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第1話 雨夜のメイド、黒江邸へ入る

その屋敷では、雨音まで値踏みされているようだった。


 夜の坂道を上りきった先に、黒江邸はあった。鉄柵は黒く、門柱は白く、灯りは必要な分だけに抑えられている。過剰な装飾はない。だが、控えめな照明に浮かび上がる石造りの外壁、濡れた庭木の配置、玄関ポーチへ続く石畳の長さから、この家がただの富豪の邸ではないことはすぐに分かった。


 財力を見せびらかす家ではない。


 財力を隠す必要もない家だった。


 雨は細く、しつこく降っていた。傘の布を叩く音は柔らかい。だが、屋敷の高い窓硝子に当たる雨粒は、どこか硬い音を立てている。遠くで雷が鳴ったわけでもないのに、空は低く、夜全体がこの屋敷を押し包んでいるようだった。


 門の前で、若いメイドが立ち止まった。


 白い手袋をはめた指が、傘の柄を軽く握っている。黒いワンピース型のメイド服。胸元には白い襟。腰には清潔なエプロン。足元は磨かれた黒い靴。肩に触れるほどの栗色の髪は、雨に濡れないよう丁寧にまとめられていた。


 彼女――早瀬莉乃は、門柱の呼び鈴へ手を伸ばした。


 もちろん、早瀬莉乃という人物は存在しない。


 その名も、経歴も、紹介状も、履歴書も、すべて偽物だった。


 門の内側から、低い電子音が鳴った。


『どちら様でしょうか』


 門番の声ではない。屋敷の内側に設置された通話機の声だった。


 莉乃は、ほんのわずかに顎を引いた。声の高さ、息の量、語尾の落とし方。すべてを整える。


「本日より臨時でお世話になります、早瀬莉乃です。家政婦紹介所の白川様より、黒江様のお邸へ伺うよう申しつかっております」


 声は柔らかく、澄んでいた。高すぎず、甘すぎず、耳に残りすぎない。若い女性の声として自然で、使用人としては少し控えめだった。


 数秒の沈黙。


『少々お待ちください』


 通話は切れた。


 莉乃は雨の中で待った。


 門の監視カメラが、こちらを見ている。門柱の右上、植え込みの奥、玄関ポーチの端。三つ。いや、角度を考えれば四つ目がある。雨どいの影に隠した小型のものだ。


 いい警備だ、と彼女は思った。


 外から見える防犯設備は、むしろ囮である。防犯を誇示する邸は、たいてい一番大切な穴を別の場所に残している。だが、黒江邸は違った。見せる警備と、見せない警備の配分がよく考えられている。これを設計した者は、犯罪者の視線を知っている。


 あるいは、家の主人自身がそうなのか。


 門が静かに開いた。


 莉乃は一礼し、石畳を歩き出した。


 雨に濡れた庭は、夜の光を吸い込んでいる。左右には剪定された糸杉。奥には池らしき黒い面。池の周囲には低い灯りがあり、足元を必要最低限だけ照らしていた。これもよくできている。来客には美しく、侵入者には不親切な庭だ。影が多いようで、実際には身を隠しにくい。植え込みの高さが、ちょうど人の膝から腰ほどに揃えられている。伏せても隠れきれず、走れば音が出る。


 玄関ポーチの前に、年配の女性が立っていた。


 髪をきっちりと結い、銀縁の眼鏡をかけている。黒い服に白いエプロン。姿勢は真っ直ぐで、年齢を感じさせない。屋敷の使用人を束ねる者特有の、静かな圧があった。


 家政婦長。


 おそらく、この家の内側で最初に越えなければならない関門。


 莉乃は傘を閉じ、雨粒を丁寧に払った。


「早瀬莉乃でございます。本日より、どうぞよろしくお願いいたします」


 深くはないが、軽くもない礼。新人らしい緊張を残しつつ、失礼にならない角度。


 家政婦長は莉乃を上から下まで見た。


「相沢です。この屋敷の家政を預かっています」


「相沢様。よろしくお願いいたします」


「様は不要です。仕事中は、相沢さん、または家政婦長で結構です」


「はい、家政婦長」


 相沢はそこで初めて、わずかに頷いた。


「荷物はそれだけですか」


「はい。一週間の臨時勤務と伺っておりますので、必要なものだけ持参いたしました」


 莉乃が持っているのは、小さな革製の鞄だけだった。中には着替え、最低限の化粧品、偽造された身分証、そしていくつかの細工道具が隠されている。


 もちろん、ぱっと見ただけでは分からない。


 相沢は玄関扉を開いた。


「中へ。床が濡れないように」


「はい」


 莉乃は傘を所定の場所に立てかけ、靴底の水を落としてから中へ入った。


 玄関ホールは広かった。


 吹き抜けの天井から、古いシャンデリアが下がっている。電球の光は温かい。壁には大きな鏡と、いくつもの絵画。床は磨かれた大理石で、濡れた靴の跡ひとつ許さないような艶がある。正面には大階段。左右に廊下。来客を迎えるための美しさと、侵入者を迷わせるための複雑さが同居していた。


 莉乃は一瞬だけ、鏡を見た。


 そこに映っているのは、どこからどう見ても若い女性メイドだった。


 栗色のウィッグは自然に額へかかり、白いカチューシャで押さえられている。肌の色は薄く整え、輪郭の陰影は柔らかく作ってある。目元は強調しすぎず、口元は控えめ。見た者に「美しい」と思わせるより先に、「清潔で感じがよい」と思わせる顔。


 体型も同じだ。


 制服の下には複数の補正具を仕込んでいた。胸元には不自然にならない厚みを作るパッド。腰まわりには布の落ち方を変えるためのパッド。胴には細く見せるためのコルセット。どれも単体では大きな意味を持たない。だが、重ねることで、立ち姿も、歩く時の重心も、服の影も変わる。


 そのために、彼は一か月かけて調整した。


 彼。


 早瀬莉乃の中身は、怪盗・鴉羽玲央だった。


 玲央は、盗むものを選ぶ。


 金が欲しいだけなら、もっと簡単な仕事はいくらでもある。警備の甘い宝飾店、管理の緩い美術倉庫、所有者が価値を理解していない古物。だが、玲央が狙うのは、ただ高いものではない。


 誰かが執着し、誰かが隠し、誰かが奪われることを恐れているもの。


 そういうものほど、盗む意味がある。


 今回の標的は、黒江瑠璃子が所有するサファイア「青の寵姫」だった。


 百年以上前、ある王家の首飾りに使われていた石。戦争と革命を経て所在不明になり、幾人もの収集家の手を渡り、十年前に黒江瑠璃子の所有となった。公には、彼女が海外のオークションで正規に落札したことになっている。だが、その来歴には空白が多い。


 空白のある宝石は、人を呼ぶ。


 金を持つ者。


 過去を隠したい者。


 取り戻したい者。


 そして、盗みたい者。


 玲央はその石を盗むため、黒江邸へ入った。


 真正面から。


 メイドとして。


「早瀬さん」


 相沢の声で、玲央は視線を戻した。


「はい」


「この屋敷では、勝手な行動を禁じています。勤務範囲外の部屋には入らないこと。奥様の許可なく、書斎、宝物室、北棟二階、地下の保管庫には近づかないこと」


「承知いたしました」


 禁じられた場所こそ、目的地に近い。


 書斎。


 宝物室。


 北棟二階。


 地下の保管庫。


 玲央は内心で、それらの位置関係を素早く組み立てた。


 相沢は廊下を歩き始めた。莉乃は半歩後ろをついていく。歩幅は小さく、足音は抑える。けれど、遅すぎてはならない。使用人の歩き方は、淑女の歩き方とは違う。見られるためではなく、仕事をこなすために歩く。その現実味が必要だった。


 廊下の壁には、肖像画や風景画が並んでいる。花瓶、彫刻、小さな時計。どれも高価だが、目当てではない。目当てではないものに気を取られているように見せないこと。それも潜入の基本だった。


「こちらが使用人用の控室。厨房は奥。洗濯室は地下へ降りた先。あなたには主に給仕と客室準備を手伝ってもらいます」


「はい」


「今夜、奥様は小さな晩餐会を開かれます」


「伺っております」


「小さな、といっても来客は十数名です。客人の前では、余計なことを言わない。名前を呼ばれた時だけ応じる。質問には短く答える。分からないことは、その場で判断せず私に確認する」


「かしこまりました」


 相沢は歩きながら、ふと振り返った。


「あなた、使用人の経験は」


「家政婦紹介所を通じて、いくつかのお宅でお手伝いをさせていただきました。ただ、このようなお邸は初めてです」


「でしょうね」


 相沢の言葉は、肯定とも牽制とも取れた。


 玲央は柔らかく微笑んだ。


「ご迷惑をおかけしないよう、精一杯務めます」


「その言葉通りに」


「はい」


 厨房に入ると、空気が変わった。


 玄関ホールの静けさとは違い、ここには熱と匂いと音があった。煮込み料理の香り、焼きたてのパンの匂い、銀器が触れる硬い音、使用人たちの低い声。晩餐会の準備はすでに始まっていた。


 若いメイドが二人、玲央を見た。


 一人は好奇心を隠さず、もう一人は忙しさの方が勝っている顔だった。


「新人さん?」


 好奇心の方が言った。


 相沢が短く紹介する。


「早瀬莉乃さん。今日から一週間、臨時で入ります。美香さん、厨房まわりを教えて」


「はい。よろしくね、早瀬さん」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 玲央は丁寧に頭を下げた。


 美香は二十代半ばほどのメイドだった。よく動く目をしている。こういう人物は情報源になる。屋敷の使用人事情、主人の癖、客の噂。厨房に近い者ほど、家の内情を知っている。


「堅いねえ。そんなに緊張しなくても、奥様は怒鳴ったりしないから」


「そうなのですか」


「怒鳴らないだけ。怖くないとは言ってない」


 美香は小声でそう言い、肩をすくめた。


 相沢が鋭い目を向ける。


「美香さん」


「はいはい。余計なことは言いません」


「はい、は一度でよろしい」


「はい」


 玲央はそのやり取りを見て、内心で記録した。


 使用人同士の関係は悪くない。相沢は厳しいが、理不尽ではない。美香は軽いが、仕事はできる。こういう現場では、新人への監視は最初の数時間が最も強い。そこで不自然な失敗をすれば、後が難しくなる。


 逆に、適度に使える人間だと思われれば、動ける範囲は広がる。


 玲央は、最初の一時間を「完璧すぎない」程度に働くことにした。


 皿を運ぶ。ナプキンを畳む。グラスを磨く。料理人から渡された前菜用の小皿を、間違えずに所定の台へ並べる。動作は丁寧に。しかし、少しだけ確認の間を置く。新人らしい慎重さを残す。


 美香はすぐに気を許した。


「早瀬さん、手際いいね。紹介所の人って当たり外れあるけど、今回は当たりかも」


「ありがとうございます。まだ不慣れですので、違っていたら教えてください」


「そういうところも当たりっぽい。前に来た子なんて、奥様の前でグラス割って、そのあと泣いちゃって大変だったんだから」


「奥様は、お怒りに?」


「怒らなかったよ。ただ、こう言ったの。『割れたグラスは戻らないけれど、次に割らない方法は考えられるわね』って」


「……お優しいのですね」


「うーん」


 美香は苦笑した。


「優しいっていうか、逃げ場がない感じ」


「逃げ場」


「そう。怒鳴られた方が、まだ謝って終わるじゃない? 奥様は、ちゃんと考えさせるの」


 玲央は銀器を磨きながら、黙って聞いた。


 黒江瑠璃子。


 怒鳴らない。


 観察する。


 考えさせる。


 相手を追い詰めるのに、感情を使わないタイプ。


 玲央が最も警戒する種類の人間だった。


「奥様は、今日の晩餐会を楽しみにされているのですか」


 玲央は何気なく聞いた。


 美香は銀のトレーを棚から取り出しながら答えた。


「楽しみ、かなあ。誕生日会ってことにはなってるけど、半分は仕事みたいなものじゃない? 来る人たちも、みんな何かの関係者だし」


「どのような方がいらっしゃるのですか」


「画商さん、宝石商さん、銀行の偉い人、音楽家、財団の人。あとは奥様のお友達ってことになってる人たち」


「ことになっている」


「あ、今の内緒ね」


 美香は口元に指を当てた。


「私は何も聞いておりません」


「早瀬さん、話分かるね」


 美香は小さく笑った。


 その時、厨房の入口に相沢が現れた。


「早瀬さん。奥様がお戻りです。玄関ホールでお迎えします」


「はい」


 玲央は手を止めた。


 予定より早い。


 瑠璃子は夕方まで外出と聞いていた。だが、まだ午後三時を少し過ぎたところだ。主人の予定変更は珍しくないが、新人の玲央をわざわざ迎えに立たせる理由が分からない。


 試される。


 そう直感した。


 相沢に続き、玄関ホールへ向かう。ホールにはすでに数人の使用人が並んでいた。玲央は一番端に立つ。新人として自然な位置だ。


 やがて、外で車の音がした。


 玄関扉が開く。


 黒い車から、ひとりの女性が降りてきた。


 黒江瑠璃子。


 写真では見ていた。


 だが、実物は写真より静かだった。


 濃い灰色のコートを羽織り、黒髪を低い位置でまとめている。派手な装身具はない。白い手袋と、小さな真珠の耳飾りだけ。だが、その簡素さがかえって彼女の存在感を強めていた。富をまとうのではなく、富にまとうことを許している。そんな印象だった。


 年齢は三十代半ばほどに見える。表情は穏やかだが、目は柔らかくない。人を見ているのではなく、人の奥の癖を見ている目だった。


 相沢が一礼する。


「お帰りなさいませ、奥様」


「ただいま。雨が強くならなくてよかったわ」


 瑠璃子の声は低く、落ち着いていた。


 使用人たちが順に礼をする。玲央も同じように頭を下げた。礼の角度、呼吸、視線の落とし方。すべて自然なはずだった。


 だが、顔を上げた瞬間、瑠璃子と目が合った。


 長い一秒だった。


 瑠璃子は玲央を見ていた。


 初対面の新人を見る目。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 だが、玲央の背筋に、雨より冷たいものが走った。


「あなたが、新しい方?」


 瑠璃子が言った。


 相沢が答えようとしたが、玲央は一歩だけ前に出た。


「本日より臨時でお世話になります、早瀬莉乃でございます」


 声は揺れなかった。


 瑠璃子は微笑んだ。


「早瀬莉乃さん」


「はい」


「綺麗な名前ね」


「恐れ入ります」


「紹介所は白川さんのところ?」


「はい。白川様より、こちらへ伺うよう申しつかりました」


「そう」


 瑠璃子は手袋を外し、相沢へ渡した。


 そして、もう一度玲央を見た。


「緊張している?」


「はい。少しだけ」


「正直ね」


「不慣れなお邸ですので」


「不慣れ」


 瑠璃子はその言葉を、軽く反芻するように言った。


「では、早く慣れてちょうだい。今夜は少し忙しいから」


「はい。精一杯務めます」


「期待しているわ」


 会話はそれだけだった。


 瑠璃子は階段を上がっていく。相沢がその後に続く。使用人たちも散っていった。


 玲央は、最後まで玄関ホールに残らなかった。残れば不自然だ。美香とともに厨房へ戻る。歩きながら、美香が小声で言った。


「早瀬さん、落ち着いてたね」


「そう見えましたか」


「うん。私は初めて奥様に会った時、声が裏返った」


「奥様は、やはり少し緊張しますね」


「少し?」


 美香は目を丸くした。


「早瀬さん、大物かも」


 玲央は曖昧に微笑んだ。


 大物ではない。


 獲物を狙う側の人間なだけだ。


 ただ、今の一瞬で分かったことがある。


 黒江瑠璃子は、こちらを見た。


 ただの新人としてではない。


 少なくとも、何かを測る目で見た。


 どこまで気づかれたかは分からない。性別か、偽名か、目的か。それとも、もっと曖昧な違和感か。


 玲央は厨房に戻り、再び仕事を始めた。


 指先は乱れない。


 呼吸も乱れない。


 怪盗に必要なのは、予想外の事態を予想内の顔で処理することだった。


     *


 夕方になると、屋敷は晩餐会の色を帯び始めた。


 玄関ホールの花が替えられ、サロンには椅子が増やされ、食堂の長いテーブルには白いクロスがかけられた。銀器は等間隔に並び、グラスは灯りを受けて小さく光っている。使用人たちの動きは速くなったが、声は大きくならない。黒江邸の規律が、全員の足音を抑えていた。


 玲央は客室の準備を任された。


 客が上着を預ける部屋。


 女性客が化粧を直すための小部屋。


 体調を崩した時に休める予備室。


 どれも一階西側に集中している。そこから大階段を挟んだ反対側が、東翼。東翼には温室と小さな談話室がある。二階に上がれば書斎へ近づくが、使用人の通常動線では行きにくい。


 なるほど、と玲央は思った。


 屋敷の造りは、招かれた客と使用人と主人の動線を分けている。だが、完全には分断していない。必要な場所で交差するように作られている。その交差点こそ、警備上の要所だ。


 そして、要所には必ず目がある。


 鏡。


 装飾品に見せたカメラ。


 開いたままの扉の奥にいる使用人。


 玲央は花瓶の位置を直すふりをしながら、廊下の角を確認した。


 東翼へ続く廊下には、壁に細長い鏡がある。鏡に映る範囲は広い。正面から見れば装飾だが、廊下を曲がる者の姿を確認するには十分だった。鏡の右上には小さな曇り。内側に何か仕込まれている可能性がある。


 客室の窓は、内側から開く。だが、外側には細い格子がある。格子は装飾に見えるが、間隔は狭い。人が抜けることはできない。非常用としては不便だが、侵入防止としては合理的だった。


 地下へ続く階段は厨房奥。


 北棟へ続く扉は鍵付き。


 書斎へは二階東側。


 宝物室はおそらく地下か北棟。


 青の寵姫がどこにあるか、まだ確定はできない。だが、晩餐会の客に見せる可能性があるなら、今夜は書斎かサロン近くへ移されるはずだ。瑠璃子ほどの人間が、わざわざ地下保管庫まで客を連れていくとは考えにくい。見せるなら、見せるための部屋を使う。


 その時、廊下の向こうから相沢が歩いてきた。


 玲央は花瓶から手を離し、姿勢を正した。


「早瀬さん」


「はい」


「奥様が、晩餐前に温室でお茶を取られます。あなたが運んでください」


 来た。


 玲央は目を伏せた。


「私が、でございますか」


「奥様のご指示です」


「かしこまりました。お好みは」


「ダージリンを薄めに。砂糖は不要。レモンも不要。カップは白磁。菓子は添えなくて結構です」


「はい。ダージリンを薄めに、砂糖とレモンはなし。白磁のカップで、菓子はなし」


 復唱すると、相沢は頷いた。


「よく覚えましたね」


「間違えてはいけませんので」


「その意識は大切です」


 相沢はそこで、玲央の手元を見た。


「あなた、手が綺麗ですね」


 玲央は微笑みを保った。


「ありがとうございます」


「褒めているだけではありません」


「はい」


「水仕事に慣れていない手です」


 わずかな沈黙。


 玲央は視線を落とした。


「以前は、接客に近い仕事が多かったものですから」


「紹介所の書類には、家事手伝いの経験が長いとありました」


「家事全般といっても、お宅によって任されることが違いますので」


 嘘ではない。


 存在しない早瀬莉乃の経歴としては、どうとでも言える。


 相沢は数秒、玲央を見ていた。


「そうですか」


「はい」


「では、紅茶を」


「かしこまりました」


 相沢は去っていった。


 玲央はその背中を見ながら、心の中で評価を修正した。


 相沢も侮れない。


 手を見る。仕事を見る。書類との不一致を見る。瑠璃子ほどではないにしても、この家の門番として十分すぎる。


 玲央は厨房へ向かった。


 紅茶の準備は、美香が手伝ってくれた。


「奥様の紅茶? 緊張するね」


「はい。薄め、砂糖なし、レモンなし、白磁のカップですね」


「完璧。あと、カップの持ち手は奥様から見て右。スプーンはいらない。砂糖もレモンもないから」


「なるほど」


「あと、温室のテーブルは少し低いから、盆を傾けないように気をつけて。前に私、危うくこぼしかけた」


「ありがとうございます」


 玲央は茶葉の量、湯の温度、抽出時間を確認した。紅茶そのものに詳しくなる必要はない。だが、主人の好みを外すことは避けなければならない。


 白磁のカップに淡い紅茶が注がれる。


 香りは軽い。


 銀盆に載せる。カップ、皿、白い布。余計なものはない。


 玲央は盆を持ち上げた。


 手は震えない。


 問題は、温室で何を聞かれるか。


 瑠璃子は何かを試す。初対面の時に感じた視線からして、ただ紅茶を飲みたいだけではない。声か。仕草か。視線か。あるいは、わざと東翼へ呼び、玲央が廊下をどう見るかを観察するつもりか。


 ならば、見すぎてはいけない。


 しかし、見なければ盗めない。


 怪盗にとって、最も難しいのは、見ていないふりをして見ることだった。


 東翼の廊下は、玄関ホールより静かだった。


 壁紙は深い緑。窓の外には濡れた庭。床には厚い絨毯が敷かれ、足音を吸い込む。途中に小さな彫刻台があり、その上に古い女神像が置かれていた。彫刻台の影に、配線の細い線が見える。そこにも何かある。


 温室の扉は硝子張りだった。


 中から淡い灯りが漏れている。


 玲央は一度立ち止まり、呼吸を整えた。


 ノック。


「早瀬莉乃でございます。紅茶をお持ちいたしました」


「入って」


 瑠璃子の声がした。


 玲央は扉を開けた。


 温室は、屋敷の中で唯一、外の雨を美しく見せる場所だった。


 硝子の天井を雨粒が伝い、灯りを細かく砕いている。植物の葉には水滴がつき、湿った土と花の匂いが混ざっている。中央には白い鉄製のテーブルと椅子。瑠璃子はそこにひとりで座っていた。


 先ほどのコート姿ではない。


 夜の晩餐会に備えて、深い青のドレスに着替えている。派手ではないが、布の質と仕立ての良さは明らかだった。髪はゆるくまとめ直され、耳元には小さな真珠。彼女自身が宝石のように飾られているというより、宝石を必要としない人物に見えた。


 玲央は視線を長く留めない。


 主人を見る。


 テーブルを見る。


 カップを置く位置を見る。


「お待たせいたしました」


「ありがとう。そこへ」


「はい」


 玲央は銀盆からカップを下ろした。持ち手は瑠璃子から見て右。音を立てずに置く。盆を引く。


 瑠璃子は紅茶にすぐ手をつけなかった。


 かわりに、玲央を見た。


「早瀬さん」


「はい」


「この屋敷には慣れた?」


「まだ、覚えることばかりでございます」


「そう。廊下が多いでしょう」


「はい。迷わないよう、気をつけております」


「どのあたりが分かりにくい?」


 玲央は答えを選んだ。


 具体的すぎれば、観察していることが露見する。曖昧すぎれば、実際に働いていないように見える。


「東翼と西側の客室の位置が、まだ少し曖昧です。厨房からの動線は、美香さんに教えていただきました」


「美香さんはお喋りだから、余計なことまで教えたでしょう」


「親切にしていただきました」


「模範解答ね」


 瑠璃子は微笑んだ。


 玲央は伏し目がちに返した。


「本当に、そう思っております」


「あなたは受け答えが丁寧ね」


「ありがとうございます」


「丁寧すぎるくらい」


 空気が、少しだけ張った。


 玲央は表情を変えない。


「不慣れですので、失礼がないようにと」


「失礼がないように振る舞う人は多いわ。でも、あなたは失礼を避けるだけでなく、相手にどう見えるかまで計算しているように見える」


「そのようなつもりは」


「ない?」


「はい」


「そう言うと思った」


 瑠璃子はカップを手に取り、香りを確かめた。


「薄め。悪くないわ」


「ありがとうございます」


「白磁のカップ。持ち手は右。スプーンなし。よく覚えたわね」


「家政婦長に教えていただきました」


「相沢は厳しいでしょう」


「はい。ですが、仕事を覚えるにはありがたいです」


「それも模範解答」


 玲央は少し困ったように微笑んだ。


「私の答えは、模範解答ばかりでしょうか」


「ええ」


「申し訳ございません」


「謝るところではないわ。ただ、面白くないだけ」


 瑠璃子の口調は穏やかだった。


 だが、質問は一つ一つ、薄い刃のように差し込まれてくる。


 玲央は、ここで少しだけ隙を作ることにした。


「でしたら……少しだけ本音を申し上げてもよろしいでしょうか」


 瑠璃子の目が、わずかに動いた。


「どうぞ」


「奥様は、少し怖いです」


 温室の雨音が強く聞こえた。


 瑠璃子はカップを置いた。


「正直ね」


「はい。先ほどから、私が何を言っても見透かされているような気がします」


「見透かしてはいないわ。見ているだけ」


「それが怖いのだと思います」


 瑠璃子はしばらく玲央を見つめた。


 そして、小さく笑った。


「今の答えは、少し面白かった」


「ありがとうございます」


「でも、それも計算かもしれない」


 玲央は目を伏せた。


「そこまで器用ではございません」


「そうかしら」


 瑠璃子は椅子の背にもたれた。


「あなた、声が綺麗ね」


 玲央の指先が、銀盆の縁で止まりそうになった。


 止めてはいけない。


 ほんの少し力を抜き、自然に持ち直す。


「恐れ入ります」


「どこかで声を使う仕事でもしていた?」


「いいえ。そのような経験はございません」


「歌は?」


「人前で歌うほどでは」


「朗読は?」


「学校で当てられた程度です」


「学校」


 瑠璃子はその言葉に軽く反応した。


「どちらの?」


 来た。


 玲央は用意していた経歴を出す。


「大阪の方の学校です。卒業後、親戚の紹介で家事手伝いを始めました」


「大阪」


「はい」


「関西の言葉は出ないのね」


「仕事中は標準語に近い言葉で話すよう、紹介所で教えられました」


「そう」


 瑠璃子は、紅茶をひと口飲んだ。


「あなたの声は、癖が少ない。作っている声みたい」


 玲央は、今度こそ一瞬だけ沈黙した。


 ただし、それは不自然ではない。


 言われた内容に戸惑う新人として、十分自然な間だった。


「作っている、でございますか」


「怒らせた?」


「いいえ。ただ、初めて言われましたので」


「不快なら謝るわ」


「いえ。奥様のお感じになったことですので」


「また模範解答」


「すみません」


「謝らなくていいと言ったでしょう」


 瑠璃子は少し楽しそうだった。


 玲央は困ったような顔を作る。ここでは、完全に落ち着きすぎてはいけない。瑠璃子の視線に押され、わずかに揺らぐ方が自然だ。


 実際には、玲央の内側は冷静だった。


 声を疑われた。


 ただし、正体に直結する疑いではない。舞台経験、朗読、歌。瑠璃子は「声が作られている」と感じているが、それを女装や性別の偽装へ結びつけたかは不明。


 まだ、崩れていない。


 瑠璃子は、ふと温室の奥へ視線をやった。


「早瀬さん。あの花の名前、分かる?」


 玲央は示された鉢を見た。


 白い花。


 細長い葉。


 蘭の一種。


 だが、正確な品種名までは知らない。知ったかぶりは危険だ。


「申し訳ございません。蘭の仲間かと思いますが、詳しい名前までは」


「正直でよろしい。あれは胡蝶蘭。珍しい品種ではないけれど、育てる人の手が出る花よ」


「手が出る、でございますか」


「ええ。水をやりすぎた人。放っておいた人。毎日見ている人。花は、持ち主の癖をよく映すの」


 瑠璃子の視線が、再び玲央へ戻った。


「人も同じ」


 玲央は静かに聞いていた。


「手、声、歩き方、目線。本人が隠しているつもりでも、癖は出る。癖は、履歴書より正直よ」


 玲央は微笑んだ。


「奥様は、人を見るお仕事をされているようです」


「仕事ではないわ。趣味かもしれない」


「それは、少し怖い趣味です」


「二度目ね。私を怖いと言ったのは」


「失礼いたしました」


「いいえ。怖がられている方が、都合がいいこともある」


 瑠璃子はカップを置いた。


「今夜の晩餐会では、あなたにも給仕を手伝ってもらいます」


「はい」


「お客様の前では、ただ静かにしていればいい。でも、よく見ておいて」


 玲央は目を上げた。


「よく、見るのですか」


「ええ」


「先ほど、癖を見るとおっしゃいました」


「そうね」


「私も、お客様の癖を見ればよろしいのでしょうか」


 瑠璃子はわずかに目を細めた。


 問い返しは、少し踏み込みすぎたかもしれない。


 だが、ここでただ従うだけでは、逆に「見ない人間」になりすぎる。仕事のできるメイドなら、客の癖を見る。どの客が左利きか、酒をどれだけ飲むか、どの料理を残すか。給仕には観察が必要だ。


 瑠璃子は言った。


「そう。誰が何を欲しがり、何を隠しているか。分かる範囲でいいわ」


「それは、使用人の仕事なのでしょうか」


「この家では、そう」


「かしこまりました」


 玲央は一礼した。


 これは好機だった。


 瑠璃子自ら、客を観察する理由を与えてくれた。晩餐会で視線を動かしても、不自然ではない。


 ただし、同時に罠でもある。


 彼が何を見るかを、瑠璃子も見る。


 温室の中で、二人は互いに別のものを見ていた。


 玲央は、青の寵姫への道を。


 瑠璃子は、早瀬莉乃の奥にある何かを。


「早瀬さん」


「はい」


「十一時になったら、書斎に来てちょうだい」


 心臓が、静かに一度だけ強く打った。


 玲央は表情を変えない。


「書斎、でございますか」


「ええ。客間に運んでほしい古い写真帳があるの。相沢には伝えておくわ」


「かしこまりました」


「書斎の場所は分かる?」


「申し訳ございません。まだ正確には」


「二階の東側。大階段を上がって右。廊下の突き当たりの手前よ」


「二階東側、大階段を上がって右、突き当たりの手前でございますね」


「覚えがいいわね」


「間違えないように」


「そう」


 瑠璃子は、紅茶の残りを静かに飲んだ。


「ただし、迷子にならないで」


「はい」


「この屋敷は、迷いやすいから」


「気をつけます」


「本当に?」


 瑠璃子の声は柔らかい。


 玲央は一礼した。


「はい。奥様にご迷惑をおかけしないようにいたします」


「では、お願いね」


 会話は終わった。


 玲央はカップが空になったことを確認し、銀盆へ戻した。


「失礼いたします」


 温室を出る。


 背後で雨音が続いている。


 扉を閉めた瞬間、玲央は自分の呼吸を確認した。


 乱れていない。


 だが、状況は大きく動いた。


 十一時、書斎。


 瑠璃子から直接、目的地への招待が出た。


 好機。


 罠。


 おそらく両方だ。


 玲央は廊下を歩きながら、頭の中で計画を組み直した。


 晩餐会は七時開始。客の到着は六時半前後。食事が終わるのは九時半。サロンで歓談が続き、十時半を過ぎれば使用人の動きも少し乱れる。十一時に書斎へ行く名目があるなら、二階へ上がること自体は自然だ。


 問題は、書斎に瑠璃子がいるかどうか。


 「写真帳を運んで」と命じた以上、書斎の中に入る許可はある。しかし、書斎の中でどこまで動けるかは別問題だ。目的の金庫がそこにあるとしても、写真帳を探す時間は長くて数分。金庫を開けるには短い。


 だが、瑠璃子が晩餐会の客に対応している間なら、書斎は空く。


 それに、青の寵姫が今夜客へ見せられるなら、書斎に移されている可能性は高い。


 玲央は銀盆を厨房へ戻した。


 美香が振り返る。


「どうだった?」


「紅茶は問題ないとおっしゃっていただきました」


「よかったじゃん。奥様に最初から駄目って言われると、心折れるからね」


「少し緊張しました」


「少し?」


「はい」


「やっぱり早瀬さん、大物だ」


 玲央は苦笑した。


 その時、相沢が厨房へ入ってきた。


「早瀬さん。奥様から聞きました。十一時に書斎ですね」


「はい」


「それまでは晩餐会の給仕に入ってもらいます。客人の顔と席順を覚えてください」


「かしこまりました」


 相沢は一枚の紙を渡した。


 席順表だった。


 玲央は受け取り、目を通す。


 黒江瑠璃子。


 画商・遠峰修一。


 宝飾商・真木沙織。


 銀行家・榊原慎吾。


 音楽家・宮園透。


 財団理事・久世葉子。


 ほか数名。


 玲央の目は、一瞬だけ画商の名で止まった。


 遠峰修一。


 この名は、事前調査でも出てきた。表向きは近代絵画専門の画商。裏では、来歴の曖昧な品を扱うという噂がある。青の寵姫の過去に関係する可能性もある人物だ。


 宝飾商の真木沙織も要注意だった。


 彼女は瑠璃子と長い付き合いがある。青の寵姫の鑑定にも関わった可能性がある。石の保管場所や展示予定を知っていてもおかしくない。


 銀行家の榊原は資金の流れ。


 財団理事の久世は慈善オークション関係。


 音楽家の宮園だけは、一見無関係に見える。だが、無関係に見える者ほど、裏の理由がある場合もある。


「早瀬さん」


 相沢の声。


「はい」


「紙を見つめすぎです」


 しまった。


 玲央はすぐに顔を上げた。


「申し訳ございません。お名前を間違えないようにと思いまして」


「名前は大切です。しかし、見すぎると失礼になります」


「はい。気をつけます」


 相沢は紙を指した。


「奥様は、お客様の好みを覚えるようおっしゃいます。遠峰様は赤ワイン。真木様は白を少量。榊原様は食前酒を多めに取りたがりますが、注ぎすぎないように。宮園様はアルコールを避けます。久世様は水を切らさないこと」


「はい」


「覚えられますか」


「遠峰様は赤ワイン、真木様は白を少量、榊原様は食前酒を控えめに、宮園様はアルコールなし、久世様は水を切らさない」


「よろしい」


 相沢は頷いた。


 玲央はその視線を受けながら、思った。


 この屋敷では、観察力が仕事の一部として求められている。


 つまり、観察しても不自然ではない。


 だが、観察の質が違えば、見抜かれる。


 使用人は客の好みを見る。


 泥棒は逃げ道と価値を見る。


 その違いを、瑠璃子と相沢は見ている。


     *


 客が到着し始めたのは、六時を少し過ぎた頃だった。


 雨はまだ降っている。玄関前に車が止まり、そのたびに使用人が傘を差し出す。玲央はホールの端で、上着を受け取る係についた。


 最初に来たのは、財団理事の久世葉子だった。


 白髪を短く整えた女性で、年齢は六十代ほど。落ち着いた物腰だが、目はよく動く。慈善家というより、交渉人に近い。玲央が上着を受け取ると、久世は小さく礼を言った。


「ありがとう」


「お預かりいたします」


 上着の重み、ポケットの膨らみ、香水の匂い。すべて確認する。もちろん、顔には出さない。


 次に、銀行家の榊原慎吾。


 大柄な男で、声が大きい。笑顔も大きいが、目の奥は笑っていない。上着を預ける時、玲央の顔を少し長く見た。


「新しい方かな」


「本日より臨時で入っております。早瀬でございます」


「そう。黒江さんのところは、美人を選ぶのが上手い」


「恐れ入ります」


 玲央は一礼し、余計な反応をしなかった。


 榊原は軽く笑い、サロンへ向かった。


 続いて宝飾商の真木沙織。


 四十代前半ほどの女性。薄い銀色のドレスに、控えめなネックレス。宝飾商でありながら装飾が少ないのは、むしろ自信の表れだ。彼女は玲央の手元を見てから、顔を見た。


「あなた、初めて見るわね」


「本日より臨時で入っております」


「そう。黒江さんの家は大変でしょう」


「学ぶことが多くございます」


「いい返事」


 真木は微笑み、手袋を外して小さなバッグへ入れた。


 その手袋の内側に、微かな青い染みがあった。


 染料か、宝石用のクロスか。後で考える。


 音楽家の宮園透は、雨に濡れた肩を気にしながら入ってきた。細身で、神経質そうな男だった。玲央に上着を預ける時、ほとんど目を合わせない。


「ピアノの調律は済んでいますか」


 彼は玲央にではなく、近くの使用人へ言った。


「はい、宮園様。サロンにてご確認いただけます」


「湿気があるから心配で」


 芸術家らしい神経質さ、と片づけるには、少し落ち着きがなさすぎる。


 最後に、画商の遠峰修一が来た。


 痩せた男だった。五十代ほど。黒いスーツに、深緑のネクタイ。傘を閉じる動作が丁寧で、手袋を外す動作はさらに丁寧だった。指が長い。爪は磨かれている。目は細く、笑う前から笑っているような顔をしていた。


 玲央は上着を受け取った。


「お預かりいたします」


「ありがとう」


 遠峰は玲央を見た。


「新しいメイドさんかな」


「はい。本日より臨時で入っております」


「それは大変だ。黒江さんのお屋敷は、覚えることが多いでしょう」


「はい。皆様に教えていただきながら務めております」


「そうですか」


 遠峰は一歩近づき、声を少し落とした。


「この家では、見たものを何でも覚えておくといい。きっと役に立つ」


 玲央は目を伏せた。


「心得ておきます」


 遠峰は薄く笑い、サロンへ向かった。


 妙な言葉だった。


 新人メイドへの親切とも取れる。だが、言い方が違う。あれは助言ではなく、探りだ。遠峰は玲央を見て、何かを感じたのかもしれない。


 あるいは、単に自分が周囲を探っているから、他人も探っているように見えるのか。


 客が揃った後、瑠璃子がサロンへ入った。


 深い青のドレス。


 真珠の耳飾り。


 胸元には小さなブローチ。


 青の寵姫ではない。


 当然だ。あの石は、身につけるには危険すぎる。見せるとしても、専用の箱か展示ケースに入れるはずだ。


 瑠璃子は客たちに微笑み、静かに挨拶した。


「雨の中、お越しいただきありがとうございます。今夜は堅苦しい会ではありません。どうぞ、ゆっくりお過ごしください」


 堅苦しい会ではない。


 玲央はその言葉を、内心で否定した。


 この場にいる全員が、何かを見に来ている。


 瑠璃子の財力。


 人脈。


 機嫌。


 そして、おそらく青の寵姫。


 晩餐会が始まった。


 玲央は給仕に回った。遠峰には赤ワイン。真木には白を少量。榊原には注ぎすぎない。宮園には水。久世には水を切らさない。


 相沢の指示通りに動く。


 同時に、観察する。


 遠峰は瑠璃子の話を聞きながら、時折壁の絵を見る。絵を見るふりで、部屋の配置を見ている。少なくとも、美術品だけを見ている目ではない。


 真木は宝石の話題が出ても、自分から深く入らない。商売人としては控えめすぎる。だが、瑠璃子が「例の石」という言葉を口にした瞬間、グラスを持つ指がわずかに止まった。


 榊原は大きく笑い、場を和ませる。しかし、その笑いの後に必ず誰かの反応を確認する。金を扱う者の癖だ。


 宮園は料理にほとんど手をつけない。ピアノと湿気を気にしているように見えるが、視線は時々、食堂の出入口へ向く。逃げ道を気にしている人間の目か、それとも単に落ち着きがないだけか。


 久世は一番静かだった。静かな者ほど、場をよく見ている。


 瑠璃子は、全員と会話しながら、誰にも隙を見せなかった。


「遠峰さん。先日の絵は、ずいぶん早く買い手がついたそうですね」


「ええ。偶然、よいご縁がありまして」


「偶然。便利な言葉ね」


「黒江さんに言われると、身がすくみますな」


「すくむようなことをしていなければ、大丈夫でしょう」


 周囲が笑う。


 遠峰も笑う。


 だが、指は笑っていなかった。ナイフの柄を軽く押さえる指に、わずかな力が入っている。


 次に瑠璃子は真木へ向いた。


「真木さん、来月のオークションの下見は?」


「予定通りです。ただ、例の件で少し確認が必要です」


「例の件?」


「展示順です。目玉が強すぎると、他が霞みますから」


「石の話?」


「ええ」


 食卓の空気が、ほんの少しだけ変わった。


 榊原が笑った。


「石といえば、黒江さん。今夜は見せていただけるんですかな。あの有名なサファイアを」


 来た。


 玲央はワインボトルを持つ手を自然に保った。


 瑠璃子は榊原を見た。


「青の寵姫のこと?」


「ええ。名前だけは何度も聞いておりますが、実物を見たことがありません」


 遠峰が静かに口を挟んだ。


「私も、ぜひ拝見したいものです。あの石は、来歴も含めて非常に興味深い」


「来歴」


 瑠璃子は微笑んだ。


「遠峰さんは、来歴の空白がお好きですものね」


「美術品に空白はつきものです」


「宝石にも?」


「もちろん」


 真木がグラスを置いた。


「宝石の場合、空白は価値にも危険にもなります」


「危険?」


 宮園が初めて興味を示した。


 真木は答えた。


「誰のものだったか分からない石は、誰かが自分のものだと主張する可能性がありますから」


 久世が静かに言った。


「所有とは、書類だけで決まるものではないということですね」


「法律上は書類で決まります」


 榊原が言った。


「感情は別として」


 瑠璃子は全員を見渡した。


「では、食後に少しだけお見せしましょうか」


 玲央は、その瞬間の反応を見た。


 遠峰は笑みを深めた。


 真木は目を伏せた。


 榊原は満足そうに頷いた。


 宮園は落ち着かなさを増した。


 久世は変わらない。


 青の寵姫は、今夜この屋敷のどこかにある。


 そして、食後に見せる予定がある。


 ならば、十一時の書斎命令は偶然ではない。


 瑠璃子は、玲央をその石の近くへ呼んでいる。


 なぜ。


 疑っているからか。


 利用するためか。


 試すためか。


 玲央は答えを出せないまま、給仕を続けた。


     *


 食事が終わる頃、雨は少し弱くなっていた。


 客たちはサロンへ移り、食後酒や紅茶を手に談笑を始めた。宮園はピアノの前に座り、短い曲を弾いた。湿気を気にしていたわりには、音は澄んでいる。サロンの会話は音楽に包まれ、少しだけ柔らかくなった。


 玲央は壁際に控えながら、時計を確認した。


 十時二十五分。


 瑠璃子はまだサロンにいる。遠峰、真木、榊原と話している。青の寵姫はまだ出ていない。食後に見せると言ったが、今すぐではないようだ。


 十時半。


 相沢が玲央に近づいた。


「早瀬さん。十一時の件、覚えていますね」


「はい。書斎の写真帳を客間へ」


「奥様は今、客人の対応中です。十一時になったら、二階へ向かいなさい。写真帳は書斎の本棚、右から二番目の下段にあります」


「右から二番目の下段でございますね」


「重いので、落とさないように」


「かしこまりました」


 相沢は少しだけ玲央を見た。


「書斎では、余計なものに触れないように」


「はい」


「特に、机の上の書類と壁の絵には」


 壁の絵。


 玲央の内側で、情報がつながった。


 金庫は壁の絵の裏。


 相沢がそれを知っているなら、使用人の中でも限られた者だけだろう。わざわざ「触れるな」と言ったのは警告か。それとも誘導か。


 玲央は素直に頷いた。


「承知いたしました」


「よろしい」


 相沢は去っていった。


 玲央はサロンへ視線を戻した。


 瑠璃子と目が合った。


 遠くから。


 会話の最中のはずなのに、瑠璃子はこちらを見ていた。


 ほんの一瞬。


 すぐに彼女は遠峰へ視線を戻した。


 玲央は心の中で苦笑した。


 完全に見られている。


 だが、もう引き返せない。


 そもそも怪盗は、見られることを恐れてはいけない。誰にも見られず盗むのは三流の仕事だ。見られていても、見られている意味をすり替える。相手が見ているものとは別のものを盗む。


 それが本物の盗みだった。


 十時五十五分。


 玲央は厨房へ戻り、空いたトレーを置いた。


 美香が声をかける。


「早瀬さん、書斎だっけ?」


「はい。写真帳を取りに」


「二階、暗いから気をつけてね。あと、奥様の書斎、空気重いよ」


「空気が」


「なんかね、入ると背筋伸びる」


「気をつけます」


「迷ったら戻ってきなよ」


「はい」


 玲央は小さく礼をし、厨房を出た。


 廊下は静かだった。


 サロンからは音楽と会話が聞こえる。客たちの注意はそちらにある。使用人たちも後片づけと給仕で忙しい。


 今なら動ける。


 玲央は大階段へ向かった。


 階段を上がる。足音は絨毯に吸われる。踊り場の大きな窓には、雨の夜が映っている。二階へ上がり、右へ曲がる。


 東側の廊下。


 壁には絵画が並ぶ。窓は少ない。灯りは控えめで、廊下の奥が少し暗い。右手に客間。左手に小さな書庫。突き当たりの手前に、重そうな木製の扉。


 書斎。


 扉の前で、玲央は一度だけ息を整えた。


 ノックする。


「早瀬莉乃でございます。写真帳を取りに参りました」


 返事はない。


 予定通り。


 玲央は扉を開けた。


 書斎は暗く、机の上のランプだけが灯っていた。


 壁一面の本棚。革張りの椅子。大きな机。古い地球儀。壁には数枚の絵。正面の壁に、やや大きな風景画がかかっている。


 あれだ。


 だが、まずは写真帳。


 玲央は扉を閉めた。鍵はかけない。鍵をかければ怪しい。新人メイドが主人に命じられ、本棚の写真帳を探している。ただそれだけに見える状態を保つ。


 右から二番目の本棚。


 下段。


 確かに、古い革表紙の写真帳があった。


 玲央はそれを抜き出し、机の脇に置いた。


 重い。


 言い訳には十分だ。


 次に、部屋を見た。


 監視カメラは見えない。だが、ないとは限らない。ランプの影、時計の中、天井の装飾。少なくとも録画されている前提で動くべきだ。となれば、金庫に触れる動作も、写真帳を探す動作の延長に見せる必要がある。


 玲央は本棚をもう少し探すふりをした。


 写真帳が複数あるか確認するように。


 それから、重そうに写真帳を持ち上げ、机へ運ぶ途中で、壁の絵を見た。


 絵は古い港町の風景だった。額縁は重厚。だが、壁との接地がわずかに不自然だ。頻繁に動かされている。


 金庫は、この裏にある。


 時計を見る。


 十一時三分。


 瑠璃子はサロンにいるはず。


 時間は短い。


 玲央は写真帳を抱え直すふりをして、絵に近づいた。


 その時、廊下の方で小さな足音がした。


 玲央は即座に動きを止めた。


 足音は近づいてくる。


 相沢か。


 瑠璃子か。


 あるいは客か。


 玲央は写真帳を両手で持ち、扉の方へ向き直った。


 ノックはなかった。


 扉が静かに開いた。


 入ってきたのは、黒江瑠璃子だった。


 玲央はすぐに頭を下げた。


「奥様。写真帳をお持ちするところでございました」


 瑠璃子は扉を閉めた。


「そう。見つかったのね」


「はい。こちらでよろしかったでしょうか」


「ええ」


 瑠璃子はゆっくりと部屋へ入ってきた。


 サロンにいたはずの彼女が、なぜここにいる。


 客はどうした。


 青の寵姫はまだ見せていないのか。


 玲央は顔を伏せたまま、視界の端で彼女の動きを追った。


 瑠璃子は机の前に立ち、写真帳を見た。


「重かったでしょう」


「少しだけ」


「無理をしないで。落とすと古い写真が傷むわ」


「はい。気をつけます」


 瑠璃子は写真帳に触れた。


 そして、壁の絵へ目を向けた。


「早瀬さん」


「はい」


「その絵、気になる?」


 玲央は沈黙しなかった。


 沈黙は肯定になる。


「立派な額でしたので、少し目に入りました」


「絵ではなく、額?」


「絵は、私には難しくて」


「難しいものを見る時、人は分かる部分を見る。あなたは額を見たのね」


「はい」


「本当に?」


 瑠璃子は、玲央を見た。


 書斎の灯りの中で、その目は温室よりも鋭く見えた。


 玲央は静かに微笑んだ。


「奥様は、私が何を見ていたと思われますか」


 言ってから、少し踏み込みすぎたと思った。


 だが、もう後戻りはできない。


 瑠璃子は、楽しそうに口元を緩めた。


「そうね」


 そして、ゆっくりと言った。


「絵の裏側かしら」


 雨の音が遠くなった。


 玲央は、早瀬莉乃の顔のまま、何も知らない新人メイドのように首を傾げた。


「裏側、でございますか」


「ええ。絵は表を見るものだけれど、裏を気にする人もいる」


「修復のお仕事をされる方でしょうか」


「泥棒もそうね」


 書斎の空気が、そこで止まった。


 玲央は微笑みを保った。


「奥様。私は――」


「冗談よ」


 瑠璃子は言った。


 だが、その声は冗談の温度ではなかった。


「そんなに緊張しないで」


「申し訳ございません」


「謝りすぎ」


「はい」


「今夜は、少し人の出入りが多いわ。書斎にも、大切なものを置いている。だから、念のため見に来たの」


「左様でございましたか」


「あなたを疑っているわけではないわ」


 瑠璃子は言った。


 玲央は思った。


 嘘だ。


 この女は、疑っている。


 しかも、疑っていることを隠していない。


 隠していないことによって、こちらの反応を見ている。


 瑠璃子は写真帳を指した。


「それを西側の客間へ。相沢が受け取るわ」


「かしこまりました」


 玲央は写真帳を持ち上げた。


 重い。


 だが、怪盗としての身体能力なら問題ない。問題があるとすれば、補正具のせいで腕と胴の動きに制限があることだ。コルセットが呼吸を浅くし、パッドが服の中でわずかに重さを作る。普段の動きとは違う。それでも、早瀬莉乃として自然に見せなければならない。


 扉へ向かう。


 瑠璃子の横を通る。


 その瞬間、瑠璃子が言った。


「早瀬さん」


「はい」


 玲央は振り返った。


 瑠璃子は、ほんの少し首を傾げていた。


「あなた、歩く時に音がしないのね」


 玲央は答えた。


「使用人は、音を立てないようにと教わりました」


「それは正しいわ」


「はい」


「でも、音を立てないことに慣れすぎている」


 玲央は、目を伏せた。


「気をつけます」


「ええ。気をつけて」


 瑠璃子は微笑んだ。


「この屋敷では、静かすぎる足音も目立つから」


 玲央は一礼し、書斎を出た。


 廊下に出た瞬間、彼は悟った。


 今夜、青の寵姫を盗むのは難しい。


 瑠璃子は、明らかにこちらを見ている。


 だが、同時に、彼女はまだ決定的な行動を取っていない。警察を呼ぶでもなく、相沢に拘束させるでもなく、ただ揺さぶっている。


 つまり、彼女はまだ確証を持っていない。


 あるいは、確証を得るために、あえて動かしている。


 ならば、ここで退くか。


 答えは否だった。


 怪盗は、罠があるからといって退くわけではない。


 罠を見極め、罠ごと盗む。


 玲央は写真帳を抱え、西側の客間へ向かった。


 廊下の角を曲がる前、ふと背後を見たい衝動に駆られた。


 だが、振り返らなかった。


 振り返れば、見られていることを意識していると伝わる。


 だから、早瀬莉乃は振り返らない。


 静かに、丁寧に、主人の命令を果たすために歩く。


 ただし、鴉羽玲央は、心の中で笑っていた。


 黒江瑠璃子。


 面白い相手だ。


 あの女は、宝石より危険かもしれない。


 そして危険なものほど、盗む価値がある。


 写真帳を客間へ運ぶと、相沢が待っていた。


「無事に持ってきましたね」


「はい」


「奥様にはお会いしましたか」


「書斎で少し」


「そうですか」


 相沢は写真帳を受け取り、机の上に置いた。


「早瀬さん」


「はい」


「奥様の前で、余計なことは言わない方がよろしい」


「先ほども、そう教えていただきました」


「もう一度言う必要があると思いました」


 玲央は深く頭を下げた。


「ご忠告、ありがとうございます」


 相沢は答えなかった。


 ただ、玲央の顔を見た。


 その目は、瑠璃子ほど鋭くはない。だが、長年この家を守ってきた人間の目だった。


 玲央は思った。


 この屋敷は、二重の鍵で閉じられている。


 一つは設備としての警備。


 もう一つは、人間の観察。


 普通の盗人なら、前者だけを破ろうとする。だが、本当に厄介なのは後者だ。


 人の目を破るには、人として騙さなければならない。


 早瀬莉乃は、そのために作られた。


 清楚で、控えめで、少し緊張していて、よく働く新人メイド。女声も、ウィッグも、メイクも、補正具も、その人物を成立させるための部品にすぎない。


 だが、黒江瑠璃子はその部品の継ぎ目を見ようとしている。


 今夜、その継ぎ目を見せるわけにはいかない。


 サロンへ戻ると、客たちはまだ歓談していた。


 瑠璃子も戻っている。何事もなかったように、遠峰と話している。書斎でのやり取りなど存在しなかったかのような顔だった。


 玲央は壁際に控えた。


 十一時十五分。


 青の寵姫はまだ出ていない。


 遠峰が瑠璃子に言った。


「黒江さん。そろそろ、例の石を拝見できる頃合いでは?」


 瑠璃子はグラスを置いた。


「そうね」


 空気が変わった。


 客たちの視線が集まる。


 玲央の内側も静かに張り詰めた。


 瑠璃子は続けた。


「ただ、今夜は雨ですし、石を移すには少し湿気が気になります。皆様には申し訳ないけれど、青の寵姫はまた別の機会に」


 客たちの間に、落胆とも安堵ともつかない空気が流れた。


 遠峰の笑みが、わずかに固まる。


 真木は目を伏せたまま。


 榊原は残念そうに笑う。


 宮園は明らかに息を吐いた。


 久世は変わらない。


 玲央は理解した。


 瑠璃子は、最初から見せるつもりがなかったのかもしれない。


 あるいは、書斎で玲央の反応を見た後、予定を変えた。


 どちらにせよ、青の寵姫は今夜、人前に出ない。


 盗む機会は遠のいた。


 しかし、玲央は焦らなかった。


 第一夜の目的は、必ずしも盗むことではない。屋敷に入り、主人を観察し、石の周辺にいる人間を見極めること。それだけでも十分な収穫だった。


 それに、十一時の書斎。


 壁の絵。


 瑠璃子の警戒。


 情報は得た。


 サロンの灯りの中で、瑠璃子がふとこちらを見た。


 また、目が合う。


 彼女は何も言わない。


 だが、その目はこう言っているようだった。


 あなたが何者か、まだ分からない。


 でも、見ている。


 玲央は、早瀬莉乃として静かに頭を下げた。


 怪盗としては、心の中で挑発に応じていた。


 見ていればいい。


 見ていても、盗む時は盗む。


 雨の夜は、まだ終わらない。


 黒江邸の灯りは、夜更けまで消えなかった。

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