第39話 不恰好な花が、届いた
昨夜、ヘルマンが言った言葉がまだ頭にあった。珍しいものをお探しだ、という言葉が。
何が珍しいのかはわからなかった。珍しいという言葉の向きも、お探しという言葉の意味も——今朝になっても判断できなかった。判断できないまま、廊下に出た。
昨日まで何かがあった場所が、今日は空いていた。カミーラ・レオンハルトの撤退が制度として完結した翌朝だった。外から来ていた圧力が消えた後の空間は、ただ広く、静かだった。広いことは良いことのはずで、静かなことも良いことのはずで——そのはずのものが、今朝だけ、少し、扱いにくかった。
壁があった場所を通ると、何もなかった。それだけのことだった。
いつもの朝の順番通りに、手を動かした。動かすことが、今日は少しだけ助かった。
窓辺の鉢が目に入った。
土の上に、緑があった。爪先ほどの高さで、何かが出ていた。いつから出ていたのかはわからなかった。今朝初めて気づいた。
「芽が出ました」と言おうとした。廊下には誰もいなかった。言葉が戻った。
なぜかわからないが——言いたくなかった。言葉にしてしまう前に、少しだけ、自分だけで見ていたかった。
鉢の前を離れた。
◇
厨房を通ったとき、ヘルマンが角から現れた。手帳を脇に抱えていた。
「フィリーネ様、丁度よろしゅうございました。閣下が本日の朝、外出先でお求めになりました」
「——何を」
「花でございます。花屋に一人でお入りになりまして、自らお選びになりました。ただいま食堂のテーブルに置いてございます」
食堂に入った。テーブルの上に花束があった。白と薄紫。カモミールと別の何かが混じっていた。束ねる角度が整っていなかった。短い茎と長い茎が均等でなく、最も大きな花が外を向いていなかった。水に差しても、半分は傾く。
22年間で見てきた花束の中で、最も不恰好だった。カモミールの茎が他の花より5センチほど長く、全体の重心が右に寄っていた。水に差した人間は気づいていないか、気づいていて直さなかったかのどちらかだった。
「……大変不恰好でございます」とヘルマンが言った。手帳に何かを書きながら、言った。
「閣下が、ご自分でお選びになったのですか」
「はい。1時間ほどご覧になっていたとのことでございます。自ら手に取られました」
1時間。選ぶのに1時間かかる、ということだった。1時間かけて選んだ結果が、これだった。
フィリーネは花束の前に立った。指が動いた。茎を揃える向きで、自然に、指が伸びた——止まった。
手を下ろした。そのままにした。
「……記録いたしました」とヘルマンが言った。何を記録したかは言わなかった。手帳を閉じた。
◇
書斎にセドリックがいた。机の前に立って書類を読んでいた。入ったフィリーネに目を上げた。
「……花は、届いたか」
「はい。ありがとうございます」
間があった。「……不恰好だったか」
「——はい」
「……わかっている」
フィリーネは少し息を忘れた。わかっていた。1時間選んで、わかっていた。それでも、持ってきた。——その順番が、今、書斎の中にあった。
書斎を見回して、本棚の並びが変わっていることに気づいた。
「……本棚が」
「並べ替えた」
「何の順に」
「読んだ順だ」
フィリーネは本棚の前に立った。著者名でも年代でもなかった。ジャンルでもなかった。1冊手に取った。背表紙の端に、細い字で日付が書いてあった。セドリックの筆跡だった。読んだ日の記録だった。本棚全体が、読んだ日付の順に並んでいた。1冊1冊に、時間が刻まれていた。
「あなたの基準で並べ直していい」とセドリックが言った。
「……今日はこのままで構いません。閣下の基準も——悪くはないかもしれませんので」
廊下の方で、ヘルマンが何かを書く音がした。セドリックの耳が少し赤くなった。フィリーネは気づかなかった。
「……そうか」
2人で本棚の前に並んだ。しばらく、どちらも動かなかった。並べ直す話も、並べ直さない話も、出なかった。棚を見ながら、しばらくそのままでいた。
◇
昼前、庭に出た。
手入れは昨日もしていた。確認の意味で歩いた。バラの根元。低木の縁。石畳の目地。歩くたびに、枯れた花殻を探す手が動いた。22年の癖だった。手が動く前に目が探す。摘む。進む。また摘む。それが、フィリーネが庭を歩く意味だった。
庭の端、陽の当たる一角に来たとき——手が止まった。
カモミールがあった。以前から植わっていた。誰にも特に手入れされることなく、半ば野生のように生えていた。今日——蕾があることに気づいた。
小さかった。白くなりかけていて、まだ開いていなかった。
枯れていなかった。摘むものがなかった。——摘まなくていいものが、そこにあった。
フィリーネはしばらく蕾を見た。触れなかった。今日は、ただ見た。庭の光が蕾に当たっていた。白い。開きかけの、白い。
風があった。カモミールの細い葉が、少しだけ揺れた。揺れてから、また静かになった。
フィリーネは手を引いた。引いて——今日は、ここまでにした。
◇
夕方、食堂を通った。
花束がまだそこにあった。水だけが替えられていた。角度は朝と同じだった。短い茎と長い茎が不均等なまま。最も大きな花が、外を向いていないまま。
フィリーネはその前を通り過ぎた。
通り過ぎてから——確かめた。
直していなかった。朝も、直さなかった。今も、直さなかった。
——直しませんでした。
声にしなかった。心の中だけで言った。それだけで、何かがはっきりした。22年間「整える側」にいた人間が、1つのものを不恰好なまま置いておいた。今日の、事実として。
廊下に出た。窓辺の鉢のそばを通ったとき、もう一度だけ目を向けた。
小さな緑が、まだそこにあった。
鉢の芽と庭の蕾が、同じ日に、どちらも確かにあった。「いつから」はわからなかった。でも「今日、ある」はわかった。それが今日確かめたことだった。
庭のカモミールの蕾を思った。今日は触れなかった。明日、どうなっているかはわからなかった。開くかもしれなかった。開いたとき——手が伸びる前に、何か別のことができるかもしれなかった。
何かとは何か、まだわからなかった。
今度が来たとき——という言葉が浮かんで、今日は沈まなかった。




