第35話 30年、待っておりました
翌朝、書斎の扉が軽く叩かれた。
「閣下、フィリーネ様。——少々、よろしいでしょうか」
リナルドの声だった。いつもより低かった。音量ではなく、声に含まれているものが重かった。
「どうぞ」
セドリックが言った。フィリーネは手元の書類を置いた。
扉が開いた。リナルドが入った。左手に小さな鍵を持っていた。書類でも封書でもなく——黒い金属の、小さな鍵だった。
フィリーネはその鍵を見た。鍵だと認識した。昨夜、廊下でリナルドが言っていた。「引き出しに——30年、閉まっているものがあります」。その引き出しのための鍵だった。今日がその日だと、わかった。
「今日は、お時間をいただけますでしょうか」
「……何がある」
セドリックが書類から目を離した。リナルドを見た。
「お渡しするものがございます。30年、お待ちいただきました」
セドリックの顔が微妙に変わった。何かを察した気配があった。何を察したのかはフィリーネには判断できなかった。ただ——知っていたが確かめることを後回しにしてきた、という気配が顔の奥にあった。
◇
「……お茶を淹れて参りましょうか」
フィリーネが言った。
リナルドが止まった。鍵を持ったまま静止した。引き出しへ向かいかけていた体が、止まった。
書斎の外で、鳩が1度だけ鳴いた。
「……それは、妥当な判断です」
「では、少々お待ちください」
フィリーネが席を立った。リナルドが後に続いた。廊下を歩きながら、どちらも何も言わなかった。
厨房で湯を沸かした。リナルドが棚から茶葉の缶を取り出した。2人で並んで、黙って作業をした。フィリーネが温度計を見た。79度。リナルドが茶托を1枚ずつ棚から取り出して並べた。音を立てなかった。1枚取るたびに、端を指で軽く確かめてから置いた。欠けがないか確認していた。それが——ずっとそうしてきた手つきに見えた。
79.5度。
「……前任の奥様も」
リナルドの声が、厨房に落ちた。
フィリーネは温度計の針から目を離さなかった。
「……お茶がお好きでした。この壺を、よくお使いになっていた」
それだけだった。続きは来なかった。でも——言いたかったのはそれだけではなかった、とわかった。
80度。
フィリーネは茶を注いだ。3人分を盆に並べた。茶托の角度がそれぞれ少しずつ違った。直そうとして——やめた。今日は、角度より先にすることがある。
◇
書斎に戻ったとき、セドリックが机の前に腕を組んで座っていた。
「……お前たちは今、何をしている」
「お茶です、閣下」
「わかっている。早くしろ」
声は短かった。でも待っていた。
茶を渡した。リナルドの前にも1つ置いた。リナルドが一礼した。それから3人で少し間があった。誰も動かなかった。茶の湯気が、書斎の光の中に細く立った。
◇
リナルドが引き出しの前に立った。鍵を差した。
かちり、と音がした。小さな音だった。でも書斎の空気が、その音に少し動いた気がした。
引き出しが開いた。
中に、封筒があった。黄ばんでいた。もとは白かったのだろう。時間が色を変えていた。表面には何も書かれていなかった。
フィリーネはその封筒を見た。
証書か書類だと思っていた。財務記録の矛盾を補う文書か、公証人が関わる証明か——カミーラ問題に直接関わる、制度的な証拠。そういうものを想定していた。
リナルドが封筒を両手で取り出した。書類を扱うときの手つきではなかった。もっと丁寧な、別の動作だった。
「申し上げます」
声が低かった。感情の起伏がなかった。事実を整理するように語る声だった。
「閣下がお笑いになるのを——私は30年待っておりました」
書斎が静かになった。
セドリックが動かなかった。
動かないまま、リナルドを見ていた。何か言おうとしているように見えた。でも言わなかった。待っていた。
「渡すと決めていたのは、閣下が初めてお笑いになった日の翌日からです」
フィリーネの手が、茶碗の脇で止まった。
「閣下が初めてお笑いになったのは——フィリーネ様がいらした翌日でした」
手が、止まったまま動かなかった。
リナルドが続けた。声のトーンが変わらなかった。事実を言っていた。感情を語っていなかった。でも——その事実の重さが、感情より先に届いた。30年という言葉が、数字として聞こえなかった。
「この封筒は、前任の奥様がお書きになったものでございます。30年前に。閣下のお父上にお送りになるはずだったものでした」
フィリーネはそっと茶碗を置いた。
証書ではなかった。証拠書類ではなかった。
「奥様がお亡くなりになったのが、お届けする前でした。私が代わりにお渡しするよう——言い残されました」
セドリックの顔が変わった。「察した」のではなかった。「受け取った」顔だった。その変わり方は、覚悟していたものとは違う顔だった。
◇
「30年分の重さを、今ここへ運んでくださったのですね」
フィリーネが言った。言う前に考えていなかった。でも言い終えてから、それが正しい言葉だったと思った。
リナルドがフィリーネを見た。視線が止まった。長い間だった。
「……はい」
それから封筒をセドリックの机の前に置いた。
「30年、待っておりました。このときを」
セドリックが封筒を見た。長い間、動かなかった。
フィリーネが——何もしなかった。何かをしようとして、する必要がないと気づいた。傍にいることが、今できる全部だった。
「……読む」とセドリックが言った。封筒を手に取った。「……2人とも、ここにいろ」
リナルドが一礼した。フィリーネが椅子に座り直した。
封を切ったとき、中には2枚の紙が入っていた。1枚は——細い、筆圧の弱い文字だった。もう1枚は——力強く、少し荒い筆跡だった。父の筆跡だった。
セドリックが読み始めた。フィリーネは窓の外を見た。庭の光が均一だった。




