第1話 雨夜のメイド、黒江邸へ入る
その屋敷では、雨音まで値踏みされているようだった。
夜の坂道を上りきった先に、黒江邸はあった。鉄柵は黒く、門柱は白く、灯りは必要な分だけに抑えられている。過剰な装飾はない。だが、控えめな照明に浮かび上がる石造りの外壁、濡れた庭木の配置、玄関ポーチへ続く石畳の長さから、この家がただの富豪の邸ではないことはすぐに分かった。
財力を見せびらかす家ではない。
財力を隠す必要もない家だった。
雨は細く、しつこく降っていた。傘の布を叩く音は柔らかい。だが、屋敷の高い窓硝子に当たる雨粒は、どこか硬い音を立てている。遠くで雷が鳴ったわけでもないのに、空は低く、夜全体がこの屋敷を押し包んでいるようだった。
門の前で、若いメイドが立ち止まった。
白い手袋をはめた指が、傘の柄を軽く握っている。黒いワンピース型のメイド服。胸元には白い襟。腰には清潔なエプロン。足元は磨かれた黒い靴。肩に触れるほどの栗色の髪は、雨に濡れないよう丁寧にまとめられていた。
彼女――早瀬莉乃は、門柱の呼び鈴へ手を伸ばした。
もちろん、早瀬莉乃という人物は存在しない。
その名も、経歴も、紹介状も、履歴書も、すべて偽物だった。
門の内側から、低い電子音が鳴った。
『どちら様でしょうか』
門番の声ではない。屋敷の内側に設置された通話機の声だった。
莉乃は、ほんのわずかに顎を引いた。声の高さ、息の量、語尾の落とし方。すべてを整える。
「本日より臨時でお世話になります、早瀬莉乃です。家政婦紹介所の白川様より、黒江様のお邸へ伺うよう申しつかっております」
声は柔らかく、澄んでいた。高すぎず、甘すぎず、耳に残りすぎない。若い女性の声として自然で、使用人としては少し控えめだった。
数秒の沈黙。
『少々お待ちください』
通話は切れた。
莉乃は雨の中で待った。
門の監視カメラが、こちらを見ている。門柱の右上、植え込みの奥、玄関ポーチの端。三つ。いや、角度を考えれば四つ目がある。雨どいの影に隠した小型のものだ。
いい警備だ、と彼女は思った。
外から見える防犯設備は、むしろ囮である。防犯を誇示する邸は、たいてい一番大切な穴を別の場所に残している。だが、黒江邸は違った。見せる警備と、見せない警備の配分がよく考えられている。これを設計した者は、犯罪者の視線を知っている。
あるいは、家の主人自身がそうなのか。
門が静かに開いた。
莉乃は一礼し、石畳を歩き出した。
雨に濡れた庭は、夜の光を吸い込んでいる。左右には剪定された糸杉。奥には池らしき黒い面。池の周囲には低い灯りがあり、足元を必要最低限だけ照らしていた。これもよくできている。来客には美しく、侵入者には不親切な庭だ。影が多いようで、実際には身を隠しにくい。植え込みの高さが、ちょうど人の膝から腰ほどに揃えられている。伏せても隠れきれず、走れば音が出る。
玄関ポーチの前に、年配の女性が立っていた。
髪をきっちりと結い、銀縁の眼鏡をかけている。黒い服に白いエプロン。姿勢は真っ直ぐで、年齢を感じさせない。屋敷の使用人を束ねる者特有の、静かな圧があった。
家政婦長。
おそらく、この家の内側で最初に越えなければならない関門。
莉乃は傘を閉じ、雨粒を丁寧に払った。
「早瀬莉乃でございます。本日より、どうぞよろしくお願いいたします」
深くはないが、軽くもない礼。新人らしい緊張を残しつつ、失礼にならない角度。
家政婦長は莉乃を上から下まで見た。
「相沢です。この屋敷の家政を預かっています」
「相沢様。よろしくお願いいたします」
「様は不要です。仕事中は、相沢さん、または家政婦長で結構です」
「はい、家政婦長」
相沢はそこで初めて、わずかに頷いた。
「荷物はそれだけですか」
「はい。一週間の臨時勤務と伺っておりますので、必要なものだけ持参いたしました」
莉乃が持っているのは、小さな革製の鞄だけだった。中には着替え、最低限の化粧品、偽造された身分証、そしていくつかの細工道具が隠されている。
もちろん、ぱっと見ただけでは分からない。
相沢は玄関扉を開いた。
「中へ。床が濡れないように」
「はい」
莉乃は傘を所定の場所に立てかけ、靴底の水を落としてから中へ入った。
玄関ホールは広かった。
吹き抜けの天井から、古いシャンデリアが下がっている。電球の光は温かい。壁には大きな鏡と、いくつもの絵画。床は磨かれた大理石で、濡れた靴の跡ひとつ許さないような艶がある。正面には大階段。左右に廊下。来客を迎えるための美しさと、侵入者を迷わせるための複雑さが同居していた。
莉乃は一瞬だけ、鏡を見た。
そこに映っているのは、どこからどう見ても若い女性メイドだった。
栗色のウィッグは自然に額へかかり、白いカチューシャで押さえられている。肌の色は薄く整え、輪郭の陰影は柔らかく作ってある。目元は強調しすぎず、口元は控えめ。見た者に「美しい」と思わせるより先に、「清潔で感じがよい」と思わせる顔。
体型も同じだ。
制服の下には複数の補正具を仕込んでいた。胸元には不自然にならない厚みを作るパッド。腰まわりには布の落ち方を変えるためのパッド。胴には細く見せるためのコルセット。どれも単体では大きな意味を持たない。だが、重ねることで、立ち姿も、歩く時の重心も、服の影も変わる。
そのために、彼は一か月かけて調整した。
彼。
早瀬莉乃の中身は、怪盗・鴉羽玲央だった。
玲央は、盗むものを選ぶ。
金が欲しいだけなら、もっと簡単な仕事はいくらでもある。警備の甘い宝飾店、管理の緩い美術倉庫、所有者が価値を理解していない古物。だが、玲央が狙うのは、ただ高いものではない。
誰かが執着し、誰かが隠し、誰かが奪われることを恐れているもの。
そういうものほど、盗む意味がある。
今回の標的は、黒江瑠璃子が所有するサファイア「青の寵姫」だった。
百年以上前、ある王家の首飾りに使われていた石。戦争と革命を経て所在不明になり、幾人もの収集家の手を渡り、十年前に黒江瑠璃子の所有となった。公には、彼女が海外のオークションで正規に落札したことになっている。だが、その来歴には空白が多い。
空白のある宝石は、人を呼ぶ。
金を持つ者。
過去を隠したい者。
取り戻したい者。
そして、盗みたい者。
玲央はその石を盗むため、黒江邸へ入った。
真正面から。
メイドとして。
「早瀬さん」
相沢の声で、玲央は視線を戻した。
「はい」
「この屋敷では、勝手な行動を禁じています。勤務範囲外の部屋には入らないこと。奥様の許可なく、書斎、宝物室、北棟二階、地下の保管庫には近づかないこと」
「承知いたしました」
禁じられた場所こそ、目的地に近い。
書斎。
宝物室。
北棟二階。
地下の保管庫。
玲央は内心で、それらの位置関係を素早く組み立てた。
相沢は廊下を歩き始めた。莉乃は半歩後ろをついていく。歩幅は小さく、足音は抑える。けれど、遅すぎてはならない。使用人の歩き方は、淑女の歩き方とは違う。見られるためではなく、仕事をこなすために歩く。その現実味が必要だった。
廊下の壁には、肖像画や風景画が並んでいる。花瓶、彫刻、小さな時計。どれも高価だが、目当てではない。目当てではないものに気を取られているように見せないこと。それも潜入の基本だった。
「こちらが使用人用の控室。厨房は奥。洗濯室は地下へ降りた先。あなたには主に給仕と客室準備を手伝ってもらいます」
「はい」
「今夜、奥様は小さな晩餐会を開かれます」
「伺っております」
「小さな、といっても来客は十数名です。客人の前では、余計なことを言わない。名前を呼ばれた時だけ応じる。質問には短く答える。分からないことは、その場で判断せず私に確認する」
「かしこまりました」
相沢は歩きながら、ふと振り返った。
「あなた、使用人の経験は」
「家政婦紹介所を通じて、いくつかのお宅でお手伝いをさせていただきました。ただ、このようなお邸は初めてです」
「でしょうね」
相沢の言葉は、肯定とも牽制とも取れた。
玲央は柔らかく微笑んだ。
「ご迷惑をおかけしないよう、精一杯務めます」
「その言葉通りに」
「はい」
厨房に入ると、空気が変わった。
玄関ホールの静けさとは違い、ここには熱と匂いと音があった。煮込み料理の香り、焼きたてのパンの匂い、銀器が触れる硬い音、使用人たちの低い声。晩餐会の準備はすでに始まっていた。
若いメイドが二人、玲央を見た。
一人は好奇心を隠さず、もう一人は忙しさの方が勝っている顔だった。
「新人さん?」
好奇心の方が言った。
相沢が短く紹介する。
「早瀬莉乃さん。今日から一週間、臨時で入ります。美香さん、厨房まわりを教えて」
「はい。よろしくね、早瀬さん」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
玲央は丁寧に頭を下げた。
美香は二十代半ばほどのメイドだった。よく動く目をしている。こういう人物は情報源になる。屋敷の使用人事情、主人の癖、客の噂。厨房に近い者ほど、家の内情を知っている。
「堅いねえ。そんなに緊張しなくても、奥様は怒鳴ったりしないから」
「そうなのですか」
「怒鳴らないだけ。怖くないとは言ってない」
美香は小声でそう言い、肩をすくめた。
相沢が鋭い目を向ける。
「美香さん」
「はいはい。余計なことは言いません」
「はい、は一度でよろしい」
「はい」
玲央はそのやり取りを見て、内心で記録した。
使用人同士の関係は悪くない。相沢は厳しいが、理不尽ではない。美香は軽いが、仕事はできる。こういう現場では、新人への監視は最初の数時間が最も強い。そこで不自然な失敗をすれば、後が難しくなる。
逆に、適度に使える人間だと思われれば、動ける範囲は広がる。
玲央は、最初の一時間を「完璧すぎない」程度に働くことにした。
皿を運ぶ。ナプキンを畳む。グラスを磨く。料理人から渡された前菜用の小皿を、間違えずに所定の台へ並べる。動作は丁寧に。しかし、少しだけ確認の間を置く。新人らしい慎重さを残す。
美香はすぐに気を許した。
「早瀬さん、手際いいね。紹介所の人って当たり外れあるけど、今回は当たりかも」
「ありがとうございます。まだ不慣れですので、違っていたら教えてください」
「そういうところも当たりっぽい。前に来た子なんて、奥様の前でグラス割って、そのあと泣いちゃって大変だったんだから」
「奥様は、お怒りに?」
「怒らなかったよ。ただ、こう言ったの。『割れたグラスは戻らないけれど、次に割らない方法は考えられるわね』って」
「……お優しいのですね」
「うーん」
美香は苦笑した。
「優しいっていうか、逃げ場がない感じ」
「逃げ場」
「そう。怒鳴られた方が、まだ謝って終わるじゃない? 奥様は、ちゃんと考えさせるの」
玲央は銀器を磨きながら、黙って聞いた。
黒江瑠璃子。
怒鳴らない。
観察する。
考えさせる。
相手を追い詰めるのに、感情を使わないタイプ。
玲央が最も警戒する種類の人間だった。
「奥様は、今日の晩餐会を楽しみにされているのですか」
玲央は何気なく聞いた。
美香は銀のトレーを棚から取り出しながら答えた。
「楽しみ、かなあ。誕生日会ってことにはなってるけど、半分は仕事みたいなものじゃない? 来る人たちも、みんな何かの関係者だし」
「どのような方がいらっしゃるのですか」
「画商さん、宝石商さん、銀行の偉い人、音楽家、財団の人。あとは奥様のお友達ってことになってる人たち」
「ことになっている」
「あ、今の内緒ね」
美香は口元に指を当てた。
「私は何も聞いておりません」
「早瀬さん、話分かるね」
美香は小さく笑った。
その時、厨房の入口に相沢が現れた。
「早瀬さん。奥様がお戻りです。玄関ホールでお迎えします」
「はい」
玲央は手を止めた。
予定より早い。
瑠璃子は夕方まで外出と聞いていた。だが、まだ午後三時を少し過ぎたところだ。主人の予定変更は珍しくないが、新人の玲央をわざわざ迎えに立たせる理由が分からない。
試される。
そう直感した。
相沢に続き、玄関ホールへ向かう。ホールにはすでに数人の使用人が並んでいた。玲央は一番端に立つ。新人として自然な位置だ。
やがて、外で車の音がした。
玄関扉が開く。
黒い車から、ひとりの女性が降りてきた。
黒江瑠璃子。
写真では見ていた。
だが、実物は写真より静かだった。
濃い灰色のコートを羽織り、黒髪を低い位置でまとめている。派手な装身具はない。白い手袋と、小さな真珠の耳飾りだけ。だが、その簡素さがかえって彼女の存在感を強めていた。富をまとうのではなく、富にまとうことを許している。そんな印象だった。
年齢は三十代半ばほどに見える。表情は穏やかだが、目は柔らかくない。人を見ているのではなく、人の奥の癖を見ている目だった。
相沢が一礼する。
「お帰りなさいませ、奥様」
「ただいま。雨が強くならなくてよかったわ」
瑠璃子の声は低く、落ち着いていた。
使用人たちが順に礼をする。玲央も同じように頭を下げた。礼の角度、呼吸、視線の落とし方。すべて自然なはずだった。
だが、顔を上げた瞬間、瑠璃子と目が合った。
長い一秒だった。
瑠璃子は玲央を見ていた。
初対面の新人を見る目。
それ以上でも、それ以下でもない。
だが、玲央の背筋に、雨より冷たいものが走った。
「あなたが、新しい方?」
瑠璃子が言った。
相沢が答えようとしたが、玲央は一歩だけ前に出た。
「本日より臨時でお世話になります、早瀬莉乃でございます」
声は揺れなかった。
瑠璃子は微笑んだ。
「早瀬莉乃さん」
「はい」
「綺麗な名前ね」
「恐れ入ります」
「紹介所は白川さんのところ?」
「はい。白川様より、こちらへ伺うよう申しつかりました」
「そう」
瑠璃子は手袋を外し、相沢へ渡した。
そして、もう一度玲央を見た。
「緊張している?」
「はい。少しだけ」
「正直ね」
「不慣れなお邸ですので」
「不慣れ」
瑠璃子はその言葉を、軽く反芻するように言った。
「では、早く慣れてちょうだい。今夜は少し忙しいから」
「はい。精一杯務めます」
「期待しているわ」
会話はそれだけだった。
瑠璃子は階段を上がっていく。相沢がその後に続く。使用人たちも散っていった。
玲央は、最後まで玄関ホールに残らなかった。残れば不自然だ。美香とともに厨房へ戻る。歩きながら、美香が小声で言った。
「早瀬さん、落ち着いてたね」
「そう見えましたか」
「うん。私は初めて奥様に会った時、声が裏返った」
「奥様は、やはり少し緊張しますね」
「少し?」
美香は目を丸くした。
「早瀬さん、大物かも」
玲央は曖昧に微笑んだ。
大物ではない。
獲物を狙う側の人間なだけだ。
ただ、今の一瞬で分かったことがある。
黒江瑠璃子は、こちらを見た。
ただの新人としてではない。
少なくとも、何かを測る目で見た。
どこまで気づかれたかは分からない。性別か、偽名か、目的か。それとも、もっと曖昧な違和感か。
玲央は厨房に戻り、再び仕事を始めた。
指先は乱れない。
呼吸も乱れない。
怪盗に必要なのは、予想外の事態を予想内の顔で処理することだった。
*
夕方になると、屋敷は晩餐会の色を帯び始めた。
玄関ホールの花が替えられ、サロンには椅子が増やされ、食堂の長いテーブルには白いクロスがかけられた。銀器は等間隔に並び、グラスは灯りを受けて小さく光っている。使用人たちの動きは速くなったが、声は大きくならない。黒江邸の規律が、全員の足音を抑えていた。
玲央は客室の準備を任された。
客が上着を預ける部屋。
女性客が化粧を直すための小部屋。
体調を崩した時に休める予備室。
どれも一階西側に集中している。そこから大階段を挟んだ反対側が、東翼。東翼には温室と小さな談話室がある。二階に上がれば書斎へ近づくが、使用人の通常動線では行きにくい。
なるほど、と玲央は思った。
屋敷の造りは、招かれた客と使用人と主人の動線を分けている。だが、完全には分断していない。必要な場所で交差するように作られている。その交差点こそ、警備上の要所だ。
そして、要所には必ず目がある。
鏡。
装飾品に見せたカメラ。
開いたままの扉の奥にいる使用人。
玲央は花瓶の位置を直すふりをしながら、廊下の角を確認した。
東翼へ続く廊下には、壁に細長い鏡がある。鏡に映る範囲は広い。正面から見れば装飾だが、廊下を曲がる者の姿を確認するには十分だった。鏡の右上には小さな曇り。内側に何か仕込まれている可能性がある。
客室の窓は、内側から開く。だが、外側には細い格子がある。格子は装飾に見えるが、間隔は狭い。人が抜けることはできない。非常用としては不便だが、侵入防止としては合理的だった。
地下へ続く階段は厨房奥。
北棟へ続く扉は鍵付き。
書斎へは二階東側。
宝物室はおそらく地下か北棟。
青の寵姫がどこにあるか、まだ確定はできない。だが、晩餐会の客に見せる可能性があるなら、今夜は書斎かサロン近くへ移されるはずだ。瑠璃子ほどの人間が、わざわざ地下保管庫まで客を連れていくとは考えにくい。見せるなら、見せるための部屋を使う。
その時、廊下の向こうから相沢が歩いてきた。
玲央は花瓶から手を離し、姿勢を正した。
「早瀬さん」
「はい」
「奥様が、晩餐前に温室でお茶を取られます。あなたが運んでください」
来た。
玲央は目を伏せた。
「私が、でございますか」
「奥様のご指示です」
「かしこまりました。お好みは」
「ダージリンを薄めに。砂糖は不要。レモンも不要。カップは白磁。菓子は添えなくて結構です」
「はい。ダージリンを薄めに、砂糖とレモンはなし。白磁のカップで、菓子はなし」
復唱すると、相沢は頷いた。
「よく覚えましたね」
「間違えてはいけませんので」
「その意識は大切です」
相沢はそこで、玲央の手元を見た。
「あなた、手が綺麗ですね」
玲央は微笑みを保った。
「ありがとうございます」
「褒めているだけではありません」
「はい」
「水仕事に慣れていない手です」
わずかな沈黙。
玲央は視線を落とした。
「以前は、接客に近い仕事が多かったものですから」
「紹介所の書類には、家事手伝いの経験が長いとありました」
「家事全般といっても、お宅によって任されることが違いますので」
嘘ではない。
存在しない早瀬莉乃の経歴としては、どうとでも言える。
相沢は数秒、玲央を見ていた。
「そうですか」
「はい」
「では、紅茶を」
「かしこまりました」
相沢は去っていった。
玲央はその背中を見ながら、心の中で評価を修正した。
相沢も侮れない。
手を見る。仕事を見る。書類との不一致を見る。瑠璃子ほどではないにしても、この家の門番として十分すぎる。
玲央は厨房へ向かった。
紅茶の準備は、美香が手伝ってくれた。
「奥様の紅茶? 緊張するね」
「はい。薄め、砂糖なし、レモンなし、白磁のカップですね」
「完璧。あと、カップの持ち手は奥様から見て右。スプーンはいらない。砂糖もレモンもないから」
「なるほど」
「あと、温室のテーブルは少し低いから、盆を傾けないように気をつけて。前に私、危うくこぼしかけた」
「ありがとうございます」
玲央は茶葉の量、湯の温度、抽出時間を確認した。紅茶そのものに詳しくなる必要はない。だが、主人の好みを外すことは避けなければならない。
白磁のカップに淡い紅茶が注がれる。
香りは軽い。
銀盆に載せる。カップ、皿、白い布。余計なものはない。
玲央は盆を持ち上げた。
手は震えない。
問題は、温室で何を聞かれるか。
瑠璃子は何かを試す。初対面の時に感じた視線からして、ただ紅茶を飲みたいだけではない。声か。仕草か。視線か。あるいは、わざと東翼へ呼び、玲央が廊下をどう見るかを観察するつもりか。
ならば、見すぎてはいけない。
しかし、見なければ盗めない。
怪盗にとって、最も難しいのは、見ていないふりをして見ることだった。
東翼の廊下は、玄関ホールより静かだった。
壁紙は深い緑。窓の外には濡れた庭。床には厚い絨毯が敷かれ、足音を吸い込む。途中に小さな彫刻台があり、その上に古い女神像が置かれていた。彫刻台の影に、配線の細い線が見える。そこにも何かある。
温室の扉は硝子張りだった。
中から淡い灯りが漏れている。
玲央は一度立ち止まり、呼吸を整えた。
ノック。
「早瀬莉乃でございます。紅茶をお持ちいたしました」
「入って」
瑠璃子の声がした。
玲央は扉を開けた。
温室は、屋敷の中で唯一、外の雨を美しく見せる場所だった。
硝子の天井を雨粒が伝い、灯りを細かく砕いている。植物の葉には水滴がつき、湿った土と花の匂いが混ざっている。中央には白い鉄製のテーブルと椅子。瑠璃子はそこにひとりで座っていた。
先ほどのコート姿ではない。
夜の晩餐会に備えて、深い青のドレスに着替えている。派手ではないが、布の質と仕立ての良さは明らかだった。髪はゆるくまとめ直され、耳元には小さな真珠。彼女自身が宝石のように飾られているというより、宝石を必要としない人物に見えた。
玲央は視線を長く留めない。
主人を見る。
テーブルを見る。
カップを置く位置を見る。
「お待たせいたしました」
「ありがとう。そこへ」
「はい」
玲央は銀盆からカップを下ろした。持ち手は瑠璃子から見て右。音を立てずに置く。盆を引く。
瑠璃子は紅茶にすぐ手をつけなかった。
かわりに、玲央を見た。
「早瀬さん」
「はい」
「この屋敷には慣れた?」
「まだ、覚えることばかりでございます」
「そう。廊下が多いでしょう」
「はい。迷わないよう、気をつけております」
「どのあたりが分かりにくい?」
玲央は答えを選んだ。
具体的すぎれば、観察していることが露見する。曖昧すぎれば、実際に働いていないように見える。
「東翼と西側の客室の位置が、まだ少し曖昧です。厨房からの動線は、美香さんに教えていただきました」
「美香さんはお喋りだから、余計なことまで教えたでしょう」
「親切にしていただきました」
「模範解答ね」
瑠璃子は微笑んだ。
玲央は伏し目がちに返した。
「本当に、そう思っております」
「あなたは受け答えが丁寧ね」
「ありがとうございます」
「丁寧すぎるくらい」
空気が、少しだけ張った。
玲央は表情を変えない。
「不慣れですので、失礼がないようにと」
「失礼がないように振る舞う人は多いわ。でも、あなたは失礼を避けるだけでなく、相手にどう見えるかまで計算しているように見える」
「そのようなつもりは」
「ない?」
「はい」
「そう言うと思った」
瑠璃子はカップを手に取り、香りを確かめた。
「薄め。悪くないわ」
「ありがとうございます」
「白磁のカップ。持ち手は右。スプーンなし。よく覚えたわね」
「家政婦長に教えていただきました」
「相沢は厳しいでしょう」
「はい。ですが、仕事を覚えるにはありがたいです」
「それも模範解答」
玲央は少し困ったように微笑んだ。
「私の答えは、模範解答ばかりでしょうか」
「ええ」
「申し訳ございません」
「謝るところではないわ。ただ、面白くないだけ」
瑠璃子の口調は穏やかだった。
だが、質問は一つ一つ、薄い刃のように差し込まれてくる。
玲央は、ここで少しだけ隙を作ることにした。
「でしたら……少しだけ本音を申し上げてもよろしいでしょうか」
瑠璃子の目が、わずかに動いた。
「どうぞ」
「奥様は、少し怖いです」
温室の雨音が強く聞こえた。
瑠璃子はカップを置いた。
「正直ね」
「はい。先ほどから、私が何を言っても見透かされているような気がします」
「見透かしてはいないわ。見ているだけ」
「それが怖いのだと思います」
瑠璃子はしばらく玲央を見つめた。
そして、小さく笑った。
「今の答えは、少し面白かった」
「ありがとうございます」
「でも、それも計算かもしれない」
玲央は目を伏せた。
「そこまで器用ではございません」
「そうかしら」
瑠璃子は椅子の背にもたれた。
「あなた、声が綺麗ね」
玲央の指先が、銀盆の縁で止まりそうになった。
止めてはいけない。
ほんの少し力を抜き、自然に持ち直す。
「恐れ入ります」
「どこかで声を使う仕事でもしていた?」
「いいえ。そのような経験はございません」
「歌は?」
「人前で歌うほどでは」
「朗読は?」
「学校で当てられた程度です」
「学校」
瑠璃子はその言葉に軽く反応した。
「どちらの?」
来た。
玲央は用意していた経歴を出す。
「大阪の方の学校です。卒業後、親戚の紹介で家事手伝いを始めました」
「大阪」
「はい」
「関西の言葉は出ないのね」
「仕事中は標準語に近い言葉で話すよう、紹介所で教えられました」
「そう」
瑠璃子は、紅茶をひと口飲んだ。
「あなたの声は、癖が少ない。作っている声みたい」
玲央は、今度こそ一瞬だけ沈黙した。
ただし、それは不自然ではない。
言われた内容に戸惑う新人として、十分自然な間だった。
「作っている、でございますか」
「怒らせた?」
「いいえ。ただ、初めて言われましたので」
「不快なら謝るわ」
「いえ。奥様のお感じになったことですので」
「また模範解答」
「すみません」
「謝らなくていいと言ったでしょう」
瑠璃子は少し楽しそうだった。
玲央は困ったような顔を作る。ここでは、完全に落ち着きすぎてはいけない。瑠璃子の視線に押され、わずかに揺らぐ方が自然だ。
実際には、玲央の内側は冷静だった。
声を疑われた。
ただし、正体に直結する疑いではない。舞台経験、朗読、歌。瑠璃子は「声が作られている」と感じているが、それを女装や性別の偽装へ結びつけたかは不明。
まだ、崩れていない。
瑠璃子は、ふと温室の奥へ視線をやった。
「早瀬さん。あの花の名前、分かる?」
玲央は示された鉢を見た。
白い花。
細長い葉。
蘭の一種。
だが、正確な品種名までは知らない。知ったかぶりは危険だ。
「申し訳ございません。蘭の仲間かと思いますが、詳しい名前までは」
「正直でよろしい。あれは胡蝶蘭。珍しい品種ではないけれど、育てる人の手が出る花よ」
「手が出る、でございますか」
「ええ。水をやりすぎた人。放っておいた人。毎日見ている人。花は、持ち主の癖をよく映すの」
瑠璃子の視線が、再び玲央へ戻った。
「人も同じ」
玲央は静かに聞いていた。
「手、声、歩き方、目線。本人が隠しているつもりでも、癖は出る。癖は、履歴書より正直よ」
玲央は微笑んだ。
「奥様は、人を見るお仕事をされているようです」
「仕事ではないわ。趣味かもしれない」
「それは、少し怖い趣味です」
「二度目ね。私を怖いと言ったのは」
「失礼いたしました」
「いいえ。怖がられている方が、都合がいいこともある」
瑠璃子はカップを置いた。
「今夜の晩餐会では、あなたにも給仕を手伝ってもらいます」
「はい」
「お客様の前では、ただ静かにしていればいい。でも、よく見ておいて」
玲央は目を上げた。
「よく、見るのですか」
「ええ」
「先ほど、癖を見るとおっしゃいました」
「そうね」
「私も、お客様の癖を見ればよろしいのでしょうか」
瑠璃子はわずかに目を細めた。
問い返しは、少し踏み込みすぎたかもしれない。
だが、ここでただ従うだけでは、逆に「見ない人間」になりすぎる。仕事のできるメイドなら、客の癖を見る。どの客が左利きか、酒をどれだけ飲むか、どの料理を残すか。給仕には観察が必要だ。
瑠璃子は言った。
「そう。誰が何を欲しがり、何を隠しているか。分かる範囲でいいわ」
「それは、使用人の仕事なのでしょうか」
「この家では、そう」
「かしこまりました」
玲央は一礼した。
これは好機だった。
瑠璃子自ら、客を観察する理由を与えてくれた。晩餐会で視線を動かしても、不自然ではない。
ただし、同時に罠でもある。
彼が何を見るかを、瑠璃子も見る。
温室の中で、二人は互いに別のものを見ていた。
玲央は、青の寵姫への道を。
瑠璃子は、早瀬莉乃の奥にある何かを。
「早瀬さん」
「はい」
「十一時になったら、書斎に来てちょうだい」
心臓が、静かに一度だけ強く打った。
玲央は表情を変えない。
「書斎、でございますか」
「ええ。客間に運んでほしい古い写真帳があるの。相沢には伝えておくわ」
「かしこまりました」
「書斎の場所は分かる?」
「申し訳ございません。まだ正確には」
「二階の東側。大階段を上がって右。廊下の突き当たりの手前よ」
「二階東側、大階段を上がって右、突き当たりの手前でございますね」
「覚えがいいわね」
「間違えないように」
「そう」
瑠璃子は、紅茶の残りを静かに飲んだ。
「ただし、迷子にならないで」
「はい」
「この屋敷は、迷いやすいから」
「気をつけます」
「本当に?」
瑠璃子の声は柔らかい。
玲央は一礼した。
「はい。奥様にご迷惑をおかけしないようにいたします」
「では、お願いね」
会話は終わった。
玲央はカップが空になったことを確認し、銀盆へ戻した。
「失礼いたします」
温室を出る。
背後で雨音が続いている。
扉を閉めた瞬間、玲央は自分の呼吸を確認した。
乱れていない。
だが、状況は大きく動いた。
十一時、書斎。
瑠璃子から直接、目的地への招待が出た。
好機。
罠。
おそらく両方だ。
玲央は廊下を歩きながら、頭の中で計画を組み直した。
晩餐会は七時開始。客の到着は六時半前後。食事が終わるのは九時半。サロンで歓談が続き、十時半を過ぎれば使用人の動きも少し乱れる。十一時に書斎へ行く名目があるなら、二階へ上がること自体は自然だ。
問題は、書斎に瑠璃子がいるかどうか。
「写真帳を運んで」と命じた以上、書斎の中に入る許可はある。しかし、書斎の中でどこまで動けるかは別問題だ。目的の金庫がそこにあるとしても、写真帳を探す時間は長くて数分。金庫を開けるには短い。
だが、瑠璃子が晩餐会の客に対応している間なら、書斎は空く。
それに、青の寵姫が今夜客へ見せられるなら、書斎に移されている可能性は高い。
玲央は銀盆を厨房へ戻した。
美香が振り返る。
「どうだった?」
「紅茶は問題ないとおっしゃっていただきました」
「よかったじゃん。奥様に最初から駄目って言われると、心折れるからね」
「少し緊張しました」
「少し?」
「はい」
「やっぱり早瀬さん、大物だ」
玲央は苦笑した。
その時、相沢が厨房へ入ってきた。
「早瀬さん。奥様から聞きました。十一時に書斎ですね」
「はい」
「それまでは晩餐会の給仕に入ってもらいます。客人の顔と席順を覚えてください」
「かしこまりました」
相沢は一枚の紙を渡した。
席順表だった。
玲央は受け取り、目を通す。
黒江瑠璃子。
画商・遠峰修一。
宝飾商・真木沙織。
銀行家・榊原慎吾。
音楽家・宮園透。
財団理事・久世葉子。
ほか数名。
玲央の目は、一瞬だけ画商の名で止まった。
遠峰修一。
この名は、事前調査でも出てきた。表向きは近代絵画専門の画商。裏では、来歴の曖昧な品を扱うという噂がある。青の寵姫の過去に関係する可能性もある人物だ。
宝飾商の真木沙織も要注意だった。
彼女は瑠璃子と長い付き合いがある。青の寵姫の鑑定にも関わった可能性がある。石の保管場所や展示予定を知っていてもおかしくない。
銀行家の榊原は資金の流れ。
財団理事の久世は慈善オークション関係。
音楽家の宮園だけは、一見無関係に見える。だが、無関係に見える者ほど、裏の理由がある場合もある。
「早瀬さん」
相沢の声。
「はい」
「紙を見つめすぎです」
しまった。
玲央はすぐに顔を上げた。
「申し訳ございません。お名前を間違えないようにと思いまして」
「名前は大切です。しかし、見すぎると失礼になります」
「はい。気をつけます」
相沢は紙を指した。
「奥様は、お客様の好みを覚えるようおっしゃいます。遠峰様は赤ワイン。真木様は白を少量。榊原様は食前酒を多めに取りたがりますが、注ぎすぎないように。宮園様はアルコールを避けます。久世様は水を切らさないこと」
「はい」
「覚えられますか」
「遠峰様は赤ワイン、真木様は白を少量、榊原様は食前酒を控えめに、宮園様はアルコールなし、久世様は水を切らさない」
「よろしい」
相沢は頷いた。
玲央はその視線を受けながら、思った。
この屋敷では、観察力が仕事の一部として求められている。
つまり、観察しても不自然ではない。
だが、観察の質が違えば、見抜かれる。
使用人は客の好みを見る。
泥棒は逃げ道と価値を見る。
その違いを、瑠璃子と相沢は見ている。
*
客が到着し始めたのは、六時を少し過ぎた頃だった。
雨はまだ降っている。玄関前に車が止まり、そのたびに使用人が傘を差し出す。玲央はホールの端で、上着を受け取る係についた。
最初に来たのは、財団理事の久世葉子だった。
白髪を短く整えた女性で、年齢は六十代ほど。落ち着いた物腰だが、目はよく動く。慈善家というより、交渉人に近い。玲央が上着を受け取ると、久世は小さく礼を言った。
「ありがとう」
「お預かりいたします」
上着の重み、ポケットの膨らみ、香水の匂い。すべて確認する。もちろん、顔には出さない。
次に、銀行家の榊原慎吾。
大柄な男で、声が大きい。笑顔も大きいが、目の奥は笑っていない。上着を預ける時、玲央の顔を少し長く見た。
「新しい方かな」
「本日より臨時で入っております。早瀬でございます」
「そう。黒江さんのところは、美人を選ぶのが上手い」
「恐れ入ります」
玲央は一礼し、余計な反応をしなかった。
榊原は軽く笑い、サロンへ向かった。
続いて宝飾商の真木沙織。
四十代前半ほどの女性。薄い銀色のドレスに、控えめなネックレス。宝飾商でありながら装飾が少ないのは、むしろ自信の表れだ。彼女は玲央の手元を見てから、顔を見た。
「あなた、初めて見るわね」
「本日より臨時で入っております」
「そう。黒江さんの家は大変でしょう」
「学ぶことが多くございます」
「いい返事」
真木は微笑み、手袋を外して小さなバッグへ入れた。
その手袋の内側に、微かな青い染みがあった。
染料か、宝石用のクロスか。後で考える。
音楽家の宮園透は、雨に濡れた肩を気にしながら入ってきた。細身で、神経質そうな男だった。玲央に上着を預ける時、ほとんど目を合わせない。
「ピアノの調律は済んでいますか」
彼は玲央にではなく、近くの使用人へ言った。
「はい、宮園様。サロンにてご確認いただけます」
「湿気があるから心配で」
芸術家らしい神経質さ、と片づけるには、少し落ち着きがなさすぎる。
最後に、画商の遠峰修一が来た。
痩せた男だった。五十代ほど。黒いスーツに、深緑のネクタイ。傘を閉じる動作が丁寧で、手袋を外す動作はさらに丁寧だった。指が長い。爪は磨かれている。目は細く、笑う前から笑っているような顔をしていた。
玲央は上着を受け取った。
「お預かりいたします」
「ありがとう」
遠峰は玲央を見た。
「新しいメイドさんかな」
「はい。本日より臨時で入っております」
「それは大変だ。黒江さんのお屋敷は、覚えることが多いでしょう」
「はい。皆様に教えていただきながら務めております」
「そうですか」
遠峰は一歩近づき、声を少し落とした。
「この家では、見たものを何でも覚えておくといい。きっと役に立つ」
玲央は目を伏せた。
「心得ておきます」
遠峰は薄く笑い、サロンへ向かった。
妙な言葉だった。
新人メイドへの親切とも取れる。だが、言い方が違う。あれは助言ではなく、探りだ。遠峰は玲央を見て、何かを感じたのかもしれない。
あるいは、単に自分が周囲を探っているから、他人も探っているように見えるのか。
客が揃った後、瑠璃子がサロンへ入った。
深い青のドレス。
真珠の耳飾り。
胸元には小さなブローチ。
青の寵姫ではない。
当然だ。あの石は、身につけるには危険すぎる。見せるとしても、専用の箱か展示ケースに入れるはずだ。
瑠璃子は客たちに微笑み、静かに挨拶した。
「雨の中、お越しいただきありがとうございます。今夜は堅苦しい会ではありません。どうぞ、ゆっくりお過ごしください」
堅苦しい会ではない。
玲央はその言葉を、内心で否定した。
この場にいる全員が、何かを見に来ている。
瑠璃子の財力。
人脈。
機嫌。
そして、おそらく青の寵姫。
晩餐会が始まった。
玲央は給仕に回った。遠峰には赤ワイン。真木には白を少量。榊原には注ぎすぎない。宮園には水。久世には水を切らさない。
相沢の指示通りに動く。
同時に、観察する。
遠峰は瑠璃子の話を聞きながら、時折壁の絵を見る。絵を見るふりで、部屋の配置を見ている。少なくとも、美術品だけを見ている目ではない。
真木は宝石の話題が出ても、自分から深く入らない。商売人としては控えめすぎる。だが、瑠璃子が「例の石」という言葉を口にした瞬間、グラスを持つ指がわずかに止まった。
榊原は大きく笑い、場を和ませる。しかし、その笑いの後に必ず誰かの反応を確認する。金を扱う者の癖だ。
宮園は料理にほとんど手をつけない。ピアノと湿気を気にしているように見えるが、視線は時々、食堂の出入口へ向く。逃げ道を気にしている人間の目か、それとも単に落ち着きがないだけか。
久世は一番静かだった。静かな者ほど、場をよく見ている。
瑠璃子は、全員と会話しながら、誰にも隙を見せなかった。
「遠峰さん。先日の絵は、ずいぶん早く買い手がついたそうですね」
「ええ。偶然、よいご縁がありまして」
「偶然。便利な言葉ね」
「黒江さんに言われると、身がすくみますな」
「すくむようなことをしていなければ、大丈夫でしょう」
周囲が笑う。
遠峰も笑う。
だが、指は笑っていなかった。ナイフの柄を軽く押さえる指に、わずかな力が入っている。
次に瑠璃子は真木へ向いた。
「真木さん、来月のオークションの下見は?」
「予定通りです。ただ、例の件で少し確認が必要です」
「例の件?」
「展示順です。目玉が強すぎると、他が霞みますから」
「石の話?」
「ええ」
食卓の空気が、ほんの少しだけ変わった。
榊原が笑った。
「石といえば、黒江さん。今夜は見せていただけるんですかな。あの有名なサファイアを」
来た。
玲央はワインボトルを持つ手を自然に保った。
瑠璃子は榊原を見た。
「青の寵姫のこと?」
「ええ。名前だけは何度も聞いておりますが、実物を見たことがありません」
遠峰が静かに口を挟んだ。
「私も、ぜひ拝見したいものです。あの石は、来歴も含めて非常に興味深い」
「来歴」
瑠璃子は微笑んだ。
「遠峰さんは、来歴の空白がお好きですものね」
「美術品に空白はつきものです」
「宝石にも?」
「もちろん」
真木がグラスを置いた。
「宝石の場合、空白は価値にも危険にもなります」
「危険?」
宮園が初めて興味を示した。
真木は答えた。
「誰のものだったか分からない石は、誰かが自分のものだと主張する可能性がありますから」
久世が静かに言った。
「所有とは、書類だけで決まるものではないということですね」
「法律上は書類で決まります」
榊原が言った。
「感情は別として」
瑠璃子は全員を見渡した。
「では、食後に少しだけお見せしましょうか」
玲央は、その瞬間の反応を見た。
遠峰は笑みを深めた。
真木は目を伏せた。
榊原は満足そうに頷いた。
宮園は落ち着かなさを増した。
久世は変わらない。
青の寵姫は、今夜この屋敷のどこかにある。
そして、食後に見せる予定がある。
ならば、十一時の書斎命令は偶然ではない。
瑠璃子は、玲央をその石の近くへ呼んでいる。
なぜ。
疑っているからか。
利用するためか。
試すためか。
玲央は答えを出せないまま、給仕を続けた。
*
食事が終わる頃、雨は少し弱くなっていた。
客たちはサロンへ移り、食後酒や紅茶を手に談笑を始めた。宮園はピアノの前に座り、短い曲を弾いた。湿気を気にしていたわりには、音は澄んでいる。サロンの会話は音楽に包まれ、少しだけ柔らかくなった。
玲央は壁際に控えながら、時計を確認した。
十時二十五分。
瑠璃子はまだサロンにいる。遠峰、真木、榊原と話している。青の寵姫はまだ出ていない。食後に見せると言ったが、今すぐではないようだ。
十時半。
相沢が玲央に近づいた。
「早瀬さん。十一時の件、覚えていますね」
「はい。書斎の写真帳を客間へ」
「奥様は今、客人の対応中です。十一時になったら、二階へ向かいなさい。写真帳は書斎の本棚、右から二番目の下段にあります」
「右から二番目の下段でございますね」
「重いので、落とさないように」
「かしこまりました」
相沢は少しだけ玲央を見た。
「書斎では、余計なものに触れないように」
「はい」
「特に、机の上の書類と壁の絵には」
壁の絵。
玲央の内側で、情報がつながった。
金庫は壁の絵の裏。
相沢がそれを知っているなら、使用人の中でも限られた者だけだろう。わざわざ「触れるな」と言ったのは警告か。それとも誘導か。
玲央は素直に頷いた。
「承知いたしました」
「よろしい」
相沢は去っていった。
玲央はサロンへ視線を戻した。
瑠璃子と目が合った。
遠くから。
会話の最中のはずなのに、瑠璃子はこちらを見ていた。
ほんの一瞬。
すぐに彼女は遠峰へ視線を戻した。
玲央は心の中で苦笑した。
完全に見られている。
だが、もう引き返せない。
そもそも怪盗は、見られることを恐れてはいけない。誰にも見られず盗むのは三流の仕事だ。見られていても、見られている意味をすり替える。相手が見ているものとは別のものを盗む。
それが本物の盗みだった。
十時五十五分。
玲央は厨房へ戻り、空いたトレーを置いた。
美香が声をかける。
「早瀬さん、書斎だっけ?」
「はい。写真帳を取りに」
「二階、暗いから気をつけてね。あと、奥様の書斎、空気重いよ」
「空気が」
「なんかね、入ると背筋伸びる」
「気をつけます」
「迷ったら戻ってきなよ」
「はい」
玲央は小さく礼をし、厨房を出た。
廊下は静かだった。
サロンからは音楽と会話が聞こえる。客たちの注意はそちらにある。使用人たちも後片づけと給仕で忙しい。
今なら動ける。
玲央は大階段へ向かった。
階段を上がる。足音は絨毯に吸われる。踊り場の大きな窓には、雨の夜が映っている。二階へ上がり、右へ曲がる。
東側の廊下。
壁には絵画が並ぶ。窓は少ない。灯りは控えめで、廊下の奥が少し暗い。右手に客間。左手に小さな書庫。突き当たりの手前に、重そうな木製の扉。
書斎。
扉の前で、玲央は一度だけ息を整えた。
ノックする。
「早瀬莉乃でございます。写真帳を取りに参りました」
返事はない。
予定通り。
玲央は扉を開けた。
書斎は暗く、机の上のランプだけが灯っていた。
壁一面の本棚。革張りの椅子。大きな机。古い地球儀。壁には数枚の絵。正面の壁に、やや大きな風景画がかかっている。
あれだ。
だが、まずは写真帳。
玲央は扉を閉めた。鍵はかけない。鍵をかければ怪しい。新人メイドが主人に命じられ、本棚の写真帳を探している。ただそれだけに見える状態を保つ。
右から二番目の本棚。
下段。
確かに、古い革表紙の写真帳があった。
玲央はそれを抜き出し、机の脇に置いた。
重い。
言い訳には十分だ。
次に、部屋を見た。
監視カメラは見えない。だが、ないとは限らない。ランプの影、時計の中、天井の装飾。少なくとも録画されている前提で動くべきだ。となれば、金庫に触れる動作も、写真帳を探す動作の延長に見せる必要がある。
玲央は本棚をもう少し探すふりをした。
写真帳が複数あるか確認するように。
それから、重そうに写真帳を持ち上げ、机へ運ぶ途中で、壁の絵を見た。
絵は古い港町の風景だった。額縁は重厚。だが、壁との接地がわずかに不自然だ。頻繁に動かされている。
金庫は、この裏にある。
時計を見る。
十一時三分。
瑠璃子はサロンにいるはず。
時間は短い。
玲央は写真帳を抱え直すふりをして、絵に近づいた。
その時、廊下の方で小さな足音がした。
玲央は即座に動きを止めた。
足音は近づいてくる。
相沢か。
瑠璃子か。
あるいは客か。
玲央は写真帳を両手で持ち、扉の方へ向き直った。
ノックはなかった。
扉が静かに開いた。
入ってきたのは、黒江瑠璃子だった。
玲央はすぐに頭を下げた。
「奥様。写真帳をお持ちするところでございました」
瑠璃子は扉を閉めた。
「そう。見つかったのね」
「はい。こちらでよろしかったでしょうか」
「ええ」
瑠璃子はゆっくりと部屋へ入ってきた。
サロンにいたはずの彼女が、なぜここにいる。
客はどうした。
青の寵姫はまだ見せていないのか。
玲央は顔を伏せたまま、視界の端で彼女の動きを追った。
瑠璃子は机の前に立ち、写真帳を見た。
「重かったでしょう」
「少しだけ」
「無理をしないで。落とすと古い写真が傷むわ」
「はい。気をつけます」
瑠璃子は写真帳に触れた。
そして、壁の絵へ目を向けた。
「早瀬さん」
「はい」
「その絵、気になる?」
玲央は沈黙しなかった。
沈黙は肯定になる。
「立派な額でしたので、少し目に入りました」
「絵ではなく、額?」
「絵は、私には難しくて」
「難しいものを見る時、人は分かる部分を見る。あなたは額を見たのね」
「はい」
「本当に?」
瑠璃子は、玲央を見た。
書斎の灯りの中で、その目は温室よりも鋭く見えた。
玲央は静かに微笑んだ。
「奥様は、私が何を見ていたと思われますか」
言ってから、少し踏み込みすぎたと思った。
だが、もう後戻りはできない。
瑠璃子は、楽しそうに口元を緩めた。
「そうね」
そして、ゆっくりと言った。
「絵の裏側かしら」
雨の音が遠くなった。
玲央は、早瀬莉乃の顔のまま、何も知らない新人メイドのように首を傾げた。
「裏側、でございますか」
「ええ。絵は表を見るものだけれど、裏を気にする人もいる」
「修復のお仕事をされる方でしょうか」
「泥棒もそうね」
書斎の空気が、そこで止まった。
玲央は微笑みを保った。
「奥様。私は――」
「冗談よ」
瑠璃子は言った。
だが、その声は冗談の温度ではなかった。
「そんなに緊張しないで」
「申し訳ございません」
「謝りすぎ」
「はい」
「今夜は、少し人の出入りが多いわ。書斎にも、大切なものを置いている。だから、念のため見に来たの」
「左様でございましたか」
「あなたを疑っているわけではないわ」
瑠璃子は言った。
玲央は思った。
嘘だ。
この女は、疑っている。
しかも、疑っていることを隠していない。
隠していないことによって、こちらの反応を見ている。
瑠璃子は写真帳を指した。
「それを西側の客間へ。相沢が受け取るわ」
「かしこまりました」
玲央は写真帳を持ち上げた。
重い。
だが、怪盗としての身体能力なら問題ない。問題があるとすれば、補正具のせいで腕と胴の動きに制限があることだ。コルセットが呼吸を浅くし、パッドが服の中でわずかに重さを作る。普段の動きとは違う。それでも、早瀬莉乃として自然に見せなければならない。
扉へ向かう。
瑠璃子の横を通る。
その瞬間、瑠璃子が言った。
「早瀬さん」
「はい」
玲央は振り返った。
瑠璃子は、ほんの少し首を傾げていた。
「あなた、歩く時に音がしないのね」
玲央は答えた。
「使用人は、音を立てないようにと教わりました」
「それは正しいわ」
「はい」
「でも、音を立てないことに慣れすぎている」
玲央は、目を伏せた。
「気をつけます」
「ええ。気をつけて」
瑠璃子は微笑んだ。
「この屋敷では、静かすぎる足音も目立つから」
玲央は一礼し、書斎を出た。
廊下に出た瞬間、彼は悟った。
今夜、青の寵姫を盗むのは難しい。
瑠璃子は、明らかにこちらを見ている。
だが、同時に、彼女はまだ決定的な行動を取っていない。警察を呼ぶでもなく、相沢に拘束させるでもなく、ただ揺さぶっている。
つまり、彼女はまだ確証を持っていない。
あるいは、確証を得るために、あえて動かしている。
ならば、ここで退くか。
答えは否だった。
怪盗は、罠があるからといって退くわけではない。
罠を見極め、罠ごと盗む。
玲央は写真帳を抱え、西側の客間へ向かった。
廊下の角を曲がる前、ふと背後を見たい衝動に駆られた。
だが、振り返らなかった。
振り返れば、見られていることを意識していると伝わる。
だから、早瀬莉乃は振り返らない。
静かに、丁寧に、主人の命令を果たすために歩く。
ただし、鴉羽玲央は、心の中で笑っていた。
黒江瑠璃子。
面白い相手だ。
あの女は、宝石より危険かもしれない。
そして危険なものほど、盗む価値がある。
写真帳を客間へ運ぶと、相沢が待っていた。
「無事に持ってきましたね」
「はい」
「奥様にはお会いしましたか」
「書斎で少し」
「そうですか」
相沢は写真帳を受け取り、机の上に置いた。
「早瀬さん」
「はい」
「奥様の前で、余計なことは言わない方がよろしい」
「先ほども、そう教えていただきました」
「もう一度言う必要があると思いました」
玲央は深く頭を下げた。
「ご忠告、ありがとうございます」
相沢は答えなかった。
ただ、玲央の顔を見た。
その目は、瑠璃子ほど鋭くはない。だが、長年この家を守ってきた人間の目だった。
玲央は思った。
この屋敷は、二重の鍵で閉じられている。
一つは設備としての警備。
もう一つは、人間の観察。
普通の盗人なら、前者だけを破ろうとする。だが、本当に厄介なのは後者だ。
人の目を破るには、人として騙さなければならない。
早瀬莉乃は、そのために作られた。
清楚で、控えめで、少し緊張していて、よく働く新人メイド。女声も、ウィッグも、メイクも、補正具も、その人物を成立させるための部品にすぎない。
だが、黒江瑠璃子はその部品の継ぎ目を見ようとしている。
今夜、その継ぎ目を見せるわけにはいかない。
サロンへ戻ると、客たちはまだ歓談していた。
瑠璃子も戻っている。何事もなかったように、遠峰と話している。書斎でのやり取りなど存在しなかったかのような顔だった。
玲央は壁際に控えた。
十一時十五分。
青の寵姫はまだ出ていない。
遠峰が瑠璃子に言った。
「黒江さん。そろそろ、例の石を拝見できる頃合いでは?」
瑠璃子はグラスを置いた。
「そうね」
空気が変わった。
客たちの視線が集まる。
玲央の内側も静かに張り詰めた。
瑠璃子は続けた。
「ただ、今夜は雨ですし、石を移すには少し湿気が気になります。皆様には申し訳ないけれど、青の寵姫はまた別の機会に」
客たちの間に、落胆とも安堵ともつかない空気が流れた。
遠峰の笑みが、わずかに固まる。
真木は目を伏せたまま。
榊原は残念そうに笑う。
宮園は明らかに息を吐いた。
久世は変わらない。
玲央は理解した。
瑠璃子は、最初から見せるつもりがなかったのかもしれない。
あるいは、書斎で玲央の反応を見た後、予定を変えた。
どちらにせよ、青の寵姫は今夜、人前に出ない。
盗む機会は遠のいた。
しかし、玲央は焦らなかった。
第一夜の目的は、必ずしも盗むことではない。屋敷に入り、主人を観察し、石の周辺にいる人間を見極めること。それだけでも十分な収穫だった。
それに、十一時の書斎。
壁の絵。
瑠璃子の警戒。
情報は得た。
サロンの灯りの中で、瑠璃子がふとこちらを見た。
また、目が合う。
彼女は何も言わない。
だが、その目はこう言っているようだった。
あなたが何者か、まだ分からない。
でも、見ている。
玲央は、早瀬莉乃として静かに頭を下げた。
怪盗としては、心の中で挑発に応じていた。
見ていればいい。
見ていても、盗む時は盗む。
雨の夜は、まだ終わらない。
黒江邸の灯りは、夜更けまで消えなかった。




