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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第9章 消せなくなりました、とようやく言えた

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第49話 白い花が、咲いていた

 実家の庭に、カモミールが咲いていた。


 門を入ってすぐ、白い小さな花が目に入った。フィリーネは足を止めた。父の庭には以前、バラとダマスクの生け垣が中心だった。カモミールはなかった。あるはずがなかった。


「フィリーネ」


 父が庭にいた。じょうろを持っていた。以前のじょうろより小さいものを、新しく買ったらしかった。庭仕事に慣れていない手で、根元に少しずつ水をやっている。


「……カモミールを、植えたのですか」


「ああ」


 父は短く言った。「何杯水をやればいいかを、ようやく調べた」


 22年間、庭の花の名前を1度も聞いたことがなかった人間が——調べた。水の量を。


 フィリーネは手を出さなかった。手が動きかけたが、止めた。父が自分でやっている。それでいい。それがいい。


「……バラには、根元に1杯です。葉にはかけないでください」


「知っている。書いてあった」


「……どこに」


「庭仕事の本を買った。3冊」


 父が少し照れたような顔をした。22年間、フィリーネに全部任せていた人間の顔だった。その顔を見て——フィリーネは笑いそうになった。声は出さなかった。


「バラには、何杯だ、と聞かなくてよくなった」


 父が言った。じょうろを根元に傾けながら。


 22年間で、初めて聞いた言葉だった。「聞かなくてよくなった」——それが父の言い方だった。「ありがとう」でも「すまなかった」でもなく、それだけ。でも——フィリーネには全部聞こえた。


 カモミールが庭の隅で揺れていた。白く、小さく。


 花言葉は逆境に耐える力——かつて父に伝えた言葉が、頭の中を通り過ぎた。耐える力、と言っていた。でも今は。今は、もう、耐えているのではないと思う。越えた。そういうことだと思う。庭仕事の本を3冊、自分で買った人間のいる庭に、カモミールが咲いている。


 それだけで十分だった。


 厨房に寄った。棚の前に立つ。47番の壺の並びを確認する癖が出かけて——止めた。そうではなく、もっと手前の棚を見る。6客の白磁の揃いの茶碗——その隣に、7番目が加わっていた。揃いではない。別の窯元の、少し形の違う白い茶碗。でも、丁寧に誂えた1客だとわかった。


 フィリーネが伯爵家を出た日から、父が誂えたのだ。


 手を伸ばして、7番目の茶碗に触れた。


 ——席が、ある。


 棚の前にしばらく立っていた。「いつ誂えたのか」は聞かなかった。聞かなくてもわかった。フィリーネが伯爵家を出た日に——いや、出ると決まった日に、父は動いたのだ。言葉でではなく、窯元に連絡を取ることで。


 帰り際、父が庭から声をかけた。


「——公爵に、よろしく伝えてくれ」


 22年間一度も聞いたことのない言葉だった。フィリーネは少しの間、答えを探した。


「……はい」


 それだけ返した。父はもう水をやり始めていた。


 門を出るとき、カモミールが1度だけ風に揺れた。


 公爵邸に戻ると、廊下の入り口でヘルマンが待っていた。珍しい立ち方だった——背筋は正しいが、目元がわずかに赤かった。


「フィリーネ様。お戻りになりました」


「……ヘルマン、どうされましたか」


「いいえ」とヘルマンは言った。一拍置いてから——「本日、閣下がお茶を80度で入れることに成功されました」と続けた。


 フィリーネは少し考えた。


「……厳守されたのですね」


「はい。温度計で3度、計り直しました。誤差は0.2度以内でございます」


 ヘルマンの声が、わずかに揺れた。


「……初めてでございます、閣下が」


 廊下の奥から、低い声がした。


「ヘルマン」


「……承知いたしました」


 記録帳を取り出しかけた手が止まった——が、指がわずかに動いているのが見えた。フィリーネは何も言わなかった。初めての日は、書いておいた方がいい。止める理由がない。


 ヘルマンが一拍置いてから、言った。


「……なお、記録帳の最後の1ページは、まだ空欄でございます。いつか、閣下がお書きになる日が来ると存じます」


 それだけ言って、ヘルマンは廊下の奥に引っ込んだ。


 最後の1ページ。フィリーネはその言葉を、少しの間、頭の中に置いた。ヘルマンは全部わかっている。わかった上で、空欄にしてある。


 廊下の先にセドリックが立っていた。


「……部屋を見てほしい」


 珍しい言い方だった。案内されるままに部屋に入ると——窓辺の鉢に、小さな白い花が咲いていた。


 フィリーネは一歩進んで、止まった。


「……咲いた」


「1日1度だけ水をやった」


 セドリックが後ろから言った。


「——3度やると溺れますので」


「……わかっている。教えてもらったことがある」


 バラの話だ。1列全滅したあの話だ。フィリーネは口元を押さえた。——「笑っているか」「笑っておりません」「口元が動いている」——あの日と同じやりとりが、違う場所で起きている。


「……笑っておりません」


「口元が動いている」


「——風です」


 今度は二人とも、声を出して笑った。


 笑い声が短く響いて、静かになった。


 窓辺の花が揺れていた。


「……ありがとうございます」


 フィリーネは言った。セドリックに向かって。言葉を選ばずに言えた。今日1日の全部を含めて——それだけで足りた。


 セドリックが黙った。


「……何が」


 また「何が」だった。フィリーネはそれを聞いて——今度は笑わなかった。


「全部です」


 セドリックが振り返らなかった。耳が、少し赤かった。


 窓の外が暗くなり始めていた。明日が婚礼だ——その言葉が頭の中で静かに落ちた。来る。ついに来る。


 夜になった。


 フィリーネは自室に戻った。水やりの桶を持ちかけて——持った。自分の鉢に水をやるために。誰かの分ではなく、自分の分の水だった。


 花が揺れた。白く、小さく。


 今日、空だったものが満ちた。父の庭のカモミール。棚の7番目の茶碗。80度のお茶。窓辺のこの白い花。どれも小さかった。でも全部、あった。全部、あったのだ——今日初めて気づいたものも、最初からそこにあったものも。


 逆境に耐える力——という花言葉を、今日から使わなくていいと思った。耐えた。越えた。


 部屋を出ようとして——カーテンの丈が目に入った。


 まだ、少し短かった。


 以前のフィリーネなら、直していた。入室のたびに気になって、測って、直して——そういう手を持つ人間だった。


 今日は、動かなかった。手が動かなかったのではない。動かさなかった。


 理由をうまく言えなかった。でも——直さなくていいと思った。それだけだった。


 窓辺の花が、暗くなった外でまだ白く見えた。

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