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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第4章 帳簿の中の不正が、喧嘩の前夜に見えていた

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第13話 この数字を見なかったことにして、どこまで歩けるのか

 前任者の筆跡が、整然と並んでいた。


 丁寧な字だった。幅が均一で、行がずれない。フィリーネは財務記録の帳面を机に置いて、3か月分を順番に並べた。来客管理帳は棚に置いたままにした。今日はそちらではない。


 先月14日の欄を開いた。


 2行あった。


 同じ日付で、金額が違う。訂正の線は入っていない。消した跡もない。2行が、そのまま並んでいる。下の行だけインクの色が薄かった。乾いた後から書き足した時の色だ。フィリーネは帳面を机の端に引き寄せ、光の角度を変えてもう一度確認した。角度を変えても、色の差は変わらない。


 訂正したのではない。


 並べて書いた。


 7日のページを開いた。同じ形があった。2か月前の帳面をめくると、さらに1か所。計3か所。フィリーネは帳面から手を離した。


 一度だけ、指を見た。


 仕事の途中で手を離すことは、しない。22年間、しなかった。それを今、した。


 窓の外の光は変わっていない。書斎の中は静かだった。


 見なかったことにできるか。


 答えを探した。できる、と思いかけた。この数字は記録ミスかもしれない。複数の担当者が異なる時期に書き込んだだけかもしれない。確証のない段階で動くべきではない。セドリックは今、外から圧力を受けている。余分な問題を持ち込むことで——


 なぜ「できる」と思いたいのか。


 その問いが来た時、フィリーネは動かなかった。


 言い訳の言葉は出てくる。整然と出てくる。どれも間違いではない。でも、どれも帳面を閉じる理由として充分ではない。「見なかった」という言葉を自分の中に置くことが、充分ではない。


 この数字を見なかったことにして、どこまで歩けるのか。


 ——答えはここまで、だ。


 見ないふりができない。それだけのことだ。22年間、見えているものを全部見てきた。その癖は、今さら止まらない。役立てるためではなく、見えるから見る。それだけの理由だった。


 フィリーネは3か所の箇所を、帳面に付箋で印した。付箋を挟むのは、後で戻るつもりがあるからだ。戻るつもりでなければ付箋は要らない。自分が「戻るつもりでいる」という事実を、動作として確認した。


 帳面の下に、別の帳面が積んであるのを見た。棚から引き出されていた。自分が出した覚えはない。フィリーネは手を伸ばして表紙を確認した。3年前の日付が入っていた。



 書類を届けに来たのはヘルマンだった。


「失礼いたします。書類をお持ちしました」


「ありがとうございます」


 ヘルマンが書類を机の端に置いた。帳面が3冊並んでいるのを、一瞬だけ見た。フィリーネが古い記録帳を指さして聞いた。


「こちらは、どちらの棚にありましたか」


「財務書類の棚の一番下でございます。よろしければ、年代順に取り出しましょうか」


「……お願いします」


 ヘルマンが棚に向かい、古い帳面を4冊取り出した。日付の順に机の端へ並べた。その間にフィリーネは3年前の記録帳を開いた。


 あった。


 同じ形が、3年前にも存在していた。日付が重なる2行。下だけインクの色が違う。


 単純なミスではない。この形が何年も続いている。


「なお、本日のお茶は85度でございます」


 棚を整えながらヘルマンが言った。フィリーネは帳面から目を上げた。


「……そうですか」


「はい。昨日の数値より改善されております。この調子で推移いたしますと、近日中に——」ヘルマンが一拍置いた。「……なんでもございません。失礼いたしました」


 手帳を一度開いて、また閉じた。今日の日付を声に出してから、棚の方を向いた。フィリーネはその動作を見ていたが、何も言わなかった。


「古い帳面は、もう少しここに置かせていただけますか」


「承知いたしました」


 ヘルマンが去った後、書斎は静かになった。机の上に帳面が5冊並んでいる。


 フィリーネは「日付が集中している期間」を探した。3年前から現在まで、合わない数字が現れるのは特定の時期に集中していた。年度末ではない。春先から秋口にかけて。規則性がある。不規則に見えて、規則性がある。


 何かが起きている期間がある。


 どんな事象と一致しているかは、まだわからない。わからないが、ある。フィリーネはそこまで確認してから帳面を閉じた。断言できる段階ではなかった。今日の結論はここまでだ。別のページを開くと、ある期間だけ数字の動き方が他と違う列があった。そこに付箋を挟んだ。



 廊下でセドリックと会ったのは夕刻前だった。


 向こうから歩いてきた。フィリーネに気づいて、少し足を緩めた。


「何かあれば言え」


「……もう少し、確認してからにします」


「わかった」


 それだけだった。セドリックが廊下を歩き続けた。フィリーネは反対方向へ進んだ。


 背後で足音が遠くなるのを聞いた。問い返さなかった。理由を聞かなかった。「確認してから」という言葉をそのまま受け取った。「わかった」の2文字に、待つという意味が入っていた。フィリーネにはそれが分かった。分かったが、口には出なかった。


 部屋に戻って、棚から新しい帳面を取り出した。


 表紙に「財務記録確認」と書いた。自分の字だ。今日の字だ。来客管理帳に書く時より、力が少しだけ入っている。フィリーネは気づかなかった。


 帳面を開いて、最初のページに今日確認した内容を書き写した。日付。金額の食い違い。2種類のインクの色。3年前から続いている形。春先から秋口に集中する期間。


 「もう少し確認してから」という言葉を、さっき自分は使った。それは本当のことだ。でも今日だけで、もう見えているものがある。


 この数字に、誰かが手を入れている。


 バラの根元に水をやるのを忘れていたことに気づいた。今日の水やりはまだだった。廊下に出て桶を取りに行った。夕暮れの庭は静かだった。根元に少しずつ、水をやった。根が安定するまでは多すぎても足りなくてもいけない。1日1度だけでいい。


 土に水が染みる音がした。バラの根が、前より少しだけ深く入っているのが見えた。植え直しの途中のまま止まっていたものが、静かに続いていた。


 部屋に戻って帳面を閉じた。


 窓辺を見ると、グラスが空のまま置いてある。カモミールはまだ入っていない。


 ただ、見なかったことにする選択は、ここで終わりだと思った。

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