第16話 管理者として見ていますか、という言葉が、どこから来たのか
夕食後の書斎に、燭台の灯りが2本あった。
フィリーネは財務記録の帳面を手に持っていた。今日こそ報告しようと思っていた。4箇所、確認が終わっている。「合わない数字」の全容が1本の線として見え始めていた。今日のうちに話す。そのつもりで、夕食が終わってすぐ帳面を取りに部屋へ戻った。書斎へ向かう廊下で、言う順番を頭の中で整えた。4箇所の数字、日付が集中している期間、3年前の記録帳との一致。順番は決まっていた。
セドリックが机の向こうに座っていた。書類を手に取り、目を通している。ページをめくる音だけが、静かな書斎に響いた。窓の外はすでに暗かった。庭のバラは見えない。
「今日の調子は」
「普通です」
沈黙があった。フィリーネは帳面に手をかけた。表紙を開こうとした。4箇所の数字の意味、日付が集中している期間のこと、古い記録帳にも同じ形の食い違いが3年前から続いていること。言う順番まで、頭の中で決めてあった。開く。今夜は開く。
「1つ、聞いていいですか」という声が先に出た。
自分の声だった。
財務記録のことを言おうとしていた。そのつもりだった。帳面まで持ってきていた。なのに、別の問いが、もう喉の先にあった。声を出した後で、そのことに気づいた。
「あなたは私を、管理者として見ていますか」
燭台の炎が揺れた。
セドリックが手の書類を机に置いた。フィリーネの方を向いた。口が少し開いて、また閉じた。何かを考えているような間が3秒あった。
「……それを言う前に、聞いていいか」
「は」
「今、誰かのために動こうとしているのは、どちらだ」
沈黙の質が変わった。穏やかではなくなった。
「……今は、私の質問をしています」
「答えになっていないとわかっている。ただ――」
「ただ?」
「……」
長い沈黙だった。セドリックが口を開きかけた。閉じた。また開きかけた。燭台の炎が揺れる。その間フィリーネは動かなかった。目を逸らさなかった。声も震えなかった。ただ、答えを待った。
待ったが、答えは来なかった。
炎が揺れて、また静かになった。机の上の書類の端がわずかに翻った。セドリックの左手の甲が見えた。古い傷線が走っている。フィリーネはそこに目がいったが、何も聞かなかった。聞く余裕がなかった。今夜は別の問いを聞きに来た。その問いにすら、答えが来なかった。
フィリーネは立ち上がった。
財務記録の帳面を、椅子の上に置いた。手放すのではなく、置いた。机の上に置くのとは違う。棚に戻すのとも違う。椅子の上に、ある。帳面はそこにある。
「わかりました」
そう言って、書斎を出た。
◇
廊下は静かだった。昼間は使用人の往来で音がある廊下が、夜には別の場所になる。フィリーネは歩きながら、自分が何を言ったのかを確認した。「管理者として見ていますか」と言った。22年間、そんな聞き方をしたことがなかった。伯爵家にいた頃も。どこへ行っても。管理者として機能することで居られる。感情的な問いを誰かに投げることは、管理者の仕事ではなかった。なのに今夜、問いが出た。廊下の燭台の灯りが揺れた。足を止めた。また歩いた。
なぜ出たのか、廊下を歩いている間は分からなかった。
庭の方向から、風の音がした。植え直し途中のバラの根元が今夜も乾いているかもしれなかった。フィリーネは廊下の窓の前を通り過ぎながら、庭を見なかった。見る気にならなかった。
◇
部屋に入った。扉を閉めた。燭台をつけた。椅子に座った。膝の上で指を組もうとして、止めた。組まなかった。
窓辺を見た。グラスが空のまま置いてある。カモミールはまだ入っていない。
「答えになっていないとわかっている。ただ――」という言葉が耳に残っていた。「ただ」の後が来なかった。来なければ、その空白を自分で埋めるしかない。
管理者として見ているから、答えられない。
そう埋めるのが1番、筋が通った。「4年前の非公式了解」の重さ、外から「故公爵の遺志に背く息子」と言われているという事実、茶会でカミーラが「実務的なお方ね」と言った声――全部が同じ方向を指していた。答えられなかったのは、答えが「そうだ」だからだ。そういう計算が、静かに組み上がった。
フィリーネは指を見た。
組んでいなかった。
なぜ聞いたのか、という別の問いが来た。財務記録を報告しようとしていた。帳面まで持っていた。セドリックが「今日の調子は」と聞いた時、帳面を開けばよかった。「4箇所、ご報告することがあります」と言えばよかった。それが今夜すべきことだった。なのに別の言葉が先に出た。財務記録ではなく、別の問いが。
……聞きたかったから、聞いた。
その答えが、内側から出てきた。
聞きたかったから聞いた。それだけのことだ。誰かのためでもなかった。財務記録を報告するためでもなかった。聞きたいという欲求が自分の内側にあって、今夜は、それが先に出た。22年間そういう欲求を持ったことがなかったわけではない。持っていても、声に出さなかった。聞けば相手の負担になる。聞かなくても整えることで居られる。そうして22年を過ごしてきた。今夜は違った。帳面を持ちながら、別の問いを先に出した。
聞きたかったから、聞いた。それだけのことだった。
指が少しだけ緩んだ。組んでいなかったのに、緩んだ。
答えは来なかった。帳面は書斎の椅子の上にある。セドリックが触れるかどうか、フィリーネには分からなかった。「わかりました」と言った意味が、今夜は以前と違う気がした。あきらめとも了解とも、少し違う何かだった。しかしそれが何なのかは、まだ言葉にならなかった。
燭台の灯りが揺れた。
窓の外で風が動く音がして、また静かになった。
消えなかった、とフィリーネは思った。消そうとしたわけでもなかったが、今夜の問いは消えなかった。出てきてしまった。聞きたかったから聞いた。それが事実だった。22年間で1番、管理者らしくない夜だった。




