表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第7章 リナルドが30年保管した手紙の、封が切られた

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/35

第32話 一人で参ります、とわたしは言いました

 朝、玄関に小さな革鞄を持って下りた。外套も掛けた。それだけの荷物だった。


 廊下の奥で足音がした。セドリックだった。書類を片手に持っていた。どこかへ向かう途中の歩き方だったが、フィリーネを見て止まった。


「どちらへ」


「レオンハルト邸へ参ります。カミーラ様と、お会いする約束がございまして」


 セドリックの顔が、1秒、止まった。


「……いつ」


「3日前に、ご返信をいただきました」


 3日前。それだけを、言った。追加の説明はしなかった。「なぜ告げなかったか」を訊かれたら答えを持っていた。でも問われなかった。セドリックがもう1度口を開いた。それが何かを言う前に、フィリーネは先に言った。


「私も――」


「一人で参ります」


 先に言った。「ご心配はご無用です。わかっておりますので」


 セドリックの口が開いて、閉じた。


「……待て、とは言えない」


 小さかった。フィリーネへ向けていない声だった。でも届いた。届いてから、フィリーネは足の位置を1歩分、扉の方へ動かした。


 ヘルマンが廊下の角から「馬車の用意ができております」と言った。


 フィリーネは一礼した。玄関を出た。振り返らなかった。



「参りました、閣下」


 ヘルマンが玄関先でセドリックに並んだ。穏やかな声だった。「ただし閣下はここでお待ちください」


「なぜだ」


「フィリーネ様が一人で動ける人間だと、閣下が信じる練習です」


「練習という言い方は」


「閣下が一番苦手とされていることなので」とヘルマンが言った。「事実を申し上げたまでです」


 セドリックが何も言わなかった。


 馬車が動き始めた。蹄の音が石畳を打った。少しずつ遠ざかった。セドリックが玄関先に立ったまま動かなかった。ヘルマンが横で黒い手帳を出した。ペンを取った。何かを書いた。


「閣下、書斎に戻られましては」


「……いい」


「馬車が戻るのは夕方かと」


「わかっている」


 石畳の音が消えた。


 セドリックの耳が、少し赤かった。ヘルマンは何も言わなかった。もう1行、手帳に書いた。



 馬車の中は静かだった。


 フィリーネは窓の外を見た。公爵邸の塀が後ろへ流れた。石畳が続いた。通りに出た。馬の蹄の音が変わった。


 3日間、「告げなかった」という選択を持ちながら過ごした。告げたくなかったわけではなかった。言葉を探していた。「カミーラ様に会いに行きます」という事実の、説明ではない言い方を。見つからないまま、3日が経った。


 今朝、「3日前にご返信をいただきました」と言った。それで足りたのかどうか、馬車の中ではまだわからなかった。


 セドリックが「……待て、とは言えない」と言った。


 何度か思い返した。声の大きさ。向いていた方向。フィリーネへ向けた言葉ではなかったかもしれない。でも聞こえた。聞こえたことを、フィリーネは聞こえなかったことにしなかった。


 それでいいのか、は帰りに考えることにした。


 窓の外で、見知らぬ通りの屋根が続いた。公爵邸よりずっと遠くまで来た。フィリーネはそれを確認した。確認してから、窓から目を離した。



 公爵邸では、セドリックが玄関先にいた。


 昼になってもいた。ヘルマンが一度、書斎に戻るよう言った。「……わかっている」と返ってきた。わかっていても動かなかった。石畳の端を、目が何度も通っていた。


 ヘルマンが手帳を出した。午前の記録の下に、もう1行、静かに書き足した。



 レオンハルト邸の応接間は、日当たりがよかった。


 カミーラが立って迎えた。赤褐色の髪。明るい灰色の目。礼節が完璧だった。攻撃的な要素がどこにもなかった。公爵邸を出る前、フィリーネはカミーラの言葉を想定していた。論拠のある主張。先約の正当性。正面からの要求。それに対する答えを、馬車の中で何通りか用意していた。


「来てくださってありがとうございます、フィリーネ様」


「こちらこそ、お時間をいただきまして」


 椅子を勧められた。座った。部屋は広くなかった。飾りが少なかった。窓辺に花があった。白い、小さな花だった。名前はすぐ出なかった。珍しい花だった。


 テーブルの上に茶が2杯あった。温度が正しかった。意図を持って用意された温度だった。フィリーネはそれに気づいて、手に取った。


 カミーラが向かいに座った。


「こうしてお会いするのは、初めてですね」


「はい」


「私が想像していたより、ずっと」カミーラが言葉を選んだ。「落ち着いていらっしゃる」


 フィリーネは何も言わなかった。返せる言葉がなかった。返す必要がない気がした。


 カミーラがそれを見て、小さく息をついた。笑ったわけではなかった。


「管理者として来られたのですか。それとも――」


「フィリーネとして参りました」


 カミーラが止まった。「……そうですか」と言った。


 今日初めて、カミーラの声の温度が変わった。短い言葉が、今日一番重かった。



「存じておりましたか、フィリーネ様」とカミーラが言った。「あなたが来られる前から、ヴェルティーン公爵は――」


「存じておりました」


 カミーラの指先が止まった。茶碗を持ちかけた手が、テーブルの上で静止した。


「……そうですか」


「はい」


 間があった。何かが変わった間だった。カミーラが茶碗を置いた。置いてから、また手に取った。確かめるように。


「では」とカミーラが言った。「私が4年間、信じていたことは、ご存知でしたか」


「……存じませんでした」


 カミーラが少し違う表情をした。「そうですか」とまた言った。最初の「そうですか」と温度が違った。「存じておりました」という答えと「存じませんでした」という答えを、カミーラが静かに並べているように見えた。2つの答えの重さが、カミーラの中で何かを動かしていた。


 フィリーネは、用意していた言葉をまだ一言も使っていなかった。


 どこに置いたらいいのか、わからなくなっていた。


 窓の外で、庭の木が揺れていた。光が変わった。花の影が少しずれた。


 カミーラが2杯目の茶を注いだ。静かな音だった。


「フィリーネ様」


 止まった。


「あなたは——本当に、セドリック様のことが好きなのですね」


 フィリーネの手が、止まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ