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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第7章 リナルドが30年保管した手紙の、封が切られた

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第35話 30年、待っておりました

 翌朝、書斎の扉が軽く叩かれた。


「閣下、フィリーネ様。——少々、よろしいでしょうか」


 リナルドの声だった。いつもより低かった。音量ではなく、声に含まれているものが重かった。


「どうぞ」


 セドリックが言った。フィリーネは手元の書類を置いた。


 扉が開いた。リナルドが入った。左手に小さな鍵を持っていた。書類でも封書でもなく——黒い金属の、小さな鍵だった。


 フィリーネはその鍵を見た。鍵だと認識した。昨夜、廊下でリナルドが言っていた。「引き出しに——30年、閉まっているものがあります」。その引き出しのための鍵だった。今日がその日だと、わかった。


「今日は、お時間をいただけますでしょうか」


「……何がある」


 セドリックが書類から目を離した。リナルドを見た。


「お渡しするものがございます。30年、お待ちいただきました」


 セドリックの顔が微妙に変わった。何かを察した気配があった。何を察したのかはフィリーネには判断できなかった。ただ——知っていたが確かめることを後回しにしてきた、という気配が顔の奥にあった。



「……お茶を淹れて参りましょうか」


 フィリーネが言った。


 リナルドが止まった。鍵を持ったまま静止した。引き出しへ向かいかけていた体が、止まった。


 書斎の外で、鳩が1度だけ鳴いた。


「……それは、妥当な判断です」


「では、少々お待ちください」


 フィリーネが席を立った。リナルドが後に続いた。廊下を歩きながら、どちらも何も言わなかった。


 厨房で湯を沸かした。リナルドが棚から茶葉の缶を取り出した。2人で並んで、黙って作業をした。フィリーネが温度計を見た。79度。リナルドが茶托を1枚ずつ棚から取り出して並べた。音を立てなかった。1枚取るたびに、端を指で軽く確かめてから置いた。欠けがないか確認していた。それが——ずっとそうしてきた手つきに見えた。


 79.5度。


「……前任の奥様も」


 リナルドの声が、厨房に落ちた。


 フィリーネは温度計の針から目を離さなかった。


「……お茶がお好きでした。この壺を、よくお使いになっていた」


 それだけだった。続きは来なかった。でも——言いたかったのはそれだけではなかった、とわかった。


 80度。


 フィリーネは茶を注いだ。3人分を盆に並べた。茶托の角度がそれぞれ少しずつ違った。直そうとして——やめた。今日は、角度より先にすることがある。



 書斎に戻ったとき、セドリックが机の前に腕を組んで座っていた。


「……お前たちは今、何をしている」


「お茶です、閣下」


「わかっている。早くしろ」


 声は短かった。でも待っていた。


 茶を渡した。リナルドの前にも1つ置いた。リナルドが一礼した。それから3人で少し間があった。誰も動かなかった。茶の湯気が、書斎の光の中に細く立った。



 リナルドが引き出しの前に立った。鍵を差した。


 かちり、と音がした。小さな音だった。でも書斎の空気が、その音に少し動いた気がした。


 引き出しが開いた。


 中に、封筒があった。黄ばんでいた。もとは白かったのだろう。時間が色を変えていた。表面には何も書かれていなかった。


 フィリーネはその封筒を見た。


 証書か書類だと思っていた。財務記録の矛盾を補う文書か、公証人が関わる証明か——カミーラ問題に直接関わる、制度的な証拠。そういうものを想定していた。


 リナルドが封筒を両手で取り出した。書類を扱うときの手つきではなかった。もっと丁寧な、別の動作だった。


「申し上げます」


 声が低かった。感情の起伏がなかった。事実を整理するように語る声だった。


「閣下がお笑いになるのを——私は30年待っておりました」


 書斎が静かになった。


 セドリックが動かなかった。


 動かないまま、リナルドを見ていた。何か言おうとしているように見えた。でも言わなかった。待っていた。


「渡すと決めていたのは、閣下が初めてお笑いになった日の翌日からです」


 フィリーネの手が、茶碗の脇で止まった。


「閣下が初めてお笑いになったのは——フィリーネ様がいらした翌日でした」


 手が、止まったまま動かなかった。


 リナルドが続けた。声のトーンが変わらなかった。事実を言っていた。感情を語っていなかった。でも——その事実の重さが、感情より先に届いた。30年という言葉が、数字として聞こえなかった。


「この封筒は、前任の奥様がお書きになったものでございます。30年前に。閣下のお父上にお送りになるはずだったものでした」


 フィリーネはそっと茶碗を置いた。


 証書ではなかった。証拠書類ではなかった。


「奥様がお亡くなりになったのが、お届けする前でした。私が代わりにお渡しするよう——言い残されました」


 セドリックの顔が変わった。「察した」のではなかった。「受け取った」顔だった。その変わり方は、覚悟していたものとは違う顔だった。



「30年分の重さを、今ここへ運んでくださったのですね」


 フィリーネが言った。言う前に考えていなかった。でも言い終えてから、それが正しい言葉だったと思った。


 リナルドがフィリーネを見た。視線が止まった。長い間だった。


「……はい」


 それから封筒をセドリックの机の前に置いた。


「30年、待っておりました。このときを」


 セドリックが封筒を見た。長い間、動かなかった。


 フィリーネが——何もしなかった。何かをしようとして、する必要がないと気づいた。傍にいることが、今できる全部だった。


「……読む」とセドリックが言った。封筒を手に取った。「……2人とも、ここにいろ」


 リナルドが一礼した。フィリーネが椅子に座り直した。


 封を切ったとき、中には2枚の紙が入っていた。1枚は——細い、筆圧の弱い文字だった。もう1枚は——力強く、少し荒い筆跡だった。父の筆跡だった。


 セドリックが読み始めた。フィリーネは窓の外を見た。庭の光が均一だった。

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