第22話 あの言葉の意味を、どう受け取ればいいのか
廊下で呼び止められたのは、朝だった。
「フィリーネ」
セドリックの声だった。振り返ると、書斎の扉の前に立っていた。昨日と同じ場所で、昨日と同じ顔をしていた。何も変わっていない人間の顔で、変わることを言った。
「昨日の帳面のことだ」
フィリーネは「はい」と答えた。他に答えようがなかった。
「——あなたが自分を後回しにする権利は、私にも渡さない」
それだけ言った。それだけで廊下を歩き始めた。耳が赤いのは、後ろを向いたからフィリーネには見えなかった。
一人で廊下に残された。窓から朝の光が差している。花瓶の影が床に伸びている。「私にも渡さない」——「私にも」ということは、誰かにも渡していない、ということか。自分自身に渡してもいない、ということか。それとも——
「それとも」の先が、出てこなかった。
手が、花瓶に伸びかけた。今日はまだ1回目だ。止めた。廊下を歩いた。
書斎に入る。財務記録を広げる。「あの言葉」を3通りに解釈しようとして、全部詰まった。
◇
1通り目:管理者として大切にしている、という意味。管理者として来た者が、自分を後回しにすることで業務効率が下がる。それを防ぐための言葉として受け取る。筋は通る。
しかし「渡さない」という語が強い。業務効率への配慮に、あそこまで強い語は使わない。少なくとも、書面では使わない。
2通り目:婚約者として、公的な立場から保護する、という意味。「私にも渡さない」の「も」は、複数の相手への言及を含んでいる。法的な権限として解釈すれば、婚約が成立している間フィリーネは保護の範囲に入る。これも筋は通る。
しかし「自分を後回しにする権利」という表現は、法律の語ではない。
3通り目——。
3通り目の先が、出てこなかった。言葉が出てこないのではなく、言葉を出すことが、何かを壊すような気がした。何を壊すのかわからない。壊すものの名前がわからないまま、考えるのをやめた。その感覚に、名前がない。名前がないものを、業務として処理する方法がない。
帳面を開いた。財務記録の数字に戻る。公証人住所の件は今日もまだ後でいい。先に参照先の数字を整合させる。手が動いた。今日はまだ2回目だ。
◇
窓の外で何かが動いた。フィリーネは気づかなかった。
管理者として選ばれた。それは正しい。セドリックが言った。ヘルマンが記録書に書いた。侯爵夫人が公の場で言葉にした。3方向から確認された事実だ。だから「あの言葉」も、管理者への言葉として受け取るべきだ。
しかし。
「管理者として来た者が、自分を後回しにする権利」——この並べ方が、どこかおかしい。管理者は職務として動く。「自分を後回しにする」というのは、職務の問題ではなく、個人の感情の問題だ。職務と感情の問題を、同じ文の中で並べることはしない。少なくとも、業務として話すときはしない。
ということは。
「あの言葉」は、業務として言った語ではない、ということか。
業務として言った語でないとしたら、どこから来た語なのか。
帳面のページを繰った。数字が並ぶ。数字は正直だ。足せば合う。引けば残る。解釈の余地がない。「あの言葉」には、解釈の余地がある。余地があるということは、正解がない、ということかもしれない。正解のない問いを抱えたまま数字を見ていると、行が二重に見える気がした。
書類を一度置いた。
◇
昼前に、リナルドが茶を持って入ってきた。「お茶を」と言って置いた。去り際、机の脇の引き出しの方向にわずかに視線が行った——一瞬のことで、振り返りはしなかった。足音が廊下を遠ざかる。
「ありがとうございます」
誰も聞いていなかった。
茶碗を取り上げた。温度は、おそらく82度。——自分なら80度にする、とフィリーネは思った。すぐに消した。ここのやかんではない。
セドリックのやかんは、まだ1度も80度を達成していないはずだ。ヘルマンが記録書に書いている。その記録を今日は見ていない。管理者として、お茶の温度を管理する担当ではないからだ。では、なぜ今、80度のことを考えたのか。
茶を飲んだ。今日は82度だった。正確に1度ずれている。その1度に、意味はない。
手が、書類の端に伸びた。揃える。今日は3回目だ。
◇
午後、帳簿を3冊並べた。財務記録の参照先と、4年前の取引記録と、公証人の名が出てきたページの写し。机の幅が足りなくて、少し寄せた。帳面が動いた。右端に置いてあったのが、右から2番目になった。
そのまま置いた。
財務記録の確認を続けていると、ヘルマンが扉を開けた。書類の束の上に、薄い封筒を1枚のせていた。
「プヨルティン侯爵夫人邸よりご招待状でございます。第2回の茶会の御案内とのことでございます。来週の午後3時の予定と記されております」
受け取った。開いた。前回と同じ筆跡で、日付だけが変わっていた。招待の日時、差出人の署名。内容は前回と同じだった。人数の記載はなかった。前回は8人だった。今回は増えているのか、減っているのか、封筒には書かれていない。
「ご参加されますか」
「参ります」
答えていた。考えた後に答えたのではなかった。ヘルマンが「かしこまりました」と言って扉を閉じた後、フィリーネは招待状を机に置いた。
置いてから、気がついた。退くかどうかを考えていた人間が、退く圧力をかけてくる場所に、なぜ即答で戻ると言ったのか。管理者として、侯爵夫人の場所で正しく振る舞えば、セドリックの婚約者として格を保てる。——それが理由か。理由は、それだけか。
部屋の端に白いアネモネが1輪ある。今朝、館の花瓶に差したものだ。侯爵夫人の応接間に前回置かれていたのと、同じ種類だ。花言葉は「期待」。——姉のお見合いに選んだ花と同じ。あのとき侯爵夫人は何を期待していたのか。今、何を期待しているのか。フィリーネには、答えが見えすぎた。
カモミールのことを、一瞬だけ思った。窓辺の鉢は今も空のままのはずだ。カモミールを選ぶ日は、まだ来ていない。
財務記録に戻った。手が動いた。今日は4回目だ。
なぜすぐに答えたのか、それは翌朝まで考えなかった。




