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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第4章 帳簿の中の不正が、喧嘩の前夜に見えていた

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第14話 長年この屋敷を守った目が、今日は違う場所を見ていた

 朝の書斎に、帳面を2冊持ってきた。


 来客管理帳と、財務記録の専用帳面だ。来客管理帳の方を先に開いた。今日の予定を確認する。午前に届け物が1件。午後は庭の管理業者との打ち合わせ。それだけだ。


 財務記録の帳面を開いた。昨日の続きから始める。参照番号1と2は確認済みだ。今日は3か所目を探す。


 仕入れ日付の欄だった。先月第3週の日付が、在庫表の同じ週と合わない。書き損じなら線1本で直すはずだ。しかしそこにあるのは、前の数字を丁寧に塗りつぶした跡だった。フィリーネは「参照番号3」と書き、今日の日付を添えた。もう1か所ある気がした。確認するには別の書類が必要で、それは今日中には取り出せない。


 帳面を閉じた。財務記録を棚に戻した。次の行動を確認する。庭に出る時間だ。


 庭の端で、バラの根元が見えていた。


 植え直しの途中のまま、今日も土が乾いている。昨日の水やりから1日経っていない。まだ早い、と頭でわかっていた。それでもフィリーネは無意識に歩みを止めた。「もう少し深く根が張る前に水をやりすぎると、また溺れます」と言った。バラに向かって言った。誰かが後ろにいることに、気づいていなかった。


「……誰に言っている」


 振り返ると、リナルドが立っていた。


「バラに。聞こえませんが」


 リナルドが何かを言いかけて、止めた。それから「……1日に1度だけ、根元に」と言った。「存じております」とフィリーネが答えた。


 リナルドの目がバラの根元を見た。30年この庭を管理してきた目だ。今日だけ、その向きが少し違った。バラを見ているようで、別の場所を見ているような。誰かを見る目と、何かを思い出している目は違う。今日のリナルドは後者だった。フィリーネは気になったが、言葉が見つからなかった。


 2人でしばらく根元を見ていた。先に動いたのはリナルドだった。桶を取りに行き、水をやった。フィリーネは手を引いた。


 廊下で再び顔を合わせたのは、昼を過ぎた頃だった。


「フィリーネ様」


 すれ違いざまにリナルドが立ち止まった。


「棚の前で手を止める時、あなたは何を見ていますか」


 業務上の問いではない気がした。


「次に手が動く先を、確認しています」とフィリーネは答えた。「どこに動くべきかではなく、どこに動きたいかを」


 沈黙があった。長い沈黙だった。


 廊下の光が動いて、また静かになった。


「……前任の奥様も」


 リナルドが言った。


「棚の前で、同じように手を止めていた」


 フィリーネは動かなかった。


「……どのようなお方でしたか」


 リナルドが少しの間だけ下を見た。


「――失礼した」


 そう言って、歩き去った。


 残されたフィリーネは、廊下の壁の少し高い位置にある引き出しに目をやった。鍵穴が錆びていない。頻繁に触れている証拠だ。


 「前任の奥様」という言葉が頭に残った。褒め言葉なのか、警告なのか、フィリーネには判断できなかった。


 部屋に戻って、帳面を開いた。


 「参照番号3」の行がある。その下は白い。


 棚の前で手を止める。管理する立場の人間がすることだ。次に何をすべきかを確認する。どこが動かせて、どこが動かせないか。それを把握して初めて、正しく整えることができる。前任の奥様もそうだった。管理する立場の人間として、この屋敷に来ていた。そしてリナルドが「同じように」と言った。


 帳面の余白を見た。何も書いていない。書くことが見つからなかった。


 「同じように」という言葉が、もう1度頭を通った。カミーラの「実務的なお方ね」と、侯爵夫人の「慣例ですものね」が、その後ろに並んだ。どれも、間違ったことは言っていない。だからこそ、帳面の余白に書く言葉がない。


 帳面を閉じた。


 廊下の引き出しのことを考えた。鍵穴が錆びていないということは、誰かが定期的に開けている。「どのようなお方でしたか」という問いを、リナルドは受け取らなかった。30年間の記憶がそこにあって、「失礼した」という言葉でそれを閉じた。答えられなかったのか、答えないことを選んだのか。どちらにしても、引き出しの鍵穴は錆びていない。


 問いが増えた。今日の問いは、今日では答えにならない類のものだった。


 1度庭に出た。バラの根元が夕方の光の中にあった。水はリナルドがやった後だ。乾きかけていた土が、今は少し落ち着いている。根が張るまでの時間が必要だ。フィリーネは何もしなかった。ただ見て、戻った。


 廊下でヘルマンに会ったのは、部屋に戻る途中だった。


「失礼いたします、フィリーネ様。閣下は今日も厨房でお試みでした。本日は79度台とのことでございます」


「……79度台」


「はい。昨日は78.5でございました。ともに記録帳に記帳済みでございます」


 ヘルマンが手帳を取り出す前に「……ありがとう」とフィリーネが言った。ヘルマンが少し間を置いた。手帳はそのままにした。


「フィリーネ様からありがとうと言われましたことは、記録帳に追記してよろしゅうございましょうか」


「……お控えください」


「承知いたしました。なお、追記しない旨も記録帳に記帳してよろしゅうございましょうか」


「……それも、お控えください」


「承知いたしました」


 少し残念そうに見えた。手帳は閉じたままだった。


 部屋に戻った。


 79度台。80度まで、あと少しだ。試みているということが、今日もヘルマンを通して届いた。昨日も届いた。その事実をどこに置いたらいいか、まだわからない。


 窓辺のグラスが空のまま置いてある。カモミールはまだ入っていない。


 廊下で、リナルドが少しだけ下を見た場面が、また頭をよぎった。


 30年この屋敷を守ってきた目が、今日だけ別の場所を見ていた。「前任の奥様も」という言葉が出た瞬間だけ、その目がどこか遠くにあった。フィリーネがどこに動きたいかを言った直後に、それが出た。


 帳面の表紙を、指の腹で軽く触れた。


 廊下の向こうで、引き出しの鍵穴だけが、錆びていなかった。

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