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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第7章 リナルドが30年保管した手紙の、封が切られた

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第36話 父が最後に書いた言葉は、命令ではなかった

 セドリックが読み始めた。


 最初の紙——母の文字だった。筆圧が弱い。病中に書いたと思われる字だった。でも文章は整っていた。感情の乱れが字に出ない人だったのかもしれない。


 読まないようにした。視線を窓の外へ向けた。庭の光が均一だった。今日の朝は曇りで、影が出ていなかった。


 リナルドが一番遠い椅子に座っていた。こちらを見ていない。手を膝の上で組んで、静かに待っていた。背が真っすぐだった。30年、ずっとそうやって待ってきた姿勢に見えた。


 書斎に時計の音はなかった。壁掛け時計を外したのは誰だったか——フィリーネが来てすぐ、振り子の揺れが来客の集中を乱すと気づいて外したのだった。自分がしたことを、今になって思い出した。


 母の紙を読み終えるのに、5分かかった。


 次の紙——父の筆跡だった。母とは全く違う字だった。力強く、少し荒い。手紙ではなく、覚書のような書き方だった。行と行の間隔が不揃いで、誰かに送るつもりではなかったかもしれない。


 フィリーネは窓の外を見続けた。書斎の静けさが、静けさのまま積み重なった。


 セドリックが声に出して読んでいるわけではなかった。でも紙が静かで、書斎が静かで——断片が、空気に混じった気がした。


 ——カミーラとの話は、もう終わりにする。


 フィリーネの手が膝の上で止まった。


 ——本当のことを言えば、あの子が好きな人を見つけることを、ずっと待っていた。


 手が、止まったまま動かなかった。


 父の紙を読み終えるまでに、また時間がかかった。


 読み終えた。紙を机に置いた。


「……そうか」


 それだけだった。


 「わかった」でも「知らなかった」でも「なぜ」でもなかった。何も続かなかった。「そうか」という2文字だけが書斎に落ちて——消えた。



 フィリーネは何も言わなかった。


 言いたかった。何かを。「大丈夫ですか」でもなく、「知れてよかったです」でもなく、「つらかったですね」でもなく——どれも違う気がした。今この瞬間に必要な言葉が何かを、判断できなかった。


 だから何もしなかった。


 傍にいた。椅子に座ったまま、窓の外を見たまま、手を膝の上に置いたまま——ただ傍にいた。


 フィリーネの手が——膝の上で、指を押さえていた。


 22年間してきた仕草だった。感情を閉じ込めるための仕草。でも今日は少し違った。自分の感情を封じているのではなかった。セドリックの沈黙を——破らないために、自分を制していた。


 同じ仕草が、別の意味になっていた。気づいたのは今だった。


 庭で鳥が1度だけ鳴いた。止んだ。リナルドが静かに椅子に座ったまま、動かなかった。書斎の光が変わらなかった。フィリーネは時間の感覚が薄くなるのを感じた。来た日からずっとそうだった——この屋敷は、時間の流れ方が違う。


「……茶を」


 セドリックが言った。


 フィリーネが立ちかけた。止まった。


「今日は、わたしが淹れましょうか」


 書斎にその言葉が落ちた。


「……90度になっても文句は言わない」


「80度に必ずいたします」


「……善処は」


「厳守です」


 リナルドが、ほんの少し体の向きを変えた。窓の外を見た。窓の外には庭があった。今日は光が均一で、何も際立っていなかった。



 厨房への廊下を歩いた。


 頭の中で、父の紙の断片が繰り返した。カミーラとの話は終わりにする。あの子が好きな人を見つけることを、ずっと待っていた。誰かに送るつもりではなかったかもしれない覚書に、それが書いてあった。


 22年間。セドリックは22年間、父をどう見ていたか。


 わからなかった。フィリーネには判断できなかった。でも「そうか」という一語の重さだけは——22年分だった。それだけわかった。


 湯を沸かした。茶葉を量った。3人分。今日のリナルドには茶が必要だと思った。根拠を言葉にしようとして、できなかった。ただ、そう思った。


 温度計を取り出した。79度。79.5度。


 80度。


 茶を注いだ。盆に3客並べた。茶托の角度がそれぞれ少しずつ違った。直そうとして——やめた。今日は角度より先にすることがある。


 廊下を戻りながら、盆の茶碗が揺れないように歩いた。書斎の扉が見えた。扉の向こうが、静かだった。



 書斎に戻ると、セドリックが窓の外を見ていた。机には紙が2枚、重ねて置かれていた。封筒の隣に、揃えてあった。


 茶を渡した。セドリックが受け取った。


 リナルドの前に1つ置いた。リナルドが「……ありがとうございます」と低い声で言った。


 フィリーネが自分の椅子に戻った。茶碗を持った。


 3人で黙って茶を飲んだ。書斎の光が均一だった。曇りの日は影が出ない。輪郭だけで、全部が同じ明るさで見える。そういう日があることを、フィリーネはこの屋敷に来てから覚えた。



「……リナルド」


 セドリックが言った。


「はい、閣下」


「30年、よく持っていた」


 リナルドが一礼した。長い間があった。「……お役に立てたなら、それが全てでございます」


 また書斎が静かになった。


 フィリーネはセドリックを——見てしまった。


 横顔だった。窓の光が当たっていた。目が窓の外に向いていた。何かを見ているのか、何も見ていないのか——判断できなかった。顎のあたりに力が入っていた。肩は力が抜けていた。茶碗を、まだ持ったままだった。飲み終えているのか途中なのか——わからなかった。ただ持ったまま、手放さなかった。


 セドリックの耳が、赤かった。


 フィリーネの動きが止まった。


 0.3秒ではなかった。3秒だった。


 気づいてしまった。もう——消せない、と思った。前から消せていなかったのかもしれない。でも今日、はっきりと気づいた。消そうとしていなかった。消す必要があると、今日は——思わなかった。


 廊下の向こうで、ヘルマンが静かに離れていく音がした。

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