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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第5章 自分を後回しにしたのは、わたし自身だった

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第20話 退くべきかもしれない、と書いた夜を、翌朝消せなかった

 侯爵夫人の茶会は、誰も傷つけない場所だった。


 プヨルティン侯爵夫人邸の応接間は、10年以上かけて磨き上げられた格がある。カーテンの丈は寸分の狂いもなく。花瓶の角度は来客の視線を計算して決められている。茶の温度は、おそらく85度。——自分なら80度にする、とフィリーネは思った。すぐに消した。ここの茶ではない。


 招待されていた。断る理由がない。公爵家の婚約者として、社交の場には出るべきだ。


 問題は、入った瞬間に空気が変わったことだ。変わったのは会話の温度ではなく、向けられる視線の角度だった。貴婦人が6人いた。全員がフィリーネを見た。見て、それぞれの顔で何かを判断した。判断の中身は、言葉にならなかった。ならなかった分だけ、重かった。


「まあ、いらっしゃいませ」


 侯爵夫人が立ち上がって出迎えた。笑顔だった。37年社交界に立ち続けた人間の笑顔で、何も間違っていなかった。


 席に案内される。茶が運ばれてくる。フィリーネは受け取って——止まった。取っ手の角度が少し違う。手が伸びかけた。止める。ここは他人の屋敷だ。


 止めたはずだった。


 しかし次の瞬間には、茶托が動いていた。フィリーネの手で。


 侯爵夫人が微笑んだ。「さすがでございますわ」と、透き通った声で言った。「公爵閣下、このような優れた管理者をお確保されましたのね。どのようなご能力で目に留まりましたの、フィリーネさん」


 他の貴婦人が「本当に」「さすがね」と続いた。悪意はなかった。それが一番重かった。



 部屋の中央に、アネモネの花瓶があった。白いアネモネ。花言葉は「期待」。


 姉のお見合いに選んだ花と同じ種類だ。あのとき、誰かの期待を形にするために手配した。今日ここのアネモネが向けている「期待」が、どこを向いているのか——フィリーネには、答えが見えすぎた。


 茶会は1時間続いた。その間、フィリーネは2度茶を注がれた。1度、近くの貴婦人が落とした手袋を拾った。1度、窓際の花台が傾いているのを見て、直そうとして——止めた。止めながら、侯爵夫人がそれを見ていたことに気づいた。侯爵夫人は何も言わなかった。ただ微笑んでいた。


「フィリーネさんのような方は、本当に気が利きますのね」と、別の貴婦人が言った。


「ええ、本当に」と侯爵夫人が言った。「公爵家もご賢明でいらっしゃいますわ」


 「フィリーネさん」と呼ばれた。「フィリーネ様」とは、1度も出なかった。


 帰り際、「またぜひいらして」と侯爵夫人が言った。「あなたのような方がいてくださると、席が締まりますもの」——「いてくださると」。妻という言葉は使わない。使わないまま、「いてくださる場所がここではない」という意味を丁寧に組み立てていた。


 誰も間違ったことを言っていなかった。それが一番重かった。


 アネモネが、午後の光の中で少しだけ傾いていた。直そうとして——止めた。今日はもう、止める方を選ぶと決めていた。


 管理者として来た。それは事実だ。公爵邸を整えることを引き受けた。それも事実だ。侯爵夫人の言葉はその事実と一致している。一致しているものに、反論はできない。



 帰りの馬車が揺れた。


 外の景色が動いていく。フィリーネは膝の上に手を置いていた。押さえていない。ただそこにある。今日、手が何度動いたか、もう数えていなかった。


「退くべきかもしれない」という言葉が、声にならずに頭の中を走った。


 自分で決めたことなら、後回しではない。管理者として来た者が、格の釣り合わない婚約に公爵家の立場を傷つけているなら、退くことが正しい。誰かに退かされるのではなく、自分が決める。自分が決めたことだから、後回しではない。


 そこで一瞬だけ止まった。


 ——本当に、自分のために退くのか。


 その問いが生まれて——消えた。消した。今はそれを考えなくていい。


 怖くない、と思った。


 怖くないことが、少し怖かった。


 膝の上の手が、馬車の揺れに合わせて少し動いた。フィリーネはそれを見た。見て、止めなかった。今日はもういい、と思った。



 夜、自室の机に座った。


 引き出しを開いた。財務調査帳ではなく、普通の帳面を出した。昨夜と同じものだ。昨夜は開いて、ペン先を紙のすぐ上で止めて、閉じた。今夜は——ペンを取った。


 書いた。


 「退くべきかもしれない、と」


 書いてから、しばらく見た。自分の文字なのに、少し遠い場所にある気がした。ペンを紙から離した。文字はそのままそこにある。


 消そうとした。


 手が止まった。


 上から線を引けばいい。それだけのことだ。やろうとして、手が止まった。消しても跡が残る。消えないのに消す意味が、うまくつかめなかった。意味がつかめないだけで、消す気持ちはある。ある、はずだ。


 ペンの先が、帳面の端で止まっていた。細い線が、端のほうにいくつか残っている。フィリーネは視線をそこに向けないまま、帳面を閉じた。


 消すのは明日にする。そう思いながら燭台を消した。窓の外が静かだった。静かな夜に、帳面の中の文字だけが残った。



 翌朝、目が覚めてすぐに机に座った。


 帳面を開いた。「退くべきかもしれない、と」——昨夜と同じ文字が、そのままあった。


 消せばいい、と思った。


 ペンを取った。上から線を引けばいい。それだけのことだ。


 文字は、消えない。線を引いても、書いた跡は残る。消したことがわかる跡が残る。消えないのだから、消すことに何の意味がある——


 もう一度やろうとした。


 できなかった。


 消さなかった。ただ、そうなった。昨夜「消えない」と思い、今朝「消せなかった」とわかり、「消さなかった」という事実だけが残った。3つは違うことのように見えて、同じことだ。同じことかどうかは、よくわからなかった。


 帳面を閉じた。


 机の右端に置いた。廊下に出た。花瓶に手が触れた。2秒で止めた。今日の1回目だ。


 廊下を歩きながら、帳面を右端に置いたことを思い出した。右端。その場所を、確かに覚えていた。

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