第34話 お帰りなさいませ、とリナルドが言った
石畳の音が変わった。馬車が速度を落とした。窓の外に公爵邸の門扉が見えた。
フィリーネは窓から目を離した。膝の上で手を組んだ。帰ってから考えようとしていたことが、いくつかある。カミーラが「そうですか」と言った回数。最初の「そうですか」と最後の「そうですか」が、同じ語ではなかったこと。「4年間を、誰かに見てほしかった」という言葉の後に続いた沈黙のこと。
扉が開いた。御者が手を差し伸べた。乗降台を下りた。
夕刻だった。光が低かった。門扉の鉄細工に影が長く伸びていた。公爵邸の玄関が正面にあった。来た最初の日に立った場所だった。同じ場所なのに、何かが違う感じがした。何が違うのかを確かめようとして、玄関の扉が開いた。
◇
玄関に入ったとき、ヘルマンが廊下の奥から歩いてきた。黒い記録帳を片手に持っていた。
「フィリーネ様、お戻りで」
「ただいま戻りました」
ヘルマンが一礼した。何かを言いかけた。やめた。記録帳に何かを1行、素早く書いた。そのまま廊下の先へ消えた。
外套を外した。廊下を歩き始めた。
歩きながら、手が動いた。廊下の台の端に、枯れかけた花殻がある。指が自然に伸びた。摘んだ。摘んでから、止まった。指先に茶色い小さな花殻があった。
いつから摘むようになったのか。来た最初の日からか。数週間後からか。気づいたらそうなっていた。廊下を歩くたびに、確かめるつもりもなくそうしていた。
◇
廊下の角を曲がったとき、リナルドが立っていた。
突き当たりだった。いつも立っている位置だった。書類を持っているわけでも、どこかへ向かうわけでもなく——ただ、立っていた。
フィリーネを見た。視線の角度が、いつもより少し違った。何が違うのかは、すぐには判断できなかった。
「……お帰りなさいませ」
フィリーネの足が、止まった。
聞こえた言葉を、もう1度確認しようとした。確認している間に、その言葉の重さが先に来た。
この屋敷に来てから、何度この廊下を歩いたか、数えていない。財務室に朝入って、夕方に出て、廊下を歩いた。リナルドとすれ違った。書類を渡した。来客の件を話した。お茶を淹れた。食事を取った。翌朝、また廊下を歩いた。
その間、一度も——「お帰りなさいませ」という言葉を、この屋敷で聞いたことがなかった。
来客ではありませんので、と自分で言ったこともある。居ついた、と言われたこともある。でも「お帰りなさいませ」は——来た日から今日まで、今日が最初だった。
「……ただいま戻りました」
言えた。言い終えてから、声がいつもより低かったと思った。そういうつもりではなかった。
リナルドが一礼した。廊下に何も続かなかった。それで十分だった。
◇
書斎のドアをノックした。「どうぞ」。入った。
セドリックが机の前にいた。書類を手に持っていたが、フィリーネを見て置いた。
朝から待っていたのかもしれない、とフィリーネは思った。馬車が出た後、玄関に立って動かなかったという話が、ヘルマンの様子から薄く伝わっていた。「……待て、とは言えない」という声が、馬車の中で何度か思い返されていた。
「カミーラ様にお会いしました」
「……そうか」
「4年間を、誰かに見てほしかった——とカミーラ様は言いました」
セドリックが少し間を置いた。「……それだけか」
「それが、全部でした」
蝋燭が机の右に1本立っていた。炎がまっすぐだった。揺れなかった。
「……わかった」とセドリックが言った。間があった。「疲れたか」
答えようとした。体の疲れはある。馬車に長く揺られた。でも別の何かは——よくわからなかった。重さが軽くなった感じがするわけでもなかった。かといって増えた感じもなかった。ただ、何かが——変わった。どこが変わったのかは、今夜中には言葉にならなかった。
「……わかりません」
「そうか」
セドリックが書類に目を戻した。それ以上、聞かなかった。
フィリーネは一礼して書斎を出た。
◇
廊下を歩いて自室の方へ向かった。
窓辺の鉢を通り過ぎかけて、足が止まった。
鉢を見た。小さな鉢だった。先月の終わりに芽が出ていた。今日——葉になっていた。細い茎に、薄い葉が4枚。形がカモミールだとわかった。葉の形が、よく知っている形と一致していた。
水があった。フィリーネが替えた水ではなかった。
指先で葉に触れた。冷たかった。薄かった。確かにあった。枯れていなかった。
誰が水を替えているのか、一度も考えたことがなかった。来た日から今日まで、鉢を通り過ぎるたびに「芽が出た」「葉が増えた」と確認したが、水のことは考えなかった。誰かが替えていた。誰かがこの小さな鉢のことを、ずっと気にかけていた。
葉から指を離した。廊下の灯りが鉢に当たっていた。
◇
夕食の後、廊下に出た。
リナルドが廊下の端にいた。書類を閉じるところだった。フィリーネを見て、一礼した。
「少し、よろしいですか」
「はい」
「カミーラ様は——おそらく、正式に動かれると思います。私の判断ですが」
「……そうでございますか」
リナルドの声が低かった。
「決着の形は、まだわかりません。でも——今日会って、話して、そう感じました」
「承知いたしました」
帰ろうとした。リナルドが口を開いた。
「……フィリーネ様」
「はい」
「前任の奥様も——」
止まった。
廊下に、その言葉の欠片だけが残った。続きが来なかった。リナルドが続けなかった。
フィリーネは動かなかった。リナルドも動かなかった。廊下の灯りが静かに燃えていた。
前任の奥様。この屋敷に来た最初の夜、誰かから「前任の奥様もこの部屋を使っていた」と聞いた。それだけだった。それ以上は聞いていなかった。聞く機会がなかったのか、聞いていいものかわからなかったのか——どちらかは、今でも判断できなかった。
リナルドの机の引き出し。鍵がかかっている引き出し。来た2日目に一度だけ気づいて、それきり通り過ぎていた。
「……リナルド」
「はい」
「引き出しの——鍵のかかった引き出しのことを、お聞きしてもよろしいですか」
リナルドの手が、止まった。書類を持ったまま、静止した。
廊下が静かだった。屋敷の奥の方で、木がかすかに鳴った。それだけだった。
「……明日」とリナルドが言った。「閣下も——ご一緒のときに」
「……わかりました」
リナルドが一礼した。廊下を歩いていった。
フィリーネは廊下の窓を見た。夜の庭に光はなかった。窓辺の鉢が、灯りの中に輪郭だけ残っていた。
明日、扉が開く。
——その感触だけが、今夜の廊下にあった。




