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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第6章 退くと言いに来たのに、証拠を持ってきてしまった

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第28話 前任の奥様も、この部屋で

「前任の奥様も、この部屋でよく記録をされていた」


 リナルドが言った。お茶を置いて、去り際に、それだけ言った。


 フィリーネは財務記録から顔を上げた。リナルドの背中が廊下に消えた。扉が静かに閉まった。


 前任の奥様。セドリックの母上だ。30年前、この部屋にいた人物。フィリーネが着任してから何度も整理してきた記録棚の、いちばん古い層に字がある。あの手書き文字は——誰の字か、今まで一度も確かめたことがなかった。財務記録として読んできた。人の字として見たことがなかった。


 棚を見渡した。30年前の記録が、整然と並んでいる。


 いちばん古い束を1冊、棚から引いた。表紙に年号が書いてある。30年前の数字だ。開いた。細い、整った字が並んでいる。数字の形が、フィリーネとは少し違う「3」の書き方をする人だった。「7」の横棒が短い。几帳面に、でも少しだけ速く書いた筆跡だ。記録の内容はどこも正確だった。


 もとの棚に戻した。


 「引き続き」という言葉が今日で4回目になった。最初に言われたのは、まだフィリーネが「試験中」だと思っていた頃だ。4回目の「引き続き」には、今日もまた、最初の頃とは違う音がした。何が違うのかを言葉にしようとすると、止まった。


 財務調査の続きに戻った。



 別の書類棚を開けた。4年前の日付で綴じられた一束を取り出した。


 廃業の証拠と署名形式の不一致。あと1つ、確定的なものがほしい。もう少し角度の違う矛盾があれば、「偶然の誤記」という反論を封じられる。


 日付を見た。数字を確認した。——署名欄の位置が違う。


 同じ書式の書類が、4年前のものだけ、署名欄が右側ではなく左側にある。他の年度の書類はすべて右だ。4年前だけが左。書式の変更があったのであれば変更の記録がどこかにある。別の棚を確認した。変更の記録は——ない。


 帳面に書いた。「署名位置:4年前書類のみ左欄。変更記録なし」。


 これで3点が揃った。廃業。形式の不一致。署名欄の位置。3点が同時に「4年前の書類だけ」に集中している。次の報告ができる。


 「揃いつつある」と声に出しかけた。出なかった。昨日「揃った」と声に出したのを思い出した。声に出す必要はなかった。なぜ出たのか、あのとき考えないことにした。今日は出なかった。それが何かを意味するのかどうか——考えないことにした。


 帳面を閉じた。机の右端に置いた。花瓶のカモミールが、今日も不揃いのまま立っている。



 書類を棚に返しにいった。廊下を歩いていると、リナルドの執務室の扉が少し開いていた。声をかけようとして、止まった。


 リナルドが机の前に立っていた。引き出しに手をかけていた。鍵を差し込んだ。回した。引き出しが開いた。


 中に、封がされた何かがある。紙か、薄い冊子か。角が立っている。大切にしまわれていた形をしていた。


 リナルドの手が中に入りかけた。止まった。数秒、動かなかった。「……今はまだ」と呟いた。低い声だった。誰かに言っているのではなかった。自分に言っていた。


 引き出しが閉まった。鍵の音がした。


 フィリーネは廊下に気配を戻した。「今はまだ」——何がまだなのか。何のための「まだ」なのか。「まだ」には前がある。「まだ」には後がある。前は何で、後には何が来る予定なのか。


 扉が開いた。リナルドが廊下に出た。フィリーネに気づいた。一瞬だけ、目が合った。


「——引き続き、フィリーネ様」


「……はい」


 リナルドが廊下を歩いていった。足音が遠ざかった。「今はまだ」という声と「引き続き」という声が、廊下の空気の中に残っていた。どちらの言葉がどちらに向けられていたのか、フィリーネにはわからなかった。



 夕方、廊下で荷物を持ったまま立っていると、ヘルマンが財務室の方から歩いてきた。フィリーネを見て、少し足を緩めた。


「——カミーラ様から、フィリーネ様へのお手紙が届いております」


 声が、低かった。半音だけ落ちていた。いつものヘルマンより、半音だけ。


 封書を差し出した。封が切られていない。表書きに「カミーラ・レオンハルト」と書いてある。穏やかな字体だった。「M・V」の紙とは違う。もっと丁寧に、時間をかけて書いた字だった。


 「……」フィリーネは封書を受け取った。手の中でそれを持った。軽かった。紙1枚か2枚、その重さだった。カミーラが何を書いたのか、封を切らなければわからない。封を切らなかった。


「フィリーネ様、セドリック閣下にはまだ——」とヘルマンが言いかけて、止まった。


「……申し上げてください」


「は」


「セドリック様に、伝えてください」


「……了解いたしました」


 ヘルマンが頭を下げた。いつもの礼の形だった。去り際に記録帳を開く動作はなかった。今日は書かなかった。


 フィリーネは封書を財務室に持ち帰った。机の右端に置いた。


 封を切らなかった。今日はここまでにする。開けるのは、明日にする——書こうとして、帳面を開かなかった。「明日にする」は後回しだ。今章に入ってから、「後で」と書く回数が減っていた。今夜は「後で」と書く。その違いを、3分後まで考えなかった。


 机の上に、封書と、花瓶と、帳面が並んでいる。花瓶のカモミールはまだ不揃いのまま立っている。直していない。封書は白い。帳面は閉じたままだ。


 「セドリック様に伝えてください」と、言えた。一人で対処するのでも、知らせずに開けるのでもなく。なぜそう言えたのか——言えた理由を考えようとして、止まった。考えると「留まりたかったから」という3文字の手前まで来る気がした。来る気がする、というだけで、確かめなかった。


 リナルドの「今はまだ」が、夜になっても頭の中にある。何がまだなのか。引き出しの中の封書は誰のものなのか。30年前の記録棚に字を残した人は、この部屋でどんなことを考えていたのか。


 それらの問いに、今夜は答えが出なかった。封書はまだ開いていない。花瓶は直していない。帳面には今日の矛盾の記録が3行ある。


 窓の外、夜の庭が暗い。今日もここにいた。なぜここにいるのか——今夜も、考えないことにした。


 翌朝、ヘルマンが財務室の扉をノックした。「フィリーネ様。お父様がおいでになりました」

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