表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

第5話 怪盗と女主人の契約

談話室に入った瞬間、空気が変わった。


 先ほどまでの晩餐会の余韻は、もう残っていなかった。雨の夜にふさわしい音楽も、上品な会話も、控えめな笑いも消えている。代わりにあるのは、疑いを隠そうとして隠しきれない沈黙だった。


 中央の低いテーブルの上には、赤い布が広げられている。


 その布の上に、空の宝石ケースが置かれていた。


 黒い革張りの小さなケース。内側は深い臙脂色のビロード。そこにあるはずのルビーのブローチだけが、綺麗に消えていた。


 真木沙織は、ケースの前に立っていた。


 顔色は悪い。しかし、泣き崩れるような弱さはない。宝飾商として、盗難という事態に慣れているわけではないだろう。だが、宝石を扱う人間として、価値あるものが消えた時に自分がどう見られるかはよく知っている。だからこそ、彼女は取り乱しきれずにいた。


 榊原慎吾は、腕を組んでいる。


 大柄な体を少し縮めるようにして、談話室の暖炉側に立っていた。先ほどサロンでグラスを割った張本人である。大声で謝っていた時とは違い、今は妙に口数が少ない。


 宮園透は、窓際の椅子に腰を下ろしていた。


 顔色はさらに悪い。両手を膝の上で組み、視線を床に落としている。音楽家の細い指は、わずかに震えていた。


 久世葉子は、少し離れた位置で全体を見ていた。


 彼女だけが、感情を最小限しか表に出していない。驚いていないわけではない。むしろ、状況を最も冷静に受け止めているように見える。


 そして、画商の遠峰修一。


 彼は談話室の入口近く、壁にかかった小さな風景画の下に立っていた。薄い笑みを浮かべている。今夜何度も見た、値踏みするような笑みだった。


 玲央は、その全員を見た。


 左手は拘束されている。


 ウィッグはない。


 メイクもない。


 体型補正具も外されている。


 メイド服の名残だけをまとった姿で、彼は黒江瑠璃子の隣に立っていた。少し前まで清楚な新人メイド「早瀬莉乃」として給仕していた人物が、今はまるで別人のような顔で客たちを眺めている。


 視線が集まるのは当然だった。


「黒江さん」


 最初に口を開いたのは、遠峰だった。


「その方は、先ほどのメイドさん……では、ありませんな」


 玲央はにこやかに答えた。


「早瀬莉乃です。少し髪型と顔色が変わりました」


「ずいぶん大胆な変化ですな」


「雨で乱れました」


「屋敷の中で?」


「このお邸は、いろいろありますので」


 遠峰は低く笑った。


 瑠璃子は、その軽口を切るように言った。


「説明は後にします。今はブローチの件が先です」


 談話室の空気が、再び硬くなった。


 真木が一歩前に出る。


「瑠璃子さん。申し訳ありません。私がケースを開けた時には、もう」


「あなたが謝ることではないわ。まず、状況を確認しましょう」


 瑠璃子は静かに部屋を見渡した。


「最後にブローチを見たのは?」


 真木が答える。


「サロンに移った直後です。瑠璃子さんから、こちらの談話室でケースを確認するよう言われて、その前に一度、ケースを開けました。その時には、確かに入っていました」


「ケースは、どこに?」


「私の手元に。サロンの椅子の横に置いていました」


「目を離した時間は?」


「グラスが割れた時です」


 全員の視線が、榊原に向いた。


 榊原は、困ったように両手を上げた。


「私の不注意でグラスを割ったことは認めます。しかし、それだけです。ブローチなど触ってもおりません」


 瑠璃子は答えず、玲央を見た。


「どう思う?」


 全員の視線が、今度は玲央へ向いた。


 拘束された怪盗に意見を求める。


 普通なら異常な光景だった。


 だが、この屋敷では、瑠璃子が異常を普通の顔で扱う。そうすると、周囲もそれに従わざるを得なくなる。


 玲央は肩をすくめた。


「今のところ、一番分かりやすく怪しいのは榊原さんです」


 榊原の眉が動いた。


「何ですと?」


「グラスを割り、全員の注意を集めた。その隙にブローチを盗む。手口としては単純で分かりやすい」


「私は盗んでいない」


「でしょうね」


「でしょうね?」


 榊原は困惑した。


 玲央は続けた。


「分かりやすすぎます。あなたが犯人なら、あの騒ぎは雑すぎる。しかも、奥様から飲みすぎないよう釘を刺されていたあなたが、さらに目立つ行動を取るのは危険すぎる」


 榊原は口を閉じた。


 反論したいが、自分が怪しくないと言われているので怒りきれない、という顔だった。


 玲央は真木へ視線を向けた。


「次に怪しいのは、真木さんです」


 真木は表情を変えなかった。


「私?」


「宝石の持ち主、あるいは管理者に最も近い。ケースを自分で持っていた。ブローチが消えたと最初に主張した。さらに、手袋に青い染みがありました」


 真木の目が細くなった。


「よく見ていたのね」


「メイドとして」


「その姿で言われると、説得力がないわ」


「怪盗としてならあります」


 遠峰が小さく笑った。


 真木は玲央を見たまま、静かに言った。


「あれは宝石用の布の染みです。青い石を扱った時のもの」


「青の寵姫?」


 玲央が尋ねる。


 真木は答えない。


 代わりに、瑠璃子が言った。


「真木さんには、数日前に青の寵姫の台座を見てもらったの。染みはその時のものでしょう」


「なるほど」


 玲央は頷いた。


「つまり、真木さんは怪しく見えるように材料が揃っている。手袋、宝石、ケース、第一発見者。綺麗すぎる」


「綺麗すぎると?」


 瑠璃子が問う。


「仕立てられた疑いです」


 談話室が静かになった。


 真木は少しだけ息を吐いた。


 榊原は眉をひそめる。


 宮園は顔を上げない。


 遠峰だけが、笑みを崩さなかった。


 玲央は部屋の床を見た。


 厚い絨毯。談話室へ移動する際、客たちは全員ここを通っている。靴跡は残りにくい。だが、濡れた夜の屋敷では、完全には消えない。玄関から入った時の雨、サロンでこぼれたワイン、廊下のわずかな埃。足元は、本人より正直なことがある。


「奥様」


「何?」


「真木さんのブローチは、どのようなものですか」


 瑠璃子が答えた。


「中央にルビー。周囲に小さなダイヤを配したブローチ。花の形をしているわ。大きくはないけれど、留め具に少し癖がある」


「癖?」


 真木が説明した。


「古い作りなの。普通の留め具より、少し引っかかりやすい。外すには角度が必要です」


「つまり、慣れていない人間が急いで外すと、布に引っかかる」


「ええ」


「ブローチは、サロンに移った時、真木さんの胸元についていた?」


「いいえ。ケースの中です」


 玲央は少し眉を上げた。


「つけていなかった?」


「ええ。瑠璃子さんに見せる前だったので、ケースに入れていました」


「では、犯人は真木さんの体から外したのではなく、ケースから抜いた」


「そうです」


「ケースの鍵は?」


「かけていませんでした。談話室で確認するだけのつもりでしたから」


「鍵なし。持ち運び可能。ケースは椅子の横。グラス騒ぎで一瞬目が離れた」


 玲央は呟くように整理した。


 そして、部屋を歩き出そうとして左手の拘束具が鳴った。


 瑠璃子が無言で見ている。


 玲央は肩をすくめた。


「少し歩いても?」


「逃げなければ」


「逃げられる状況ではないでしょう」


「あなたなら、そういう状況でも逃げようとする」


「信用がない」


「ないわ」


「正しい判断です」


 瑠璃子は、拘束具についた短い留めを外した。ただし、左手首の輪はそのままだ。完全に自由になったわけではない。


 玲央は軽く手首を動かし、談話室の中を歩いた。


 まず、テーブルの上の空ケースを見る。


 ケースに傷はない。


 無理にこじ開けた跡もない。


 内部のビロードに、わずかな繊維がついている。


 赤ではない。


 黒に近い緑。


 玲央は遠峰のネクタイを見た。


 深緑。


 だが、安直すぎる。


 次に、床。


 テーブルの下に、小さな銀色の点がある。


 玲央はしゃがみ、拾い上げた。


 小さな留め具の破片。


 西側客間にも似たものが落ちていた。


「相沢さん」


 玲央は入口に控えていた相沢へ声をかけた。


「西側客間で拾った銀色の留め具、まだありますか」


 相沢は瑠璃子を見た。


 瑠璃子が頷く。


「持ってきて」


「かしこまりました」


 相沢が出ていく。


 客たちは互いに顔を見合わせた。


 玲央は立ち上がり、今度はサロンへ続く扉の方を見る。


「グラスが割れた時、皆さんはどこにいましたか」


 瑠璃子が静かに言った。


「答えてください。順に」


 まず榊原が答えた。


「私はサロンの暖炉の前です。美香さんが盆を持って通ろうとした時、少し身を乗り出してしまい、袖が当たった」


「その時、真木さんのケースは?」


「見ておりません」


 玲央は頷く。


「真木さん」


「私は椅子に座っていました。ケースは右側の小テーブルに。グラスが割れたので、そちらを見ました。その後、談話室へ移動してケースを開けると、空でした」


「遠峰さん」


 遠峰は笑みを浮かべたまま答えた。


「私は窓際にいました。サロンの絵を見ていたところです。音がしたので振り返りました」


「宮園さん」


 宮園はびくりと肩を動かした。


「私は、ピアノの近くにいました。少し疲れていたので、座っていて」


「音がした時は?」


「見ました。皆さんと同じです」


「久世さん」


「私は瑠璃子さんと話していました。グラスが割れた時、榊原さんと美香さんの方を見ました」


 玲央は全員の答えを聞き終えると、遠峰へ視線を戻した。


「遠峰さん。あなたは窓際にいた」


「ええ」


「絵を見ていた」


「はい」


「その位置から、真木さんのケースは見えましたか」


 遠峰は少し考えるふりをした。


「見えたかもしれませんが、意識していませんでした」


「絵を見ていたから?」


「そうです」


「絵は嘘をつかない、とおっしゃっていましたね」


「言いましたかな」


「言いました」


「記憶力がよろしい」


「メイドなので」


「今も?」


「期間外かもしれません」


 遠峰は笑った。


 玲央は笑わなかった。


「遠峰さん。あなたは絵を見るふりで、反射を見る癖がある」


 遠峰の目が、ほんの少しだけ変わった。


「反射?」


「食堂でも、サロンでも、絵の表面や額縁の硝子を使って、部屋の人間の位置を見ていた。絵そのものより、映り込みを見ていることが何度かありました」


「画商は絵を細かく見るものです」


「画商は、絵の裏も見るんでしたね」


 瑠璃子の口元がわずかに動いた。


 書斎での会話を思い出したのだろう。


 遠峰は表情を崩さない。


「何がおっしゃりたいのかな」


「あなたは、グラスが割れる前から、真木さんのケースの位置を把握していた」


「証拠は?」


「まだありません」


 玲央はあっさり言った。


 榊原が不満そうに言う。


「証拠がないなら、疑うだけ無駄では」


「疑うのは無料です」


「失礼な」


「怪盗なので」


 瑠璃子が短く言った。


「続けて」


 玲央は頷いた。


「犯人は、グラス騒ぎの瞬間にケースからブローチを抜いた。ただし、問題がある。真木さんのケースは小テーブルの上。近づけば目立つ。全員の注意が榊原さんに向いていたとしても、完全な死角ではない」


「では、どう盗んだの?」


 瑠璃子が問う。


「直接盗んだとは限りません」


 玲央は空ケースを指した。


「ケースの中にブローチがあると、真木さんは思っていた。ですが、グラスが割れた時点で、すでに中身は別物にすり替えられていた可能性があります」


 真木が眉をひそめた。


「別物?」


「軽い偽物、あるいは重さだけを近づけた何か。蓋を閉じたままなら、気づきにくい」


「私はサロンへ移った直後に確認しました。その時は、確かに入っていました」


「見たのは、どの程度ですか」


「ケースを開けて、すぐ閉めました」


「石の輝きまで確認しましたか」


 真木は少し黙った。


「……そこまでは」


「なら、その時点ですでに偽物だった可能性はあります」


 談話室に緊張が走った。


 真木は唇を引き結ぶ。


「私が見間違えたと?」


「今夜の灯りは柔らかい。赤い布、臙脂のビロード、食後のサロン。ルビーに似た赤いものが一瞬見えれば、本物だと思い込む可能性はある」


 瑠璃子が言った。


「では、本物が消えたのは、もっと前?」


「はい。おそらく西側客間です」


 相沢が戻ってきた。


 手には小さな封筒。


 その中から、銀色の留め具の破片が出される。


 玲央は先ほど談話室で拾った破片と並べた。


 形が合う。


 完全ではないが、同じ種類の金具だった。


「これは?」


 瑠璃子が尋ねる。


「小さな飾り金具です。衣服かバッグ、あるいはケースの外装に使われていたもの。ただ、真木さんのケースには同じ欠けがない」


 玲央は遠峰を見た。


「遠峰さん。上着を見せていただけますか」


 遠峰の笑みが薄くなった。


「なぜ私の?」


「西側客間で、あなたの上着だけ位置が変わっていた」


「誰かが触ったのでしょう」


「その誰かが、あなた自身ではないと?」


「私はサロンにいました」


「ずっと?」


「ええ」


「先ほど、物音がした時も?」


「それは、グラスの件ですかな」


「その前です。宮園さんの演奏中、廊下で小さな音がしました。美香さんが西側客間を確認しに行った。上着の位置が変わっていた。あなたはその時、サロンにいたと?」


「もちろん」


 玲央は宮園を見た。


「宮園さん」


 宮園の肩が跳ねた。


「はい」


「あなたは演奏中、廊下の音に反応しましたね」


「……音が聞こえたので」


「何の音だと思いましたか」


「分かりません」


「本当に?」


 宮園は黙った。


 瑠璃子が静かに言う。


「宮園さん。答えてください」


 宮園は唇を震わせた。


「……扉の音です」


「どこの?」


「西側の、客間の方だと思いました」


「なぜ、そう分かったんです」


「一度、聞いていたからです」


 玲央の目が細くなった。


「一度?」


 宮園は苦しそうに言った。


「晩餐会の前に、遠峰さんが客間に入る音を聞きました。私はピアノを確認しにサロンへ行こうとしていて、その時、遠峰さんが西側客間から出てくるのを見たんです」


 遠峰の笑みが、完全に止まった。


「宮園さん。それは記憶違いです」


「いいえ」


 宮園は震える声で続けた。


「あなたは私に、何も見なかったことにしてほしいと言った」


 談話室がざわめいた。


 榊原が遠峰を見る。


 真木も遠峰を見る。


 久世は目を細めた。


 遠峰は、まだ崩れない。


「宮園さんはお疲れのようです。演奏後から顔色も悪い。記憶が混乱しているのでは」


「混乱していません」


「では、なぜ今まで黙っていたのです」


 宮園は答えられなかった。


 玲央が代わりに言った。


「怖かったからでしょう」


 宮園は顔を伏せた。


「遠峰さんは、ただの画商ではありません。来歴の曖昧な品を扱う噂がある。宮園さんは巻き込まれたくなかった。だから黙っていた。けれど、盗難が起きたことで黙っていられなくなった」


 遠峰は冷ややかに言った。


「噂だけで人を犯人にするのですか」


「いいえ」


 玲央は、遠峰の足元を見た。


「靴です」


「靴?」


「あなたの靴の右側だけ、底の縁に赤い色がついている」


 遠峰は動かなかった。


 玲央は続ける。


「サロンでワインがこぼれた時、皆さんの視線は床の染みに向いた。けれど、あなたはその前に一度、染みの端を踏んでいます。おそらく、ブローチを移動させる時に近くを通った。その後、談話室へ来た」


「赤い色など、誰の靴にもつくでしょう」


「ええ。だから、それだけでは証拠にならない」


「では」


「あなたの靴底には、赤いワインだけでなく、銀色の粉もついているはずです」


 遠峰の顔から、余裕が少しだけ消えた。


「銀色の粉?」


 瑠璃子が問う。


 玲央は机の上の留め具を示した。


「この金具は、壊れた時に細かい粉が出る。西側客間で一つ目が壊れ、談話室で二つ目が落ちた。犯人は、同じ仕掛けを二度使った。おそらく、偽のケースか、上着の内側に作った一時的な留め具です」


 真木が低く言った。


「一時的な留め具……」


「ブローチを素早く隠すためです。小さなポケットでは膨らむ。手に持てば見つかる。だから、上着の内側に一時的に固定する。動いても落ちないように。けれど、急ごしらえの金具が壊れた」


 遠峰は笑おうとした。


 だが、笑みは戻らなかった。


「想像力が豊かですな」


「怪盗なので」


「便利な言葉だ」


「ええ。あなたも使いますか?」


 瑠璃子が相沢へ指示した。


「遠峰さんの上着を確認して」


 遠峰が声を硬くした。


「黒江さん。客人の持ち物を調べるおつもりですか」


「ええ」


「失礼では?」


「私の屋敷で盗難が起きています」


「私は拒否します」


「拒否なさるなら、警察を呼んでから調べてもらいます」


 遠峰は沈黙した。


 その沈黙が、部屋の全員に答えを与え始めていた。


 相沢が使用人に指示し、西側客間から遠峰の上着が運ばれてきた。深い黒の上着。丁寧に仕立てられている。遠峰はそれを見ても表情を変えなかった。


 相沢は手袋をはめ、上着の内側を確認した。


 そして、動きを止めた。


「奥様」


「何かあった?」


「内側の縫い目に、不自然な補修があります」


 玲央は言った。


「右の内ポケットの下では?」


 相沢は驚いたように玲央を見た。


「その通りです」


 遠峰の額に、薄い汗が浮いた。


 相沢はさらに確認し、小さな布片を取り出した。そこには、銀色の金具の残りがついていた。


 そして、その裏側。


 赤い石の粉のようなものが、わずかについていた。


「ブローチは?」


 瑠璃子が尋ねた。


 相沢は首を振る。


「ここにはありません」


 遠峰がすぐに言った。


「ほら、ご覧なさい。何も出てこない」


 玲央は静かに言った。


「移した後だからです」


「どこへ?」


「あなたは、サロンの混乱に乗じてブローチを上着の内側に固定した。その後、談話室へ移動する間に、別の場所へ移した」


「証拠は」


「あります」


 玲央は、談話室の壁の風景画へ歩いた。


 遠峰が先ほど立っていた場所。


 壁には、小さな絵がかかっている。海辺の風景。額縁は古いが、特別高価なものではない。だが、額の下に飾り棚があり、その上に陶器の小さな鳥の置物があった。


 玲央はその置物を見た。


 鳥のくちばしの下。


 赤いものが、かすかに見える。


「奥様。触っても?」


「どうぞ」


 玲央は置物を持ち上げた。


 中が空洞になっている。


 底に、小さな布が詰められていた。


 布を取り出す。


 その中から、赤い光が現れた。


 ルビーのブローチ。


 花の形に組まれた石が、談話室の灯りを受けて静かに輝いた。


 真木が息を呑んだ。


 瑠璃子は表情を変えなかった。


 遠峰は、ついに笑みを失った。


「遠峰さん」


 玲央はブローチを布ごと瑠璃子へ渡しながら言った。


「絵を見るふりで壁際に立っていたのは、ここへ隠すためだった。上着の内側に固定したままでは危険ですからね。後で客が帰る時、何食わぬ顔で回収するつもりだった」


「……証拠にならない」


 遠峰は低く言った。


「誰でもそこに置ける」


「その通りです」


 玲央は頷いた。


「だから、最後は癖です」


「癖?」


「あなたは絵を見る時、必ず右手を額縁の下に添える。食堂でもサロンでもそうだった。絵に近づく口実として自然だからです。でも、この談話室の絵だけ、額縁に触れていない。代わりに、すぐ下の置物の位置を変えた」


「見ていたのか」


「メイドとして」


 遠峰は、初めて玲央を正面から睨んだ。


 その目には、画商の薄い余裕ではなく、追い詰められた人間の硬さがあった。


 瑠璃子が静かに言った。


「遠峰さん。説明を」


 遠峰は答えない。


「なぜ、真木さんを疑わせるようにしたの?」


 真木が声を震わせた。


「私に罪を着せるつもりだったのですか」


 遠峰は、しばらく沈黙した後、低く笑った。


「罪を着せる? 大げさですな。少し混乱させるだけのつもりでした」


「盗んでおいて、少し?」


 榊原が怒ったように言う。


「黙っていていただきたい。あなたのグラス騒ぎがなければ、ここまでうまく進まなかったのですから」


「何だと?」


「遠峰さん」


 瑠璃子の声が、榊原の怒声を止めた。


「あなたは榊原さんの不注意を利用したの? それとも、最初から誘導したの?」


 遠峰は答えない。


 玲央が代わりに言った。


「誘導でしょうね。榊原さんは身を乗り出しやすい。酒が入るとさらに動きが大きくなる。奥様に酒を控えめにされても、癖までは消えない。遠峰さんはそれを見て、美香さんが盆を持って通る位置を予測した」


 美香が、入口のそばで顔を青くした。


「私……」


 玲央は彼女へ視線を向け、少しだけ声を柔らかくした。


「あなたのせいではありません。通る場所を選ばされたんです」


 美香は唇を噛んだ。


 瑠璃子は相沢へ言った。


「遠峰さんを警備室へ。警察に連絡して」


「かしこまりました」


 警備員が入ってくる。


 遠峰は抵抗しなかった。


 ただ、玲央の前を通る時、低く言った。


「怪盗が探偵の真似事とは、悪趣味ですな」


 玲央は笑った。


「泥棒を見るには、泥棒の目がいるんです」


「あなたも同じ穴の狢だ」


「否定はしません」


「いつか足をすくわれますよ」


「さっき、すでにすくわれました」


 遠峰は一瞬だけ言葉を失い、それから苦い顔で警備員に連れられていった。


 扉が閉まる。


 談話室に、長い沈黙が落ちた。


 真木は瑠璃子からブローチを受け取り、震える指で確認した。


「本物です。傷もありません」


「よかった」


 瑠璃子は短く言った。


 真木は深く頭を下げた。


「瑠璃子さん、本当に申し訳ありません」


「あなたのせいではないわ」


「でも、私がもっと注意していれば」


「それを言うなら、私が今夜この会を開かなければよかったことになる」


「それは」


「今夜は、欲を持った人間が多すぎた。それだけよ」


 瑠璃子の言葉に、誰もすぐには答えなかった。


 榊原は気まずそうに咳払いをした。


「黒江さん。私は本当に、グラスの件は」


「分かっています」


「疑われたまま帰るのは、少々」


「榊原さん」


「はい」


「次からは、袖に気をつけて」


「……はい」


 榊原はそれ以上言えなくなった。


 宮園は、ゆっくり立ち上がった。


「黒江さん。私も、黙っていてすみませんでした」


「怖かったのでしょう」


「はい」


「次からは、怖くても早めに言ってください」


「はい」


 久世は瑠璃子へ近づき、小さく言った。


「今夜は、ずいぶん高くついた誕生日会でしたね」


「ええ。でも、得たものもありました」


 久世の視線が玲央へ向いた。


「そちらの方ですか」


「その判断は、これから」


 玲央は肩をすくめた。


「私は、できれば判断対象から外していただきたい」


 久世は初めて少し笑った。


「無理でしょうね」


「でしょうね」


     *


 客たちが帰るまで、黒江邸は静かな緊張に包まれていた。


 警察への連絡は相沢が行った。遠峰は警備室で待機させられ、事情聴取を受けることになった。真木はブローチをケースに戻し、相沢に預けた。榊原は何度も瑠璃子へ謝り、宮園は青ざめた顔のまま帰り支度をした。久世だけは、最後まで落ち着いて瑠璃子と短く言葉を交わしていた。


 玲央は、その間ずっと談話室の隅にいた。


 左手の拘束具は外されていない。


 逃げる機会は、何度かあった。


 いや、正確には、逃げられそうに見える瞬間はあった。


 玄関ホールで客たちが帰る時。


 警備員が遠峰へ意識を向けた時。


 相沢が電話対応で離れた時。


 しかし、どの瞬間にも瑠璃子の視線があった。


 見ていないようで、見ている。


 背を向けているようで、逃げ道だけは塞いでいる。


 黒江瑠璃子という女主人は、屋敷そのもののようだった。見える扉より、見えない鍵の方が多い。


 最後の客が帰った時、時刻は深夜を過ぎていた。


 雨は止んでいた。


 玄関の外には、濡れた石畳が鈍く光っている。車の音が遠ざかると、黒江邸はようやく本来の静けさを取り戻した。


 相沢が玄関扉を閉める。


 重い音が響く。


 瑠璃子は、玲央へ向き直った。


「さて」


 玲央は言った。


「次は私の番ですか」


「ええ」


「警察へ?」


「その前に、話があるわ」


「取り調べなら、弁護士を呼びたいですね」


「怪盗にも弁護士がいるの?」


「必要な時は」


「今は必要ないわ」


「それは奥様の判断では」


「この屋敷では、私の判断で十分よ」


 玲央は笑った。


「独裁的ですね」


「女主人だから」


「便利な肩書き」


「あなたの怪盗ほどではないわ」


 瑠璃子は、相沢へ言った。


「証拠品を持って書斎へ。玲央さんも」


「かしこまりました」


 玲央は歩き出した。


 ウィッグもなく、メイクもなく、補正具もない。メイド服も、もはや変装としての力を失っている。袖や襟の形だけが、早瀬莉乃という人物の残骸のように残っていた。


 廊下の鏡に、自分の姿が映る。


 玲央は足を止めなかった。


 鏡の中の男は、敗北していた。


 だが、完全に負けた顔ではなかった。


 書斎に入ると、港町の絵は元の位置に戻されていた。金庫も閉じられている。青の寵姫は、その向こうで静かに眠っているはずだった。


 玲央は、その壁を見た。


 盗めなかった。


 あと少しだった。


 いや、あと少しと思わされた時点で、瑠璃子の罠にはまっていたのだろう。


 瑠璃子は机の前に座った。


 相沢は証拠品を机の上に並べる。


 ウィッグ。


 メイク道具。


 補正パッド。


 コルセット。


 袖口の道具。


 偽造書類。


 小さな金属片の袋。


 玲央はそれらを眺めた。


「丁寧に並べますね」


 相沢が答える。


「管理の基本です」


「返却の基本でもあると嬉しいんですが」


「返却予定はありません」


「でしょうね」


 瑠璃子は、机の上のウィッグを指で軽く押さえた。


「早瀬莉乃」


 その名を、彼女は静かに言った。


「よくできていたわ」


「ありがとうございます」


「あなたを褒めているというより、作品を評価しているの」


「私も作品の一部です」


「そうね」


 瑠璃子は玲央を見た。


「だから、壊すのは少し惜しかった」


「十分壊しましたよ」


「完全には壊していないわ」


「どこが?」


「また作れるでしょう」


 玲央は目を細めた。


 瑠璃子は続けた。


「ただし、私の許可なくは作れない」


 書斎の空気が、少し変わった。


 玲央は、瑠璃子の意図を測る。


「どういう意味ですか」


「あなたを警察に引き渡すのは簡単です。偽名で屋敷に入り、金庫を開け、宝石を盗もうとした。証拠もある」


「そこは認めていません」


「まだ?」


「はい」


「では、こう言い換えるわ。証拠は十分ある」


「否定しづらいですね」


「でも、今夜あなたはブローチを取り戻す手伝いをした」


「手伝わされました」


「結果は同じ」


「法的には違うかと」


「法的な話をしたい?」


「いいえ。負けそうなので」


 瑠璃子は小さく笑った。


「そこで、提案です」


「嫌な予感しかしません」


「正しい予感ね」


 相沢が少し眉をひそめた。


「奥様」


「分かっているわ。危険なのは承知している」


 玲央は相沢を見た。


「私は危険人物扱いですか」


「当然です」


「即答ですね」


「当然ですので」


 瑠璃子は、机の上で指を組んだ。


「玲央さん。あなたを警察に渡さない代わりに、しばらく私の監視下に入ってもらいます」


「監視下」


「名目は、臨時助手」


「助手?」


「または、防犯顧問」


 玲央は思わず笑った。


「怪盗を防犯顧問に?」


「泥棒の考えることは、泥棒が一番よく知っているでしょう」


「さっきも似たことを言いましたね」


「ええ。採用したの」


「著作権料をいただきたい」


「給料から引いておくわ」


「給料が出るんですか」


「必要最低限は」


「待遇が気になります」


「拘束されている立場で?」


「待遇交渉は大事です」


 瑠璃子は、少し呆れたように息を吐いた。


「本当にしぶとい」


「怪盗なので」


「その言い訳にも慣れてきたわ」


「いい傾向です」


 相沢が冷静に割って入った。


「奥様。この者を邸内に置くのは危険です」


「分かっている」


「再び盗みに入る可能性が」


「あるでしょうね」


「でしたら」


「だから監視するの。相沢、あなたにも手伝ってもらうわ」


 相沢は沈黙した。


 主の決定に反対したい。


 だが、瑠璃子の判断はすでに固い。


 玲央は、瑠璃子へ尋ねた。


「私に拒否権は?」


「あるわ」


「意外ですね」


「拒否するなら警察へ」


「それは拒否権と言いますか」


「選択肢は二つある」


「片方が崖ですね」


「崖から落ちるか、私の屋敷で働くか」


「どちらも危険です」


「でも、あなたは危険なものが好きでしょう」


 玲央は、壁の港町の絵を見た。


 その裏には、青の寵姫がある。


 瑠璃子の監視下に入る。


 つまり、黒江邸へ合法的に出入りできる。


 青の寵姫に再び近づく機会を得る。


 もちろん、瑠璃子はそれを承知している。


 承知したうえで、誘っている。


 罠だ。


 だが、罠であることが分かっているなら、それは通路にもなる。


 玲央は椅子の背に軽く寄りかかった。


「条件を確認しても?」


「どうぞ」


「私は警察に引き渡されない」


「今夜の件については、保留にする」


「保留」


「完全に帳消しとは言っていないわ」


「でしょうね。次は?」


「あなたはしばらく黒江邸の防犯点検に協力する。必要に応じて、屋敷の警備上の穴を指摘すること」


「泥棒目線で」


「ええ」


「青の寵姫にも近づけますか」


 相沢が鋭く玲央を見た。


 瑠璃子は笑った。


「正直ね」


「どうせ考えていることは分かっているでしょう」


「ええ。近づけるわ。ただし、私の立ち会いのもとで」


「金庫は?」


「開けさせない」


「残念」


「当然」


 玲央は机の上の証拠品へ視線を落とした。


「それらは?」


「預かります」


「全部?」


「全部」


「ウィッグも?」


「ええ」


「メイク道具も?」


「ええ」


「補正具も?」


「もちろん」


「それでは早瀬莉乃が作れません」


「だから預かるの」


 玲央は黙った。


 瑠璃子の意図は明確だった。


 彼を雇うのではない。


 彼の変装人格を人質に取る。


 早瀬莉乃は、玲央が自由に使える仮面ではなくなる。瑠璃子の許可がなければ、あの姿は再構成できない。ウィッグ、メイク、補正具、書類。すべてが瑠璃子の管理下に置かれる。


 玲央にとって、それは警察に渡されるのとは別種の屈辱だった。


 自分の技術を押収される。


 自分の作品を保管される。


 自分の仮面を、相手の鍵付きの棚にしまわれる。


「奥様」


「何?」


「趣味が悪い」


「四度目かしら」


「数えていたんですか」


「ええ」


「やっぱり趣味が悪い」


「五度目ね」


 瑠璃子は楽しそうだった。


 玲央は深く息を吐いた。


 コルセットを外した後の呼吸は、まだ少し違和感がある。身体は自由になったはずなのに、どこか軽すぎる。早瀬莉乃の形を失ったことが、体の感覚まで変えていた。


「私が逃げたら?」


 玲央が尋ねる。


「証拠を警察へ渡す」


「私がまた盗みに入ったら?」


「今度は捕まえる」


「今夜は捕まえたのでは?」


「今夜は、まだ遊びの範囲にしてあげている」


 玲央は笑った。


「怖いですね」


「六度目」


「記録更新を狙います」


「好きにして」


 瑠璃子は、相沢へ向いた。


「書類を用意して。臨時防犯顧問としての契約書。守秘義務、行動制限、屋敷内での立ち入り範囲、証拠品の預かりについて明記して」


「本気でございますか」


「ええ」


「承知いたしました」


 相沢はまだ不満そうだったが、従った。


 書斎の棚から便箋と書類用紙が取り出される。瑠璃子は万年筆を手に取り、必要事項を口頭で指示していった。相沢がそれを整えていく。


 玲央は、その様子を眺めていた。


 まるで、逮捕ではなく雇用手続きだった。


 いや、実際にはその両方だ。


 雇用という名の拘束。


 契約という名の首輪。


 ただし、首輪の先には青の寵姫がある。


 玲央は、笑みを消さなかった。


 負けた。


 それは認める。


 だが、負けた場所に留まることで、次の勝ち筋が見えることもある。


 相沢が書類を机に置いた。


「こちらです」


 瑠璃子は目を通し、玲央へ差し出した。


「読んで」


「細かい字ですね」


「怪盗なら読めるでしょう」


「怪盗は小さい字に強い職業ではありません」


「金庫のわずかな傷は見るのに?」


「それとこれは別です」


 玲央は書類を読んだ。


 内容は想像以上に厳密だった。


 黒江邸および黒江瑠璃子に関する情報を外部に漏らさないこと。


 許可された場所以外へ立ち入らないこと。


 瑠璃子または相沢の指示に従うこと。


 危険物、解錠具、偽造書類を持ち込まないこと。


 変装用具一式は黒江邸が一時保管すること。


 必要に応じて、瑠璃子の管理下でのみ使用を許可すること。


 契約違反時には、今夜の証拠一式を警察へ提出すること。


 よくできている。


 腹が立つほどに。


 玲央は顔を上げた。


「完全に不利な契約ですね」


「交渉してもいいわ」


「本当に?」


「ええ」


「では、青の寵姫を月に一度見せてください」


「却下」


「交渉の余地がない」


「別の条件なら」


「屋敷内で紅茶を出してください。薄めでなくてもいいです」


「それは認めるわ」


「では、給料を少し上げてください」


「働き次第」


「厳しい」


「当然」


「早瀬莉乃の道具は、状態を保って保管してください。雑に扱われると困ります」


 瑠璃子は少しだけ真面目な顔になった。


「それは約束する」


 玲央は意外そうに彼女を見た。


 瑠璃子は続けた。


「あなたの変装は、雑に扱うには惜しい。証拠品であると同時に、技術の結晶でもある。保管は相沢に任せるわ」


 相沢が頷く。


「責任を持って管理します」


 玲央は、少しだけ目を細めた。


「ありがとうございます」


「褒めていません」


「今回は礼です」


 相沢は黙った。


 玲央は万年筆を持った。


 左手の拘束具は、まだ手首についている。右手で署名する。


 鴉羽玲央。


 その名を、契約書の下へ書いた。


 瑠璃子はそれを見て、満足そうに頷いた。


「これで契約成立」


「悪魔との契約みたいですね」


「失礼ね」


「では、女主人との契約」


「それでいいわ」


 瑠璃子も署名した。


 黒江瑠璃子。


 二つの名前が、同じ紙の上に並んだ。


 怪盗と女主人。


 盗もうとした者と、暴いた者。


 敗者と勝者。


 ただし、その関係はまだ固定されていない。


 玲央はそう思った。


     *


 契約後、玲央の拘束具はようやく外された。


 手首に薄い跡が残る。


 玲央はそこを軽くさすった。


「自由になった気がしませんね」


 瑠璃子は答えた。


「実際、自由ではないもの」


「正直ですね」


「あなたには、回りくどく言っても無駄でしょう」


「助かります」


 相沢が証拠品を箱へ収めていく。


 ウィッグは専用の布に包まれ、メイク道具は別の小箱へ。補正具は丁寧に折りたたまれ、コルセットも形が崩れないように保管される。


 玲央はそれを見ていた。


 早瀬莉乃が箱にしまわれていく。


 それは、不思議な光景だった。


 自分が作り上げた架空の人物が、目の前で物として分解され、分類され、保管されていく。早瀬莉乃は玲央の中にいるのではなく、ウィッグやメイクや補正具や声や仕草の組み合わせとして、確かに存在していたのだと思い知らされる。


 瑠璃子が言った。


「寂しい?」


「まさか」


「嘘」


「少しだけ」


「正直でよろしい」


「作品を取り上げられた気分です」


「取り上げたのではないわ。預かったの」


「返す気は?」


「必要があれば」


「奥様にとって必要があれば、でしょう」


「ええ」


 玲央は笑った。


「本当に勝手な人だ」


「泥棒に言われたくないわ」


「今日はそれも何度目かですね」


「数えるのをやめたわ」


「賢明です」


 相沢が箱を閉じた。


「奥様、こちらは保管庫へ」


「ええ。青の寵姫とは別に」


 玲央はすぐに反応した。


「別なんですか」


「当然でしょう。あなたに場所を教えると思う?」


「言ってみただけです」


「顔に出ていたわ」


「メイクがないと不便ですね」


「分かりやすくて助かる」


 相沢が証拠品の箱を持って出ていった。


 書斎には、瑠璃子と玲央だけが残った。


 雨は完全に止んでいた。


 窓の外には、雲の切れ間から薄い月明かりが差している。濡れた庭が銀色に光り、黒江邸の夜はようやく静かに沈み始めていた。


 玲央は、壁の港町の絵を見た。


「青の寵姫は、まだあそこに?」


「聞いてどうするの?」


「確認です」


「盗むための?」


「鑑賞のための」


「嘘」


「混ざっています」


 瑠璃子は席を立ち、絵の前へ歩いた。


 玲央は動かない。


 動けば、契約直後に疑われる。


 いや、もう十分疑われている。


 瑠璃子は絵に触れず、ただその前に立った。


「あの石は、あなたには盗ませない」


「そう言われると、盗みたくなります」


「でしょうね」


「奥様は、人の欲を煽るのが上手い」


「あなたは、煽られなくても来たでしょう」


「否定できません」


 瑠璃子は振り返った。


「玲央さん」


「はい」


「次はもっと上手くやる、と思っているでしょう」


 玲央は黙った。


 瑠璃子の目は、またあの観察者の目だった。


 温室で初めて会った時と同じ。


 声、手、視線、歩き方、嘘。


 すべてを見て、そこからこちらの奥を読む目。


 玲央は、ゆっくり笑った。


「そこまで見抜かれると、やりにくいですね」


「でも、やめないでしょう」


「契約しましたから」


「契約は、盗みを許可するものではないわ」


「分かっています」


「本当に?」


「はい」


 玲央は、港町の絵を見た。


 その奥に青の寵姫があるかどうかは、もう問題ではない。


 あの石は、黒江邸の中心にある。


 そして、黒江瑠璃子という女主人の中心にもある。


 盗むなら、石だけを盗んでも意味がない。


 彼女の観察を越え、屋敷の仕組みを越え、早瀬莉乃を剥がされた敗北を越えなければならない。


 それは難しい。


 だからこそ、面白い。


「奥様」


「何?」


「一つだけ訂正しておきます」


「どうぞ」


「次はもっと上手くやる、とは思っていません」


 瑠璃子は黙って続きを待った。


 玲央は笑った。


「次は、あなたに見抜かれても盗めるようにします」


 瑠璃子の口元が、静かに上がった。


「それは楽しみね」


「怖くないんですか」


「七度目?」


「今のは質問です」


「怖くはないわ」


「なぜ?」


「あなたがそう言うと思っていたから」


 玲央は、少しだけ目を細めた。


 やはり、この女は厄介だ。


 瑠璃子は机に戻り、契約書を封筒に入れた。


「今夜は客室を使いなさい。逃げてもいいけれど、その場合は明日の朝、証拠一式が警察に届く」


「本当に信用がない」


「ないわ」


「分かりました。泊まります」


「相沢に案内させる」


「メイド服は?」


「着替えを用意させるわ。その格好では落ち着かないでしょう」


「早瀬莉乃の名残ですからね」


「名残は箱にしまったわ」


「ひどい」


「必要なら、また出してあげる」


「奥様の許可制で?」


「ええ」


「ますますひどい」


「でも、あなたは受け入れた」


 玲央は反論しなかった。


 受け入れた。


 契約書に署名した。


 警察を避けるため。


 青の寵姫に近づくため。


 そして何より、黒江瑠璃子という相手に敗北したまま終わるのが嫌だったから。


 瑠璃子は呼び鈴を鳴らした。


 相沢がすぐに現れる。


「客室へ案内して。見張りは廊下に一人。鍵は外からかけないでいいわ」


「よろしいのですか」


「ええ。かけても、この人なら気にするでしょう」


 玲央は言った。


「かけられたら開けたくなります」


「ほらね」


 相沢は深くため息をついた。


「承知いたしました」


 玲央は書斎を出る前に、もう一度だけ港町の絵を見た。


 絵は静かだった。


 その裏にある青い石も、きっと静かだろう。


 だが、今夜の静けさは終わりではない。


 始まりだ。


 怪盗が女主人に敗れ、契約を結び、屋敷に残る。


 その奇妙な関係の始まり。


 廊下へ出ると、夜明け前の冷たい空気が漂っていた。


 相沢が前を歩く。


 玲央はその後ろに続いた。


「相沢さん」


「何でしょうか」


「私、明日から何をすれば?」


「まず、敬語を安定させてください」


「そこから?」


「そこからです」


「厳しいですね」


「あなたには厳しくする必要があります」


「信用がないので?」


「当然です」


 玲央は笑った。


 黒江邸の廊下は、まだ暗い。


 だが、最初にこの屋敷へ入った時とは違う。


 あの時、彼は偽りのメイドとして潜入した。


 今は、正体を暴かれた怪盗として、正式にこの屋敷の中へ組み込まれようとしている。


 屈辱的だ。


 危険だ。


 不利だ。


 だが、悪くない。


 客室の前で、相沢が立ち止まった。


「こちらをお使いください。廊下には警備が立ちます。無断で出歩かないように」


「はい」


「それと」


「何でしょう」


「早瀬莉乃としての仕事ぶりは、悪くありませんでした」


 玲央は少し驚いた。


 相沢は表情を変えない。


「ただし、次に使用人を名乗るなら、水仕事の手元から学んでください」


 玲央は、少しだけ笑った。


「ご指導ありがとうございます」


「褒めていません」


「分かっています」


 相沢は部屋の扉を開けた。


「お休みなさい」


「お休みなさい」


 扉が閉まる。


 客室は静かだった。


 玲央は窓際へ歩き、外を見た。


 雨上がりの庭。


 濡れた石畳。


 遠くの空は、少しだけ白み始めている。


 長い夜だった。


 怪盗として潜入し、メイドとして給仕し、金庫を開け、女主人に捕まり、ウィッグを奪われ、メイクを落とされ、補正具を外され、別の盗人を暴き、最後には契約書に署名した。


 散々な夜だ。


 けれど、玲央は笑っていた。


 負けた。


 だが、終わっていない。


 早瀬莉乃は箱にしまわれた。


 しかし、消えたわけではない。


 青の寵姫も、黒江瑠璃子も、この屋敷も、まだここにある。


 次はもっと上手くやる。


 いや、もっと正確に言えば――。


 次は、黒江瑠璃子に見抜かれたまま、その上を行く。


 そう思った瞬間、部屋の外から小さな声がした。


「聞こえているわよ」


 玲央は固まった。


 扉の向こう。


 瑠璃子の声だった。


 どうやら、彼女は相沢と入れ替わるように廊下へ来ていたらしい。


 玲央は扉を見た。


「心の声まで聞こえるんですか」


「顔に出ていたわ」


「扉越しに?」


「あなたなら、そう考えると思っただけ」


 玲央は笑った。


 本当に、厄介な女だ。


 扉の向こうで、瑠璃子が静かに言った。


「お休みなさい、玲央さん。明日から、しっかり働いてもらうわ」


「お休みなさい、奥様」


 玲央は少し間を置き、付け加えた。


「次は、もっと上手くやります」


 扉の向こうで、瑠璃子が笑った気配がした。


「ええ。期待している」


 足音が遠ざかる。


 玲央は窓の外へ視線を戻した。


 夜明け前の黒江邸は、静かだった。


 青の寵姫はまだ盗まれていない。


 女主人はまだ負けていない。


 怪盗も、まだ諦めていない。


 雨に濡れた庭の向こうで、朝の光が少しずつ屋敷の輪郭を浮かび上がらせていく。


 その光の中で、玲央は静かに笑った。


 早瀬莉乃は剥がされた。


 鴉羽玲央は捕まった。


 それでも、物語は終わらない。


 黒江瑠璃子の屋敷で、怪盗の次の仕事が始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ