表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第4章 帳簿の中の不正が、喧嘩の前夜に見えていた

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/17

第12話 戦い方が違う人と、同じ場所に立っていていいのか

 フィリーネが手袋の留め具を確認したのは、3回目だった。


 ヘルマンが朝の廊下で立ち止まって言った。「本日の茶会には、カミーラ様もお見えになるかもしれません」


 「……わかりました」


 「なお」と少しの間があってから、ヘルマンが続けた。「必ずお見えになります」


 言い直しだった。「かもしれない」から「必ず」へ。


 フィリーネは視線を手袋に落とした。3回目だと、その時気づいた。留め具は最初から正しくはまっていた。


 「閣下は本日、同行されません」


 窓の外は曇っていた。



 茶会の会場は、南向きの広間だった。白い柱が等間隔に並び、磁器のカップが席ごとに置かれている。フィリーネは右から3番目の席についた。隣の夫人と2往復ほど言葉を交わした。天気の話。花壇の話。当たり障りのない言葉を出しながら、場の構造を確認した。誰がどこに座っているか。空席はどこか。空気の重心がどこにあるか。


 カミーラは奥から来た。


 会場の空気が、少しだけ動いた。音ではなかった。視線が集まる方向が変わっただけで、フィリーネにはその変化が分かった。


 深い赤褐色の髪だった。白い手袋。薄いラベンダー色のドレス。歩き方が静かだった。音を立てるのではなく、音がそこへ落ちてくるような歩き方だった。近くの夫人たちが笑顔になった。カミーラが笑顔を向けながら近づいてきた。その歩き方は、誰かのためではなく、この場のために整えられた動きだった。


 フィリーネの席に来た。


 「まあ、フィリーネ様」


 穏やかな声だった。驚きの形をしていたが、驚いていない。


 「本日お目にかかれると思っていませんでした。お会いできて光栄ですわ」


 フィリーネは立ち上がって挨拶を返した。礼の角度を確認した。正確だった。カミーラの礼も正確だった。別の種類の正確さで。


 「お茶の出し方が本当に見事でいらっしゃいますわ」


 カミーラがフィリーネの手を見ながら言った。「どこでお学びになったのかしら」


 悪意はなかった。ないことは、フィリーネにも分かった。だからこそ、何も言えなかった。


 「伯爵家で、学びました」


 「そうでしょう」とカミーラが言った。


 わずかな間があった。そのわずかな間に、何かが決まった。


 「──実務的なお方ね、フィリーネ様は」


 笑顔のまま言った。事実として言った。


 フィリーネの指がカップの持ち手を、一度だけ強く握った。表情は動かなかった。


 茶を置く時、わずかに音がした。普段は出ない音だった。フィリーネは気づいた。気づいていないふりをした。


 「セドリック殿のお父様が大切にされていた約束を」とカミーラが続けた。「私は守りたいと思っているだけですの。それだけのことです」


 声は穏やかだった。4年間を費やしてきた人間の声ではなかった。


 ──違う、とフィリーネは思った。穏やかすぎる声は、穏やかでいようとしている声だ。この人は今、何かを抑えながら話している。


 その時、遠くで声がした。


 侯爵夫人だった。隣の夫人に向かって、柔らかく言っていた。


 「公爵婚約者は侯爵家以上が慣例でございますでしょう。伝統は守られるべきものですもの」


 フィリーネへ向けて言ったのではなかった。しかし届いた。


 カミーラが、一瞬だけ目を閉じた。


 それだけだった。ほんの一瞬で、また開いた。表情は変わらなかった。笑顔のまま隣の夫人と言葉を交わしていた。


 フィリーネはその一瞬を見ていた。


 見てしまった、とは思わなかった。ただ、見えた。


 ──この人も、この場の空気を作ったわけではない。



 帰り際、カミーラが「またいずれ」と言った。その目が、一瞬だけ疲れているように見えた。フィリーネは馬車に乗り込みながら、その目の色を記憶した。名前のない色だった。


 窓の外の街が流れた。


 「実務的なお方ね」という言葉を頭の中で繰り返した。繰り返す必要はなかった。それでも止まらなかった。


 戦い方が違う、とフィリーネは思った。


 カミーラは花を見せる人間だ。場の空気を動かし、声が届く範囲を知っている。どの席に座ればどこまで視線が届くかを知っている。近くの夫人たちが自然に笑顔になる歩き方がある。それを武器にして4年間生きてきた人間だ。


 私は花を整える人間だ。棚の順番を変えて、使用人の腰への負担を計算して、財務記録の数字を並べる。それは本当のことで、間違いではない。でも、カミーラが「実務的なお方ね」と言った時、その言葉は正しかった。反論する言葉が出なかったのは、反論できなかったからではなく、反論になる言葉を自分が持っていなかったからだ。


 でも、同じ場所には立てない。


 ──立てないのか。


 最後の問いだけが、馬車の揺れの中で残った。答えを出さなかった。出す方法を知らなかった。答えが出るまで待てる問いなのかどうかも、分からなかった。


 窓辺に手を置いた。手袋の上から、留め具を一度確認した。はまっている。最初からはまっていた。それでも確認した。



 公爵邸に戻ると、セドリックが廊下で書類を持って立っていた。


 「問題はなかったか」


 「ございませんでした」


 短い返事だった。セドリックも短く受けた。沈黙があった。フィリーネは「問題」という言葉の定義を考えた。今日のことが問題かどうかは、まだ自分でも判断できなかった。


 セドリックが庭の方を見た。フィリーネも視線を向けた。


 植え直し途中のバラが、根を半分だけ土の外に出したままだった。日が傾いて、根元の土が乾いているのが遠目にも分かった。


 「植え直しが間に合っていない」


 セドリックが言った。バラを見ながら言った。


 「……1日に1度だけ水をやれば、育ちます」


 フィリーネが答えた。


 「根が安定するまでは、多すぎても足りなくても」と続けた。「ちょうど1度だけでいいんです」


 「わかった」


 フィリーネはバラの根元を見ながら、「わかった」という言葉の重さを確かめた。バラのことを言っていたのは、セドリックの方だった。


 「おやすみなさい」と言って、部屋に戻った。


 棚から財務記録の帳面を取り出した。まだ開かなかった。窓辺を見ると、グラスが空のままある。カモミールはまだ入っていない。今日も入れなかった。それに気づいたのは、手が帳面に触れた後だった。


 整えることで居られる。それだけでいい。


 そう思いながら、帳面を開いた。


 前任者の丁寧な筆跡が、横一列に並んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ