第31話 一人で、と書いた
朝、財務室の机の上に、開かれた封書がある。
昨夜、開けた。1行だけ書いてあった。「お会いしとうございます、フィリーネ様。日時はご都合のよろしい日をご指定ください」――それだけで終わっている。今朝もう1度読んでも、同じ1行だった。増えない。攻撃的な語はない。丁寧な字体で、紙の中央に収まっている。
穏やかだから、扱い方が決まらなかった。
攻撃的な手紙であれば、対処が見えた。正当性を並べて、論拠で返せばいい。だがこの1行には論点がない。「日時はご都合のよろしい日をご指定ください」――選ぶのはフィリーネだ。動くのも、動かないのも、フィリーネが決める。選択を手渡している文面が、どの返し方より重かった。
帳面を開いた。昨夜書いた字が3行ある。廃業確認、日付の矛盾、署名欄の位置。「揃いました」という語がその下にある。その下に――「お会いしとうございます」という写しが1行。写す必要があったのかどうか、書いてから考えなかった。
帳面を閉じた。
◇
リナルドが朝の茶を持ってきた。
いつものように机の端に置いた。礼をした。去ろうとした。扉の前で、足が止まった。
「――昨日より、進んでいますか」
低い声だった。試している声ではなかった。確認の声でもなかった。もう少し別の何かだった。
「……はい」
リナルドが頭を下げた。出ていった。扉が静かに閉まった。
「引き続き」という言葉は何度も聞いていた。「昨日より進んでいますか」とは、一度も言われなかった。「引き続き」は前を向いている語だ。「昨日より」は後ろを振り返る語だ。同じ仕事への言及が、向きが違っていた。なぜ今日、向きが変わったのかを考えようとして、茶の温度に気づいた。正しい温度だった。いつもと同じだった。
◇
封書をもう1度手に取った。
行くか、行かないか。
3秒で決まっていた。
会わなければ、不確かなままになる。カミーラが何を言いに来るのかを知らないまま構えることと、会って事実を見ることは、違う。財務記録を整理していたとき、「確認してから判断する」という順番を守った。今回も同じ順番にする。確認の前に「退く」とも「留まる」とも言わない。
行く。
心の中で1度だけ確定した。封書を机の右端に置いた。
次に考えたのは――セドリックに告げるかどうか、だった。
止まった。
告げれば、止められるかもしれない。止められなくても、心配させる。「私が一緒に行く」とセドリックが言う声が、なぜか頭を通った。止めたいわけではないが、止められないわけでもない――そういう顔をして、「……わかった」と言う声が続いた。
それが嫌なのか、と確かめた。
嫌ではなかった。ただ――今回は、自分で決めて、自分で動いた、という形にしてみたかった。「一緒に行った」ではなく。「止められたが行った」でもなく。隠すためではない。そこだけを、今日の午前中に確かめた。
◇
昼、廊下に出た。
ヘルマンが向こうから歩いてくる。記録帳を片手に持っていた。
「フィリーネ様。閣下が、先ほどお話があると」
「……後ほど参ります」
「承知いたしました」
ヘルマンが歩き続けた。フィリーネも歩いた。廊下の角を曲がりかけたとき、「――フィリーネ様?」と振り返る声がした。
振り向かなかった。角を曲がった。
「後ほど参ります」と言ったとき、理由を付けなかった。付けたら付けた理由が嘘になる。だから付けなかった。足が止まりかけた。止まらなかった。
今日「告げない」のは「隠す」ためではない――と廊下で確かめた。確かめてから、確かめたことを確認した。「隠さない」と「告げない」は違う。今日は告げないが、隠してはいない。その区別を自分の言葉にできるかどうかは、今夜まで試さないことにした。
◇
自室に戻った。
文机に向かった。便箋を出した。ペンを取った。
「日時をご指定ください。一人で参ります。フィリーネ・エルデン」
1行半で書き終わった。書き直さなかった。「一人で参ります」という語が先に来ている。書いてから気づいた。書く前に「一人で」を先に置こうと考えたわけではなかった。手がそういう順番で動いた。
封をした。
手が膝の上に下りた。指が組まれかけた。――押さえなかった。
窓の外に、小さな鉢がある。先月、廊下の窓台に置かれていた。誰が置いたのかは言われていない。芽が出ている。カモミールになるかどうかはまだわからない。今日も日光が当たっていた。
◇
夜、書斎に向かった。
ノックして入った。蝋燭の灯りだった。セドリックが書類から顔を上げた。
「――財務整理の続きについて、ご報告がございます」
「聞く」
「4年前の書類との整合確認は完了しています。3点の矛盾が同じ書類に集中している、という事実の確定ができました」
「法的手続きは進めている。公証人を通じた確認も取れた」
「……左様でございましたか」
今日初めて聞いた事実として受け取った。リナルドから聞いていた。でも「今日初めて聞いた顔」をしたのは嘘ではなかった。ただ順番が違った。知っていた順番と、言われた順番が、1日だけずれていた。
「無理をするな」
「無理ではありません」
「そうか」
蝋燭が一度揺れた。部屋が静かだった。
帰り際、扉に向かった。手が取っ手にかかった。
「――今日」とセドリックが言った。「何かあったか」
止まった。
「はい」が喉の奥にある。「一人で参ります」と書いた便箋が引き出しの中にあること。「後ほど参ります」と言って角を曲がったこと。それらが全部「はい」の中に入っていた。入ったまま出てこなかった。
「……今日も、記録が進みました」
「それは聞いた」
「……左様でございましたか」
セドリックが静かに「そうか」と言った。追わなかった。
扉を閉めた。廊下に出た。
「言えなかった」ではなかった。「言わなかった」だった。廊下を歩きながら1度だけ確かめた。この区別が今夜、最後まで崩れなかった。
◇
自室に戻った。引き出しを開けた。封をした便箋を入れた。引き出しを閉めた。鍵はかけなかった。
窓辺の鉢を見た。芽が今日も日光を受けていた。
翌朝、ヘルマンがトレイを持ってきた。
「カミーラ様より、ご返信でございます」
フィリーネは1人でその封書を受け取った。開けた。
日時が書いてあった。
――3日後だった。




