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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第5章 自分を後回しにしたのは、わたし自身だった

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第19話 整える手が、また動き始めた。誰かのために

 廊下の途中で、手が止まった。


 止まったのは、動いていたからだ。


 フィリーネは自分の右手を見た。花瓶の首を、指が捉えている。角度を、2寸ほど直していた。いつ触れたのか、覚えていない。朝食に向かう途中だったはずだ。廊下を歩いていたはずだ。なぜ花瓶に手が伸びているのか、理由がない。


 ——癖だ。


 指を離す。歩き始める。3歩。


 また、手が伸びた。別の花瓶。


 今度は気づいた。気づいて、それでも離すまでに1秒かかった。花瓶は少しだけ傾いていた。直した方が均整が取れる。直した方がいい。直すのが正しい。だから手が先に動いた。


 ——誰のために?


 質問は、答えを返さなかった。ただ、廊下に広がって消えた。


 指を離した。今度は手を後ろで組んだ。歩く間、両手を後ろに置いておけば前には出ない。それだけのことだ。廊下の壁に沿って、残りの距離を歩いた。


 廊下の端まで来たとき、窓辺に小さな花瓶があることに気づいた。朝の光が当たっていて、水が少し減っている。昨日補充したのは自分だ。今日は必要ない。手を後ろに組んだまま、通り過ぎた。


 視線だけが、花瓶の傾きを拾っていた。2度傾いている。直せば3秒の話だ。


 通り過ぎた。


 廊下の向こう、食堂の方向に人の気配があった。振り向かなかった。振り向く理由がなかった。



 食堂に入ると、セドリックはすでに席に着いていた。ヘルマンが傍らに立ち、書類の束を一枚ずつ差し出している。セドリックは読んでいた。少なくとも、読んでいる振りをしていた。


「おはようございます」


「——ああ」


 それだけだった。喧嘩の後、二人の朝は短い言葉だけで動いている。それで問題はない。問題があるとすれば、問題がないと思っている自分の方かもしれない。そこまで考えて、フィリーネは考えを止めた。今は朝食の時間だ。


 茶が運ばれてくる。フィリーネは自分のカップを確認した。取っ手の角度。茶托の位置。——手を止めた。確認するのは癖だ。しかし直すのは、誰かのためだ。自分のカップを、誰かのために直す必要はない。手を膝の上に戻した。


 そのとき、ヘルマンが書類の束の一番上に、薄い紙を一枚のせて差し出した。


 セドリックが受け取る。目を動かす。読む。


 耳が、わずかに赤かった。


 フィリーネは自分の茶碗を見た。取っ手の角度は、少し違う。直さなかった。今日はそこまでにする。


「なお閣下」とヘルマンが言った。「昨日フィリーネ様が廊下の花瓶に触れた回数でございますが、7回でございます」


 フィリーネは、カップを持つ手を止めた。


「……なぜ数えている」とセドリックが言った。


「記録の精度を維持するためでございます、閣下」


「——その精度は必要か」


「ございます、閣下」


 即答だった。セドリックがそれ以上何も言わなかった。フィリーネは自分のカップに視線を落とした。7回。止めたつもりでいたが、動いた回数が記録されている。止めるたびにまた動いたのか、それとも7回しか止めなかったのか、どちらかわからなかった。なぜ数えているのかは、聞かなかった。


 今日は6回以内にする。そう思いながら、茶を飲んだ。



 午後、書斎で財務記録を確認した。


 先週の調査で「合わない数字が4箇所」という記録が財務調査帳の余白に残っている。今日はそのうちの1箇所目の参照元書類を当たる予定だった。台帳を左から順に広げ、参照先の番号を照合していく。書類を引く、確認する、印をつける。それだけの繰り返し。1冊目、2冊目と進んで、3冊目の中ほどで手が止まった。


 参照先の書類名が、1箇所だけ変わっていた。


 同じ種類の取引記録なのに、参照先が別の事務所名になっている。住所の区が、違う。番号の系統は同じだが、発行元の表記が変わっている。住所の変更があったのか——それとも別の理由があるのか。今日この場で追うには、確認すべき書類が足りない。


「後で確認する」と帳面に書いた。1行だけ。


 書いて、今日はここまでにした。帳面を閉じた。書類を元の棚に戻した。揃えながら、手が一冊ずつ背表紙を叩いて均していた。均すつもりはなかった。気づいたとき、3冊ならし終わっていた。


 ——また動いていた。


 手を止めた。棚の前で、少し立った。今日の午後の分は、整えではなく調査だったはずだ。調査は終わった。整えまでする必要はない。


 書類をそのまま置いて、書斎を出た。



 夕方、廊下を歩いた。


 今日、廊下の花瓶に手が何度触れたか、数えていなかった。朝「6回以内」と思ったが、数えるのをやめた時点で数にならない。夕方の廊下を歩きながら、初めてそのことを考えた。


 廊下の端の花瓶の前を通ったとき、止まった。傾いている。昨日も傾いていたかもしれない。手が伸びかけた。


 止めた。


 今日はそこまでにする。花瓶は傾いたまま廊下に置かれている。それでいい。フィリーネは歩き続けた。廊下の先に自分の部屋の扉がある。今日の分はもう終わりにした。


 部屋に入った。扉を閉めた。


 窓の外が、夕方の光の色をしていた。



 机に座った。燭台に火を入れた。


 財務調査帳を開こうとして、やめた。今日の分はすでに終わっている。「後で確認する」と書いたメモは書いてある。それ以上今夜やることは、ない。


 ではなぜ机に座ったのか。


 引き出しを開いた。財務調査帳ではなく、普通の帳面が入っている。昨日も触れた。一昨日も。開いて、閉じた。今日も同じかもしれない。


 手が帳面を引き出した。表紙を開く。白いページが出た。ペンを取った。


 何を書くか、決めていなかった。


 ペン先が紙の上に触れるかどうかの距離で、止まった。書くことが決まっていない。書こうとして開いたのか、手が開いたのか、今となってはわからなかった。廊下の花瓶と同じだ。気づいたときには手が動いていた。書くべきことが決まっていないなら、書かなくていい。帳面は調査のためにある。今夜調べることは、ない。


 帳面を閉じた。引き出しに戻した。


 窓の外が暗くなってきている。燭台の炎が揺れて、また静かになった。


 今日は7回止めたとヘルマンが言った。今日が良かったのかどうか、朝は判断できなかった。夕方に止めたのが最後だと思っていた。


 夕方に止めたはずの手が、夜、帳面を開いていた。

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