第15話 今日のお茶は、80度でございました
廊下でヘルマンに会ったのは、朝の早い時間だった。
「フィリーネ様。今日のお茶は、80度でございます」
足が止まった。
「……本当に?」
言ってから気づいた。来客対応の言葉ではなかった。ただ聞いてしまった声だった。管理者の口調ではなかった。
「失礼しました。それはよかったです」
「いいえ。なお、記録帳に本日の日付で記帳いたしました」
ヘルマンが手帳を取り出した。表紙がへたっている。見慣れた黒い手帳だった。ページを開いて、フィリーネには読めない角度で見せた。
「79.8度でございますが、丸めてよろしゅうございましたか」
「……79.8度と記帳してください」
「承知いたしました。ただし閣下にはその旨申し上げておりません」
「……それでよいかと存じます」
「なお、閣下からは『80度と言え』とのご指示をいただきましたが、事実との整合性を鑑み、フィリーネ様には正確な数値をお伝えすべきと判断いたしました」
「……セドリック様が、そう言ったのですか」
「はい。なお、閣下の正確な表現は『フィリーネに言うな』でございました」
フィリーネは黙った。「言うな」と言ったということは、0.2度の差を気にしていたということだった。
ヘルマンが手帳を閉じた。日付を声に出して確認した。閉じた後も、少し残念そうに見えた。もう少し書きたかったのかもしれない。
「閣下は廊下でお待ちです」
「お待ち?」
「……私の報告を先にお聞きになりたいと申されまして。順番をお譲りいたしました」
順番を、と思った。順番は彼の方が先のはずだ。
◇
セドリックは廊下の端にいた。窓を向いて立っていた。朝の光が差していた。フィリーネが近づくと、振り返った。
「……ヘルマンから聞きました」
「80度だった」
「79.8度だと存じます」
沈黙があった。セドリックの表情は変わらなかった。変わらなかったが、何かが動いた気配があった。
「──それでも、ありがとうございます。厳守に近づいていらっしゃる」
自分の声が、静かだった。感謝を受け取る側ではなく、伝える側にいた。その位置に、初めて立っていた。
少し頭を下げた。
視線が落ちた。その角度で、セドリックの左手の甲にある古い傷線が見えた。細い線が2本、手首の近くまで伸びていた。何かの刃物ではない。引っかいたような、あるいは何かを掴んだ時にできたような形だった。
聞きたかった。いつの傷か。どこでできた傷か。国境の話と関係があるのか。
顔を上げた。問いは口に出なかった。出す場所がなかった。
「次は厳守にする」
「善処ではなく」
「……善処ではなく」
セドリックの耳が赤くなった。今日は苛立ちの赤さではなかった。フィリーネが「79.8度だと存じます」と言った時には変わらなかったのに、「ありがとうございます」の後から赤くなった。
照れている、と思った。
思ってから、目をそらした。見ていいものかどうかわからなかった。廊下の光が明るかった。朝の空気が動いていた。セドリックの耳の赤さだけが、その光の中で静かに残っていた。
「では失礼いた──」
「フィリーネ」
名前だった。呼ばれた。振り返ると、セドリックは窓を向いていた。耳だけが赤いまま。
「……何でもない」
「はい」
何でもない、の後に何があったのか。聞けなかった。聞く言葉を持っていなかった。聞いたとしても、セドリックが答えられたかどうかもわからなかった。この問いは、また次に延びた。
歩き出して、廊下の角を曲がった。振り返らなかった。振り返ったら何かが変わりそうな気がした。
ヘルマンが壁の前に立っていた。手帳が開いていた。何かを書いていた。
「閣下の耳が本日4回赤くなりました」
「……ヘルマン」
「記帳中でございます」
「4回の内訳を聞いてもよいですか」
「厨房で1回、廊下で2回、先ほど1回でございます」
フィリーネは黙った。
「なお、フィリーネ様の前でのみ発現しております」
「……その情報は必要ありません」
「承知いたしました。なお、追記しない旨も記録帳に記帳してよろしゅうございましょうか」
「……それもお控えください」
「承知いたしました」
少し残念そうに見えた。手帳は閉じたままだった。
◇
部屋に戻った。
79度台。80度まで、あと0.2度。試みているということが、今日もヘルマンを通して届いた。昨日も届いた。毎日届いていた。その事実を、今日は「ありがとうございます」という言葉で返すことができた。
財務記録の帳面を開いた。「合わない数字」が4か所。3年前から続いている不規則な規則性。今日はセドリックに報告できる。報告すべきだった。
帳面を閉じた。
今日は報告しない。
今日は80度の日にする、と思った。自分の中でそういう決定をしたことに、少し驚いた。報告を延ばす理由が「セドリックの負担を避けるため」ではなく「今日はこの日のままにしたい」だった。誰かのためではなく、自分のために延ばしていた。
椅子に座り直した。財務調査帳に今日の日付を書いた。ペンを置いた。
書きながら、来客管理帳が目に入った。棚の上に置いたままだった。最後に開いた日付を確認した。2週間前だった。
2週間、来客管理帳を開いていない。
初めて気づいた。
来客管理帳は「誰かのために整えるための帳面」だった。財務調査帳は「ここを守るための帳面」だった。2冊が並んでいて、自分が開いているのは後者だけだった。
いつからそうなったのか、わからなかった。実家にいた頃は、来客管理帳が自分の仕事のすべてだった。6客分の茶碗を揃え、席順を確認し、花を選び、カモミールを空のグラスに入れず、自分の分を用意しないことを当然のように続けていた。
今、自分が開いているのは、来客のための帳面ではなかった。
窓辺のグラスが空のまま置いてある。カモミールはまだ入っていない。
今日は良い日だった、と思った。その感情が自分の中にあることに、気づいていた。良い日だと思うことが、22年間でどれくらいあったか数えようとして、やめた。数えなくてよかった。今日がそうだった。それだけでよかった。
帳面の表紙を、指の腹で軽く触れた。財務調査帳の方だった。
管理者として見ていますか、という言葉が、どこから来たのか、後になってもわからなかった。




