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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第9章 消せなくなりました、とようやく言えた

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第46話 消せなくなりました

 翌朝、棚の前でセドリックが何かを書いていた。


 フィリーネは廊下から見えたその背中を、一瞬だけ見て――止まった。近づかないつもりだった。朝の時間はそれぞれ動く。でも、何を書いているのか気になった。


 48番の壺だった。ラベルを書いている。字が、少し歪んでいる。


 「フィリーネ」と書いてあった。


 手が、動かなかった。足も。フィリーネは廊下の入り口に立ったまま、棚を見ていた。47番の壺の隣に、自分の名前が書いてある。誰かが書いた。――この屋敷の主が、自分で書いた。


「……字が下手なのはわかっている」


 セドリックが振り返らずに言った。気づいていたのだ。


「善処では――」


 言いかけて、止まった。


 止まったのは、「善処」という言葉が出たからではなかった。


 何か、別のものが先に来た。昨夜記録帳を読んで、ひと晩かけて、消化しきれなかったものが。「最初から全部書いていた」という事実が。「フィリーネ様が初めて笑われた日」という記録が。窓辺の鉢に1日1度水をやり続けた手が。――全部が、棚の上の字に重なった。


「……消せなくなりました」


 自分の声だとわかった。口から出たとわかった。


 セドリックが振り返った。


 フィリーネは自分が今何を言ったのかを、頭の中でもう一度確かめた。「消せなくなりました」と言った。22年間、0.3秒で消してきたものが――今日は消えなかった。消えなかったのではなく、消せなくなっていた。いつからかは、わからない。


「……何が」


 セドリックの声は低かった。耳が赤くなっていた。


 フィリーネは答えを探した。何が、と聞かれたら――何と答えればいいのか。22年分の「消した」を一言で言い表す言葉を、持っていなかった。


「わかりません」


 正直に言った。


「……でも、消えませんでした。ずっと」



 沈黙があった。


 セドリックが壺を棚に戻した。静かな音だった。フィリーネは、その手を見ていた。昨日も見た手だった。記録帳を渡すよう指示した手。バラを溺らせた手。鉢に1度だけ水をやり続けた手。ラベルに歪な字を書いた手。


 「消せなくなりました」という自分の声が、まだ耳の中にあった。22年間で初めて出た言葉の音を、フィリーネは頭の中でもう一度確かめた。確かめても、取り消したいとは思わなかった。思わなかったことが、少しだけ意外だった。


 セドリックの耳を、見た。


 赤かった。今日も、赤かった。


 いつも見えていた。見えるたびに、視線を外していた。気づいたら何かが変わる、と思っていたのかもしれない。気づかなかったことにする癖が、22年あった。今日は、外さなかった。外せなかった。外せなくなっていた。


「……記録させていただきますか」


 廊下の角から、ヘルマンが言った。


「するな」


 セドリックが言った。耳が赤いまま。


「承知いたしました」


 音は立てなかったが、ヘルマンの手が動いていた。書いていた。フィリーネにはそれが見えた。見えたが、何も言わなかった。


 セドリックがヘルマンを見た。ヘルマンが手帳を上着の内側に収めながら「事実を申し上げたまでです、閣下」と言いかけて、「……失礼いたしました」と言い直して廊下に消えた。



 2人になった。


 フィリーネは棚の48番目の壺を見た。昨日、自分で貼ったラベルがある。「フィリーネ」と自分で書いた字で。今朝、その壺に――もう1枚。同じ名前だが、字が違う。歪んでいる。


 でも書いた。


 記録帳の中に、フィリーネの名前が何度も書いてあった。「フィリーネ嬢の笑声を初めて聞いた」「フィリーネ嬢が窓から見ていた」「フィリーネ嬢が初めて笑われた日付」。フィリーネという名前が、最初のページから最後のページまで、何度も出てきた。管理者として記録されていたのではなかった。フィリーネという人間として、書かれていた。


 そして今朝、同じ手が、壺の上に字を書いた。


「……字は下手だ。わかっている。だが書いたのは本当のことだ」


 セドリックが言った。壺を見たまま。フィリーネを見ていなかった。


 フィリーネも壺を見た。「フィリーネ」という字が2つある。1つは自分で書いた。1つは――この屋敷の主が書いた。


 昨夜の記録帳の最初のページと、棚の上の壺が、同じ場所に重なった。


 最初から。


 手が動きかけた。止まった。――止まった理由が、今日は違った。消そうとしたのではなかった。どこに向かって動けばいいか、わからなかっただけだった。


「……ありがとうございます」


 声が出た。業務報告の語尾ではなかった。挨拶でもなかった。言葉に形がなかった。ただ、出た。


 セドリックが一瞬、動きを止めた。耳が――さらに赤くなった。


「……わかった」


 それだけ言った。


 「わかった」は、セドリックがよく使う言葉だった。でも今日の「わかった」は、何かが多かった。何が多いのかはわからなかった。ただ、多かった。



 その日の午後、フィリーネは書斎に入った。


 手帳が机の上にある。窓辺のカモミールが、不恰好な角度のまま、まだそこにある。整えなかった。今日も整えなかった。整えなかったことに、もう理由を探さなかった。


 「消せなくなりました」という声が、まだ耳の中にあった。自分の声だった。言ってしまった、という後悔は来なかった。来なかったことが、少し意外だった。22年間、何かが口から出るたびに訂正してきた。業務の言葉ではない、と。感情の名前ではない、と。今日は――訂正しなかった。「消せなくなりました」は事実だった。事実は訂正できない。


 本棚を見た。


 「本棚を主題別に並べ替えます」とお見合いの席で言った言葉を、思い出した。いつの間にか後回しになっていた。――後回し。自分で思い浮かべて、口元が少し動いた。声は出さなかった。


 明日、整えよう。


 自分のために、でよかった。


 その判断が来るまでに、0.5秒より少しだけ時間がかかった。かかったが、来た。それで十分だった。


 書斎の窓が白かった。日が傾き始めていた。棚の本の背表紙が、夕方の光で細く光っている。主題別でも50音順でもない配置が、棚の一角にあった。閣下の管轄だ、とフィリーネはぼんやり思った。明日、近づいてみよう。


 明日。


 言葉にならないまま、その一文字だけが、今日の最後に残った。

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