第20話 退くべきかもしれない、と書いた夜を、翌朝消せなかった
侯爵夫人の茶会は、誰も傷つけない場所だった。
プヨルティン侯爵夫人邸の応接間は、10年以上かけて磨き上げられた格がある。カーテンの丈は寸分の狂いもなく。花瓶の角度は来客の視線を計算して決められている。茶の温度は、おそらく85度。——自分なら80度にする、とフィリーネは思った。すぐに消した。ここの茶ではない。
招待されていた。断る理由がない。公爵家の婚約者として、社交の場には出るべきだ。
問題は、入った瞬間に空気が変わったことだ。変わったのは会話の温度ではなく、向けられる視線の角度だった。貴婦人が6人いた。全員がフィリーネを見た。見て、それぞれの顔で何かを判断した。判断の中身は、言葉にならなかった。ならなかった分だけ、重かった。
「まあ、いらっしゃいませ」
侯爵夫人が立ち上がって出迎えた。笑顔だった。37年社交界に立ち続けた人間の笑顔で、何も間違っていなかった。
席に案内される。茶が運ばれてくる。フィリーネは受け取って——止まった。取っ手の角度が少し違う。手が伸びかけた。止める。ここは他人の屋敷だ。
止めたはずだった。
しかし次の瞬間には、茶托が動いていた。フィリーネの手で。
侯爵夫人が微笑んだ。「さすがでございますわ」と、透き通った声で言った。「公爵閣下、このような優れた管理者をお確保されましたのね。どのようなご能力で目に留まりましたの、フィリーネさん」
他の貴婦人が「本当に」「さすがね」と続いた。悪意はなかった。それが一番重かった。
◇
部屋の中央に、アネモネの花瓶があった。白いアネモネ。花言葉は「期待」。
姉のお見合いに選んだ花と同じ種類だ。あのとき、誰かの期待を形にするために手配した。今日ここのアネモネが向けている「期待」が、どこを向いているのか——フィリーネには、答えが見えすぎた。
茶会は1時間続いた。その間、フィリーネは2度茶を注がれた。1度、近くの貴婦人が落とした手袋を拾った。1度、窓際の花台が傾いているのを見て、直そうとして——止めた。止めながら、侯爵夫人がそれを見ていたことに気づいた。侯爵夫人は何も言わなかった。ただ微笑んでいた。
「フィリーネさんのような方は、本当に気が利きますのね」と、別の貴婦人が言った。
「ええ、本当に」と侯爵夫人が言った。「公爵家もご賢明でいらっしゃいますわ」
「フィリーネさん」と呼ばれた。「フィリーネ様」とは、1度も出なかった。
帰り際、「またぜひいらして」と侯爵夫人が言った。「あなたのような方がいてくださると、席が締まりますもの」——「いてくださると」。妻という言葉は使わない。使わないまま、「いてくださる場所がここではない」という意味を丁寧に組み立てていた。
誰も間違ったことを言っていなかった。それが一番重かった。
アネモネが、午後の光の中で少しだけ傾いていた。直そうとして——止めた。今日はもう、止める方を選ぶと決めていた。
管理者として来た。それは事実だ。公爵邸を整えることを引き受けた。それも事実だ。侯爵夫人の言葉はその事実と一致している。一致しているものに、反論はできない。
◇
帰りの馬車が揺れた。
外の景色が動いていく。フィリーネは膝の上に手を置いていた。押さえていない。ただそこにある。今日、手が何度動いたか、もう数えていなかった。
「退くべきかもしれない」という言葉が、声にならずに頭の中を走った。
自分で決めたことなら、後回しではない。管理者として来た者が、格の釣り合わない婚約に公爵家の立場を傷つけているなら、退くことが正しい。誰かに退かされるのではなく、自分が決める。自分が決めたことだから、後回しではない。
そこで一瞬だけ止まった。
——本当に、自分のために退くのか。
その問いが生まれて——消えた。消した。今はそれを考えなくていい。
怖くない、と思った。
怖くないことが、少し怖かった。
膝の上の手が、馬車の揺れに合わせて少し動いた。フィリーネはそれを見た。見て、止めなかった。今日はもういい、と思った。
◇
夜、自室の机に座った。
引き出しを開いた。財務調査帳ではなく、普通の帳面を出した。昨夜と同じものだ。昨夜は開いて、ペン先を紙のすぐ上で止めて、閉じた。今夜は——ペンを取った。
書いた。
「退くべきかもしれない、と」
書いてから、しばらく見た。自分の文字なのに、少し遠い場所にある気がした。ペンを紙から離した。文字はそのままそこにある。
消そうとした。
手が止まった。
上から線を引けばいい。それだけのことだ。やろうとして、手が止まった。消しても跡が残る。消えないのに消す意味が、うまくつかめなかった。意味がつかめないだけで、消す気持ちはある。ある、はずだ。
ペンの先が、帳面の端で止まっていた。細い線が、端のほうにいくつか残っている。フィリーネは視線をそこに向けないまま、帳面を閉じた。
消すのは明日にする。そう思いながら燭台を消した。窓の外が静かだった。静かな夜に、帳面の中の文字だけが残った。
◇
翌朝、目が覚めてすぐに机に座った。
帳面を開いた。「退くべきかもしれない、と」——昨夜と同じ文字が、そのままあった。
消せばいい、と思った。
ペンを取った。上から線を引けばいい。それだけのことだ。
文字は、消えない。線を引いても、書いた跡は残る。消したことがわかる跡が残る。消えないのだから、消すことに何の意味がある——
もう一度やろうとした。
できなかった。
消さなかった。ただ、そうなった。昨夜「消えない」と思い、今朝「消せなかった」とわかり、「消さなかった」という事実だけが残った。3つは違うことのように見えて、同じことだ。同じことかどうかは、よくわからなかった。
帳面を閉じた。
机の右端に置いた。廊下に出た。花瓶に手が触れた。2秒で止めた。今日の1回目だ。
廊下を歩きながら、帳面を右端に置いたことを思い出した。右端。その場所を、確かに覚えていた。




