第12話 戦い方が違う人と、同じ場所に立っていていいのか
フィリーネが手袋の留め具を確認したのは、3回目だった。
ヘルマンが朝の廊下で立ち止まって言った。「本日の茶会には、カミーラ様もお見えになるかもしれません」
「……わかりました」
「なお」と少しの間があってから、ヘルマンが続けた。「必ずお見えになります」
言い直しだった。「かもしれない」から「必ず」へ。
フィリーネは視線を手袋に落とした。3回目だと、その時気づいた。留め具は最初から正しくはまっていた。
「閣下は本日、同行されません」
窓の外は曇っていた。
茶会の会場は、南向きの広間だった。白い柱が等間隔に並び、磁器のカップが席ごとに置かれている。フィリーネは右から3番目の席についた。隣の夫人と2往復ほど言葉を交わした。天気の話。花壇の話。当たり障りのない言葉を出しながら、場の構造を確認した。誰がどこに座っているか。空席はどこか。空気の重心がどこにあるか。
カミーラは奥から来た。
会場の空気が、少しだけ動いた。音ではなかった。視線が集まる方向が変わっただけで、フィリーネにはその変化が分かった。
深い赤褐色の髪だった。白い手袋。薄いラベンダー色のドレス。歩き方が静かだった。音を立てるのではなく、音がそこへ落ちてくるような歩き方だった。近くの夫人たちが笑顔になった。カミーラが笑顔を向けながら近づいてきた。その歩き方は、誰かのためではなく、この場のために整えられた動きだった。
フィリーネの席に来た。
「まあ、フィリーネ様」
穏やかな声だった。驚きの形をしていたが、驚いていない。
「本日お目にかかれると思っていませんでした。お会いできて光栄ですわ」
フィリーネは立ち上がって挨拶を返した。礼の角度を確認した。正確だった。カミーラの礼も正確だった。別の種類の正確さで。
「お茶の出し方が本当に見事でいらっしゃいますわ」
カミーラがフィリーネの手を見ながら言った。「どこでお学びになったのかしら」
悪意はなかった。ないことは、フィリーネにも分かった。だからこそ、何も言えなかった。
「伯爵家で、学びました」
「そうでしょう」とカミーラが言った。
わずかな間があった。そのわずかな間に、何かが決まった。
「──実務的なお方ね、フィリーネ様は」
笑顔のまま言った。事実として言った。
フィリーネの指がカップの持ち手を、一度だけ強く握った。表情は動かなかった。
茶を置く時、わずかに音がした。普段は出ない音だった。フィリーネは気づいた。気づいていないふりをした。
「セドリック殿のお父様が大切にされていた約束を」とカミーラが続けた。「私は守りたいと思っているだけですの。それだけのことです」
声は穏やかだった。4年間を費やしてきた人間の声ではなかった。
──違う、とフィリーネは思った。穏やかすぎる声は、穏やかでいようとしている声だ。この人は今、何かを抑えながら話している。
その時、遠くで声がした。
侯爵夫人だった。隣の夫人に向かって、柔らかく言っていた。
「公爵婚約者は侯爵家以上が慣例でございますでしょう。伝統は守られるべきものですもの」
フィリーネへ向けて言ったのではなかった。しかし届いた。
カミーラが、一瞬だけ目を閉じた。
それだけだった。ほんの一瞬で、また開いた。表情は変わらなかった。笑顔のまま隣の夫人と言葉を交わしていた。
フィリーネはその一瞬を見ていた。
見てしまった、とは思わなかった。ただ、見えた。
──この人も、この場の空気を作ったわけではない。
帰り際、カミーラが「またいずれ」と言った。その目が、一瞬だけ疲れているように見えた。フィリーネは馬車に乗り込みながら、その目の色を記憶した。名前のない色だった。
窓の外の街が流れた。
「実務的なお方ね」という言葉を頭の中で繰り返した。繰り返す必要はなかった。それでも止まらなかった。
戦い方が違う、とフィリーネは思った。
カミーラは花を見せる人間だ。場の空気を動かし、声が届く範囲を知っている。どの席に座ればどこまで視線が届くかを知っている。近くの夫人たちが自然に笑顔になる歩き方がある。それを武器にして4年間生きてきた人間だ。
私は花を整える人間だ。棚の順番を変えて、使用人の腰への負担を計算して、財務記録の数字を並べる。それは本当のことで、間違いではない。でも、カミーラが「実務的なお方ね」と言った時、その言葉は正しかった。反論する言葉が出なかったのは、反論できなかったからではなく、反論になる言葉を自分が持っていなかったからだ。
でも、同じ場所には立てない。
──立てないのか。
最後の問いだけが、馬車の揺れの中で残った。答えを出さなかった。出す方法を知らなかった。答えが出るまで待てる問いなのかどうかも、分からなかった。
窓辺に手を置いた。手袋の上から、留め具を一度確認した。はまっている。最初からはまっていた。それでも確認した。
公爵邸に戻ると、セドリックが廊下で書類を持って立っていた。
「問題はなかったか」
「ございませんでした」
短い返事だった。セドリックも短く受けた。沈黙があった。フィリーネは「問題」という言葉の定義を考えた。今日のことが問題かどうかは、まだ自分でも判断できなかった。
セドリックが庭の方を見た。フィリーネも視線を向けた。
植え直し途中のバラが、根を半分だけ土の外に出したままだった。日が傾いて、根元の土が乾いているのが遠目にも分かった。
「植え直しが間に合っていない」
セドリックが言った。バラを見ながら言った。
「……1日に1度だけ水をやれば、育ちます」
フィリーネが答えた。
「根が安定するまでは、多すぎても足りなくても」と続けた。「ちょうど1度だけでいいんです」
「わかった」
フィリーネはバラの根元を見ながら、「わかった」という言葉の重さを確かめた。バラのことを言っていたのは、セドリックの方だった。
「おやすみなさい」と言って、部屋に戻った。
棚から財務記録の帳面を取り出した。まだ開かなかった。窓辺を見ると、グラスが空のままある。カモミールはまだ入っていない。今日も入れなかった。それに気づいたのは、手が帳面に触れた後だった。
整えることで居られる。それだけでいい。
そう思いながら、帳面を開いた。
前任者の丁寧な筆跡が、横一列に並んでいた。




