第26話 退くと言いに来たのに、証拠を持ってきてしまった
扉を開けてから、気づいた。
手の中に、帳面があった。
財務記録室を出るとき、机の右端に置いた。置いた感触がある。廊下を歩きながら今夜言うべきことを3度確認した。退くべきかもしれない——管理者として来た者が公爵家の格にそぐわないなら、月末の2日前、自分から退くべきだ。その言葉を、廊下の途中で3度反芻した。帳面は必要ない。持ってこないつもりだった。書斎の前に来た。3秒待った。扉を引いた。——気づいたのは、開けてからだった。
手の中にある。帳面が、手の中にある。
いつ取り直したのか、わからなかった。廊下で気づかなかった。3秒の間にも気づかなかった。扉を引く瞬間にも、手の中にあった。退くと言いに来たのに——帳面を持っていた。
セドリックが机の前にいた。書類を広げていた。フィリーネが入ると同時に、その束を伏せた。伏せ方が少し早かった。確認の途中で止めた、という速さだった。何を見ていたのかは、わからなかった。
「申し上げたいことがございます」
「聞く」
退くべきかもしれない——その言葉が喉の奥にある。廊下で3度確かめた言葉だ。帳面を開かずにいれば、出てくる言葉だ。帳面が開いている。昨夜書いた字が見えている。
「——グレイ公証人事務所は、王暦312年3月に廃業しております」
退くとは言わなかった。
◇
「カミーラ・レオンハルト様の婚約関係書類の日付は、同年6月です」
帳面を読んだ。昨朝書いた自分の字が1行ある。昨日は「後で確認する」と書いた。今朝は、書く前に手が動いていた。今夜もまた、手が先に帳面を開いた。
「廃業から3ヶ月後の日付で、廃業した事務所の署名が書類に記されています。移転の記録は別の棚にも見当たりませんでした。書き損じでもありません。廃業した後に、存在しない事務所の名前で、署名がある——そういう矛盾です」
セドリックが帳面を受け取った。日付を指でなぞった。廃業の年月を確認した。書類の数字を並べた。急いでいない指だった。疑っていない指だった。フィリーネの1行を、一字ずつ確かめている指だった。室内が静かだった。窓の外で、風が一度鳴った。
「——別の書類との整合は」
「確認中です。今日はここまでです」
「続けろ」
「今日はここまで、と申し上げました」
「——わかった」と言った。帳面が机に戻された。フィリーネの側に少し押された。受け取った。机の上に、自分の字がある。退くと言いに来て、証拠を渡した。退くとは言っていない。
◇
書類を整理する手が、止まった。
「——もう一つ、聞いていいか」
「はい」
「退くと言いに来たのか」
止まった。
「はい」が喉の奥にある。廊下でそのつもりで来た。帳面を持っていなければ「はい」だった。しかし帳面を持って来た。扉を開けてから気づいた。帳面が先に開いた。退くつもりで来た者の手が、廃業の証拠を先に出した。
「……帳面を、持っておりましたので」
「それは答えか」
短かった。責めていない。ただ確認している声だった。
帳面の表紙に指が当たった。「退くべきかもしれない、と」——昨夜書いた行は今日も消えていない。3行下に廃業確認の記録がある。同じ帳面の中に、退くという言葉と証拠が並んでいる。この3日間、どちらが今の自分のことなのか、一度もうまく整理できなかった。2つは同じ帳面だ。同じ手が書いた。
手が膝の上に下りた。指が組まれかけた。——押さえなかった。
「——わかりません」
声に出してから、3秒後に気づいた。「職務です」でも「問題ありません」でもなかった。「後ほど確認いたします」でも「管理者として判断します」でもなかった。22年間で初めての答え方だった。「わかりません」という語が部屋に落ちていった。その言葉の意味が、言い終えてからもわからなかった。
◇
セドリックが、書類を机に伏せた。立ち上がった。窓の方を向いた。
「——もう一度だけ、ここにいてほしい」
短かった。それだけだった。
「はい」を用意した。喉の奥に戻った。「わかりました」も用意した。出てこなかった。「もう一度だけ」——「だけ」がついている。限定がある。限定には理由がある。管理者として有用だから、なのか。廃業の確認がまだ終わっていないから、なのか。「だけ」が、「はい」を塞いでいた。3秒では足りなかった。5秒でも足りなかった。
答えられなかった。
部屋を出た。扉を閉めた。廊下に一人で立った。
——振り返った。
扉が完全には閉まっていなかった。1寸ほど、隙間がある。引き足りなかった。隙間から書斎の中が細く見えた。セドリックはまだ窓を向いていた。フィリーネが出た後も、窓を向いたまま、動いていなかった。
耳が——赤かった。
これまで後ろを向いていたから見えなかった。今日は、見えた。
「もう一度だけ」。一度だけ。その言葉を3通りに解釈しようとして、廊下に一人で立ったまま、全部詰まった。
◇
夜、自室の机に帳面を置いた。
開いた。「退くと言いに来たのに、証拠を持ってきてしまった」——書こうとした。書けなかった。「してしまった」と書くことになる。「してしまった」は、意図ではなかったことを認める書き方だ。今夜はまだそれを書けなかった。
「もう一度だけ」を、頭の中で3通りに並べ直した。1つ目:廃業の確定まで留まってほしい。調査が終わってから退くことを求めている。2つ目:月末の引き継ぎを完了してほしい。管理者として最後まで機能することを求めている。3つ目——
止まった。何かが出てきた。名前がない。0.3秒だった。消そうとした。消えなかった。
0.3秒、消えなかった。
帳面に「①②まで並べた。③は出てこなかった」とだけ書いた。「0.3秒」は書かなかった。書けなかった。数値として処理しようとして、できなかった。
帳面を閉じた。机の右端に置いた。
窓の外に、グラスの枯れたカモミールの茎がある。月明かりの中にある。「捨て忘れていた」と処理していた。「後回しにしていた」と分類していた。——「捨てなかった」と見える者がいるかもしれない、という考えが来た。来た。0.3秒、消えなかった。
今日はここまでにした。
翌朝、部屋の扉を開けたら、廊下の床に、不恰好な花束があった。




