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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第6章 退くと言いに来たのに、証拠を持ってきてしまった

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第25話 翌朝、後回しにしなかった

 朝、財務記録室に入ったとき、いつ決めたのかがわからなかった。


 朝食を終えた。廊下を歩いた。財務室の鍵を差し込んで回した。椅子を引いた。——気づいたら登記簿の束を棚から出していた。今日は公証人の廃業を確認すると、決めた記憶はなかった。手が先に動いていた。棚には自分が整えた書類がある。今日、その棚から自分の手で取り出した書類がある。それだけのことだ、と確認した。


 昨夜のことを、まだ整理していなかった。退くと言いに来たのに、帳面が開いていた。「また、誰かのために動いているのか」という問いに、「いいえ」と言えなかった。暗がりの中でも、耳が赤いことは見えた。その3つが、今朝も頭の中にあった。——登記簿の目次を開いた。


 王暦290年から320年分の公証人事務所の登録記録が、年代順に並んでいる。グレイ公証人事務所——名前の頭文字から順番を辿った。G。Gの欄に入る。グ、グ、グレイ——あった。登録番号。住所。代表者名。その最終行に、括弧書きで1行ある。


「廃業:王暦312年3月」


 手が止まった。


 計算した。312年3月が廃業日。カミーラ・レオンハルトの婚約関係書類の日付は312年6月——廃業から3ヶ月後だ。廃業した事務所が、廃業の3ヶ月後の書類に、公証人として記録されている。移転の記録ではない。書き損じでもない。廃業した後に、存在しない事務所の名前で署名がある、という矛盾だ。


 帳面を出した。昨夜と同じ動作だった。違うのは、昨夜は「後で確認する」と書いたことだ。今朝は、書く前に手が動いていた。ペンを取った。


「グレイ公証人事務所、廃業確認:王暦312年3月。カミーラ・レオンハルト書類日付:同年6月。廃業から3ヶ月後の日付に、当該事務所の署名あり」


 書き終えた。帳面の上の部分を見た。「退くべきかもしれない、と」——昨夜書いた行は、消えていない。3行の余白を挟んで、今朝の1行がある。


 ——なぜ今日は後回しにしなかったのか。


 1秒考えた。わからなかった。


 わからないまま、登記簿を棚に戻した。廃業の事実だけでは「記録の誤りだった可能性」が残る。もう1箇所、整合の取れない点が見つかれば確定できる。帳面に書いた。「次:別の書類で整合確認」。財務記録の続きを取り出した。



 廊下に出ると、ヘルマンが書類の束を抱えて通りかかった。


「おはようございます、フィリーネ様。本日のご進捗が早いようでございます」


「……報告書の対象ですか、それは」


「ございます。変化は記録するものでございます」


「何が変化したのですか」


「廊下の花瓶でございます。昨日より3度、右に傾いております」


 フィリーネは廊下を振り返った。確かに、少し傾いている。手が伸びかけた。「今日はそのままで、とのことかと存じます」とヘルマンが先に言った。「……なぜそうなるのですか」「昨日、フィリーネ様が3度ご覧になって、直されなかったからでございます」「……わかりました」「なお、財務記録の進捗でございますが、閣下が——失礼いたしました。フィリーネ様が、でございます。昨日の2倍の速度でございます」


 フィリーネは「……わかりました」ともう1度言って、廊下の角を曲がった。


 「閣下が」と言いかけた続きを、曲がり角を過ぎてから1度考えた。考えないことにした。



 午後、リナルドが財務記録室に入ってきた。


 お茶を持っていた。「そのままで」と言われて、立ちかけた腰を椅子に戻した。机にお茶が置かれた。リナルドが少し間を置いた。


「引き続き、フィリーネ様」


 3回目だった。最初に言われたのは、まだ「試験の途中だ」と思っていた頃だ。2回目は、財務記録の棚の整理が終わった日の夕方。今日の「引き続き」は——少し音が違った。何が違うのか、言葉にできなかった。「様」がついたのはいつからだったか。最初からだったかもしれない。確かめていなかった。言葉にしないまま、「……ありがとうございます」と返した。


 リナルドの背中が廊下に消えた。扉が閉まった。


 お茶に口をつけた。80度より熱かった。いつも熱い。


 別の棚を開けた。4年前の書類の束を取り出した。日付を1枚ずつ確認した。書式を見た。署名欄の位置を見た。他の年度の書類と並べた。——気になる箇所が2点あった。確定はできなかった。廃業の事実と組み合わせれば「記録の誤り」では説明がつかなくなる数値が、今日中に1点見つかれば足りる。今日は見つからなかった。帳面に書き足した。「4年前書類:書式の確認を継続。気になる箇所2点、要再確認」。


 ——なぜ今日だけでは終わらないのか。帳面に目を落としたまま、1秒だけ考えた。考えなかった。



 夜、自室の机に帳面を置いた。


 開いた。


「退くべきかもしれない、と」——昨夜のまま、消えていない。3行下に今朝の「グレイ公証人事務所、廃業確認:王暦312年3月」。その下に「次:別の書類で整合確認」。その下に「4年前書類:書式の確認を継続。気になる箇所2点、要再確認」。


 4行が、縦に並んでいる。1行目を書いたのは昨夜。残りの3行を書いたのは今日だ。


 どちらが今の自分のことなのか——全部が、今の自分のことだった。それが、うまく並べられなかった。


 窓の外に目を向けた。グラスに差したままのカモミールの茎が、月明かりの中にある。先月から交換を後回しにしている。枯れかけたまま、そこにある。「捨て忘れていた」と処理していた。「後回しにしていた」と分類していた。


 今日、財務記録の確認を、後回しにしなかった。


 帳面を閉じた。机の右端に置いた。今日は右端に置けた。


 手が膝に下りた。指が組まれかけた。——押さえなかった。今夜は押さえなかった。


 ——なぜ今日は後回しにしなかったのか。「また、誰かのために動いているのか」——昨夜の問いが、この問いの隣にあった。2つは同じ問いかもしれなかった。どちらにも今夜は、答えを持っていなかった。


 寝台に入る前に1度だけ考えた。答えは出なかった。出なかったまま、窓の外のカモミールと、帳面の4行が、同じ夜の中にあった。


 翌朝、書斎の前に立ったとき、手の中に帳面があった。退くと言いに来たのに——なぜ帳面を持っていたのか、扉を開けてから気づいた。

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