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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第5章 自分を後回しにしたのは、わたし自身だった

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第21話 帳面の表紙が、見慣れない場所に置かれていた

 帳面は右端に置いたはずだった。


 翌朝、それは右から2番目にあった。


 フィリーネは机の前に立ったまま、2秒、数えた。右端——右から2番目。1寸分の違い。自分で動かしたのかもしれない。眠る前に動かしたのかもしれない。覚えていない。覚えているのは、右端に置いたということだけだ。


 手が帳面に伸びかけた。確認しようとした。——止める。


 開けば中身はわかる。文字がそのままならそれだけのことだし、消えていたら消えていたということだ。どちらの場合でも、今ここで確認する必要はない。今日の仕事がある。


 廊下に出た。食堂に向かう。途中で窓辺の花瓶に手が伸びた。今日はまだ1回目だ。



 食堂に入ると、セドリックはすでに席に着いていた。ヘルマンが隣に立ち、書類を一枚ずつ差し出している。今日も同じ朝だ。


「おはようございます」


「——ああ」


 茶が運ばれてくる。フィリーネは自分のカップを受け取った。取っ手の角度を確認した。少し違う。手が伸びかけて——止めた。今日はそこまでにする。


 ヘルマンが書類の束の上に、薄い紙を1枚のせてセドリックに差し出した。セドリックが受け取る。読む。耳が、わずかに赤かった。


「なお閣下」とヘルマンが言った。「フィリーネ様のお帳面は、以前は机の右端にございました。現在は右から2番目でございます」


 フィリーネは手の中のカップを見た。


「……報告書の対象か、それは」とセドリックが言った。


「ございます、閣下。変化は記録するものでございます」


「——以後は不要だ」


「了解いたしました」


 即答だった。ヘルマンの手が記録帳のページを1枚めくった。


 閣下はご存知だ、とわかった。では、なぜ、何も言わないのか。


 茶を飲んだ。カップを置いた。今日の茶の温度は84度だ、と思った。自分なら80度にする。そのことは今日は関係ない。関係のないことを考えた分だけ、また別のことを考えなくて済んだ。



 朝食を終えて廊下を歩いていると、向こうから足音がした。


 セドリックだった。書斎の方向から来ている。距離が縮まる。フィリーネは歩調を変えなかった。セドリックも変えなかった。すれ違う直前に、足音が止まった。


「——フィリーネ」


 声だけで、止まった。振り返ると、セドリックは廊下の先を向いていた。フィリーネと向き合わない角度で、立っていた。


 何かを言うのだと思った。帳面のことを、言うのだと思った。


 言わなかった。


 セドリックの耳が、廊下の朝の光の中で赤かった。フィリーネは背後から見ていたが、耳だけが見えた。顔は見えなかった。


「……用がおありでしたか」


「——いや」


 それだけ言って、歩き始めた。足音が遠ざかる。フィリーネは廊下の中ほどで立ったまま、足音が角を曲がるのを聞いた。


 何も言わなかった。


 言わないということは、読んでいないのかもしれない。読んでいて、それでも言わないのかもしれない。どちらの可能性も、等しくある。どちらが本当かを確かめる方法を、フィリーネは持っていなかった。


 廊下の花瓶の前を通ったとき、手が止まった。止まったのは伸びかけたからだ。今日の2回目になるところだった。止めた。今日はまだ続きがある。



 午後、財務記録を広げている部屋に、リナルドが入ってきた。


「お茶をお持ちしました」


 茶托を机の隅に置いた。揺れない手だった。30年この屋敷に立ち続けた人間の所作だ。礼を言って顔を上げようとしたとき、リナルドが少し止まっていた。


 いつもより2秒、長い。


 フィリーネは書類から目を上げた。リナルドが机の脇に立っていた。目線が、少しだけ動いた。書棚の方へ——その奥にある、鍵のかかった引き出しへ。1秒で戻った。


「引き続き、フィリーネ様」


 それだけ言って、扉を閉めた。


 フィリーネは、しばらく動かなかった。


 「フィリーネ様」。30年この屋敷を守ってきた老家令が、初めてそう呼んだ。「フィリーネさん」でも「婚約者様」でもなく、名前に「様」をつけた。その違いがどこから来たのか、フィリーネにはわからなかった。


 廊下に出たリナルドの足音が遠ざかる。フィリーネは部屋の中で、しばらくそのままでいた。扉を閉めた音が残っている。手が書類の上にある。動かなかった。


 今日、茶会の席では1度も「フィリーネ様」という呼び方が出なかった。この部屋では、出た。


 それだけのことかもしれない。それだけのことではないかもしれない。判断するだけの材料が、今のフィリーネには足りなかった。


 書類に目を戻した。


 帳面の余白に、昨日書いたメモがある。「後で確認する」——公証人の住所が現在の登録と区が違う件だ。今日こそ追おうとは思っていた。思っていたが、今日確認すべき書類は日付照合だけで午後が終わる。住所の区が違う理由は、移転の記録があればそれだけのことだし、なければなかったで別の書類を当たることになる。どちらにしても今日より明日の方が、時間がある。


「後で確認する」というメモの右に、「明日」と小さく書いた。


 書いてから、ペンを置いた。


 昨日も「後で確認する」と書いた。今日も同じことをした。そのことを確認したとき、しばらく手が止まった。止まって——財務記録の続きを広げた。今日の照合はまだ終わっていない。


 茶が冷める前に飲んだ。80度に近かった。



 夜、部屋に戻った。


 机の上に帳面が右から2番目にある。朝のままだった。今日は誰かに動かされた気配はない。少なくともフィリーネには確かめる方法がなかった。


 財務調査帳を出して今日の記録を書いた。確認した書類番号、照合の結果、住所確認の先送り。「明日」と書いたことを、もう一度「明日」と書いた。そうするほかなかった。


 財務調査帳を閉じた。


 普通の帳面を手に取るかどうか、少し考えた。「退くべきかもしれない、と」という文字が中にある。消さなかった文字だ。昨夜「消えなかった・消せなかった・消さなかった」という3つのことが起きた。今夜はそのどれになるか、まだわからない。


 引き出しを開けた。


 帳面を出した。


 開いた。


 文字はそのままあった。昨夜と同じ文字が、同じ場所にある。消えていない。当たり前のことだ。文字は消えない。消そうとしなければ、消えない。昨夜は消さなかった。だから今夜もそこにある。


 その下に何か書くかどうか、考えた。


 書かなかった。


 帳面を閉じた。机の上に置いた。


 右端ではなく、右から3番目に置いた。


 なぜそこにしたのか、わからなかった。正しい場所は右端だ。朝、「右から2番目にあった」ことが問題だった。では今夜、3番目に置くことに何の意味があるのか。


 燭台を消した。


 暗くなった部屋の中で、帳面が3番目にある。そのことをフィリーネは知っていた。知ったまま、眠った。


 今夜は、3番目にした。なぜかは、わからない。

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