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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第5章 自分を後回しにしたのは、わたし自身だった

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第24話 退くと言いに来た夜に、もう1つだけ問われた

 午後、書類を棚に戻したとき、今夜と決めた。


 財務調査帳を閉じた。棚の書類を取り出した順番に積み直した。机の上に残した書類は3種類。照合の終わったものと、途中のものと、住所確認のために取り寄せた書類。途中のものにはどこまで終わったか付箋を貼った。続きを当たる者が続けられる形で整えた。財務記録室の鍵はリナルドに返せばいい。退くと言いに行くなら、月末まで2日、今夜だ。


 自分で決めたことなら、後回しではない。誰かに退かされるのではなく、自分が選ぶのだから。


 退くと告げたら。リナルドに「財務記録室の鍵をお返しします」と言ったら。その先を想像しようとして——止まった。続きを考えなかった。今夜のことだ、今夜考えればいい。


 帳面を机の上に置いた。廊下に出た。書斎の扉の前まで来て、手の中に帳面があることに気づいた。


 いつ取ったのか、わからなかった。置いた、という感触がある。机の上に置いた、と思っている。しかし手の中にある。廊下に出てから気づかなかった。廊下の途中で棚に戻せばよかった。今からでも戻せる。


 戻さなかった。帳面を、廊下で1度だけ見た。閉じた表紙を確認した。中に何が書いてあるかはもうわかっている。確認する必要はなかった。したことだけが、残った。


 廊下の花瓶の前で、手が止まった。正確には、伸びかけた手を止めた。今日は今のところ6回だ。今夜は7回目にしない。今夜はそれどころではない、と手に向かって確認した。


 書斎の扉の前に立った。灯りが廊下の隙間から見えた。気配がある。


 何かを言おうとして、言い直した。もう一度言い直した。3秒かかった。


「——入ります」



 扉を開けると、セドリックは机の前にいた。


 書類の束を、フィリーネが入ると同時に伏せた。伏せ方が少し早かった。確認している途中で、入ってきたから止めた、という速さだった。何かを見ていたことはわかった。何を見ていたのかは、わからなかった。


「申し上げたいことがございます」


「聞く」


 短かった。先回りしない声だった。何が来るかを用意していない声だった。


 口を開いた。喉の奥に言葉がある。廊下で準備してきた言葉だ。管理者として来た者が格の釣り合わない婚約に公爵家の格を傷つけているなら。月末という期限が2日後に来ているなら——退くべきかもしれない。その言葉が、喉の奥にある。


「——公証人の住所に、矛盾がございます」


 自分でも驚いた。


 手の中の帳面が、開いていた。いつ開いたのか、わからなかった。退くと言いに来たのに。帳面を持っていた。帳面が開いていた。手が先に動いていた。


 3種類のことが同時にあった。退くと言いに来た。公証人住所の矛盾を言っていた。帳面が先に開いていた。その3つが同時に起きていて、どの順番で並べればいいのか、わからないまま、セドリックの声を待った。


「続けろ」


 何も乗っていない声だった。


 帳面を見た。昨夜書いた自分の字が1行ある。その行の下に余白がある。ペンを持っていなかったが、声だけで1行を広げていった。


「4年前の婚約関係書類に記されている公証人事務所の住所と、現在の登録台帳の住所で、区が違います」


「移転の記録は」


「今手元にある書類の中には、見当たりません。別の棚に記録がある可能性はあります」


「続けろ」


 同じ声だった。急いでいない声だった。


「4年前の日付で作成されたとされる書類の公証人登録と、現在の登録との間に、整合の疑義が生じます。月末前に別の書棚を当たれば、確認できる可能性があります」


 声が、室内に落ちていった。


 フィリーネは帳面の表紙に指を当てた。言い終えた。退くとは、言っていなかった。


 セドリックは途中で何も言わなかった。フィリーネが話し終えてから、帳面を手に取った。数字を確認した。もう一度確認した。置いた。


 その目が、変わっていた。言葉にならない変わり方だった。鋭くなる、でも動く、でもない。ただ変わった、と見えた。その変わり方を見たのが、今夜ここまで来て最初に起きたことだと、フィリーネは確認した。退くと言いに来た。公証人住所を言っていた。帳面が開いていた。目が変わった。順番としては、そういうことだった。


「——わかった」


 伏せてあった書類を表に返した。帳面の数字と並べた。指が止まった。また動いた。確かめている手だった。フィリーネの1行から何かを拾い上げている手だった。


 フィリーネは机の端を見ていた。自分が置いた帳面の角が机の端から2寸ずれている。廊下を歩きながら今日はもう直さないと決めていた。だから見ているだけにした。手が先に動いていた、と確認した手が今膝の上にある。セドリックが書類を確認している間、その手と帳面の角を、交互に見ていた。


 退くと言いに来たのに、帳面を開いていた。その事実は、変わらなかった。



 セドリックが書類から目を上げた。


「——もう1つ、聞いていいか」


「はい」


「また、誰かのために動いているのか」


 静止した。


 手が、膝の上に下りた。指が組まれた。押さえた。指の力が少し強かった。気がついてから、緩めようとした。緩められなかった。そのまま、動かなかった。


 退くと言いに来た。自分が決めたことなら後回しではない、と思っていた。しかし今夜、財務記録室を出るとき帳面を持ち出していた。廊下を歩いていた。扉の前で3秒待った。中に入ってから、帳面が先に開いた。退くと言いに来たのに——


「……いいえ」


 言おうとした。


 喉が、動かなかった。


 「いいえ」という語が喉の中にある。それだけ言えばいい。出てこなかった。いつから言えなくなったのか。廊下にはあった。扉の前の3秒のどこかには、あったはずだ。しかし今、喉に言葉があるのに声が出ない。出してしまえばそれで終わる。終わるのに、できなかった。


 部屋が静かだった。セドリックは何も言わなかった。フィリーネも言えなかった。灯りが机の上だけを照らしている。それ以外の場所は暗い。机の端の帳面が、暗いところにある。2寸のずれが、今は遠い場所にある。どれくらいの間そうしていたのか、フィリーネにはわからなかった。部屋に音はなかった。窓の外も静かだった。


 セドリックが、窓の外を向いた。


 暗がりの中でも、耳が赤いことは見えた。

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