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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第7章 リナルドが30年保管した手紙の、封が切られた

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第31話 一人で、と書いた

 朝、財務室の机の上に、開かれた封書がある。


 昨夜、開けた。1行だけ書いてあった。「お会いしとうございます、フィリーネ様。日時はご都合のよろしい日をご指定ください」――それだけで終わっている。今朝もう1度読んでも、同じ1行だった。増えない。攻撃的な語はない。丁寧な字体で、紙の中央に収まっている。


 穏やかだから、扱い方が決まらなかった。


 攻撃的な手紙であれば、対処が見えた。正当性を並べて、論拠で返せばいい。だがこの1行には論点がない。「日時はご都合のよろしい日をご指定ください」――選ぶのはフィリーネだ。動くのも、動かないのも、フィリーネが決める。選択を手渡している文面が、どの返し方より重かった。


 帳面を開いた。昨夜書いた字が3行ある。廃業確認、日付の矛盾、署名欄の位置。「揃いました」という語がその下にある。その下に――「お会いしとうございます」という写しが1行。写す必要があったのかどうか、書いてから考えなかった。


 帳面を閉じた。



 リナルドが朝の茶を持ってきた。


 いつものように机の端に置いた。礼をした。去ろうとした。扉の前で、足が止まった。


「――昨日より、進んでいますか」


 低い声だった。試している声ではなかった。確認の声でもなかった。もう少し別の何かだった。


「……はい」


 リナルドが頭を下げた。出ていった。扉が静かに閉まった。


 「引き続き」という言葉は何度も聞いていた。「昨日より進んでいますか」とは、一度も言われなかった。「引き続き」は前を向いている語だ。「昨日より」は後ろを振り返る語だ。同じ仕事への言及が、向きが違っていた。なぜ今日、向きが変わったのかを考えようとして、茶の温度に気づいた。正しい温度だった。いつもと同じだった。



 封書をもう1度手に取った。


 行くか、行かないか。


 3秒で決まっていた。


 会わなければ、不確かなままになる。カミーラが何を言いに来るのかを知らないまま構えることと、会って事実を見ることは、違う。財務記録を整理していたとき、「確認してから判断する」という順番を守った。今回も同じ順番にする。確認の前に「退く」とも「留まる」とも言わない。


 行く。


 心の中で1度だけ確定した。封書を机の右端に置いた。


 次に考えたのは――セドリックに告げるかどうか、だった。


 止まった。


 告げれば、止められるかもしれない。止められなくても、心配させる。「私が一緒に行く」とセドリックが言う声が、なぜか頭を通った。止めたいわけではないが、止められないわけでもない――そういう顔をして、「……わかった」と言う声が続いた。


 それが嫌なのか、と確かめた。


 嫌ではなかった。ただ――今回は、自分で決めて、自分で動いた、という形にしてみたかった。「一緒に行った」ではなく。「止められたが行った」でもなく。隠すためではない。そこだけを、今日の午前中に確かめた。



 昼、廊下に出た。


 ヘルマンが向こうから歩いてくる。記録帳を片手に持っていた。


「フィリーネ様。閣下が、先ほどお話があると」


「……後ほど参ります」


「承知いたしました」


 ヘルマンが歩き続けた。フィリーネも歩いた。廊下の角を曲がりかけたとき、「――フィリーネ様?」と振り返る声がした。


 振り向かなかった。角を曲がった。


 「後ほど参ります」と言ったとき、理由を付けなかった。付けたら付けた理由が嘘になる。だから付けなかった。足が止まりかけた。止まらなかった。


 今日「告げない」のは「隠す」ためではない――と廊下で確かめた。確かめてから、確かめたことを確認した。「隠さない」と「告げない」は違う。今日は告げないが、隠してはいない。その区別を自分の言葉にできるかどうかは、今夜まで試さないことにした。



 自室に戻った。


 文机に向かった。便箋を出した。ペンを取った。


「日時をご指定ください。一人で参ります。フィリーネ・エルデン」


 1行半で書き終わった。書き直さなかった。「一人で参ります」という語が先に来ている。書いてから気づいた。書く前に「一人で」を先に置こうと考えたわけではなかった。手がそういう順番で動いた。


 封をした。


 手が膝の上に下りた。指が組まれかけた。――押さえなかった。


 窓の外に、小さな鉢がある。先月、廊下の窓台に置かれていた。誰が置いたのかは言われていない。芽が出ている。カモミールになるかどうかはまだわからない。今日も日光が当たっていた。



 夜、書斎に向かった。


 ノックして入った。蝋燭の灯りだった。セドリックが書類から顔を上げた。


「――財務整理の続きについて、ご報告がございます」


「聞く」


「4年前の書類との整合確認は完了しています。3点の矛盾が同じ書類に集中している、という事実の確定ができました」


「法的手続きは進めている。公証人を通じた確認も取れた」


「……左様でございましたか」


 今日初めて聞いた事実として受け取った。リナルドから聞いていた。でも「今日初めて聞いた顔」をしたのは嘘ではなかった。ただ順番が違った。知っていた順番と、言われた順番が、1日だけずれていた。


「無理をするな」


「無理ではありません」


「そうか」


 蝋燭が一度揺れた。部屋が静かだった。


 帰り際、扉に向かった。手が取っ手にかかった。


「――今日」とセドリックが言った。「何かあったか」


 止まった。


 「はい」が喉の奥にある。「一人で参ります」と書いた便箋が引き出しの中にあること。「後ほど参ります」と言って角を曲がったこと。それらが全部「はい」の中に入っていた。入ったまま出てこなかった。


「……今日も、記録が進みました」


「それは聞いた」


「……左様でございましたか」


 セドリックが静かに「そうか」と言った。追わなかった。


 扉を閉めた。廊下に出た。


 「言えなかった」ではなかった。「言わなかった」だった。廊下を歩きながら1度だけ確かめた。この区別が今夜、最後まで崩れなかった。



 自室に戻った。引き出しを開けた。封をした便箋を入れた。引き出しを閉めた。鍵はかけなかった。


 窓辺の鉢を見た。芽が今日も日光を受けていた。


 翌朝、ヘルマンがトレイを持ってきた。


「カミーラ様より、ご返信でございます」


 フィリーネは1人でその封書を受け取った。開けた。


 日時が書いてあった。


 ――3日後だった。

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