第33話 4年間を、誰かに見てほしかったのです
フィリーネの手が、止まった。
止まったことに気づいた。気づいてから、もう1度手を動かした。茶碗を持ち上げた。口をつけた。温度は正しかった。カミーラが正しい温度で用意した茶だった。
「……お聞きになりましたか」
カミーラが声を低くした。待っている声だった。問い詰める声ではなかった。
「……はい」
カミーラが静かに目を細めた。笑ったのではなかった。何かを確認した顔だった。「そうですか」と言った。
部屋が静かになった。窓の外の庭の木が、少し揺れた。光が変わった。窓辺の白い花の影がテーブルを横切った。フィリーネは窓を見た。あの花の名前が、まだ出てこなかった。
「セドリック様は」とカミーラが言った。「あなたにだけ、話すのですか」
「話す」という語が何を指しているのかを、フィリーネは確かめていた。
「……どういう意味でしょうか」
「4年間、レオンハルト邸でセドリック様と公式の場で言葉を交わしました。でもそれは——話すことではなかった」カミーラの指先が、テーブルの縁に置かれた。「あなたとセドリック様は、話しておられると聞きました」
「……聞かれたのですか」
「80度のお茶を出される方がいると」
フィリーネの指先が、止まった。
◇
「4年間、私は正しいことをしていると思っておりました」
カミーラが顔を上げた。灰色の目がまっすぐだった。責める色はなかった。
「故公爵様が遺された言葉があります。カミーラに、と。その言葉を——4年間、約束として持っていました」
「……はい」
「でも」カミーラが少し間を置いた。「あの言葉が何だったのかを、最後まで確かめないまま、今まで来ました」
フィリーネは聞いた。用意していた言葉がどこかへ行っていた。持ち込んだ論拠が、何に使うのかわからなくなっていた。
「フィリーネ様に、お聞きしたいことがあります」
「はい」
「あなたは——なぜ、来られたのですか」
フィリーネはカミーラの顔を見た。攻撃的な顔ではなかった。本当に聞いている顔だった。
「確かめに参りました」
「何を」
「カミーラ様が何を言いに来られるのかを——聞かずに判断したくなかった」
カミーラがもう1度「そうですか」と言った。今日3度目の言葉が、今日一番温かかった。
◇
「4年間を」とカミーラが言った。「ずっと、誰かに見てほしかったのです」
フィリーネは手を膝に戻した。動かなかった。
「待っていた、とも言えます。でも——待っているつもりはなかった。ただ、4年間の私の選択を——見ている人が、いなかった」
窓辺の花が光の中にあった。白い、小さな花だった。
「フィリーネ様は」とカミーラが言った。「いつも、ご自分で選んでおられますね」
「……どうでしょうか」
「今日も——一人でいらした」
「はい」
「私は」カミーラが窓辺の花を見た。「4年間、誰かに選んでもらえると信じて動いていました。約束があると思っていたから」
しばらく、どちらも言葉を出さなかった。庭の木が揺れた。光がまた変わった。
「……あなたは花を選ぶ人ですね」
カミーラの声が静かだった。断定ではなかった。確認だった。
「私は——花を見せる人でした」
◇
フィリーネは返せなかった。
持ち込んだ言葉の中に、この言葉への答えはなかった。論拠も、正しい温度の返しも、なかった。
「カミーラ様」
用意していた声ではなかった。
「……カミーラ様も——誰かに花を選んでもらう権利があります」
カミーラが止まった。長い間だった。
「……そうですね」と言った。「そうですね」をもう1度言った。1度目と2度目の間に、何かが変わっていた。
2杯目の茶が冷めかかっていた。カミーラが気づいた様子だった。でも何もしなかった。そのままにした。
「4年間を」とカミーラが言った。「誰かに見てほしかったのです。ただ——それだけでした」
フィリーネの手が、膝の上にあった。指を押さえていた。22年間の仕草だった。でも今日、押さえているのは自分の感情ではなかった。カミーラの声が静かに落ちるのを——受け止めていた。
◇
しばらく後、カミーラが立った。
「今日は来てくださってありがとうございます」
「こちらこそ、お時間をいただきまして」
2人で一礼した。
「1つだけ」とカミーラが言った。「お聞きしてもよろしいですか」
「はい」
「セドリック様は」カミーラが窓の外を見た。「……お幸せそうですか」
フィリーネは少し考えた。
「……わかりません」
「そうですか」
「ただ」フィリーネが言った。「やかんを壊したと、伺っています」
カミーラが小さく息をついた。「やかんを」と言った。笑いではなかったかもしれない。でも、少し、表情が変わった。
「……そうですか」
「80度のお茶を再現しようとして、3足の靴を履き替えて、やかんを壊した——そういう方です」
カミーラが窓辺の花を見た。白い、小さな花が午後の光の中にあった。しばらく見ていた。
「……そうですか」と、もう1度だけ言った。
◇
玄関で一礼して、レオンハルト邸を出た。
馬車が待っていた。御者が扉を開けた。乗り込んだ。扉が閉まった。石畳の音が始まった。
窓の外に、邸の壁が流れていった。通りに出た。馬の蹄の音が変わった。遠くなった。
フィリーネは窓の外を見た。
用意していた言葉を1つも使わなかった、と確かめた。確かめてから、それが失敗だったかどうかを考えようとした。わからなかった。失敗という感じがしなかった。勝ったという感じもなかった。
カミーラが何かをしかけてきた場面があっただろうか。返すべき攻撃があっただろうか。馬車の中で探した。見つからなかった。
あったのは——「そうですね」が1度目と2度目で温度が違った、その瞬間だけだった。
カミーラは「誰かに見てほしかった」と言った。見てほしかったのに、見ていた人がいなかったのだと言った。4年間、ただそれだけだったと言った。
フィリーネは窓の外の屋根を数えていた。数え始めてから、なぜ数えているのかわからなくなった。やめた。
窓辺の白い花の名前が、馬車の中でも出てこなかった。名前のわからないまま午後の光の中にあった花が、まだ目の裏にあった。カミーラが窓辺の花を見た顔も、まだあった。
「そうですか」を何度も言う人だった——とフィリーネは思った。「そうですか」の温度が、言うたびに変わっていた。最後の「そうですか」は、最初のものと全く違っていた。
帰ったら——と思った。
帰ったら何をするか。その先を考えかけて、止まった。帰ったら何かが待っている、という感触が先に来た。何が待っているかは、まだわからなかった。
石畳の音が変わった。公爵邸のある通りに入っていた。




