第40話 庭に、小さな芽が出た朝のこと
翌朝、花束はまだ傾いていた。
水だけが替えられていた。角度は替えていなかった。フィリーネも、替えなかった。
——良かった、と思った。
何が良かったのかは、今日もわからなかった。ただ、傾いたまま、ある。昨日と同じ角度で、同じ水差しの中に立っている。それだけが、はっきりしていた。花束の中で一番大きなカモミールが、外を向いていないままだった。茎が1本だけ他より5センチほど長く、全体が右に傾いている。昨日の朝と、変わっていなかった。
窓を開けた。
朝の光の中に、鉢があった。昨日気づいた芽が、今日もそこにあった。昨日より少し背が伸びていた気がした。測っていないから確かめようがなかった。でも、伸びていた気がした。
指が動いた。触れようとして——引いた。
昨日も触れなかった。2日続けて、見るだけにした。理由は特になかった。ただ触れなかった。触れないまま今日が来た。その事実だけがあった。
「……芽が」と声に出した。
部屋に自分以外はいなかった。声は壁に吸われた。言ったことには、なっていない。ただ——言えた。何かに向かって言う言葉ではなくても、言葉として出た。
出てから、少しの間だけ静かに残っていた気がした。
◇
庭に出た。
石畳が足の下でひんやりとしていた。歩くたびに手が動いた。枯れた花殻を探す。摘む。また探す。22年の癖が、今日も先に動いた。手が目より先に動く。目が確認する前に指がすでに伸びている。それが庭を歩く意味だった。
庭の端、陽の当たる一角に来た。
カモミールの蕾が、昨日より少し開きかけていた。白が広がっていた。開花まで、あと2、3日ほどか。誰に頼まれるでもなく、誰に手入れされるでもなく、今日も開こうとしていた。
足音が来た。石畳の向こうから、ゆっくりと近づいてくる。フィリーネは蕾から目を離さなかった。
セドリックが来た。カモミールから数歩手前で足を止めた。どちらも何も言わなかった。
「……芽が」と言いかけた。
止まった。「芽が、昨日より大きくなっていました」と続けるつもりだった。鉢の話だった。窓辺の鉢に、誰かが用意したらしい鉢に、昨日から芽が出ている。それを——言おうとしていた。
業務報告ではなかった。庭の管理の話でもなかった。自分が今朝気づいた、という話だった。言い方を、知らなかった。22年間、「自分が気づいたことを、ただ誰かに伝える」という言葉の使い方を、練習したことがなかった。
「……今日は、庭が穏やかですね」と言った。
セドリックが一拍置いた。「……そうだな」と返した。それだけだった。
2人でカモミールの前に立った。どちらも動かなかった。セドリックが何を見ているのか、フィリーネにはわからなかった。フィリーネも、自分が何を見ているのか、正確にはわからなかった。蕾を見ているつもりだった。でも手が、蕾の方向へ伸びかけて——引っ込んだ。摘むものは、ここにはなかった。
風が来た。カモミールの細い葉が揺れた。揺れてから、また静かになった。
セドリックが何か言おうとして、言わなかった気がした。気がしただけで、確かめようがなかった。2人とも庭にいた。それだけが、今日の庭の事実だった。
◇
午後、廊下を歩いていた。
棚の確認を終えて厨房へ戻るところだった。ヘルマンが反対側から来た。手帳を持っていた。いつもの静かな足取りで、いつもの表情で。すれ違う直前に、止まった。
「フィリーネ様」
「……はい」
「閣下が、あなたに渡したいものがある、と仰っております」
フィリーネは足を止めた。
「——何を」と言いかけた。
言いかけて——止まった。
訊いてしまったら。何かを確定させてしまう気がした。「何を」と訊けば、もらう準備をしなければならない人間になる。準備をする前に——まだ何かが間に合っていない気がした。何が間に合っていないのかは、わからなかった。
「……わかりました」とだけ言った。
ヘルマンは何も続けなかった。「いつでも構いません」とだけ言って、また歩き始めた。手帳に何かを書きながら、廊下の向こうへ消えていった。
フィリーネはしばらくその場に立っていた。
渡したいもの。閣下が。何を。
業務であれば「何を」と訊く。来客への対応であれば「詳細を」と訊く。今日訊けなかったのは、訊き方の問題ではなかった気がした。言葉の問題ではなかった。もっと別の何かが、今日はまだ間に合っていなかった。
廊下の窓から光が入って、床に長く伸びていた。フィリーネはその光の中でしばらく動かなかった。
◇
夜、窓辺に座った。
鉢の芽が暗がりの中にあった。灯りを近づけると、かすかに緑が見えた。今日も静かにそこにあった。土を指で確かめると、少し湿っていた。今朝も確かめていた。誰かが今日も水をやったことがわかった。
1度、とセドリックが言った言葉があった。
バラの話だった。「3度は溺れます」と言ったとき「溺れた」と言っていた人が、「1度だ」と言った。あの約束の話だった。それだけの話だった——のに。
もしこの鉢にも、毎朝1度だけ水をやっている人間がいるとしたら。フィリーネが起きる前に来て、1度だけやって、去っているとしたら。
手が動いた。膝の上で、指が指を押さえようとした。22年間、感情に名前をつけそうになるたびに、この手が先に動いた。押さえれば、消えた。押さえ続ければ、いつか消えた。それが習慣だった。
今日は——押さえきれなかった。
指と指の間に、少し空気があった。隙間があった。押さえていない部分が、少しだけ残っていた。
渡したいもの、が何かはわからなかった。芽に水をやったのが誰かも、確かめていなかった。今日、言えなかった言葉が2つあった。「芽が出ました」と、「何を渡したいのですか」と。
でも。
言えなかったのは——言いたかったから、だと、今夜だけわかった。言い方を知らないのであって、言いたくなかったのではなかった。22年間で初めて、「言えなかった」と「言いたくなかった」の間に、違いがあることを知った。
指が、少しだけ離れた。
窓の外で風が動く音がした。庭のカモミールが、今夜も揺れているかもしれなかった。開花まで、あと少しだった。




