第32話 一人で参ります、とわたしは言いました
朝、玄関に小さな革鞄を持って下りた。外套も掛けた。それだけの荷物だった。
廊下の奥で足音がした。セドリックだった。書類を片手に持っていた。どこかへ向かう途中の歩き方だったが、フィリーネを見て止まった。
「どちらへ」
「レオンハルト邸へ参ります。カミーラ様と、お会いする約束がございまして」
セドリックの顔が、1秒、止まった。
「……いつ」
「3日前に、ご返信をいただきました」
3日前。それだけを、言った。追加の説明はしなかった。「なぜ告げなかったか」を訊かれたら答えを持っていた。でも問われなかった。セドリックがもう1度口を開いた。それが何かを言う前に、フィリーネは先に言った。
「私も――」
「一人で参ります」
先に言った。「ご心配はご無用です。わかっておりますので」
セドリックの口が開いて、閉じた。
「……待て、とは言えない」
小さかった。フィリーネへ向けていない声だった。でも届いた。届いてから、フィリーネは足の位置を1歩分、扉の方へ動かした。
ヘルマンが廊下の角から「馬車の用意ができております」と言った。
フィリーネは一礼した。玄関を出た。振り返らなかった。
◇
「参りました、閣下」
ヘルマンが玄関先でセドリックに並んだ。穏やかな声だった。「ただし閣下はここでお待ちください」
「なぜだ」
「フィリーネ様が一人で動ける人間だと、閣下が信じる練習です」
「練習という言い方は」
「閣下が一番苦手とされていることなので」とヘルマンが言った。「事実を申し上げたまでです」
セドリックが何も言わなかった。
馬車が動き始めた。蹄の音が石畳を打った。少しずつ遠ざかった。セドリックが玄関先に立ったまま動かなかった。ヘルマンが横で黒い手帳を出した。ペンを取った。何かを書いた。
「閣下、書斎に戻られましては」
「……いい」
「馬車が戻るのは夕方かと」
「わかっている」
石畳の音が消えた。
セドリックの耳が、少し赤かった。ヘルマンは何も言わなかった。もう1行、手帳に書いた。
◇
馬車の中は静かだった。
フィリーネは窓の外を見た。公爵邸の塀が後ろへ流れた。石畳が続いた。通りに出た。馬の蹄の音が変わった。
3日間、「告げなかった」という選択を持ちながら過ごした。告げたくなかったわけではなかった。言葉を探していた。「カミーラ様に会いに行きます」という事実の、説明ではない言い方を。見つからないまま、3日が経った。
今朝、「3日前にご返信をいただきました」と言った。それで足りたのかどうか、馬車の中ではまだわからなかった。
セドリックが「……待て、とは言えない」と言った。
何度か思い返した。声の大きさ。向いていた方向。フィリーネへ向けた言葉ではなかったかもしれない。でも聞こえた。聞こえたことを、フィリーネは聞こえなかったことにしなかった。
それでいいのか、は帰りに考えることにした。
窓の外で、見知らぬ通りの屋根が続いた。公爵邸よりずっと遠くまで来た。フィリーネはそれを確認した。確認してから、窓から目を離した。
◇
公爵邸では、セドリックが玄関先にいた。
昼になってもいた。ヘルマンが一度、書斎に戻るよう言った。「……わかっている」と返ってきた。わかっていても動かなかった。石畳の端を、目が何度も通っていた。
ヘルマンが手帳を出した。午前の記録の下に、もう1行、静かに書き足した。
◇
レオンハルト邸の応接間は、日当たりがよかった。
カミーラが立って迎えた。赤褐色の髪。明るい灰色の目。礼節が完璧だった。攻撃的な要素がどこにもなかった。公爵邸を出る前、フィリーネはカミーラの言葉を想定していた。論拠のある主張。先約の正当性。正面からの要求。それに対する答えを、馬車の中で何通りか用意していた。
「来てくださってありがとうございます、フィリーネ様」
「こちらこそ、お時間をいただきまして」
椅子を勧められた。座った。部屋は広くなかった。飾りが少なかった。窓辺に花があった。白い、小さな花だった。名前はすぐ出なかった。珍しい花だった。
テーブルの上に茶が2杯あった。温度が正しかった。意図を持って用意された温度だった。フィリーネはそれに気づいて、手に取った。
カミーラが向かいに座った。
「こうしてお会いするのは、初めてですね」
「はい」
「私が想像していたより、ずっと」カミーラが言葉を選んだ。「落ち着いていらっしゃる」
フィリーネは何も言わなかった。返せる言葉がなかった。返す必要がない気がした。
カミーラがそれを見て、小さく息をついた。笑ったわけではなかった。
「管理者として来られたのですか。それとも――」
「フィリーネとして参りました」
カミーラが止まった。「……そうですか」と言った。
今日初めて、カミーラの声の温度が変わった。短い言葉が、今日一番重かった。
◇
「存じておりましたか、フィリーネ様」とカミーラが言った。「あなたが来られる前から、ヴェルティーン公爵は――」
「存じておりました」
カミーラの指先が止まった。茶碗を持ちかけた手が、テーブルの上で静止した。
「……そうですか」
「はい」
間があった。何かが変わった間だった。カミーラが茶碗を置いた。置いてから、また手に取った。確かめるように。
「では」とカミーラが言った。「私が4年間、信じていたことは、ご存知でしたか」
「……存じませんでした」
カミーラが少し違う表情をした。「そうですか」とまた言った。最初の「そうですか」と温度が違った。「存じておりました」という答えと「存じませんでした」という答えを、カミーラが静かに並べているように見えた。2つの答えの重さが、カミーラの中で何かを動かしていた。
フィリーネは、用意していた言葉をまだ一言も使っていなかった。
どこに置いたらいいのか、わからなくなっていた。
窓の外で、庭の木が揺れていた。光が変わった。花の影が少しずれた。
カミーラが2杯目の茶を注いだ。静かな音だった。
「フィリーネ様」
止まった。
「あなたは——本当に、セドリック様のことが好きなのですね」
フィリーネの手が、止まった。




