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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第4章 帳簿の中の不正が、喧嘩の前夜に見えていた

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第15話 今日のお茶は、80度でございました

 廊下でヘルマンに会ったのは、朝の早い時間だった。


「フィリーネ様。今日のお茶は、80度でございます」


 足が止まった。


「……本当に?」


 言ってから気づいた。来客対応の言葉ではなかった。ただ聞いてしまった声だった。管理者の口調ではなかった。


「失礼しました。それはよかったです」


「いいえ。なお、記録帳に本日の日付で記帳いたしました」


 ヘルマンが手帳を取り出した。表紙がへたっている。見慣れた黒い手帳だった。ページを開いて、フィリーネには読めない角度で見せた。


「79.8度でございますが、丸めてよろしゅうございましたか」


「……79.8度と記帳してください」


「承知いたしました。ただし閣下にはその旨申し上げておりません」


「……それでよいかと存じます」


「なお、閣下からは『80度と言え』とのご指示をいただきましたが、事実との整合性を鑑み、フィリーネ様には正確な数値をお伝えすべきと判断いたしました」


「……セドリック様が、そう言ったのですか」


「はい。なお、閣下の正確な表現は『フィリーネに言うな』でございました」


 フィリーネは黙った。「言うな」と言ったということは、0.2度の差を気にしていたということだった。


 ヘルマンが手帳を閉じた。日付を声に出して確認した。閉じた後も、少し残念そうに見えた。もう少し書きたかったのかもしれない。


「閣下は廊下でお待ちです」


「お待ち?」


「……私の報告を先にお聞きになりたいと申されまして。順番をお譲りいたしました」


 順番を、と思った。順番は彼の方が先のはずだ。



 セドリックは廊下の端にいた。窓を向いて立っていた。朝の光が差していた。フィリーネが近づくと、振り返った。


「……ヘルマンから聞きました」


「80度だった」


「79.8度だと存じます」


 沈黙があった。セドリックの表情は変わらなかった。変わらなかったが、何かが動いた気配があった。


「──それでも、ありがとうございます。厳守に近づいていらっしゃる」


 自分の声が、静かだった。感謝を受け取る側ではなく、伝える側にいた。その位置に、初めて立っていた。


 少し頭を下げた。


 視線が落ちた。その角度で、セドリックの左手の甲にある古い傷線が見えた。細い線が2本、手首の近くまで伸びていた。何かの刃物ではない。引っかいたような、あるいは何かを掴んだ時にできたような形だった。


 聞きたかった。いつの傷か。どこでできた傷か。国境の話と関係があるのか。


 顔を上げた。問いは口に出なかった。出す場所がなかった。


「次は厳守にする」


「善処ではなく」


「……善処ではなく」


 セドリックの耳が赤くなった。今日は苛立ちの赤さではなかった。フィリーネが「79.8度だと存じます」と言った時には変わらなかったのに、「ありがとうございます」の後から赤くなった。


 照れている、と思った。


 思ってから、目をそらした。見ていいものかどうかわからなかった。廊下の光が明るかった。朝の空気が動いていた。セドリックの耳の赤さだけが、その光の中で静かに残っていた。


「では失礼いた──」


「フィリーネ」


 名前だった。呼ばれた。振り返ると、セドリックは窓を向いていた。耳だけが赤いまま。


「……何でもない」


「はい」


 何でもない、の後に何があったのか。聞けなかった。聞く言葉を持っていなかった。聞いたとしても、セドリックが答えられたかどうかもわからなかった。この問いは、また次に延びた。


 歩き出して、廊下の角を曲がった。振り返らなかった。振り返ったら何かが変わりそうな気がした。


 ヘルマンが壁の前に立っていた。手帳が開いていた。何かを書いていた。


「閣下の耳が本日4回赤くなりました」


「……ヘルマン」


「記帳中でございます」


「4回の内訳を聞いてもよいですか」


「厨房で1回、廊下で2回、先ほど1回でございます」


 フィリーネは黙った。


「なお、フィリーネ様の前でのみ発現しております」


「……その情報は必要ありません」


「承知いたしました。なお、追記しない旨も記録帳に記帳してよろしゅうございましょうか」


「……それもお控えください」


「承知いたしました」


 少し残念そうに見えた。手帳は閉じたままだった。



 部屋に戻った。


 79度台。80度まで、あと0.2度。試みているということが、今日もヘルマンを通して届いた。昨日も届いた。毎日届いていた。その事実を、今日は「ありがとうございます」という言葉で返すことができた。


 財務記録の帳面を開いた。「合わない数字」が4か所。3年前から続いている不規則な規則性。今日はセドリックに報告できる。報告すべきだった。


 帳面を閉じた。


 今日は報告しない。


 今日は80度の日にする、と思った。自分の中でそういう決定をしたことに、少し驚いた。報告を延ばす理由が「セドリックの負担を避けるため」ではなく「今日はこの日のままにしたい」だった。誰かのためではなく、自分のために延ばしていた。


 椅子に座り直した。財務調査帳に今日の日付を書いた。ペンを置いた。


 書きながら、来客管理帳が目に入った。棚の上に置いたままだった。最後に開いた日付を確認した。2週間前だった。


 2週間、来客管理帳を開いていない。


 初めて気づいた。


 来客管理帳は「誰かのために整えるための帳面」だった。財務調査帳は「ここを守るための帳面」だった。2冊が並んでいて、自分が開いているのは後者だけだった。


 いつからそうなったのか、わからなかった。実家にいた頃は、来客管理帳が自分の仕事のすべてだった。6客分の茶碗を揃え、席順を確認し、花を選び、カモミールを空のグラスに入れず、自分の分を用意しないことを当然のように続けていた。


 今、自分が開いているのは、来客のための帳面ではなかった。


 窓辺のグラスが空のまま置いてある。カモミールはまだ入っていない。


 今日は良い日だった、と思った。その感情が自分の中にあることに、気づいていた。良い日だと思うことが、22年間でどれくらいあったか数えようとして、やめた。数えなくてよかった。今日がそうだった。それだけでよかった。


 帳面の表紙を、指の腹で軽く触れた。財務調査帳の方だった。


 管理者として見ていますか、という言葉が、どこから来たのか、後になってもわからなかった。

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