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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第5章 自分を後回しにしたのは、わたし自身だった

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第23話 退くと決めた夜に、住所が1行だけ食い違っていた

 茶会には、前回より多くの人間がいた。


 プヨルティン侯爵夫人の応接間は、招待する人間を増やすことで圧力を倍にする機能を持っていた。これは意図的なものではないかもしれない。ただ、結果として、そういう空間になっていた。


 フィリーネは入った瞬間に人数を数えた。12人。前回は8人だった。増えた4人のうち3人は、前回フィリーネの向かい側に座っていた貴婦人の知人と思われた。社交界の格から見て、全員が侯爵夫人より格下だが、フィリーネより格上だった。


 それだけのことだ、と思う。


「まあ、いらっしゃいませ」


 侯爵夫人が同じ笑顔で出迎えた。前回と同じ温度の笑顔で、今回は1度だけ視線がセドリックに向かった。


「フィリーネさんのような方がいてくださると、公爵家の格も引き締まりますわ」


 「妻」とは言わなかった。「いてくださると」という語を使った。フィリーネは「妻」という言葉が出なかったことを確認した。確認したことが、何かを示していた。


 セドリックが短く「私の婚約者です」と言った。


 侯爵夫人が微笑んだ。「ええ、存じておりますわ。本当に有能な方で」——「有能」と「婚約者」を同時に肯定した。「管理者」とは言わなかった。しかし「管理者」の輪郭は、そこにあった。


 管理者として来た。それは事実だ。公爵邸を整えることを引き受けた。それも事実だ。侯爵夫人の言葉はその事実と一致している。一致しているものに、反論はできない。


 案内された席につく。茶が運ばれてくる。取っ手の角度が少し違う。手が伸びかけた。——止める。ここは他人の屋敷だ。止まった。前回は止まらなかった。今日は止まった。


 それだけ確認してから、茶を受け取った。


 部屋の中央に、白いアネモネの花瓶があった。前回と同じ種類。花言葉は「期待」。誰の何への期待か、この部屋では全員が知っていた。フィリーネも知っていた。自分に向けられていないことだけは確かだった。カモミールを選ぶ日は、まだ来ていない、と思って——消した。今ここで考えることではない。


 婦人たちの会話が続く。フィリーネは答えながら、取っ手を直さないことだけを決めて座っていた。


 ひとかたまりの話が途切れたとき、侯爵夫人が「フィリーネさんは、管理というお仕事が本当にお好きですのね」と言った。悪意はなかった。お好き、という語が使われた。好きなことを仕事にしている人間への声かけだ。


「ありがとうございます」とフィリーネは答えた。


 茶の温度を確認した。85度のままだ。——自分なら80度にする。今日もまた、そのことは関係なかった。


 向かいの婦人が「公爵家の財務も、もうフィリーネさんがいないと立ち行かないのではなくて」と笑いながら言った。同じく笑顔で、悪意はなかった。


 セドリックが、何か言うかもしれない、と思った。言わなかった。茶碗を置いた。それだけだった。


 「いないと立ち行かない管理者」は、「いなければ困る者」だ。「いてほしい者」とは、少しだけ違う。その少しの差異が、今この部屋では言葉にならなかった。ならない方が、重かった。


「そのようなことはございません」とフィリーネは答えた。


 話題が別の方向に移った。フィリーネは聞きながら、答えながら、部屋の隅の花台が少し傾いているのを見た。見て、手を膝の上に置いた。今日はもうそこまでにする。


 2杯目の茶が注がれる頃に、侯爵夫人が言った。


「評議会の返答期限が月末でございますから、その前に皆様とゆっくりお話しできればと思っておりましたの」


 向かいの貴婦人が「まあ、そうですの」と返した。笑顔のまま流れていく会話の中で、「月末」という言葉だけが、別の場所に落ちた。


 今日が何日かは、帰ってから確認する。



 帰りの馬車の中で、セドリックは何も言わなかった。フィリーネも言わなかった。


 窓の外に街が流れていく。御者の音が一定で、馬車の揺れが一定だった。


 「私の婚約者です」という言葉は、正しかった。しかし「有能な方で」という一言が全てを吸収した。正しい言葉が届かない場所というものがある。「あなたが自分を後回しにする権利は、私にも渡さない」——廊下で聞いたあの言葉も、今日の茶会を通した後では、管理者を大切にしているという意味として整合した。整合してしまうことが、少し重かった。


 手が膝の上にあった。整えるものが、馬車の中にはなかった。


 月末まで何日あるか。帰ってから確認する。確認して——退くと、今度こそ決める。自分で決めたことなら、後回しではない。



 公爵邸に戻って、書斎に向かった。


 財務記録を広げる。昨日また後回しにした公証人住所の確認を、今日こそ片付けることにした。退くと言いに行く前に、ここだけ見てから決める。それだけのことだ。


 4年前の婚約関係書類を引き寄せる。書類は整理されている。整理したのは自分だ。署名欄の下に、公証人事務所の名前と住所が印字されている。ヴァルドミア通り、旧区第4番地。


 次に、現在の公証人登録台帳の現行版を棚から取る。同じ事務所の名前を探す。見つかった。住所は、新区第11番地となっていた。


 ——この住所は。


 4年前と今とで区が違う。移転があれば記録があるはずだ。書類の束を確認した。移転の記録は、ここにはない。別の棚にある可能性もある。見落とした可能性もある。それとも——


 手が、帳面を引き寄せていた。気づいたときには、ペンを持っていた。


 「公証人住所:4年前=旧区。現在=新区」と書いた。書き終えてから、書いていたことに気づいた。


 ペンを置いた。書類を重ねた。帳面は開いたままだった。閉じようとして、もう1度だけ見た。自分の字で、自分が書いた、1行だ。


 茶会では止まった。書斎では、止まらなかった。同じ手だった。


 退くと言いに行くつもりだった。月末まで数日しかない。今夜か、明日か——少なくとも、帳面を開く前は、そのつもりだった。


 今日が何日かを確認した。月末まで、3日だった。


 退くのが先か、確認するのが先か、帳面を閉じる前に決めようとして——できなかった。


 灯りを落とした。「公証人住所:4年前=旧区」という1行だけが、暗い机の上に残った。

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