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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第9章 消せなくなりました、とようやく言えた

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第47話 下の段に、戻す気はありません

 書斎の本棚を整理することにした。


 約束があった。「本棚を主題別に並べ替えます」とお見合いの席で言った。それがいつの間にか後回しになっていた——後回し。自分で言いながら、口元が少し動きそうになった。


 消せなくなりました、と言った翌朝だった。頭の中が整理しきれないとき、手を動かせば落ち着く。長いこと使ってきた癖だった。今日もその癖を使おうとしていると気づきながら——使った。それでいい、と思った。今は。


 あの言葉を言ったことを、後悔しているかと確認した。していなかった。そのことを確認したことを、さらに確認した。止まった。——この癖も、長い。


 本を1冊ずつ確認しながら並べていくと、棚の中に妙なゾーンができていることに気づいた。主題別でも50音順でもない。どう見ても「閣下が最近読んだ順」としか思えない配置だった。農事の本の隣に、紋章学の論文集。その隣に、香辛料の貿易史。脈絡がない——いや、読んだ順なら脈絡はある。この人の頭の中では。


「……これは」


「閣下の管轄かと存じます、フィリーネ様」


 いつの間にかリナルドが書斎の扉のところに立っていた。確認に来たのだろう。30年この屋敷を守ってきた目が、棚を見ていた。「触れるな」とも「直せ」とも言っていない。ただ静かに、閣下の管轄だと言っている。


 フィリーネは棚の1冊を元の場所に戻した。主題別に直そうとしたが——やめた。


「……閣下の基準も、悪くないかもしれません」


 最初から持っていた言葉を、今日は声に出してみた。リナルドが少し目を細めた。何か言いかけて、止めた。


 次の棚に移った。農事の本、法令集、紋章録——下の段に、手が触れた。


 花の図鑑だった。


 取り出す。革張りの表紙。公爵邸に初めて来た日、上の段に1冊だけ置いてあった本。あの日、「花の名前を調べるのが好きなのです」と言ってしまって——すぐに「業務報告の言葉ではない」と打ち消した。その後、棚の下の段に戻してあった。どこかで、戻していた。


 ページをめくった。丁寧な図版。バラ、ライラック、ダマスク。その次のページで、手が止まった。


 カモミールだった。


 白い花弁。黄色い芯。花言葉の欄に「逆境に耐える力」と書いてある。22年間、この言葉をどこかで知っていた。伯爵家の窓辺に、枯れた茎のまま残してあった鉢があった。捨てるのも後回しにしていた。逆境に耐える力——その言葉を、いつか自分に当てていた。いつからかは、もう覚えていない。


 今は。


 今は違う気がした。


 逆境を耐えているのではない。ここに来た。選んで来た。バラを全滅させた話を笑い、やかんを壊した記録を読み、記録帳の字を追いながら——ここにいる。耐えていたのではなく、来ていた。


「……もう、耐えているのではないと思います」


 独り言だった。声が出た。リナルドが何も言わない。それでいい、と体が判断した。図鑑を持ったまま、フィリーネは棚の1番上の段を見た。そこには今、空きがある。


 22年前のことを思った。伯爵家の書斎で、同じ本を下の段に押し込んでいた。来客の目に触れないように。「好き」は業務報告の言葉ではないから——だから隠した。あの家では、それが正しいことだった。


「……前任の奥様も、花の本がお好きでした」


 リナルドが言った。静かに。


「そうでしたか」


「棚を整えるときに、1番好きなものを1番上においておられました」


 フィリーネは花の図鑑を持ったまま、1番上の段の空きを見た。


 手が動いた。


 誰かのために動いたのではなかった。来客のためでも、屋敷の管理のためでも、後回しにしてきたものを片付けるためでもない。22年間で初めて、そういう動き方をした手だった。


「下の段に戻す気はありません」


 置いた。1番上の段に。


 リナルドが黙った。長い沈黙だった。フィリーネは手を離した。本の背表紙が、棚の上段でまっすぐ立っている。


「……よろしいかと存じます、フィリーネ様」


 30年、この屋敷を守ってきた声が、そのひとことを言った。


 フィリーネは振り返らなかった。


 振り返れば、何かが顔に出る。今日は——それが構わなかった。構わない、と気づいた時点で、また少し何かが変わった。


 「よろしい」と言われた。それはリナルドの承認だ。フィリーネが「よろしい」かどうかを決めるのは自分だ。でも——そのひとことは、棚の上の本と一緒に、ここに置いていい。


 リナルドが書斎を出る気配がした。フィリーネは棚の前にもう少しだけ立っていた。


 花の図鑑の背表紙を、1本指で触れた。


 「好き」は業務報告の言葉ではない。でも、上の段に置いた行為には、業務は関係なかった。


 「好き」を持っていい——その言葉が、声になる前に、手が先に知っていた。


 本棚の整理を続けた。農事、法令、紋章、植物。主題別に並べ終えると、棚が静かに揃っていた。閣下の「最近読んだ順」のゾーンだけはそのままにした。それでいい、とまた思った。


 廊下に出ると、ヘルマンが待っていた。


「フィリーネ様。ピョルティン侯爵夫人からお手紙が届いております」


 差し出された封筒は、厚みのある上質な紙だった。開けると、丁寧な筆跡の招待状が入っていた。


 「婚礼前のお食事会に、ぜひいらしてください」


 フィリーネは招待状を持ったまま、少し考えた。ピョルティン侯爵夫人。社交界の重鎮。婚礼まで30日を切った今、この時期に招かれる晩餐会の形式をとった集まり——意味は、1つだった。社交界がフィリーネを「公爵夫人として見るかどうか」を、最後に確かめる場だ。


「……ヘルマン。閣下にお伝えしておいてください」


「承知いたしました」


「……管理者としてではなく、行くつもりです」


 言ってから、少し驚いた。言葉が先に出た。


 ヘルマンが何も言わずに頷いた。廊下の奥に消えかけて——消える直前に、黒い記録帳らしき表紙をそっと開いていた。フィリーネは何も言わなかった。


 窓の外を見た。光が、書斎の方から届いていた。


 上の段の花の図鑑が、そこにある。耐えているのではない花の話が書いてある本が。


 来月、この廊下を花嫁として歩く。その前に、今日、棚に1冊の本を置いた。


 招待状を、折り返した。

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