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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第7章 リナルドが30年保管した手紙の、封が切られた

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第37話 制度が、静かに折れた日

 朝、書斎に顔を出すと、セドリックが書類を読んでいた。


 昨日と同じ姿勢だった。机に紙の束。左に茶碗。右手が1枚を持っている。何も変わっていない。でも——昨日の書斎とは、何かが違った。どこが違うのかを確かめようとして、やめた。茶を置いた。仕事を始めた。


 昼前にヘルマンが来た。記録帳を片手に廊下に立っていた。


「フィリーネ様。……本日、侯爵夫人が定例のサロンにお出かけになるとのことで。公爵家の内情書類について、何か話題に出されるかもしれないと——伺っております」


「……手紙の内容は、侯爵夫人はご存知ではないはずです」


「左様でございます」とヘルマンが言った。「ただ、動かれる、ということだけは確かなようで」


 フィリーネは書類の角を揃えた。


「わかりました」


 ヘルマンが記録帳に何かを素早く書いた。一礼して、廊下を戻っていった。



 午後のサロンは3時だった。定例の茶会だった。公爵婚約者という立場になってから、この種の集まりに顔を出す機会が増えていた。招待の形をとっていても、実際には顔を出すことが求められる場だった。


 馬車が来る前に、廊下でリナルドに会った。


「お気をつけて」


 それだけだった。フィリーネも何も言わなかった。玄関を出た。



 サロンは明るかった。


 窓から午後の光が均一に入っていた。テーブルが3列。席は20ほど、すでに半分以上が埋まっていた。曇りの日は影が出ない。輪郭だけで、全てが同じ明るさで見える——ここ数日、そういう天気が続いていた。


 知っている顔がいくつかあった。名前の出ない顔もあった。


 侯爵夫人がいた。奥のテーブルで、隣の貴婦人と話していた。扇を手に持って、穏やかに笑っていた。こちらを一度だけ見た。視線が止まった。止まったが、表情は変わらなかった。


 フィリーネは端の席に座った。茶を受け取った。飲んだ。


 何かが起きるかもしれなかった。起きないかもしれなかった。侯爵夫人が「書類の件」を口にしかけることはあるかもしれない。でも手紙の内容を知らないまま動いた場合、何が出てくるかは——侯爵夫人には見えていないはずだった。フィリーネはそれだけわかっていた。準備していたものは何もなかった。何を言うかも、決めていなかった。


 20分ほど経ったとき、侯爵夫人が立った。移動しているだけだった。向かってくるわけではなかった。でも——向かっている方向が、こちらだった。


 すれ違う前に、フィリーネが口を開いた。


「侯爵夫人、先週の演奏会はいかがでしたか」


 唐突だった。サロンの空気が少しだけ変わった。


「……あら、フィリーネ様」と侯爵夫人が言った。「ええ、それはもう——素晴らしゅうございましたわ。第2部の弦楽が特に」


「弦の音が良いのですね」


「そうですの。ピアノは華やかですけれど、弦には言葉がございますから」


「そうですね」


 会話が続いた。


 フィリーネは準備していた言葉を1つも使わなかった。演奏会のことを聞いた。答えが返ってきた。別の話題に移った。それにも答えた。どの言葉も、その瞬間に出てきたものだった。


 侯爵夫人が「公爵家の内情に関する書類が」と言う瞬間は——来なかった。


 来なかった、というより——会話がその方向へ行かなかった。穏やかに流れて、穏やかに終わった。侯爵夫人が「またいずれ」と言って、元のテーブルへ戻っていった。



 別のテーブルから、貴婦人が1人近づいてきた。


 見覚えのある顔だった。名前はすぐには出なかった。


「ヴェルティーン公爵のご婚約者様ですね」


「はい」


「先週の件、拝見しておりましたよ。……立派なことをされましたね」


 先週の件。何のことか、一瞬わからなかった。問い返す前に、相手の視線が示した。先週、正式な場で何かが確認された——その場面を、この人は見ていた、ということだった。


「……ありがとうございます」


 侯爵夫人が、その言葉を聞いていた。聞こえていたかどうかは判断できなかった。でも——扇の動きが、1拍だけ止まった。止まって、また動いた。笑顔は変わらなかった。変わらなかったが、笑顔の理由が変わった気がした。


 「格不足」という言葉は——その日のサロンで、出なかった。



 帰りの馬車の中で、フィリーネは窓の外を見ていた。


 石畳が流れた。通りに出た。人が見えて、遠くなった。


 何が起きたのかよくわからなかった。戦った気がしなかった。「先週の演奏会はいかがでしたか」と聞いた。話が続いた。それだけだった。その間に何かが変わったのかどうかも——自分で確かめる手段がなかった。


 カミーラとの面会の帰り道にも、同じ感触があった。用意していた言葉を使わなかった。攻撃された感じがなかった。勝ったという感じもなかった。ただ——何かが変わった。


 そういうこともある、とフィリーネは思った。自分が何かをした感覚がないまま、何かが変わることが。


 窓の外に花屋が見えた。通り過ぎた。カモミールが並んでいたかどうかはわからなかった。なぜ花屋に目が行ったのかも、わからなかった。



 公爵邸に戻ると、リナルドが廊下の突き当たりに立っていた。いつもの位置だった。書類を持っているわけでも、どこかへ向かうわけでもなく——ただ、立っていた。フィリーネを見て、一礼した。


「フィリーネ様、本日のご様子をお聞きしても」


「侯爵夫人が——何も言いませんでした」


 リナルドが「……左様でございますか」と言った。その後に長い間があった。「……さようでございますか」とまた言った。


 2回言ったのは、言い直したかったのだと思う。2つの言葉は同じだったのに、2回目の方に、何か別のものが含まれていた。何が含まれていたのかを聞こうとして——やめた。


「……ありがとうございます」とリナルドが低い声で言った。


 フィリーネは「いいえ」と言いかけた。言わなかった。小さく頷いた。それで十分だった。


 リナルドが廊下の奥へ歩いていった。背中が遠くなった。



 自室への廊下を歩いた。窓辺の鉢のそばを通りかかった。足が止まった。


 鉢を見た。カモミールの葉が、昨日より1枚増えていた。水があった。フィリーネが今日替えたものではなかった。今日、フィリーネは屋敷を出ていた。


 誰かが替えた。


 廊下の灯りが、葉に当たっていた。指先で葉に触れた。冷たかった。薄かった。水を吸っていた。枯れていなかった。


 指を離した。廊下が静かだった。夕方の光が窓から低く入っていた。鉢の輪郭だけが、そこに残っていた。

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