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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第7章 リナルドが30年保管した手紙の、封が切られた

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第38話 カミーラが、花を置いた

 翌日、カミーラからセドリック宛の手紙が届いた。


 フィリーネがそれを知ったのは、書斎に呼ばれてからだった。セドリックが手紙を机に置いていた。開封済みで、1枚だけ。


「読め」とセドリックが言った。


 フィリーネは手紙を受け取った。


「婚約への異議申し立てを公式に撤回いたします。理由は公表いたしません」——それだけだった。


 文章が短かった。装飾がなかった。白い紙に、事実だけ書いてあった。カミーラが最初に送ってきた手紙を思い出した。あのときも装飾がなかった。白い封筒に、名前だけだった。


「……わかりました」とフィリーネは言った。


 セドリックが「……そうか」と言った。


「ご報告でございます。本日昼、レオンハルト家から社交界への公式通知が発出されました。件の異議申し立ての取り下げです」


 ヘルマンの声が、廊下から入ってきた。


 書斎が静かだった。


 フィリーネは手紙を机に戻した。窓の外を見た。庭の光が均一だった。今日も曇りだった。


「……花屋に寄ってもよろしいですか」とフィリーネが言った。「帰りに」


 セドリックが少し間を置いた。「構わない」


「ありがとうございます」



 昼の花屋は明るかった。


 フィリーネが入ったとき、花の並びを確認していた人物がいた。赤褐色の髪。明るい灰色の目。


 カミーラだった。


 カミーラもフィリーネに気づいた。どちらも動かなかった。2秒か、3秒か。花屋の光の中で、どちらも動かなかった。


 カミーラの手に、1本の花があった。白い、小さい花だった。フィリーネには名前がすぐ出なかった——珍しい花だった。


「……来られたのですね」とカミーラが言った。


「はい」


「私も——来ました。はじめて、自分のために選びに来ました」


 フィリーネが止まった。


 カミーラが手の中の白い花を見た。それからフィリーネに向けた——渡しかけて——テーブルに置いた。


「……これは、自分のために選びました。だから」


「……お持ちください」とフィリーネが言った。


 カミーラが、花を持った。自分のために選んだ花を、自分で持った。


「フィリーネ様」とカミーラが言った。「これからも——お元気で」


「カミーラ様も」


 カミーラが花屋を出た。


 フィリーネは見送った。花屋の入口から、カミーラの背中が遠くなるのを。花を持って歩いているのを。


 ——自分のために選んだ花を、持って歩いていた。


 フィリーネは花屋を見回した。いろんな花がある。カモミールもあった。手が伸びかけた。止まった。


 また今度にする、と思った。



 花を持たずに花屋を出た。


 手が空だった。馬車に乗り込んでから、そのことを確かめた。空であることが、今日は重さに感じなかった。


 石畳の音が始まった。窓の外に街が流れた。カミーラが花を持って歩いていた道を、馬車が逆方向に進んだ。


 「また今度にする」という言葉を、頭の中で繰り返した。繰り返してから——今日まで何千回使ったかわからないその言葉が、今日は少し違う重さだと気づいた。今度は来る。今度が来たとき、選べる自分がいる。そういう「また今度」だった。


 馬車が速度を落とした。公爵邸の通りに入っていた。



 玄関を入ると、廊下の奥にリナルドが立っていた。いつもの位置だった。


「お戻りで」


「ただいま戻りました」


 一礼した。「……ご様子は」


「——花屋で、カミーラ様にお会いしました」


 リナルドの動きが止まった。書類を持ったまま、静止した。


「……そうでございますか」


「はじめて、自分のために花を選びに来られたとおっしゃっていました」


 しばらく動かなかった。それから「……左様でございますか」と言った。声が低かった。その後に間があった。「……左様でございますか」と、もう1度言った。1度目と温度が違っていた。


 廊下を歩いた。窓辺の鉢が見えた。カモミールの葉が、今日も静かにあった。替えてある水が光を受けた。替えた人が誰か、今はもうわかっていた。知ってから、鉢を通り過ぎるたびに指先が少し動くのを、フィリーネは毎回確かめていた。


 書斎の扉をノックした。「どうぞ」。入った。



 セドリックが机の前にいた。フィリーネを見て書類を置いた。


「……花は」


「買いませんでした」とフィリーネが言った。「カミーラ様にお会いして——それで十分な気がしたので」


「……そうか」


「カミーラ様が、ご自分のために花を選んでいらっしゃいました。はじめて、と言っていました」


 間があった。


「……それが、あなたの答えか」


 少し考えた。「——わかりません。でも」


 手が、脇で静かにあった。廊下を歩くたびに花殻を摘む癖が、今日は出なかった。意識したわけではなかった。ただ——出なかった。


「また今度にする、と思いました。今度——選べることが、わかったので」


 セドリックが窓の外を見た。曇りの光が均一だった。影が出ていなかった。


「……今度、でいいのか」


「はい」


 セドリックが窓から目を離さなかった。


 耳が、赤かった。



 夕食の後、書斎にリナルドが入ってきた。


 フィリーネが茶の支度をしていた手を止めた。書類でも封書でもなかった。


「……本日の件で、ご報告が」


「聞く」


「カミーラ様の異議申し立て取り下げについて、公証人からの確認が参りました。制度的に——完全に決着いたしました」


 書斎に、その言葉が落ちた。


「……わかった」


 リナルドが一礼した。下がりかけた。


「リナルド」


 セドリックの声が短かった。


「はい、閣下」


「——母の指輪は、まだあるか」


 廊下の外で、ヘルマンが手帳に何かを書く音がした。それだけだった。


 リナルドが止まった。長い間があった。


「……ございます」


「……そうか」


 リナルドが一礼した。書斎を出た。扉が閉まった。


 フィリーネは茶碗を持ったまま、動かなかった。


「——茶を」とセドリックが言った。


「……はい」


 フィリーネが茶を渡した。セドリックが受け取った。80度だった。



 廊下に出たとき、ヘルマンが角から現れた。黒い手帳を脇に抱えていた。


「フィリーネ様、少々」


「はい」


「——閣下が、珍しいものをお探しでございます」


 フィリーネは足を止めた。


 ヘルマンが目を合わせたまま、それ以上何も言わなかった。言い終えた顔だった。


「……わかりました」


「はい。では」


 ヘルマンが廊下の奥へ消えた。


 珍しいもの。何が珍しいのか、わからなかった。珍しいという言葉の意味も、お探しという言葉の向きも——今夜中には判断できなかった。


 窓辺の鉢が、廊下の灯りの中に輪郭だけ残っていた。

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