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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第8章 48番目の壺に、ラベルが貼られた日

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第39話 不恰好な花が、届いた

 昨夜、ヘルマンが言った言葉がまだ頭にあった。珍しいものをお探しだ、という言葉が。


 何が珍しいのかはわからなかった。珍しいという言葉の向きも、お探しという言葉の意味も——今朝になっても判断できなかった。判断できないまま、廊下に出た。


 昨日まで何かがあった場所が、今日は空いていた。カミーラ・レオンハルトの撤退が制度として完結した翌朝だった。外から来ていた圧力が消えた後の空間は、ただ広く、静かだった。広いことは良いことのはずで、静かなことも良いことのはずで——そのはずのものが、今朝だけ、少し、扱いにくかった。


 壁があった場所を通ると、何もなかった。それだけのことだった。


 いつもの朝の順番通りに、手を動かした。動かすことが、今日は少しだけ助かった。


 窓辺の鉢が目に入った。


 土の上に、緑があった。爪先ほどの高さで、何かが出ていた。いつから出ていたのかはわからなかった。今朝初めて気づいた。


「芽が出ました」と言おうとした。廊下には誰もいなかった。言葉が戻った。


 なぜかわからないが——言いたくなかった。言葉にしてしまう前に、少しだけ、自分だけで見ていたかった。


 鉢の前を離れた。



 厨房を通ったとき、ヘルマンが角から現れた。手帳を脇に抱えていた。


「フィリーネ様、丁度よろしゅうございました。閣下が本日の朝、外出先でお求めになりました」


「——何を」


「花でございます。花屋に一人でお入りになりまして、自らお選びになりました。ただいま食堂のテーブルに置いてございます」


 食堂に入った。テーブルの上に花束があった。白と薄紫。カモミールと別の何かが混じっていた。束ねる角度が整っていなかった。短い茎と長い茎が均等でなく、最も大きな花が外を向いていなかった。水に差しても、半分は傾く。


 22年間で見てきた花束の中で、最も不恰好だった。カモミールの茎が他の花より5センチほど長く、全体の重心が右に寄っていた。水に差した人間は気づいていないか、気づいていて直さなかったかのどちらかだった。


「……大変不恰好でございます」とヘルマンが言った。手帳に何かを書きながら、言った。


「閣下が、ご自分でお選びになったのですか」


「はい。1時間ほどご覧になっていたとのことでございます。自ら手に取られました」


 1時間。選ぶのに1時間かかる、ということだった。1時間かけて選んだ結果が、これだった。


 フィリーネは花束の前に立った。指が動いた。茎を揃える向きで、自然に、指が伸びた——止まった。


 手を下ろした。そのままにした。


「……記録いたしました」とヘルマンが言った。何を記録したかは言わなかった。手帳を閉じた。



 書斎にセドリックがいた。机の前に立って書類を読んでいた。入ったフィリーネに目を上げた。


「……花は、届いたか」


「はい。ありがとうございます」


 間があった。「……不恰好だったか」


「——はい」


「……わかっている」


 フィリーネは少し息を忘れた。わかっていた。1時間選んで、わかっていた。それでも、持ってきた。——その順番が、今、書斎の中にあった。


 書斎を見回して、本棚の並びが変わっていることに気づいた。


「……本棚が」


「並べ替えた」


「何の順に」


「読んだ順だ」


 フィリーネは本棚の前に立った。著者名でも年代でもなかった。ジャンルでもなかった。1冊手に取った。背表紙の端に、細い字で日付が書いてあった。セドリックの筆跡だった。読んだ日の記録だった。本棚全体が、読んだ日付の順に並んでいた。1冊1冊に、時間が刻まれていた。


「あなたの基準で並べ直していい」とセドリックが言った。


「……今日はこのままで構いません。閣下の基準も——悪くはないかもしれませんので」


 廊下の方で、ヘルマンが何かを書く音がした。セドリックの耳が少し赤くなった。フィリーネは気づかなかった。


「……そうか」


 2人で本棚の前に並んだ。しばらく、どちらも動かなかった。並べ直す話も、並べ直さない話も、出なかった。棚を見ながら、しばらくそのままでいた。



 昼前、庭に出た。


 手入れは昨日もしていた。確認の意味で歩いた。バラの根元。低木の縁。石畳の目地。歩くたびに、枯れた花殻を探す手が動いた。22年の癖だった。手が動く前に目が探す。摘む。進む。また摘む。それが、フィリーネが庭を歩く意味だった。


 庭の端、陽の当たる一角に来たとき——手が止まった。


 カモミールがあった。以前から植わっていた。誰にも特に手入れされることなく、半ば野生のように生えていた。今日——蕾があることに気づいた。


 小さかった。白くなりかけていて、まだ開いていなかった。


 枯れていなかった。摘むものがなかった。——摘まなくていいものが、そこにあった。


 フィリーネはしばらく蕾を見た。触れなかった。今日は、ただ見た。庭の光が蕾に当たっていた。白い。開きかけの、白い。


 風があった。カモミールの細い葉が、少しだけ揺れた。揺れてから、また静かになった。


 フィリーネは手を引いた。引いて——今日は、ここまでにした。



 夕方、食堂を通った。


 花束がまだそこにあった。水だけが替えられていた。角度は朝と同じだった。短い茎と長い茎が不均等なまま。最も大きな花が、外を向いていないまま。


 フィリーネはその前を通り過ぎた。


 通り過ぎてから——確かめた。


 直していなかった。朝も、直さなかった。今も、直さなかった。


 ——直しませんでした。


 声にしなかった。心の中だけで言った。それだけで、何かがはっきりした。22年間「整える側」にいた人間が、1つのものを不恰好なまま置いておいた。今日の、事実として。


 廊下に出た。窓辺の鉢のそばを通ったとき、もう一度だけ目を向けた。


 小さな緑が、まだそこにあった。


 鉢の芽と庭の蕾が、同じ日に、どちらも確かにあった。「いつから」はわからなかった。でも「今日、ある」はわかった。それが今日確かめたことだった。


 庭のカモミールの蕾を思った。今日は触れなかった。明日、どうなっているかはわからなかった。開くかもしれなかった。開いたとき——手が伸びる前に、何か別のことができるかもしれなかった。


 何かとは何か、まだわからなかった。


 今度が来たとき——という言葉が浮かんで、今日は沈まなかった。

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