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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第6章 退くと言いに来たのに、証拠を持ってきてしまった

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第30話 穏やかな文面が、一番重かった

 朝の財務室で、帳面に清書した。


 ①グレイ公証人事務所廃業:王暦312年3月。②カミーラ書類日付:同年6月。③署名欄の位置:4年前書類のみ左欄。3つの項目が、縦に並んだ。並べてから帳面を見た。どの項目も1行で済んでいる。「廃業」「日付の矛盾」「署名欄の位置」——3つの事実が、それだけの行数で収まっている。書いた量より、意味の方がずっと重かった。


 3点が全部「4年前の書類だけ」に集中している。これは偶然ではない。書類が実在した事務所によって正当に作られたものであれば、廃業した事務所が半年後に署名できるはずがない。書式の変更もない。4年前の書類だけが別の形をしている。別の手が作った書類だ。


「……揃った」


 声に出た。出す必要はなかった。なぜ出たのか、考えないことにした。


 帳面を閉じた。書斎に向かった。今日は廊下の途中で足が止まらなかった。3秒もかからなかった。昨日は1歩ごとに速度を確認した。今日は確認しなかった。確認しなかったことに気づいたのは、書斎の扉の前に着いてからだった。



 軽くノックして入った。セドリックが書類を見ていた。顔を上げた。フィリーネが帳面を差し出した。


「——揃いました」


 セドリックが受け取った。読み始めた。①から③まで、1度も手を止めなかった。全部読んだ。帳面を机に置いた。


「確認する。法的手続きに入れる」


「……はい」


「これは——」


 顔が上がった。フィリーネを見た。


「あなたが最初に気づいた」


 「管理者として——」が喉の奥にあった。それが出かかった。止まった。0.5秒。言葉が出なかった。「管理者として動いた」——その言葉の最初の3文字が出た瞬間に、何かが止まった。止めた意識はなかった。止まっていた。出なかった理由がわからなかった。わからないまま「……はい」とだけ言った。


 言い終わってから、「管理者として」の続きを探した。出てこなかった。出てこなかったことが3秒後まで残っていた。「管理者として、ではなかったのかもしれない」——その考えが0.5秒だけ頭を通った。通ってから、消えた。消えた、と思った。消えたかどうか確かめなかった。


 セドリックが窓の方を向いた。


「——よかった」


 色のない言葉だった。「よかった」に感情の名前はない。それでも「よかった」と言った。フィリーネの耳の奥に、0.2秒だけ、その声の温度が残った。確認したいものがあった。今日はセドリックの方を向いたまま1秒だけ立った。1秒後に目を窓の方に戻した。確認しなかった。



 ヘルマンが書類を整理しながら、帳面の後ろに1枚を重ねた。末尾に静かに置いた。


「——なお、閣下。別紙がございます」


 セドリックが1秒置いた。


「今は不要だ」


「了解いたしました」


 ヘルマンが紙を取った。しまった。いつもより少し丁寧にしまった。フィリーネには見えた。「了解いたしました」という声と、そのしまい方の静けさが、1つ分だけ合っていなかった。よく見ていなければわからない差だった。見ていた。書斎を出てから廊下で1度だけ止まりかけた。止まらなかった。「別紙」という言葉と、丁寧なしまい方の1秒が、財務室に戻るまでの廊下にずっとついてきた。



 財務室に戻った。


 机の右端に、カミーラの封書がある。昨日からそこにある。今朝もある。昨夜「今夜は切る」と決めた。爪を角に当てた。力を入れた。指が動かなかった。「明日にする」と書こうとして、帳面を開かなかった。開かないまま今朝まで来た。


 帳面を置いた。今日の記録を閉じた。「揃いました」と言えた。受け取ってもらった。「よかった」があった。「あなたが最初に気づいた」があった。「管理者として——」と言いかけて止まった0.5秒があった。その0.5秒は今もある。消した。消えていない。「消した」と書いて「消えていない」と続けると矛盾する。でも今日の頭の中はそういう順番だった。


 封書を取った。爪を角に当てた。今日は力を入れた。紙が、開いた。


 1行だけ書いてあった。


「お会いしとうございます、フィリーネ様。日時はご都合のよろしい日をご指定ください。カミーラ・レオンハルト」


 穏やかな文面だった。


 読んだ。もう1度読んだ。「日時はご都合のよろしい日をご指定ください」という一文が、目の中に残った。責める言葉がない。攻撃の形をしていない。選択を委ねている。委ねながら、その選択に意味を持たせている。指定するのは自分だ。日時を決めるのは自分だ。でも、動くのはその指定に応じる形で行われる。


 「ご都合のよろしい日をご指定ください」——この6文字の構造を3回読んだ。3回目を読んだとき、指が封書の角に触れていた。気づかなかった。気づいてから、指を下ろした。


 穏やかな文面が、手の中で重くなった。穏やかだから、重かった。



 夜、廊下に出た。


 リナルドが向こうから歩いてきた。すれ違う直前に、足が止まった。


「——フィリーネ様」


「はい」


「カミーラ様は、フィリーネ様を通じてのみ動ける、とお考えのようです」


 間が、あった。


「私が、最初に察しました」


「——セドリック様には」


「既に申し上げました」


 フィリーネは廊下に立ったまま動かなかった。「既に申し上げました」——リナルドが先に伝えていた。セドリックはすでに知っていた。それで「よかった」と言った。それで「あなたが最初に気づいた」と言った。カミーラの手紙については、何も言わなかった。何も言わなかった理由を、フィリーネはまだ持っていなかった。理由のない沈黙というものを、セドリックがするとは思っていなかった。セドリックが黙っているときは、黙っている理由がある。今日「よかった」と言った声の温度と、黙っていた理由が、廊下の中で並んでいた。


「……わかりました」


 リナルドが頭を下げた。去った。足音が遠ざかった。


 廊下に一人で立った。封書の1行が頭の中にある。「ご都合のよろしい日をご指定ください」。リナルドの「既に申し上げました」がある。「よかった」という声の温度が0.2秒分だけまだある。「管理者として——」と言いかけて止まった0.5秒がある。それらが今夜、同じ廊下に並んでいる。


 セドリックが黙っていた理由を、フィリーネはその夜まで知らなかった。

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