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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第6章 退くと言いに来たのに、証拠を持ってきてしまった

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第29話 お父様が、参りました

「……来訪のお知らせは、ありましたか」


 ヘルマンが扉口で軽く頭を下げた。


「昨日のお手紙にて、でございます。セドリック閣下にはお伝えしておりましたが——」


「わかりました」


 帳面を閉じた。手が、いつもより少し速く動いた。机の右端のカミーラの封書と、昨日届いていたという父からの便りが、頭の中で1度だけ重なった。届いていたのに、自分のところに通っていなかった。これまでなら「そういうものだ」で終わらせていた。今日は終わらせなかった。なぜ終わらせなかったのかは、考えないことにした。


 廊下を歩いた。歩く速度がいつもの2割ほど速い。気づいて、戻した。戻したのに、また速くなった。


 玄関に、父がいた。


 旅装のまま立っていた。少し肩が下がっている。外套の裾に馬車の埃が薄く付いていた。22年見てきた姿だった。22年見てきたのに、玄関でこちらを向いて立っているのを見るのは、初めてだった。


 父がフィリーネを見た。間を置いた。


「——来た」


 短かった。それだけだった。


 22年、父が口にしてきたのは「帰ってきたか」だった。今日は「来た」だった。同じ2文字で、主語が違っていた。


「……どうぞ。応接室へ」


「どうぞ」と「応接室へ」のあいだに、3秒空いた。3秒前の自分は「どうぞ」しか持っていなかった。



 茶が運ばれた。父の前に1客、フィリーネの前に1客。


 父がフィリーネの茶碗を見た。視線が止まった。


「……よかった」


「何が、ですか」


「茶碗が、新しい」


 実家の茶碗の縁が欠けていたのを、フィリーネは22年知っていた。父が知っていたとは、知らなかった。


 沈黙があった。


 父が懐から、折りたたんだ便箋を出した。掌の上で開いて、閉じて、また開いた。


「これを、持ってきた」


 差し出された。受け取った。


 1行目だけが書いてあった。


 「娘をよろしく頼む」


 続きの行に、薄い線が3本引いてあった。何度か書こうとして、書けずにペン先で紙を撫でた跡だ。


「娘の好きな花を書こうとした。——書けなかった」


「……」


「どんな花が好きかを、知らなかった。22年、隣にいたのに」


 フィリーネは便箋を見た。1秒だけ、答えを探した。22年、考えたことのない問いだ。「私の好きな花は」と切り出したことはない。聞かれたこともない。問いがなかったから、答えもなかった。問いが今日、初めて来た。


 答えは——あった。


「カモミールです、お父様」


 父の視線が便箋から上がった。


「花言葉は、『逆境に耐える力』。——似合いすぎると、思っておりました」


 父が便箋に視線を戻した。指が紙の縁を1度なぞった。


「……そうか」


 「そうか」以外の言葉を持たない父のひと言を、フィリーネは22年分の沈黙の最初の言葉として受け取った。



 父が庭を見たいと言った。


 廊下に出ると、書斎からセドリックが出てきて合流した。父に頭を下げた。父も下げた。3人で庭に出た。


 父がバラの株の前で立ち止まった。


「……綺麗だな」


「去年、植え直しました」とセドリックが言った。


 父が間を置いた。


「……1度、枯らしたと、うかがいましたが」


 セドリックが黙った。耳がわずかに赤くなった。フィリーネには見える位置だった。今日2度目だ。


「水やりが、1日に3度、とのことで」


 父の声がやや上向いた。


「——ヘルマン」とセドリックが呼んだ。


「ございます、閣下」


 庭木の陰から出てきた。


「お前は」


「事実を申し上げたまでです、閣下。伯爵様におかれましても、ご令嬢の婚約者のご様子を案じておられましたので」


 父が小さく息を吐いた。


「娘には、手を焼かせていると思いまして」


 フィリーネが口に手を当てた。当てたところで止めた。当てたまま動かさなかった。


 父が横を向いた。フィリーネと同じ方向を向いた。


「——笑いそうに、なっているな」


「……笑っておりません」


「そうか」


 今度の「そうか」は、応接室のものとは違った。フィリーネにはわかった。語尾の温度が違った。応接室のは下に落ちる声だった。今度のは、横に逸れる声だった。


 ヘルマンが少しだけ姿勢を正した。記録帳は、開かなかった。



 父が帰り支度をした。玄関に立った。


「フィリーネ」


「はい」


「——また、来てもいいか」


「……はい」


 「はい」と言ってから、自分が即答したことに気づいた。0.1秒、自分の声に驚いた。「いいか」と問われて即答した「はい」は、22年で、今日が初めてだった。


「バラに——」


「はい」


「どう水をやるか、教えてもらえるか。次に来るとき」


 1秒、考えた。考える必要はなかった。


「1日に1度です。根の部分に、直接。直射日光の後は、少し時間を置いてから」


「わかった」


 父が外套の襟を直した。直し終わって、もう1度フィリーネを見た。何か言いかけて、止めた。「そうか」も「来た」も使わなかった。使わずに、頷いた。


 馬車が出た。


 応接室の机の上に、書きかけの便箋がそのまま置いてあった。父が忘れたのではなかった。置いていったのだ。「娘をよろしく頼む」の続きが、空白のままで。


 財務室に戻った。机の右端に、カミーラの封書がある。昨日からそこにある。封は、まだ切れていない。


 帳面を開いた。「カモミールです」と書いた。何の記録なのかは、書き添えなかった。書き添えなくてもわかる気がした。書き添えないと決められたのは、この章に入って、初めてだった。


 封書の縁を、人差し指でなぞった。紙の感触があった。


 今夜は——切る。


 封の角に、爪を当てた。窓の外で、夜の庭がもう暗い。バラの株は見えない。「1日に1度、根の部分に」と父に言った自分の声が、まだ廊下に残っている気がした。


 爪に、力を入れた。

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