第38話 カミーラが、花を置いた
翌日、カミーラからセドリック宛の手紙が届いた。
フィリーネがそれを知ったのは、書斎に呼ばれてからだった。セドリックが手紙を机に置いていた。開封済みで、1枚だけ。
「読め」とセドリックが言った。
フィリーネは手紙を受け取った。
「婚約への異議申し立てを公式に撤回いたします。理由は公表いたしません」——それだけだった。
文章が短かった。装飾がなかった。白い紙に、事実だけ書いてあった。カミーラが最初に送ってきた手紙を思い出した。あのときも装飾がなかった。白い封筒に、名前だけだった。
「……わかりました」とフィリーネは言った。
セドリックが「……そうか」と言った。
「ご報告でございます。本日昼、レオンハルト家から社交界への公式通知が発出されました。件の異議申し立ての取り下げです」
ヘルマンの声が、廊下から入ってきた。
書斎が静かだった。
フィリーネは手紙を机に戻した。窓の外を見た。庭の光が均一だった。今日も曇りだった。
「……花屋に寄ってもよろしいですか」とフィリーネが言った。「帰りに」
セドリックが少し間を置いた。「構わない」
「ありがとうございます」
◇
昼の花屋は明るかった。
フィリーネが入ったとき、花の並びを確認していた人物がいた。赤褐色の髪。明るい灰色の目。
カミーラだった。
カミーラもフィリーネに気づいた。どちらも動かなかった。2秒か、3秒か。花屋の光の中で、どちらも動かなかった。
カミーラの手に、1本の花があった。白い、小さい花だった。フィリーネには名前がすぐ出なかった——珍しい花だった。
「……来られたのですね」とカミーラが言った。
「はい」
「私も——来ました。はじめて、自分のために選びに来ました」
フィリーネが止まった。
カミーラが手の中の白い花を見た。それからフィリーネに向けた——渡しかけて——テーブルに置いた。
「……これは、自分のために選びました。だから」
「……お持ちください」とフィリーネが言った。
カミーラが、花を持った。自分のために選んだ花を、自分で持った。
「フィリーネ様」とカミーラが言った。「これからも——お元気で」
「カミーラ様も」
カミーラが花屋を出た。
フィリーネは見送った。花屋の入口から、カミーラの背中が遠くなるのを。花を持って歩いているのを。
——自分のために選んだ花を、持って歩いていた。
フィリーネは花屋を見回した。いろんな花がある。カモミールもあった。手が伸びかけた。止まった。
また今度にする、と思った。
◇
花を持たずに花屋を出た。
手が空だった。馬車に乗り込んでから、そのことを確かめた。空であることが、今日は重さに感じなかった。
石畳の音が始まった。窓の外に街が流れた。カミーラが花を持って歩いていた道を、馬車が逆方向に進んだ。
「また今度にする」という言葉を、頭の中で繰り返した。繰り返してから——今日まで何千回使ったかわからないその言葉が、今日は少し違う重さだと気づいた。今度は来る。今度が来たとき、選べる自分がいる。そういう「また今度」だった。
馬車が速度を落とした。公爵邸の通りに入っていた。
◇
玄関を入ると、廊下の奥にリナルドが立っていた。いつもの位置だった。
「お戻りで」
「ただいま戻りました」
一礼した。「……ご様子は」
「——花屋で、カミーラ様にお会いしました」
リナルドの動きが止まった。書類を持ったまま、静止した。
「……そうでございますか」
「はじめて、自分のために花を選びに来られたとおっしゃっていました」
しばらく動かなかった。それから「……左様でございますか」と言った。声が低かった。その後に間があった。「……左様でございますか」と、もう1度言った。1度目と温度が違っていた。
廊下を歩いた。窓辺の鉢が見えた。カモミールの葉が、今日も静かにあった。替えてある水が光を受けた。替えた人が誰か、今はもうわかっていた。知ってから、鉢を通り過ぎるたびに指先が少し動くのを、フィリーネは毎回確かめていた。
書斎の扉をノックした。「どうぞ」。入った。
◇
セドリックが机の前にいた。フィリーネを見て書類を置いた。
「……花は」
「買いませんでした」とフィリーネが言った。「カミーラ様にお会いして——それで十分な気がしたので」
「……そうか」
「カミーラ様が、ご自分のために花を選んでいらっしゃいました。はじめて、と言っていました」
間があった。
「……それが、あなたの答えか」
少し考えた。「——わかりません。でも」
手が、脇で静かにあった。廊下を歩くたびに花殻を摘む癖が、今日は出なかった。意識したわけではなかった。ただ——出なかった。
「また今度にする、と思いました。今度——選べることが、わかったので」
セドリックが窓の外を見た。曇りの光が均一だった。影が出ていなかった。
「……今度、でいいのか」
「はい」
セドリックが窓から目を離さなかった。
耳が、赤かった。
◇
夕食の後、書斎にリナルドが入ってきた。
フィリーネが茶の支度をしていた手を止めた。書類でも封書でもなかった。
「……本日の件で、ご報告が」
「聞く」
「カミーラ様の異議申し立て取り下げについて、公証人からの確認が参りました。制度的に——完全に決着いたしました」
書斎に、その言葉が落ちた。
「……わかった」
リナルドが一礼した。下がりかけた。
「リナルド」
セドリックの声が短かった。
「はい、閣下」
「——母の指輪は、まだあるか」
廊下の外で、ヘルマンが手帳に何かを書く音がした。それだけだった。
リナルドが止まった。長い間があった。
「……ございます」
「……そうか」
リナルドが一礼した。書斎を出た。扉が閉まった。
フィリーネは茶碗を持ったまま、動かなかった。
「——茶を」とセドリックが言った。
「……はい」
フィリーネが茶を渡した。セドリックが受け取った。80度だった。
◇
廊下に出たとき、ヘルマンが角から現れた。黒い手帳を脇に抱えていた。
「フィリーネ様、少々」
「はい」
「——閣下が、珍しいものをお探しでございます」
フィリーネは足を止めた。
ヘルマンが目を合わせたまま、それ以上何も言わなかった。言い終えた顔だった。
「……わかりました」
「はい。では」
ヘルマンが廊下の奥へ消えた。
珍しいもの。何が珍しいのか、わからなかった。珍しいという言葉の意味も、お探しという言葉の向きも——今夜中には判断できなかった。
窓辺の鉢が、廊下の灯りの中に輪郭だけ残っていた。




