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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第9章 消せなくなりました、とようやく言えた

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第45話 記録者注、風ではなかった

 翌朝、廊下にヘルマンがいた。


 書斎へ向かおうとしたフィリーネに、「フィリーネ様」と短く呼びかけた。いつもなら「少々よろしいでしょうか」という前置きがある。今日はなかった。


 差し出されたのは、黒い手帳だった。表紙がへたっている。長く使ってきた物の質感だった。


「閣下からのご指示でございます」


 フィリーネは受け取った。重かった。厚みが、想像より厚かった。


「初日から、ずっと書いておりました」


 ヘルマンが言った。声は平静だったが、速さが少し違った。言葉を選んでいる、という静けさだった。


「閣下の耳が赤くなった回数と、フィリーネ様が初めて笑われた日付が、含まれております」


「……閣下の、失敗の記録では」


「左様でございます。ただ——それだけでは、ございません」


 間があった。ヘルマンが続けた。


「閣下は、フィリーネ様がいらした日の翌日から、何かを書くようになりました。以前は、なかったことでございます」


 それだけ言って、ヘルマンは廊下の奥に引っ込んだ。


 フィリーネは手帳を持ったまま、書斎に向かった。誰もいない朝の書斎。いつもの椅子に座って、表紙を開いた。


 日付が書いてある。一番最初のページ——日付は、最初の訪問の日だった。


 読み始めた。


 最初の数ページは確かに失敗の記録だった。「閣下、やかんを火にかける際に蓋を閉め忘れ、厨房の天井が黒くなった」「茶葉7種取り寄せ。全て『違う』」。


 次のページで、手が止まった。


「第一回訪問帰路——フィリーネ嬢の笑声を、初めて聞いた。閣下の耳が赤くなった(3秒)。記録者注:風ではなかった」


 フィリーネは自分の手が、膝の上で組まれていることに気づいた。指を押さえようとした——押さえられなかった。手の力が、少し、抜けていた。


 何月何日のことが、ここに書いてある。あの日のことを書いた記録が——こんな場所にあった。



 読み続けた。


「温度計を鍋に落とした。湯が濁った。フィリーネ嬢が窓から見ていた(本人に気づかれていない様子)」


 気づいていた。あの日、窓越しに鍋の傍で何かが落ちる音がした。見えていた。でも声をかけなかった。かける立場ではないと思っていた。


 そのことを——誰かが書いていた。


「靴を3足履き替えたが全て合わず、帰り際に石畳で泥を踏んだ。帰宅後、1足目を磨いていた。フィリーネ嬢の部屋の前で足が止まっていた時刻と、合致する」


 合致する、とだけ書いてあった。「閣下の靴が汚れたのは、フィリーネ嬢の部屋の前に立っていたためと思われる」とは書いていなかった。推測を書かない。事実だけ並べる。それがヘルマンの記録の作法だった。


 事実だけが並んでいた。並んでいるだけで、全部わかった。


 さらにページをめくった。


「バラの苗、1列全滅(水を3度やりすぎた)。フィリーネ嬢への報告を検討したが、閣下が『自分でやる』と言うため保留」「左利きの器具を取り寄せたが閣下は右利き。理由の説明なし。フィリーネ嬢が左利きであることを確認済み」


 手の、息が止まった。


 左利きの器具。取り寄せた理由をヘルマンに説明しなかった。説明しない理由があったからだ。


 管理能力を確認する記録なら、フィリーネの笑声は書く必要がない。カーテンの丈が直らなかった日は、欠点として記録すべきだった。でも——「直さなかった」とだけあった。評定なしで。


 管理者を見ていた記録ではなかった。


 フィリーネを見ていた記録だった。最初の訪問の日から。


 フィリーネは顔を上げた。書斎の窓が白かった。日が上がり切っていた。どれだけ読んでいたか、数えなかった。


 ページを戻した。「合致する」の前後を、もう一度読んだ。読んだ。手が動きかけた——止まった。何をしようとしたのか、自分でも判断できなかった。



 最後のページまで読んだ。


 最後から2枚目のページに、昨日の日付があった。「フィリーネ様、棚の48番目の壺にラベルを貼る。フィリーネ、と書かれていた。閣下への報告は不要と判断」


 不要と判断。ヘルマンが決めた。セドリックには伝えなかった。


 最後の1ページが、白かった。


 何も書いていなかった。余白だけがあった。何かが来る前に止まっていた——あるいは、何かのために空けてあった。どちらか、ヘルマンに訊くべきではないと思った。


 フィリーネはそのページで手帳を止めた。しばらく動かなかった。



 午後、扉を叩く音がした。


「フィリーネ様。お茶の時間でございます」


 ヘルマンだった。フィリーネは手帳を膝の上に置いたまま、「参ります」と言った。


「……記録帳は、お手元に届きましたでしょうか」


「受け取りました」


「……よろしゅうございました」


 ヘルマンの声に、何年分かが乗っていた。


「なお」とヘルマンが続けた。「最後の1ページは、まだ空欄でございます。いつか——閣下が書かれる日が来ると、存じます」


 フィリーネは手帳を見た。白いページが、そこにある。


「……記録は——」


 言いかけた。「記録は要りません」と言おうとした。——言えなかった。


 0.5秒、遅れた。別の言葉が出た。


「……わかりました」


 ヘルマンが少しだけ目を細めた。


「承知いたしました、フィリーネ様。——ありがとうございます」


 最後の一言が、予測と少し違った。フィリーネはヘルマンを見た。ヘルマンはすでに扉を向いていた。廊下に消えた。


 「ありがとうございます」はヘルマンが言った。受け取ったのはフィリーネのはずなのに——感謝していたのは、ヘルマンの方だった。その順番が、少しだけ腑に落ちた。



 書斎に、静けさが戻った。


 手帳が手の中にある。


 「やかんを壊した」「温度計を鍋に落とした」「靴を3足履き替えた」——全部覚えている。聞くたびに笑っていた。失敗の記録だと思っていた。でも——


 笑い話の間に、フィリーネの名前が書いてあった。


 笑った日が書いてあった。直さなかったカーテンが書いてあった。部屋の前に止まっていた時刻が書いてあった。管理者として正確だった日ではなく——フィリーネがそこにいた日が、書いてあった。


 最初から。


 手が動きかけた。今度は止まらなかった。手帳の表紙を、静かに閉じた。


 棚の48番目の壺がある。「フィリーネ」と書いたラベルが貼ってある。昨日、自分で貼った。消したくなったか——消したくなかった。今日も、消したくない。


 机の上に、昨日受け取ったカモミールが1輪ある。まだ角度が不恰好なままだ。整えなかった。


 何かが、今日もまだ消えなかった。


 その何かに名前をつけようとして——止まった。


 名前は、まだわからなかった。

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