第47話 下の段に、戻す気はありません
書斎の本棚を整理することにした。
約束があった。「本棚を主題別に並べ替えます」とお見合いの席で言った。それがいつの間にか後回しになっていた——後回し。自分で言いながら、口元が少し動きそうになった。
消せなくなりました、と言った翌朝だった。頭の中が整理しきれないとき、手を動かせば落ち着く。長いこと使ってきた癖だった。今日もその癖を使おうとしていると気づきながら——使った。それでいい、と思った。今は。
あの言葉を言ったことを、後悔しているかと確認した。していなかった。そのことを確認したことを、さらに確認した。止まった。——この癖も、長い。
本を1冊ずつ確認しながら並べていくと、棚の中に妙なゾーンができていることに気づいた。主題別でも50音順でもない。どう見ても「閣下が最近読んだ順」としか思えない配置だった。農事の本の隣に、紋章学の論文集。その隣に、香辛料の貿易史。脈絡がない——いや、読んだ順なら脈絡はある。この人の頭の中では。
「……これは」
「閣下の管轄かと存じます、フィリーネ様」
いつの間にかリナルドが書斎の扉のところに立っていた。確認に来たのだろう。30年この屋敷を守ってきた目が、棚を見ていた。「触れるな」とも「直せ」とも言っていない。ただ静かに、閣下の管轄だと言っている。
フィリーネは棚の1冊を元の場所に戻した。主題別に直そうとしたが——やめた。
「……閣下の基準も、悪くないかもしれません」
最初から持っていた言葉を、今日は声に出してみた。リナルドが少し目を細めた。何か言いかけて、止めた。
次の棚に移った。農事の本、法令集、紋章録——下の段に、手が触れた。
花の図鑑だった。
取り出す。革張りの表紙。公爵邸に初めて来た日、上の段に1冊だけ置いてあった本。あの日、「花の名前を調べるのが好きなのです」と言ってしまって——すぐに「業務報告の言葉ではない」と打ち消した。その後、棚の下の段に戻してあった。どこかで、戻していた。
ページをめくった。丁寧な図版。バラ、ライラック、ダマスク。その次のページで、手が止まった。
カモミールだった。
白い花弁。黄色い芯。花言葉の欄に「逆境に耐える力」と書いてある。22年間、この言葉をどこかで知っていた。伯爵家の窓辺に、枯れた茎のまま残してあった鉢があった。捨てるのも後回しにしていた。逆境に耐える力——その言葉を、いつか自分に当てていた。いつからかは、もう覚えていない。
今は。
今は違う気がした。
逆境を耐えているのではない。ここに来た。選んで来た。バラを全滅させた話を笑い、やかんを壊した記録を読み、記録帳の字を追いながら——ここにいる。耐えていたのではなく、来ていた。
「……もう、耐えているのではないと思います」
独り言だった。声が出た。リナルドが何も言わない。それでいい、と体が判断した。図鑑を持ったまま、フィリーネは棚の1番上の段を見た。そこには今、空きがある。
22年前のことを思った。伯爵家の書斎で、同じ本を下の段に押し込んでいた。来客の目に触れないように。「好き」は業務報告の言葉ではないから——だから隠した。あの家では、それが正しいことだった。
「……前任の奥様も、花の本がお好きでした」
リナルドが言った。静かに。
「そうでしたか」
「棚を整えるときに、1番好きなものを1番上においておられました」
フィリーネは花の図鑑を持ったまま、1番上の段の空きを見た。
手が動いた。
誰かのために動いたのではなかった。来客のためでも、屋敷の管理のためでも、後回しにしてきたものを片付けるためでもない。22年間で初めて、そういう動き方をした手だった。
「下の段に戻す気はありません」
置いた。1番上の段に。
リナルドが黙った。長い沈黙だった。フィリーネは手を離した。本の背表紙が、棚の上段でまっすぐ立っている。
「……よろしいかと存じます、フィリーネ様」
30年、この屋敷を守ってきた声が、そのひとことを言った。
フィリーネは振り返らなかった。
振り返れば、何かが顔に出る。今日は——それが構わなかった。構わない、と気づいた時点で、また少し何かが変わった。
「よろしい」と言われた。それはリナルドの承認だ。フィリーネが「よろしい」かどうかを決めるのは自分だ。でも——そのひとことは、棚の上の本と一緒に、ここに置いていい。
リナルドが書斎を出る気配がした。フィリーネは棚の前にもう少しだけ立っていた。
花の図鑑の背表紙を、1本指で触れた。
「好き」は業務報告の言葉ではない。でも、上の段に置いた行為には、業務は関係なかった。
「好き」を持っていい——その言葉が、声になる前に、手が先に知っていた。
本棚の整理を続けた。農事、法令、紋章、植物。主題別に並べ終えると、棚が静かに揃っていた。閣下の「最近読んだ順」のゾーンだけはそのままにした。それでいい、とまた思った。
廊下に出ると、ヘルマンが待っていた。
「フィリーネ様。ピョルティン侯爵夫人からお手紙が届いております」
差し出された封筒は、厚みのある上質な紙だった。開けると、丁寧な筆跡の招待状が入っていた。
「婚礼前のお食事会に、ぜひいらしてください」
フィリーネは招待状を持ったまま、少し考えた。ピョルティン侯爵夫人。社交界の重鎮。婚礼まで30日を切った今、この時期に招かれる晩餐会の形式をとった集まり——意味は、1つだった。社交界がフィリーネを「公爵夫人として見るかどうか」を、最後に確かめる場だ。
「……ヘルマン。閣下にお伝えしておいてください」
「承知いたしました」
「……管理者としてではなく、行くつもりです」
言ってから、少し驚いた。言葉が先に出た。
ヘルマンが何も言わずに頷いた。廊下の奥に消えかけて——消える直前に、黒い記録帳らしき表紙をそっと開いていた。フィリーネは何も言わなかった。
窓の外を見た。光が、書斎の方から届いていた。
上の段の花の図鑑が、そこにある。耐えているのではない花の話が書いてある本が。
来月、この廊下を花嫁として歩く。その前に、今日、棚に1冊の本を置いた。
招待状を、折り返した。




