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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第9章 消せなくなりました、とようやく言えた

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第48話 妻です

 侯爵夫人からの招待状は、丁寧な筆跡で書かれていた。


 「婚礼前のお食事会に、ぜひいらしてください」——晩餐会の形式をとった社交的な集まり。出席者はピョルティン侯爵夫人の人脈が中心。要するに、社交界がフィリーネを「公爵夫人として見るかどうか」の最後の確認をする場だ、とフィリーネにはわかっていた。婚礼まで20日を切った今、この時期に来る招待の意味は、1つだった。


「……行くか」


 セドリックが外出の準備をしながら言った。聞いているのか確認しているのか、判断のつかない短さだった。


「はい」


 フィリーネは答えた。


「管理者としてではなく」


 セドリックが言いかけた。「妻として」と続けようとして——止めた。


「……行こう」


 それだけ言って、耳が赤くなっていた。フィリーネは何も言わなかった。



 晩餐会の会場に入ると、視線が集まった。以前と違う。「品定め」の視線ではなく「確認」の視線だ。公爵夫人候補として見ている目と、まだ「本当に公爵夫人になれるのか」という目が、室内に混在していた。


 侯爵夫人が近づいてきた。


「フィリーネ様、ようこそ」と優雅に言う。「確か以前は、伯爵家次女のご立場でしたわね」と続ける。「今は——何でいらっしゃるの」


 試している目だった。攻撃ではない。でも「何でいらっしゃるの」という問いは、「管理者か妻かどちらか」を聞いていた。


 22年前の声が聞こえた気がした。「あなたの職業は」「伯爵家の次女です」「それは職業なのか」「この家では——」


「妻です」


 フィリーネは言った。一呼吸の間もなく。


 言った後で、自分が即答したことに少し驚いた。「管理者として」という心構えが、どこかに落ちていた。


 侯爵夫人が一瞬、目を細めた。それから——「そうですね」と言った。



 食卓についてから、空気が変わった。


 以前なら、フィリーネは席順や給仕の段取りを先に把握して動いていた。今日は——把握したが、動かなかった。来客のために整える人間としてではなく、席についている人間として、ただいた。それだけのことが、ずいぶん違う。


 セドリックは右隣にいた。会話の切れ目に、一度視線が来た。何かを言う前に戻った。耳が、少し赤かった。


 菓子の皿が回ってきた。レモンが入っていた。手が伸びた。——自分がレモンを選んだのか、公爵家の管理カードに「レモン系統を好まれる」と書いた記憶が手を動かしたのか、区別がつかなかった。どちらでもよかった。——どちらでもよくなった、というのが、正しいかもしれない。


 侯爵夫人が別の方向で誰かと話している声が届いた。フィリーネの方角を向いていない。でも声の先がどこを向いているかは、わかった。


 向こう側に座った夫人が声をかけてきた。「以前から公爵家の管理を——」と言いかけた。


 セドリックが先に言った。


「私の妻です」


 短かった。余計な音がない。


 夫人が一瞬止まった。「……ええ、もちろん」と答えた。


 フィリーネは食器を持ったまま、動かなかった。


 「私の妻です」と言われた。管理者でも候補でも婚約者でもなく——妻。セドリックが口から出したその言葉が、耳の中でもう一度鳴った。


 横目で見た。耳が、真っ赤だった。気づいていた。気づかれたと気づいている。それでも前を向いていた。



 屋敷に戻ると、廊下にヘルマンがいた。


「お帰りなさいませ。いかがでございましたか」


「問題ありませんでした」


「左様でございますか」


 ヘルマンが記録帳を取り出しかけて、フィリーネと目が合って、止めた。止めた後で少しだけ目を細めて、廊下の奥に消えた。消えかけて——消える直前に、黒い表紙をそっと開いていた。フィリーネは何も言わなかった。


 書斎に戻ると、机の上に継ぎ接ぎの茶碗があった。来客用の白磁とは別に、ずっと使ってきた古い陶器。取っ手を小麦糊で継いで、それでも使い続けている。


 背後に気配があった。


「まだ捨てていないのか」


 セドリックだった。継ぎ接ぎの茶碗を見ている。


「捨てる理由がありませんので」


「白磁が揃っている」


「来客のための白磁と、これは別のものです」


 セドリックが少し黙った。


「……別の」


「私のものです。22年、私のものはこれだけでした」


 また黙った。今度の沈黙は、少し質が違った。


 フィリーネは茶碗を手に取った。取っ手の糊の跡を、指先で一度だけ確かめた。伯爵家にいた頃から持ち続けてきた。割れた器を捨てずに継いで、使い続けた。何のためかは考えていなかった。今は——わかる気がした。「私のもの」が1つだけあったことの、証拠だったのだと思う。継いだのは誰かのためではなかった。捨てなかったのも、来客のためでも屋敷の管理のためでもなかった。自分が使うから、持っていた。それだけだった。それだけで、十分だった。


「……婚礼のあとも、持つか」


「持ちます」


 間があった。短い。


「……ああ」


 セドリックの声が、少し低くなった。耳がまた赤かった。今日は何度見ても赤かった。見るたびに視線を外そうとして——外せなかった。外せなくなっていた。


 フィリーネは茶碗を棚に戻した。棚の上に、来客用の白磁が6客並んでいる。その隣に、1つだけ陶器がある。数が違う。形が違う。それでも——並んでいる。



 窓の外が暗くなっていた。


 庭のカモミールは、まだ咲いていない。蕾のまま、ただそこにある。1日1度だけ水をやっている鉢が——ある。


 「妻です」と言えた。0.3秒も要らなかった。言葉が口から出る前に下書きを探したが——下書きがなかった。「管理者として」という文字は、どこにも見当たらなかった。事実だったから、だ。事実は下書きしない。


 「私の妻です」とセドリックが言った。その言葉も、事実だった。事実は、音として鳴って、耳の中に残る。まだ残っている。消えない。


 消えないものが、また増えた。


 明後日、実家に寄る用がある。


 父の庭に何が咲いているか、思い浮かべてみた。バラとダマスクの生け垣。22年間、それだけだった——はずだった、とずっと思っていた。


 止まった。


 確認しに行こう、と思った。「確認したい」という気持ちを、0.5秒だけ確かめた。消えなかった。消えなかったので——行くことにした。

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