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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第4章 帳簿の中の不正が、喧嘩の前夜に見えていた

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第17話 言ってよかったのか、と思いながら歩いた朝のことを

 部屋の外に、茶碗が置いてあった。


 フィリーネは少しかがんで触れた。温かい。指の腹で表面を確かめた。80度だ。何も言わなかった。ただ立っていた。10秒ほど。


 取っ手が右を向いていた。フィリーネの利き手の向きに。来客用ではない。屋敷の普段使いのものだ。誰かが、向きを確かめてから置いた。


 湯気が細く残っている。廊下には誰もいなかった。フィリーネは茶碗を両手で持ち上げて、部屋の椅子に腰を下ろした。飲みながら、昨夜のことを考えた。


 燭台の炎が揺れていた。帳面を椅子に置いて、書斎を出た。「わかりました」と言って、出た。帰ってから指を組んで、それから「聞きたかったから、聞いた」という言葉が出てくるまで、かなりの時間がかかった。


 今日も、ここに茶があった。その事実だけが今は届いていた。



 廊下を歩いていたら、向こうからセドリックが来た。


 止まった。フィリーネも止まった。


「……茶碗」


「いただきました」


「……」


「ありがとうございます」


「わかった」


 それだけで通り過ぎた。セドリックの耳は平静の色をしていた。怒ってはいない。怒っているときの耳は違う。いつのまにか見ればわかるようになっていた。それがいつからなのか、考えなかった。


 遠ざかりながら、セドリックが言った。


「昨日の帳面は、椅子の上に置いてある」


 それで終わりだった。


 触っていない、ということだった。短い言葉に、それだけの意味があった。フィリーネはしばらく廊下に立っていた。両手の茶碗に、まだ温かさがあった。



 庭に出た。


 言ってよかったのか、と歩きながら思った。22年間、誰かに感情的な問いを投げたことがなかった。なのに昨日は言った。


 正しかったのか。正しい問いかただったのか。答えが返らなかったのは、自分の言葉が間違っていたからかもしれない。それとも相手に言葉が足りなかったからか。どちらかは、まだわからない。


 手が動いていた。いつのまにか花殻を摘んでいた。いつもの癖だ。手のひらを見ると、花殻が3つある。いつから摘んでいたかわからない。


 止めようとした。止めなかった。今日はこれでいいと思った。昨日のことを考えながらでも、手は整える。22年間そうしてきた。考えながら、手は動く。


 先月、廊下の棚の前でどうしても止まりきれなかった日のことを思い出した。止まりきれなかったことを悔いた日があった。今日は悔いていない。手が動いても、今日は問題ではない。


 なぜ問題ではないのか。


 バラの根元で足が止まった。土が乾いている。1日に1度。今日の水やりはまだだ。フィリーネは桶を取りに戻った。根元に水を注ぎながら、また問いが来た。


 言ってよかったのか。


 答えが出た。


 声にはしなかった。声にしなくていいと思った。ただ、よかったのだという答えが、自分の内側にあった。


 22年間、聞きたいことを聞いたことがなかった。昨日初めて聞いた。正しい形で聞けたかはわからない。答えが返ってくることもなかった。それでも――聞いたこと自体は、よかった。


 「聞きたかったから、聞いた。」


 その言葉が昨夜から頭の中にあった。22年間そんな理由で動いたことがなかった。聞きたいことはいつも後回しにしてきた。いつも。


 昨日だけ、その順番が1度だけ逆になった。だから手が今日は問題なく動いている。逆行ではない。今日の手は、ただそこにある。


 バラの根元に水が染みていく。乾いていた土が少しずつ色を変える。フィリーネはバラを見た。まだ植え直しの途中だ。根が土の中で落ち着くまで時間がかかる。でも水をやれば、続きはある。それだけのことだ。


 手のひらの花殻を庭の土に落とした。3つ。今日、この庭を歩いている間に摘んだもの。誰かのためではなく、ただ手が動いたから摘んだもの。それでよかった。


 整えることと後回しにすることは違う――22年間、その2つが混同していたかもしれない。声にはしなかった。


 木の陰で気配がした。振り返らなかった。リナルドが立っているような気配だった。確かめなかった。



 書斎でセドリックと顔を合わせたのは、昼前だった。


 昨日フィリーネが置いていった帳面が、椅子の上にある。昨日置いた位置のまま。ずれていない。フィリーネは入った瞬間にそれを確認した。


「昨日の問いに、正しく答えられなかった」


 セドリックが先に言った。フィリーネは少しの間、椅子の上の帳面を見た。置いたまま。それだけでわかることがあった。


「……問いかたが、悪かったかもしれません」


「そうではない」


 短く言った。迷いがなかった。


「では――」


「まだ、言葉が足りない。もう少し待ってくれ」


 フィリーネは窓の外を一瞬だけ見た。庭が見えた。水をやったバラの根元が、まだ濡れている。1日に1度。今日の分は終わった。


「……わかりました」


 昨日より間が長かった。2秒ほど。自分で考えた上の言葉だった。


 膝の上で指が重なっていない。昨日の夜は組んでいた。感情を閉じ込める時にそうしていた。今日は組まなかった。そのことに、少ししてから気づいた。


 セドリックが何かを言いかけた。言わなかった。フィリーネも何も言わなかった。


 「まだ、言葉が足りない」と言った人間が続けて言葉を足せば変だ。待つと言われたなら、待つ。「わかりました」とは、今日はそういう意味で言った。昨日の「わかりました」とは、間が違った。


 帳面を手に取った。昨日置いた位置から、1分も動いていない。昨日「置いた」のは、戻るつもりがあったからだった。今日、自分の手で取り上げた。


 開いた。合わない数字の4箇所に、小さな印がついている。この続きは次で調べられる。今日はここまでにする、と思った。


 セドリックが机の前に座った。仕事に戻った。フィリーネも椅子を引いた。同じ書斎に、昨夜とは違う種類の静けさがあった。燭台の炎ではなく、窓から昼の光が入っている。そのことだけが違った。


 部屋に戻る廊下で、窓からバラの庭が見えた。植え直しの途中の土が、少し光っていた。濡れている証拠だ。


 1日に1度。それでいい。

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