でもワインでも?」


「価値のあるものは、何でも」


「価値のないものは?」


「価値がないと思われているものほど、後で値が上がることがあります」


 遠峰は笑う。


「それを見つけるのが、私の仕事です」


 瑠璃子は目を細めた。


「見つけるだけならいいのですけれど」


「手に入れるな、と?」


「手に入れ方によります」


 食卓の空気が、わずかに硬くなった。


 遠峰の笑みは崩れない。


「黒江さんの前では、襟を正さねばなりませんな」


「襟だけで足りますか」


 今度の笑いは、小さかった。


 玲央は、遠峰の指を見た。グラスを持つ指に力は入っていない。だが、左手が一度だけ膝の上で閉じた。瑠璃子の言葉は、刺さっている。


 次に真木へ白ワインを少量。


 真木はグラスを受け取り、色を見る。


「今夜のグラスは、いつもより薄いですね」


「分かるの?」


 瑠璃子が尋ねる。


「分かります。縁の反射が違う」


「さすがね」


「宝石もグラスも、縁で印象が変わりますから」


「人も?」


「もちろん。輪郭の見せ方で、価値は変わります」


 玲央は、盆を持つ手にわずかな意識を向けた。


 真木の言葉は、宝石商らしい。だが、彼にとっては別の意味を持つ。


 輪郭の見せ方。


 変装とは、まさにそれだ。


 胸元、腰、肩、首、顔の骨格。女装の完成度は、一点の派手さではなく、全体の輪郭の整合で決まる。真木のような人間は、その輪郭のわずかな不自然さに気づくかもしれない。


 玲央は、真木の背後へ立つ時だけ、肩の力をさらに抜いた。


 宮園には水。


 彼は礼を言ったが、グラスへほとんど口をつけない。


 瑠璃子が言った。


「宮園さん。ピアノの湿気は大丈夫そう?」


「先ほど触らせていただきましたが、問題ありません。ただ、低音が少し重いかもしれません」


「それは雨のせい?」


「雨と、部屋の空気ですね」


「人の空気も音に出るのかしら」


 宮園は困ったように笑った。


「出ます。聴く人が緊張していると、弾く側も変わります」


「では今夜は弾きにくいでしょう」


「いえ、その……」


 宮園は言葉に詰まった。


 瑠璃子は微笑む。


「冗談よ」


 だが、冗談ではない。


 少なくとも、宮園はそう受け取っていなかった。彼は水のグラスを持ち直し、また出入口へ視線をやった。


 久世には水。


 久世は玲央へ小さく頷いた。


「ありがとう」


「失礼いたします」


 久世は料理に手をつけながら、会話には必要な時だけ入った。だが、目は常に全体を見ている。瑠璃子の言葉に誰が反応したか。遠峰の笑みがどこで止まったか。真木の指がどこで動いたか。榊原が酒を欲しがる間隔。宮園の不安。


 彼女もまた、観察者だった。


 食事は進んだ。


 前菜、スープ、魚料理、肉料理。


 玲央は給仕しながら、客の癖を一つずつ拾った。


 榊原は笑う時、右手で腹の前を押さえる。だが、緊張した時は左手でグラスの脚を触る。


 遠峰は会話の途中で壁の絵を見る。絵を見るふりで、部屋の反射や人の位置を確認している。


 真木は宝石の話題では饒舌になりすぎない。むしろ黙る。知識を隠す側の商人だ。


 宮園は音に敏感すぎる。銀器が触れた音にも反応する。だが、反応する音としない音がある。廊下の足音には過敏だ。


 久世は水を飲む量が多いわけではない。ただ、水が切れていないかを確認する使用人の動きを見ている。


 瑠璃子は、その全員を見ていた。


 会話の中心にいながら、誰よりも静かに観察している。


「遠峰さん」


 肉料理が運ばれた頃、瑠璃子が言った。


「先月、あなたが扱った風景画、ずいぶん早く買い手がついたそうですね」


 遠峰はナイフを置いた。


「ええ。ありがたいことに」


「どちらへ?」


「個人のお客様です。詳細は申し上げられません」


「もちろん。顧客情報ですものね」


「ご理解いただけて助かります」


「ただ、あの絵は以前、別の名前で市場に出たことがあったはず」


 遠峰の笑みが、ほんの少し薄くなった。


「よくご存じで」


「記憶違いかしら」


「いえ。似た作品はあったかもしれません。ただ、来歴の確認は取れております」


「どこまで?」


「必要な範囲までは」


「必要な範囲。便利な言葉ね」


 食卓は静かになった。


 瑠璃子は責めていない。だが、遠峰は追い詰められている。ほかの客は、そのやり取りを楽しむような、避けたいような顔で見ていた。


 玲央は赤ワインのボトルを持ちながら、遠峰の皿の横へ立った。


 遠峰の指が、テーブルクロスを軽く押さえている。


 焦り。


 ただし、見せない程度に抑えている。


「黒江さん」


 遠峰は穏やかに言った。


「美術品には、語られすぎた来歴と、語られなかった来歴があります。後者をすべて疑っていては、何も買えません」


「疑うために買う人もいるわ」


「黒江さんのように?」


「ええ。私は疑うために買うことがあります」


 瑠璃子は微笑んだ。


「疑う価値のあるものは、退屈しませんから」


 その言葉に、真木が反応した。


「それは宝石も同じですね」


「真木さんも、疑うために買う?」


「私は売る側です。疑いを取り除いて売るのが仕事です」


「本当に取り除ける?」


「取り除けるものと、取り除いたことにするものがあります」


 榊原が笑った。


「怖い話ですな。銀行では、疑いは数字で処理します」


 久世が静かに言った。


「数字に出ない疑いもあります」


「久世先生、財団運営には信頼が必要でしょう」


「だからこそ、数字だけでは足りません」


 会話が、少しずつ「価値」と「疑い」へ集まっていく。


 青の寵姫の話題へ近づいている。


 玲央はそれを感じた。


 榊原が待ちきれないように言った。


「そういえば黒江さん。今夜は、例のサファイアを拝見できるという噂を聞いておりますが」


 瑠璃子は、ゆっくりとグラスを置いた。


「噂は、どこから?」


「いや、これは失礼。真木さんから少し」


 真木は眉を上げた。


「私は、今夜見られるかもしれないとは言いましたが、確約はしておりません」


「同じようなものです」


「全く違います」


 真木の声は静かだったが、鋭かった。


 瑠璃子は二人を見て、楽しそうに言った。


「青の寵姫のことね」


 その名が出た瞬間、食卓の空気が明確に変わった。


 遠峰は興味深そうに微笑む。


 真木は口を閉じる。


 榊原は前のめりになる。


 宮園は視線を落とす。


 久世は、ただ瑠璃子を見る。


 玲央はその反応を刻み込んだ。


「青の寵姫」


 榊原が言った。


「名前だけでも美しい。実物は、さぞ見事なのでしょうな」


「石は美しいわ。名前は、人間が勝手につけたものだけれど」


 瑠璃子は答えた。


 遠峰が口を開く。


「あの石は、王家の首飾りに使われていたという説がありますね」


「説はいくつもあります」


「革命の時に失われたとも」


「ええ」


「その後、幾人もの収集家の手を渡った」


「そう言われています」


「そして、十年前に黒江さんのもとへ」


 遠峰はそこで微笑んだ。


「まるで、石の方が持ち主を選んだようです」


 瑠璃子は、遠峰を見た。


「遠峰さんは、品物が持ち主を選ぶとお考え?」


「そう思う時があります」


「では、盗まれた品は?」


「持ち主を変えたがっていたのかもしれません」


 玲央は心の中で笑った。


 画商としては危険な発言だ。


 同時に、怪盗としては少し分かる言葉でもあった。


 瑠璃子は微笑む。


「面白い考え方ね。けれど私は、盗まれた品がそう言ったのを聞いたことはありません」


「黒江さんは、品物の声を聞かない?」


「聞くわ。ただ、盗人の言い訳と品物の声を混同しないようにしているだけ」


 食卓の笑いは、今度は起きなかった。


 遠峰はそれでも笑みを保った。


「手厳しい」


「泥棒に優しくする趣味はないの」


 瑠璃子のその言葉で、玲央は一瞬だけ自分に向けられた刃を感じた。


 もちろん、彼女は遠峰に向けて言った。


 だが、本当にそれだけか。


 瑠璃子は自分を疑っている。


 その疑いがどこまで深いのか、まだ見えない。


 榊原が空気を変えるように笑った。


「まあまあ、今夜は誕生日の席です。泥棒の話より、宝石の美しさの話をしましょう。黒江さん、ぜひ後ほど見せていただけませんかな」


 真木も言った。


「湿度と照明が許せば、私も久しぶりに拝見したいです」


 宮園が小さく言う。


「宝石を見るのに、湿度も関係するのですか」


 真木は答えた。


「石そのものより、台座や保管環境ですね。古い装飾品は、金属や布の状態もありますから」


「なるほど」


 宮園は頷いたが、興味があるというより、会話に入らざるを得なかった顔だった。


 久世が瑠璃子へ尋ねた。


「瑠璃子さん。今夜、見せるおつもりで?」


「迷っているわ」


「あなたが迷う時は、たいてい別の理由がありますね」


「久世先生には敵わないわ」


「長い付き合いですから」


 瑠璃子は少しだけ考えるように間を置いた。


 それから言った。


「では、食後に少しだけ。皆様にお見せしましょう」


 榊原の顔が明るくなる。


 遠峰の笑みが深まる。


 真木は目を伏せる。


 宮園は、手元のナプキンを握った。


 久世は変わらない。


 玲央は、肉料理の皿を下げるタイミングを待ちながら、内心で結論を出した。


 青の寵姫は、今夜この屋敷にある。


 そして、瑠璃子はそれを客に見せるつもりだ。


 少なくとも、今この時点では。


     *


 食事の後半、玲央は使用人としての動きにさらに集中した。


 大きな失敗はない。


 客の名前も、飲み物も、料理を下げるタイミングも間違えない。会話の邪魔をしない。視線を置きすぎない。だが、必要な時にはすぐ動く。


 変装は崩れていない。


 美香がすれ違いざま、小声で言った。


「早瀬さん、すごいね。初日とは思えない」


「皆様に教えていただいたおかげです」


「その声で言われると、こっちが照れる」


「え?」


「いや、何でもない。あとで厨房で水飲みなね。ずっと立ってるときついよ」


「ありがとうございます」


 美香も完全に信じている。


 莉乃というメイドが、若い女性としてそこにいることを疑っていない。


 ほかの使用人も同じだった。


 だが、相沢だけは違う。


 相沢は給仕の合間に、何度か玲央の手元を見た。手袋越しの指。盆を持つ角度。重い皿を支える時の腕の使い方。相沢は、玲央の外見ではなく、仕事の身体を見ている。


 そこが危ない。


 女装は視覚を騙せる。


 声も騙せる。


 だが、長年使用人を見てきた相沢にとって、性別よりも職歴の方が重要なのかもしれない。水仕事に慣れているか。重いものをどう持つか。客の後ろをどう通るか。そうした癖は、数日では作れない。


 玲央は、あえて一度だけ小さな失敗をした。


 皿を置く時、ほんのわずかに位置をずらす。


 すぐに気づき、静かに直す。


 相沢が見ていた。


 完璧すぎる新人より、少し緊張している新人の方が自然だ。瑠璃子にも言われた。完璧すぎるものは目立つ。だから、目立たない程度の揺らぎを入れる。


 しかし、それすら観察されている可能性がある。


 玲央は内心で笑った。


 面白い。


 この屋敷は、盗みにくい。


 盗みにくい場所ほど、怪盗の価値が試される。


 デザートが出る頃、会話は少し柔らかくなった。


 榊原は誕生日祝いとして、瑠璃子の財団への寄付をほのめかした。


「次の教育支援事業、私どもとしても協力できるかもしれません」


「ありがとうございます。ですが、榊原さん」


「はい」


「寄付は、名前を大きく出すためのものではありません」


 榊原は笑った。


「いや、これは手厳しい」


「お名前は出します。ただし、事業より大きくは出しません」


「それで十分です」


「本当に?」


「……黒江さんには隠せませんな」


 榊原はグラスを置いた。


 瑠璃子は、笑顔のまま相手の見栄を削る。


 久世はその様子を静かに見ていた。


 遠峰は、瑠璃子の言葉より、榊原の反応を見ている。真木は、デザートの皿にはほとんど手をつけない。宮園は食後の演奏を気にしている。


 玲央は、ふと違和感を覚えた。


 青の寵姫に強く反応したのは、遠峰、真木、榊原。


 だが、宮園の反応だけが異質だった。


 彼は興味を示したのではない。


 恐れた。


 宝石を見たい者の反応ではない。むしろ、見せられると困る者の反応に近い。


 音楽家が、なぜ青の寵姫を恐れるのか。


 関係があるとすれば、宝石そのものではなく、今夜それを見せる場面で何かが起こることを知っている場合だ。


 玲央は宮園の手元を見た。


 指は細く、爪は短い。音楽家の手として自然だ。だが、右手の親指の付け根に小さな擦れがある。楽器とは別の何かを握った跡にも見える。


 警戒対象に追加。


 そう判断した時、瑠璃子の声が聞こえた。


「早瀬さん」


 突然名を呼ばれた。


 食卓の客たちの視線が、一斉に玲央へ向く。


 玲央はすぐに一歩前へ出た。


「はい、奥様」


「真木さんのお水を替えて」


「かしこまりました」


 特別なことではない。


 だが、瑠璃子はなぜ今、名前を呼んだのか。


 使用人に指示するなら、ただ目配せでもいい。相沢に言えばいい。それをあえて「早瀬さん」と呼んだ。


 客へ、新人メイドの存在を認識させるためか。


 あるいは、玲央の反応を見るためか。


 玲央は、自然に真木の背後へ回り、水を替えた。


 真木が軽く言う。


「ありがとう、早瀬さん」


「失礼いたします」


「あなた、手元が綺麗ね」


 また、手。


 玲央は少しだけ微笑んだ。


「恐れ入ります」


「家事仕事より、何か別の訓練を受けていたように見えるわ」


 食卓の空気が、ほんの少し止まる。


 瑠璃子は何も言わない。


 相沢も動かない。


 玲央は答えた。


「以前のお宅で、食器や器を扱う時は、手元を丁寧にと教えていただきました」


「そう。よいお宅だったのね」


「はい。学ぶことが多くございました」


 真木はそれ以上言わなかった。


 玲央は下がる。


 完璧に受け流したはずだった。


 しかし、瑠璃子は見ていた。


 玲央の返答ではなく、真木の質問に対するほかの客の反応を。


 遠峰は面白がっていた。


 榊原は何も考えていなさそうに笑っていた。


 宮園は、なぜか目を伏せた。


 久世は、瑠璃子を見ていた。


 つまり今のやり取りは、玲央への揺さぶりであると同時に、客への揺さぶりでもあった。


 瑠璃子は、この場で複数の人間を同時に測っている。


 玲央は改めて理解した。


 黒江瑠璃子は、ただの富豪ではない。


 場そのものを道具として使う人間だ。


     *


 食事が終わり、客たちはサロンへ移った。


 サロンは食堂より柔らかい光に満ちていた。暖炉には火が入っていないが、赤いランプが炎のように揺れている。壁際にはピアノ。窓の外には雨。中央には低いテーブルとソファ。食後酒、紅茶、コーヒーが用意された。


 玲央はサロンの入口付近に控えた。


 使用人としては、必要な時にすぐ動ける場所。怪盗としては、部屋全体と出入口を見渡せる場所だった。


 宮園がピアノの前に座った。


「一曲だけ、短いものを」


 瑠璃子が言った。


「無理をなさらないで。湿気が気になるのでしょう」


「いえ。むしろ、雨の日の方が合う曲もあります」


 宮園は鍵盤に触れた。


 音が落ちる。


 静かな曲だった。雨の夜に合わせたような、低く沈む旋律。客たちは会話をやめ、音に耳を傾けた。


 玲央も聞いていた。


 ただし、音楽そのものではなく、音楽の中で動く人間を見ていた。


 遠峰は目を閉じているようで、時々薄く開ける。


 真木は手元のグラスを持ったまま動かない。


 榊原は曲に退屈しているが、退屈を隠そうとしている。


 久世は音楽を聞いている。


 瑠璃子は、宮園ではなく客たちを見ている。


 曲の途中、廊下の奥でかすかな物音がした。


 普通なら、ピアノの音に紛れて気づかないほどの音。


 だが、宮園の指が一瞬乱れた。


 玲央はそれを見た。


 宮園は音に敏感だ。だが、ただ敏感なだけなら、演奏に出さない訓練を受けているはずだ。今の乱れは、予想していた音が聞こえた時の反応に近い。


 廊下の音。


 二階へ続く方向ではない。


 西側客間の方か。


 玲央は動かない。


 使用人として、音に反応しすぎるのは不自然だ。


 だが、視界の端で相沢を見る。


 相沢も気づいていた。


 彼女は美香に小さく目配せする。美香が静かに廊下へ出た。


 瑠璃子は、そこまで含めて見ている。


 曲が終わると、拍手が起きた。


 宮園は軽く頭を下げた。


「素晴らしい」


 榊原が言う。


「雨の音まで曲に入っているようでしたな」


「ありがとうございます」


 宮園は微笑んだが、顔色は少し悪い。


 瑠璃子が言った。


「宮園さん。途中で少し音が揺れましたね」


 場が静かになる。


 宮園は固まった。


「……お気づきでしたか」


「ええ。雨のせい?」


「指が、少し滑りました」


「そう」


 瑠璃子はそれ以上追及しない。


 だからこそ、宮園の緊張は消えなかった。


 玲央は内心で確信を深めた。


 宮園は何かを知っている。


 青の寵姫を狙っているかどうかは分からない。だが、今夜の屋敷で起こる何かに関わっている可能性がある。


 美香が廊下から戻ってきた。


 相沢に小声で報告する。


 相沢の表情は変わらない。


 だが、玲央には分かった。


 何かあった。


 問題は、それが瑠璃子の仕掛けか、客の仕掛けか。


 サロンでは食後酒が配られた。


 榊原は当然のようにグラスを求めたが、玲央は注ぎすぎない。


「君、慎重だね」


 榊原が言った。


「奥様より、そのように申しつかっております」


「黒江さんは私を信用していないらしい」


 瑠璃子が遠くから言った。


「信用しているから、止めているのです」


「それはありがたい」


 榊原は笑い、少なめの酒を飲んだ。


 遠峰は赤ワインを持ち、壁の絵の前に立っていた。


 食堂でも絵を見ていたが、サロンでも同じだ。


「遠峰さん」


 瑠璃子が声をかける。


「その絵が気になりますか」


「ええ。以前はここに別の絵がありませんでしたか」


「よく覚えていますね」


「絵の場所は忘れません」


「人の顔より?」


「時々」


 瑠璃子は笑った。


「失礼な人」


「絵は嘘をつきませんから」


「本当に?」


「少なくとも、人間よりは」


「絵を売る人がそれを言うと、少し疑わしいわ」


 遠峰はグラスを揺らした。


「黒江さんは、今夜ずいぶん私に厳しい」


「心当たりが?」


「ありすぎて困ります」


 周囲が笑う。


 遠峰は自分が疑われていることを笑いに変えている。


 うまい。


 だが、瑠璃子は流されない。


「では、ひとつだけ聞きます」


「何でしょう」


「あなたは、青の寵姫をどこで初めて見たの?」


 遠峰の手が止まった。


 ほんの一瞬。


 だが、止まった。


「写真で、です」


「どの写真?」


「海外の古い図録です」


「図録名は?」


 遠峰は微笑む。


「そこまで覚えていません」


「絵の位置は忘れないのに?」


 沈黙。


 玲央は、サロンの入口でそのやり取りを聞いていた。


 瑠璃子は、遠峰を明確に疑っている。


 青の寵姫の来歴に、遠峰は何か関わっているのかもしれない。


 真木が助け舟を出すように言った。


「瑠璃子さん。古い宝石の図録は、多すぎます。私でも全部は覚えられません」


「真木さんがそう言うなら、そうなのでしょうね」


 瑠璃子はあっさり引いた。


 遠峰は救われた。


 だが、真木はなぜ助けたのか。


 単に専門家として口を挟んだのか。


 それとも、遠峰に黙っていてもらう必要があるのか。


 玲央は、真木と遠峰の位置関係を記憶した。


 その時、相沢が近づいてきた。


「早瀬さん」


「はい」


「厨房へ一度戻って、水差しを替えてきてください」


「かしこまりました」


 玲央はサロンを出た。


 廊下へ出た瞬間、空気が変わった。


 サロンの音楽と会話が遠ざかり、屋敷の静けさが戻る。玲央は水差しを持ちながら、廊下の奥へ視線を走らせた。


 西側客間の扉が、わずかに開いている。


 先ほど物音がした方向だ。


 本来、客の上着を預かっている部屋。晩餐中は使用人が管理するが、今は人の出入りが少ない。


 美香は何を見たのか。


 玲央は厨房へ向かう動線を外れずに歩いた。ただし、客間の扉の前を通る時、反射を使って中を見た。


 鏡台。


 椅子。


 預かった上着。


 その中で、遠峰の黒い上着だけが、ほんの少し位置を変えていた。


 誰かが触った。


 遠峰本人か。


 使用人か。


 別の客か。


 玲央は立ち止まらない。


 厨房へ入ると、美香がいた。


「あ、早瀬さん。水差し?」


「はい。替えるようにと」


「こっちに新しいのあるよ」


 美香は水差しを渡しながら、声を落とした。


「さっき、西の客間で音がしたんだけど、誰もいなかった」


「そうなのですか」


「うん。でも、上着の位置が少し変わってた気がする。私の気のせいかもだけど」


「家政婦長には?」


「言った。相沢さん、顔色変えなかったけど、たぶん気づいてたと思う」


 玲央は頷いた。


「お客様が何かを取りに戻られたのでしょうか」


「それなら声かけるはずなんだけどね」


「そうですね」


 美香は玲央を見た。


「早瀬さん、落ち着いてるね」


「慌てても、私には判断できませんので」


「それ、相沢さんっぽい」


「そうでしょうか」


「うん。早瀬さん、初日なのに黒江邸に馴染みすぎ」


 玲央は柔らかく笑った。


「必死なだけです」


 美香は納得したように笑った。


 だが、玲央は内心で考えていた。


 遠峰の上着が触られた。


 それが何を意味するか。


 遠峰自身が何かを隠しているなら、サロンを離れる必要がある。しかし彼はサロンにいた。なら、別の誰かが触った可能性が高い。


 遠峰を探っている人物がいる。


 または、遠峰に罪を着せようとしている人物がいる。


 青の寵姫を狙う者は、一人ではないかもしれない。


     *


 サロンへ戻ると、空気が少し変わっていた。


 瑠璃子は久世と話していた。遠峰は窓際。真木は椅子に座り、榊原は暖炉の近くでグラスを持っている。宮園はピアノから離れ、部屋の隅に立っていた。


 玲央は水差しを替えながら、各人の位置を確認した。


 遠峰は上着の異変に気づいていないように見える。


 真木は、気づいているかもしれない。


 宮園は落ち着かない。


 榊原は酒が少なくて不満そうだが、瑠璃子の目を気にしている。


 久世は、サロン全体を見る位置にいる。


 瑠璃子が玲央へ視線を向けた。


 ほんの一瞬。


 何かを確認する視線だった。


 玲央は、目立たないように一礼した。


 瑠璃子は久世との会話に戻る。


「来月の慈善オークションですが」


 久世が言った。


「目玉が強すぎると、寄付の趣旨より話題性が先に立ちます」


「青の寵姫を出すつもりはありません」


 瑠璃子は言った。


 その言葉に、遠峰が振り返った。


「出さない?」


「ええ」


「では、展示だけでも?」


「それも未定です」


 榊原が驚いたように言う。


「黒江さん、あの石を財団のために使えば、相当な注目を集められますよ」


「注目は集めればよいものではありません」


「しかし、資金調達には」


「青の寵姫は、資金調達の道具ではありません」


 瑠璃子の声は静かだった。


 だが、そこには明確な線が引かれていた。


 真木が言った。


「瑠璃子さんは、あの石を売る気も、貸す気もないのです」


「もったいないですな」


 榊原が言う。


「もったいない?」


 瑠璃子が聞き返す。


「ええ。価値あるものは、動かしてこそ価値を生む」


「それは銀行家の考え方ね」


「資産とはそういうものです」


「では、人の記憶は?」


「記憶?」


「動かせない価値もあります」


 榊原は困ったように笑った。


「黒江さんには敵いませんな」


 遠峰が静かに言った。


「しかし、動かない宝石は、やがて伝説になります」


「伝説は、お好き?」


 瑠璃子が問う。


「商売になりますから」


「正直ね」


「黒江さんの前では、下手に飾らない方が安全です」


「その判断は正しいわ」


 瑠璃子は微笑んだ。


 玲央は、そのやり取りの裏で、宮園を見ていた。


 宮園は青の寵姫の話になるたび、わずかに体を硬くする。だが、欲しがっている様子ではない。むしろ、その話題から逃げたいように見える。


 なぜか。


 その答えは、まだ出ない。


 真木が静かに口を開いた。


「瑠璃子さん。今夜、本当に見せるおつもりですか」


 その言葉に、瑠璃子は真木を見た。


「不安?」


「少し」


「理由は?」


「今夜は、人が多い」


「誕生日会ですもの」


「それだけではありません」


 真木は声を落とした。


「青の寵姫の所在を知りたがっている人間がいます」


 遠峰が笑った。


「それは、ここにいる全員では?」


「知りたがることと、探ることは違います」


 真木の視線は、遠峰へ向いた。


 遠峰は余裕を崩さない。


「私を疑っておられる?」


「疑われるだけの評判はありますから」


「宝飾商に言われるとは」


「宝飾商だから言うのです」


 榊原が面白がるように言った。


「いや、今夜は黒江さんの誕生日というより、尋問会ですな」


 瑠璃子は微笑む。


「そう感じる方には、心当たりがあるのかもしれません」


 榊原は笑ったが、やや引きつっていた。


 久世はそこで初めて強めに言った。


「瑠璃子さん。場が荒れています」


「そうですね」


 瑠璃子は素直に頷いた。


「では、話題を変えましょう。宮園さん、もう一曲お願いできますか」


 宮園は驚いたように顔を上げた。


「今、ですか」


「ええ。雨が弱くなってきたから、先ほどとは違う曲を」


「分かりました」


 宮園はピアノへ戻った。


 客たちの意識が一度音楽へ向く。


 瑠璃子はその間に、相沢へ小さく目配せした。


 相沢は玲央の方へ来た。


「早瀬さん」


「はい」


「奥様からです。十一時になったら予定通り書斎へ。写真帳は右から二番目の本棚、下段。分かりますね」


「はい」


「今、十時四十五分です。それまではサロンで控えてください」


「かしこまりました」


 相沢はさらに声を低くした。


「途中で誰かに声をかけられても、書斎へ行く件は話さないように」


「はい」


「それと」


 相沢は玲央の手を見た。


「重いものを持つ時、手首だけで支えないこと。怪我をします」


 玲央は一瞬、言葉を失いかけた。


 注意としては自然だ。


 しかし、相沢の視線は単なる親切ではない。


 手首だけで支える。


 それは、玲央が先ほど重い皿を扱った時に出した癖だった。怪盗として道具を扱う時、指先と手首で重さを制御する。家事労働に慣れた使用人なら、もっと腕全体と体で持つ。


 相沢はそこを見ていた。


「ありがとうございます。気をつけます」


「ええ」


 相沢は離れていった。


 玲央は、呼吸を整えた。


 相沢は職歴を疑っている。


 瑠璃子は存在そのものを疑っている。


 真木は手元と声に違和感を持っている。


 遠峰は面白がっている。


 宮園は何かを隠している。


 榊原は欲を隠せない。


 久世は全体を見ている。


 いい晩餐会だ。


 厄介なほどに。


 宮園の二曲目が始まった。


 今度は少し明るい曲だった。だが、明るさは表面だけで、低音には雨の湿りが残っている。玲央は音楽を背に、サロンの出入口を見た。


 十時五十分。


 あと十分。


 書斎へ向かう名目はある。


 だが、向かった先に何があるかは分からない。


 金庫。


 青の寵姫。


 瑠璃子の罠。


 あるいは、別の誰かの仕掛け。


 玲央は、早瀬莉乃として静かに控えた。


 怪盗としては、すでに次の手順を組み立てていた。


     *


 十時五十五分。


 曲が終わった。


 拍手。


 宮園は頭を下げる。顔色はさらに悪くなっていた。演奏で疲れたというより、時間が近づいていることに怯えている。


 瑠璃子は拍手をしながら言った。


「ありがとう。雨の夜に合う曲でした」


「恐縮です」


「宮園さん」


「はい」


「このあと、少し休んでください。顔色が悪いわ」


「大丈夫です」


「大丈夫に見えない時、人はたいていそう言います」


 宮園は黙った。


 真木が心配そうに見る。


 遠峰は興味深そうに見る。


 玲央は、その三者の視線を同時に捉えた。


 真木は本当に心配しているように見える。


 遠峰は、宮園の弱みを見つけたような目をしている。


 瑠璃子は、宮園が何を恐れているか知っているのかもしれない。


 十時五十八分。


 相沢が玲央へ小さく頷いた。


 合図。


 玲央は水差しを整え、盆を置き、静かに一礼してサロンを離れた。


 誰も不自然に思わない。


 使用人が部屋を出ることは、晩餐会では珍しくない。


 ただし、一人だけ玲央を見ていた。


 黒江瑠璃子。


 彼女は客と会話しながら、玲央が出ていくのを見ていた。


 その目には、止める気配はない。


 むしろ、予定通りに駒が動いたことを確認する目だった。


 廊下に出る。


 サロンの音が扉の向こうへ沈む。


 屋敷の廊下は、先ほどより暗く感じられた。


 玲央は歩き出した。


 まずは大階段へ。


 足音を抑えすぎない。瑠璃子に言われた。静かすぎる足音も目立つ。だから、新人メイドとして自然な足音を作る。軽く、しかし完全には消さない。


 玄関ホールに出る。


 シャンデリアの光が床に落ちている。外の雨は弱くなったが、窓にはまだ水滴が残っている。


 大階段を上る。


 一段。


 二段。


 コルセットが呼吸を浅くする。だが、乱さない。補正具の重みも意識しない。ここで姿勢を崩せば、階下から見られた時に不自然だ。


 二階へ上がる。


 右へ。


 東側の廊下。


 壁には絵が並んでいる。昼に見た時より暗い。廊下の奥に、書斎の扉がある。


 十一時ちょうど。


 玲央は扉の前に立った。


 ノックする。


「早瀬莉乃でございます。写真帳を取りに参りました」


 返事はない。


 予定通りか。


 それとも、返事をしない者が中にいるのか。


 玲央は扉の取っ手に手をかけた。


 冷たい。


 手袋越しでも、金属の温度が伝わった。


 扉を開ける。


 書斎は暗かった。


 机の上のランプだけが灯っている。


 壁一面の本棚。


 革張りの椅子。


 古い地球儀。


 そして、正面の壁にかかった港町の絵。


 玲央は、部屋に入った。


 扉を閉める。


 鍵はかけない。


 まず、本棚へ。


 右から二番目。


 下段。


 古い写真帳がある。


 玲央はそれを手に取り、重さを確かめた。


 言い訳としては十分。


 次に、耳を澄ませる。


 廊下に足音はない。


 階下からサロンの音楽も聞こえない。


 屋敷の深い静けさだけがある。


 玲央は写真帳を机へ置いた。


 その動作の中で、壁の絵を見る。


 港町の風景。


 額縁の下辺に、微かな擦れ。


 頻繁に動かされている証拠。


 絵の裏に何かある。


 金庫。


 青の寵姫。


 あるいは、瑠璃子の罠。


 玲央は近づいた。


 指先が額縁に触れる寸前、廊下の向こうで微かな音がした。


 足音ではない。


 布が擦れる音。


 誰かが近づいている。


 玲央は即座に写真帳へ手を戻した。あくまで仕事中のメイドとして、写真帳を持ち上げようとしている姿勢を作る。


 扉の外で、気配が止まった。


 ノックはない。


 玲央は顔を上げた。


 扉が、静かに開いた。


 入ってきたのは――。


 黒江瑠璃子だった。


 深い青のドレスのまま、彼女は書斎の入口に立っていた。


 サロンに客を残して。


 まるで、最初からここで玲央を待っていたかのように。


「早瀬さん」


 瑠璃子は微笑んだ。


「写真帳は見つかった?」


 玲央は、早瀬莉乃として一礼した。


「はい、奥様。こちらをお持ちするところでございました」


「そう」


 瑠璃子は部屋へ入り、扉を静かに閉めた。


 その音が、やけに大きく聞こえた。


 玲央は写真帳を抱えたまま、顔を伏せる。


 瑠璃子の視線が、彼の手元から、顔、肩、胸元、腰、足元へと滑る。


 人を見る目ではない。


 偽装の継ぎ目を見る目だった。


「早瀬さん」


「はい」


「あなた、晩餐会の間、よく見ていたわね」


 玲央は答えた。


「奥様より、お客様のご様子を見るようにと伺いましたので」


「ええ。言ったわ」


「差し出がましかったでしょうか」


「いいえ。むしろ、期待以上」


 瑠璃子は机の前に立った。


「誰が一番怪しいと思った?」


 玲央は、返答を選ぶ。


 ここで「分かりません」は嘘になりすぎる。


 だが、核心を言えば、自分の観察力を晒す。


「私には判断いたしかねます。ただ……」


「ただ?」


「宮園様は、音よりも廊下の気配を気にされているように見えました」


 瑠璃子の目が細くなった。


「遠峰さんではなく?」


「遠峰様は、怪しく見えることに慣れていらっしゃるようでした」


「真木さんは?」


「見えているものを、あえて口にされない方かと」


「榊原さんは?」


「欲しいものを隠すのが、あまりお上手ではないように思いました」


「久世先生は?」


「場全体を見ておられました」


 言ってから、玲央は自分が話しすぎたことを理解した。


 だが、もう遅い。


 瑠璃子は、満足そうに笑った。


「本当に、よく見ている」


「申し訳ございません」


「なぜ謝るの?」


「使用人として、余計な見方だったかもしれませんので」


「余計ね」


 瑠璃子はゆっくりと近づいてきた。


「早瀬さん。あなたの観察は、使用人の観察ではないわ」


 書斎の空気が、また張り詰めた。


 玲央は写真帳を抱え直した。


「奥様、それは――」


「給仕に必要なのは、客の好みを見ること。水が減ったか、料理を残したか、寒がっているか、会話を邪魔されたくないか。けれどあなたは、逃げ道、嘘、手元、目線、音への反応を見ていた」


 瑠璃子は微笑んだまま言った。


「まるで、誰かが何かを盗むのを待っているみたいに」


 玲央は伏し目がちに答えた。


「黒江邸では、そこまで見るものだと考えておりました」


「誰に教わったの?」


「奥様に」


「私?」


「温室で、誰が何を欲しがり、何を隠しているかを見るようにと」


 瑠璃子は一瞬黙った。


 そして、笑った。


「うまい返しね」


「そのようなつもりでは」


「それも、うまい」


 瑠璃子は机の端に手を置いた。


「では、もうひとつ聞くわ。あなたは何を欲しがっているの?」


 玲央は答えない。


 答えれば負ける。


 沈黙も答えになる。


 だから、彼は早瀬莉乃として困惑を作った。


「私は、ただ仕事を――」


「模範解答はもういいわ」


 瑠璃子の声が、初めて少しだけ低くなった。


 だが、その瞬間、廊下の奥で小さな悲鳴が上がった。


 女性の声。


 サロンの方ではない。


 西側客間の方向。


 瑠璃子の表情が変わった。


 ほんのわずかに。


 玲央も扉の方を見る。


 何かが起きた。


 晩餐会の中で。


 青の寵姫をめぐる罠が動いたのか。


 それとも、別の盗みか。


 瑠璃子は玲央を見た。


 玲央は写真帳を抱えたまま、早瀬莉乃の声で言った。


「奥様。確認に向かわれますか」


「あなたは?」


「ご指示があれば、従います」


「そう」


 瑠璃子は短く笑った。


「本当に、最後までメイドの顔を崩さないのね」


 その言葉の意味を、玲央は聞き返さなかった。


 瑠璃子は扉へ向かう。


 玲央も半歩後ろに続いた。


 十一時を過ぎた黒江邸で、晩餐会の仮面が静かに剥がれ始めていた。

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