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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第4章 帳簿の中の不正が、喧嘩の前夜に見えていた

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第18話 割愛、という二文字だけが目に入った

 参照番号を、3度確認した。


 4箇所目の「合わない数字」が出たのは昨日の夜だった。今朝書斎に来てすぐ財務調査帳を開き、余白の欄に番号を書き写した。参照番号が引用している元書類を探さなければならない。合わない数字は4箇所で揃った。揃ったが、それぞれが別の書類を参照している。その書類が何で、どこに保管されているかがわかれば、次の手が見える。


 財務書類は左から3番目の棚のはずだった。


 フィリーネは棚の前に立った。順番通りに手を動かした。仕入れ台帳、月次報告書、年度別の照合記録。書類の順番は最初に確認してある。自分が並べたわけではない。誰かが長年かけて作った順番だ。その順番を崩さないように、1冊ずつ背表紙を確かめた。3段目の引き出しを開いた。見覚えのない番号の書類が複数入っている。参照番号と照合する。合わない。次の引き出しを引いた。


 手が、隣の棚に触れた。


 引き出しを閉めようとして、腕の角度がずれた。隣の棚との間が思っていたより狭かった。指先が別の表紙に当たった。引き出しを戻す拍子に、その一冊が斜めに引き出された。


 取り出したつもりはなかった。


 表紙が少し開いた。


 ──国境視察報告書。


 財務書類ではない。フィリーネは一瞬だけ止まった。戻そうとした。表紙に手をかけた。その時、最初のページの一行が目に入った。


 「管理者の容姿については報告書の範囲を逸脱するため、割愛する」


 フィリーネは報告書を閉じた。押しつぶすのではなく、そっと置き直すように。棚に戻す前に、もう1秒だけ手の中にあった。


 書斎の扉が開いた。



「……何を見ていた」


 セドリックの声だった。フィリーネは報告書を棚に戻した。


「財務書類を探していました。間違えました」


「それは別の棚だ」


「……そうでしたか」


 沈黙があった。セドリックが動かない。入り口に立ったまま、フィリーネの手元を見ていた。


「何を見た」


「割愛、という文字だけが目に入りました」


 返事がなかった。フィリーネはセドリックの方を向いた。


 耳が赤かった。


 今日の赤さは、照れでも苛立ちでもなかった。何かを見られた、という時の色をしていた。フィリーネはその色を見たことがなかった。見たことがないはずなのに、違う、とわかった。違う種類の赤だ、という判断が出た。


 聞こうとした。


 言葉が手前で止まった。聞く準備が、まだできていなかった。ヘルマンが読み上げた報告書の話を、1話目から思い出したか。思い出しかけた。「管理者の容姿については」という文字の意味が、手前まで来た。来て、止まった。


 問えば、答えが来るかもしれない。


 来た答えを、今の自分が受け取れるかどうかが、わからなかった。


「……財務書類の棚は、どちらですか」


 セドリックが反対側の棚を指差した。左手だった。指先に古い傷線がある。細い線が2本。今日はその線が、ただそこにあるものとして見えた。問いにする余力が残っていなかった。


 財務書類を受け取った。「ありがとうございます」と言いながら、頭の中で「割愛」の二文字が動いていた。棚に戻す動作、セドリックの耳の色、「管理者の容姿については」という文字の断片。整理する前に、次の行動が来た。


 書類を手に、書斎を出た。



 部屋に戻って、財務調査帳を開いた。


 参照番号が余白に並んでいる。今日持ってきた書類に、その番号と一致するものがあるか確かめた。4番目の番号が、照合記録の欄と一致した。照合記録の日付を確認した。集中している時期とまた重なっている。フィリーネは印をつけた。小さな印だ。断言する前に、もう1冊確認が必要だった。その書類は今日中には見られない。


 帳面を閉じた。


 財務調査帳の表紙を、指の腹で触れた。今日の分はここまでだ。


 窓辺を見た。


 グラスが空のまま置いてある。カモミールはまだ入っていない。


 「割愛」の二文字が、頭の中にまだあった。消そうとしたわけではない。ただ、そこにある。管理者の容姿については、報告書の範囲を逸脱するため。報告書の範囲とは、何の範囲なのか。逸脱するとは、何を逸脱することなのか。逸脱するとわかった上で書かなかった人間は、その言葉をどこに置いたのか。


 ヘルマンが読み上げた記録が何だったか、思い出そうとした。


 思い出しかけて、止めた。


 今は、止めておく方がいい気がした。理由はうまく言葉にならなかった。ただ、聞く準備ができていないうちに答えの形だけを知ることは、あまりよくない。そういう感覚だった。


 来客管理帳が棚の上に置いてある。2週間以上、触れていない。今日も開かなかった。財務調査帳だけが、今日フィリーネの手に触れた帳面だった。


 バラの水やりを、まだしていなかった。


 フィリーネは立ち上がった。廊下に出て、桶を取りに行った。庭の端で、植え直し途中のバラが夕方の光の中にあった。根元の土が乾きかけていた。水を、少しずつ、根元だけに注いだ。土が色を変えていく。昨日の分も、一昨日の分も、1日1度ずつやってきた。それが積み重なって、根が少しずつ落ち着いてきている。まだ途中だ。ただ、続いている。


 桶を持つ手が濡れた。袖をまくり直した。庭の空気が冷えてきていた。光が傾いて、バラの根元に影が差している。フィリーネはもう一度だけ根元を見てから、桶を下ろした。


 庭を出た。


 部屋に戻る廊下で、書斎の方を一度だけ振り返った。扉は閉まっていた。



 燭台をつけて、椅子に座った。


 財務調査帳をもう一度開こうとして、やめた。今日の確認はすでに終わった。開くとしたら、「割愛」のことを考えてしまうからだ、と気づいた。帳面の中に「割愛」は書いていない。それでも開いたら、考える。


 窓辺のグラスを見た。


 空のまま置いてある。カモミールを入れようとしたことが、何度かあった。入れないまま今日になった。入れる機会がなかったのか、入れることを後回しにしてきたのか、自分ではよくわからなかった。グラスはただ、そこにある。カモミールが入っていない状態で。


 「割愛された言葉の続きが何であるかは」と、頭の中で言葉が動いた。


 まだ、知らなかった。


 知らない。今日のところは、それだけだ。


 燭台の炎が少し揺れて、また静かになった。窓の外で風が動く音がして、また止んだ。


 帳面の表紙に手を置いたまま、フィリーネはしばらくそこにいた。

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