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陰陽師朝霧、異世界にクレームをつけにいく ~勇者召喚の裏で女神が雑すぎる件~  作者: 和幸雄大


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第51話 死霊術師の次手

砦から遠く離れた湿地平原のさらに奥に、黒い瘴気をまとった古い砦があった。

そこは、魔王の影響下にあるガストニア軍の主要拠点ではない。

重要拠点から外された、使われていない中継拠点だった。

枯れた木々の根元には、黒い水が溜まり、沼が形成されていた。

水面には星も月も映さず、ただ黒い。

そこに、砦の排水口へ放った使い魔の反応だけが、細い糸のように揺れていた。

その糸が、ぷつりと切れた。

「戻らぬか。」

低い声がした。

黒い外套をまとった魔導兵が、膝をついたまま頭を下げる。

「はい。」

「黒水の偵察体は、捕獲されたものと思われます。」

その奥に、黒い翼を畳んだ骸骨のような魔導士がいた。

眼窩の奥に、赤黒い魔晶の光が灯っている。

モルディス・カース。

かつて交易都市ヴァルミナで死霊兵を率い、都市を襲い、京花と戦ったガストニア魔導部隊長だった。

「捕獲。」

モルディスは、愉快そうでも不快そうでもない声で繰り返した。

「倒されたわけではないのだな。」

「はい。」

「神殿の結界に触れた痕跡はあります。」

「ですが、完全な浄化ではありません。」

「何かで囲まれ、移動できなくなり、器に封じられたものと見られます。」

「ふむ。」

モルディスは黒い水面を見る。

そこには、断片的な映像が浮かんでいた。

砦の排水口。

若い兵。

狐面の術者。

勇者。

神官。

騎士。

そして、使い魔を囲む符と結界。

「異界の術者か。」

モルディスの声が少しだけ低くなる。

「ヴァルミナで見た時より、手数が増えている。」

「はい。」

魔導兵が報告を続ける。

「砦側は、すでに水場の確認手順を変更しています。」

「井戸は封鎖。」

「水の配布は二名確認。」

「排水口の異常は、兵が単独で確認せず報告。」

「祈香、清めの水、神殿物資も管理対象に入った模様です。」

モルディスは笑った。

骨の喉から漏れるような、乾いた笑いだった。

「戦場で水桶の数を数えるか。」

「馬鹿馬鹿しい。」

魔導兵は頭を下げたまま、さらに報告する。

「勇者の反応にも変化があります。」

「言え。」

「助けを求める声に反応しました。」

「しかし、突撃しませんでした。」

「帰還を連想させる幻にも反応しました。」

「しかし、術者へ報告し、行動を停止しました。」

「今回は、使い魔が逃走を試みた際、攻撃ではなく進路を塞いでいます。」

「勇者が、か。」

「はい。」

「斬らず、追わず、塞ぎました。」

モルディスの魔晶が、赤く明滅した。

「つまらぬ勇者になったものだ。」

「勇者とは、愚かに前へ出るから御しやすい。」

「助けを求めれば走る。」

「女神の名を囁けば迷う。」

「元の世界に帰れると誘えば揺れる。」

「それでよい。」

「それが、戦場で殺しやすい勇者だ。」

魔導兵は顔を上げない。

「ですが、今回の勇者は。」

「変えられている。」

モルディスが言った。

「いや。」

「正確には、止められているな。」

「狐面の術者が、勇者の行動を変えさせている。」

「はい。」

「それにより、勇者の衝動反応が弱くなっています。」

「神殿と砦の分断も、現時点では失敗しています。」

「神官側は確認手順に従う方針を示しました。」

「兵も、異常報告を行っています。」

モルディスは沈黙した。

周囲の黒い水が、小さく波打つ。

湿地の奥で、遠くの魔物の声が響いた。

「女神の力を奪ったわけではない。」

モルディスが言った。

「女神の導きを真似たわけでもない。」

「ただ、人間どもが女神の名でどう動くかを見ただけだ。」

「それだけで、普通は十分だった。」

「はい。」

「神殿を疑わせ、不仲にする。」

「勇者を焦らせる。」

「兵を黒水で不安にさせる。」

「砦の中に噂をばらまき、内側から腐らせる。」

「そして、弱ったところを押し潰す。」

モルディスは、骨の指で黒い水面を叩いた。

「本来なら、それで済む。」

水面に、京花の狐面が映った。

モルディスの眼窩の光が、わずかに強まる。

「だが、あの女がいる。」

「異界の術者。」

「ヴァルミナで我が死霊術の循環を乱した者。」

「今回も、勇者の動きを乱している。」

魔導兵が低く言う。

「排除対象に加えますか。」

「すでに加えている。」

モルディスは即答した。

「ただし、まだ殺すな。」

魔導兵がわずかに顔を上げた。

「殺さないのですか。」

「死者にすれば扱える。」

「だが、今はまだ情報が足りん。」

モルディスは淡々と言った。

「異界の術。」

「式神。」

「符。」

「結界。」

「そして、女神の導きに割り込む手順。」

「それを知らずに潰せば、次に同じものが来た時に困る。」

「ガストニア軍は、相手を力で潰す。」

「だが、力を使う場所を誤るほど愚かではない。」

魔導兵は深く頭を下げた。

「では、次の命令は。」

モルディスは黒い水面から手を離した。

水面に、捕獲された黒水の使い魔の残像が映る。

壺に入れられ、符を貼られ、封じられている。

「砦は手順を作った。」

「ならば、その手順を試す。」

「井戸は封じられた。」

「ならば、水以外を使う。」

「排水口も、もう使えない。」

「ならば、見張りの外からいくしかない。」

「勇者は走らなくなった。」

「ならば、走らせる理由を変える。」

魔導兵が黙って聞く。

「神殿側の不安はまだ残っている。」

「兵の不満も消えてはいない。」

「勇者の帰還願望も消えてはいない。」

「狐面の術者は、それらを言葉にして止めている。」

「ならば、言葉にする暇を与えるな。」

「小さな混乱ではなく、複数同時に揺らせ。」

モルディスの瞳である魔晶が、赤黒く光る。

「夜間に一度、砦を叩く。」

「ただし、総攻撃ではない。」

「死霊を少数。」

「水ではなく、土と骨を使え。」

「排水口ではなく、墓地跡か廃棄場を経由しろ。」

「兵を走らせる。」

「神官を祈らせる。」

「勇者に判断させる。」

「狐面の術者に、どれを先に止めるか選ばせる。」

魔導兵の声が低くなる。

「陽動、ですか。」

「これは、私からの挨拶だ。」

モルディスは言った。

「砦が、どこまで手順を守れるか。」

「勇者が、本当に走らないか。」

「神殿が、本当に砦と並んで立てるか。」

「そして、狐面の術者が、どこまで同時に処理できるか。」

湿地の黒い水が、ゆっくり渦を巻いた。

「それと。」

モルディスは続けた。

「捕獲された使い魔に、追跡の糸は残すな。」

「すでに切断済みです。」

「よい。」

「だが、切断したことも情報になる。」

「向こうは、こちらが引いたと知る。」

「はい。」

「ならば、次は向こうが待つ。」

「待っている相手には、予想外の場所から攻める。」

モルディスは立ち上がった。

黒い翼が、ゆっくり開く。

「女神がどんな力を与えたかは知らぬ。」

「だが、勇者が何に揺れるかは見える。」

「狐面が何を塞ぐかも、いずれ見える。」

「報告を続けろ。」

「次は、こちらが砦の手順を壊す番だ。」

黒い水面が沈んだ。

湿地の奥に、赤黒い光が一つ、消えた。

その頃。

砦の封印庫では、私が壺を睨んでいた。

「気持ち悪い。」

私は正直に言った。

壺の中で、黒い水がかすかに揺れている。

外から見れば、ただの小さな陶器の壺だ。

でも、符を通して見ると、中には黒い塊がまだ生き物みたいに動いていた。

本当に、気持ち悪い。

水なのか。

魔物なのか。

使い魔なのか。

偵察具なのか。

もう少しどれか一つに絞ってほしい。

分類しづらいものは、対処が面倒だ。

「主。」

後鬼が壺の横で言った。

「接続は切れています。」

「完全に?」

「おそらく。」

「おそらく、ね。」

「はい。」

「つまり、向こうは捕まったことを知って、線を切った。」

「その可能性が高いです。」

「逃げ足だけは速いわね。」

私は壺を軽く指で叩きかけて、やめた。

叩くものではない。

こういうところで雑に触ると、だいたい面倒が起きる。

前鬼が横から覗き込む。

「割れば分かるのではないか。」

「分からなくなるの。」

「中身が出る。」

「出したくない。」

「なら殴るのもだめか。」

「だめ。」

「捕まえたのに面倒だな。」

「捕まえたから面倒なのよ。」

前鬼は納得していない顔をした。

後鬼は静かに頷いている。

サトリは壺の周りをくるくる回っていた。

「におい、切れた。」

「向こう?」

「うん。」

「でも、残ってる。」

「どこに?」

「壺。」

「それはそう。」

「あと、土っぽい。」

「土?」

サトリは鼻を動かす。

「水だけじゃない。」

「骨っぽいのも少し。」

私は眉を寄せた。

黒い水。

骨っぽい匂い。

嫌な組み合わせだ。

「モルディス・カース。」

私は小さく呟いた。

悠真が反応する。

「ヴァルミナの時の、あの死霊術の人ですか。」

「ええ。」

「確定?」

「まだ。」

私は壺を見る。

「でも、死霊術っぽい匂いが混じってるなら、思い出しておいた方がいい。」

エリシアの表情が硬くなる。

「ヴァルミナを襲ったガストニア魔導部隊長。」

「生者も死者も駒として扱う男です。」

「趣味が悪いのよね。」

私は答えた。

「死体を起こす。」

「水を使って覗く。」

「人の反応を試す。」

「どれもこれも、現場の衛生と精神に悪い。」

ルークが腕を組んだ。

「本当にモルディスなら、次は死霊を使うかもしれん。」

「でしょうね。」

「水の手順を作ったばかりだ。」

「次は水以外を使う?」

「その可能性はある。」

私は壺から目を離さずに言った。

「相手がまともに考えるなら、同じ排水口には来ない。」

「井戸も警戒されてる。」

「祈香も管理されてる。」

「なら、別の穴を使う。」

悠真が小さく言う。

「穴。」

「そう。」

「この世界、穴が多すぎる。」

「水路。」

「井戸。」

「排水口。」

「記録の穴。」

「神殿の管理の穴。」

「勇者運用の穴。」

「今度は、墓地とか廃棄場とか来ても驚かないわ。」

言ってから、私は嫌な顔になった。

自分で言って嫌になる予想は、だいたい当たる。

本当にやめてほしい。

「ルーク。」

「なんだ。」

「砦の周囲に、古い墓地跡や死体置き場、戦死者を一時的に集める場所はある?」

ルークの表情が少し変わった。

「ある。」

「やっぱり。」

「東門の外れに古い慰霊地がある。」

「今は使っていない。」

「だが、ヴァルミナ方面から運ばれた負傷兵や死者を一時的に置いた場所もある。」

「管理は?」

ルークは黙った。

私は額に指を当てた。

「聞くまでもなかったわね。」

「記録上は閉鎖済みだ。」

「また出た。」

「記録上。」

悠真が小さく笑いかけて、すぐ真顔に戻った。

笑っている場合ではない。

でも、分かる。

私も笑いたい。

乾いた笑いを。

「確認しましょう。」

エリシアが言った。

「神殿側にも慰霊地の記録があります。」

「埋葬記録、祈祷記録を調べます。」

「お願い。」

私は頷いた。

「ただし、神殿だけの情報で処理しないで。」

「はい。」

「砦側の記録とも照合して一緒に。」

「リリアにも伝えます。」

「いいわね。」

ルークがすぐに部下へ指示を出す。

「慰霊地と死者置き場の確認をする。」

「ただし、大人数では行かない。」

「見張りを増やしすぎるな。」

「異常があれば触れずに報告。」

「水場と同じだ。」

「触るな。」

「一人で判断するな。」

「見たものを言え。」

指示が短くなってきた。

しかも、分かりやすい。

いい傾向だ。

私が細かく怒鳴らなくても回り始めている。

これはかなり助かる。

「ミツネさん。」

悠真が壺を見ながら言った。

「向こうは、次も俺を狙いますか。」

「狙うでしょうね。」

私は正直に答えた。

悠真は少しだけ顔を強張らせた。

でも、逃げなかった。

「でも、あなた一人だけを狙うとは限らない。」

「どういうことですか。」

「あなたを直接揺らせないなら、周りを揺らす。」

「兵。」

「神殿。」

「エリシア。」

「ルーク。」

「水じゃなければ、死霊。」

「死霊じゃなければ、負傷者。」

「助けてと言われれば、あなたは反応する。」

悠真は唇を噛んだ。

「はい。」

「反応するのは悪くない。」

「ただし、走る前に言う。」

「分かっています。」

「分かっていても、揺れる時はある。」

「はい。」

「だから、手順。」

私は壺を布で包み直した。

「次からは、勇者だけじゃなくて、周囲が先に声を出す。」

「助けて、だけじゃなくて、場所、人数、状況。」

「死体が動いても、一人で近づかない。」

「泣き声がしても、二人以上で確認。」

「墓地から声がしても、自分だけで行かない。」

悠真が少し苦笑した。

「そう。」

私は言った。

「そして、これはクレーム案件よ。」

「クレーム案件?」

「勇者を召喚しました。」

「魔王がいます。」

「ガストニア軍もいます。」

「死霊術師もいます。」

「でも、死体管理と慰霊地管理が雑です。」

「勇者への伝令手順もありません。」

「水場も穴だらけです。」

「神殿物資も管理が甘いです。」

「そんな世界へ未成年を放り込むな。」

悠真が目を瞬かせた。

エリシアは、少し困ったように目を伏せた。

ルークは疲れた顔で息を吐いた。

前鬼は楽しそうにしている。

サトリは机の上で尻尾を揺らした。

「クレーム、増えた。」

「増えたわね。」

「いっぱい。」

「本当にいっぱい。」

私は壺を見る。

「女神に会ったら、まず一覧表を作って突きつけたいくらいよ。」

悠真が、今度は少しだけ笑った。

「それ、怖いですね。」

「怖がる相手を間違えないで。」

「ガストニア軍より?」

「方向性が違う。」

「ガストニア軍は殴ってくる。」

「女神は、雑に放り込んでくる。」

「どっちも困る。」

エリシアが小さく咳払いした。

「ミツネ殿。」

「何?」

「女神様への言い方は、できれば少し柔らかく。」

「内容次第。」

「そこは譲らないのですね。」

「譲らない。」

リリアがいたら卒倒していたかもしれない。

今いなくてよかった。

いや、いずれ慣れてもらうしかない。

「主。」

後鬼が静かに言った。

「壺の反応は安定しました。」

「封印庫に入れられる?」

「はい。」

「ただし、定期確認が必要です。」

「何人で?」

「二名以上。」

私はルークを見た。

ルークもこちらを見る。

同時に言った。

「手順ね。」

ルークが少しだけ苦笑した。

「分かった。」

「黒い壺は封印庫。」

「砦側と神殿側で共同確認。」

「ミツネ殿か後鬼の許可なく開封禁止。」

「前鬼は?」

「触るな。」

前鬼が不満そうに言った。

「俺だけ名指しか。」

「当然。」

「信用がない。」

「実績。」

前鬼は腕を組んで黙った。

でも、どこか楽しそうだった。

それはそれで困る。

封印庫へ壺を運び込んだあと、私は指揮室に戻った。

外はすでに夕方になっている。

砦の中では、水桶の確認が続いていた。

井戸の周囲には、距離を取った見張り。

排水口には二名組。

祈りの間にはエリシアの指示で記録係が入っている。

変わった。

本当に、少しだけ変わった。

でも、相手も変えてくる。

それは間違いない。

「モルディスが関わっているなら。」

悠真が言った。

「また、死霊兵が来るんでしょうか。」

「来るかもしれない。」

私は答えた。

「でも、今回はヴァルミナの時みたいに正面から来るとは限らない。」

「砦の反応を見ていたなら、手順を崩すために来る。」

「じゃあ、守るだけですか。」

「守る。」

「でも、それだけじゃない。」

私は窓の外を見た。

「向こうがこちらを見るなら、こちらも向こうを見る。」

「壺から分かった匂い。」

「黒い板の記号。」

「モルディスの死霊術の痕跡。」

「慰霊地の管理記録。」

「全部つなげる。」

「それで?」

「次に来た時、捕まえる。」

悠真が少し驚いた顔をした。

「また捕まえるんですか。」

「ええ。」

「敵が正面から来るなら倒す。」

「偵察で来るなら捕まえる。」

「死霊を使うなら、術の流れを乱す。」

「魔導士が後ろにいるなら、尻尾を掴む。」

私は狐面の位置を直した。

「ガストニア軍が力で来るなら、力で止める。」

「でも、雑な穴を使ってくるなら、その穴ごと塞ぐ。」

「そして、女神へのクレーム項目にも追加する。」

悠真は少し困ったように笑った。

「そこもなんですね。」

「当然。」

「こんな世界運用、文句を言わずにいられる方がおかしい。」

私は窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。

砦の外には、夕闇が降りている。

水音はしない。

けれど、遠くで風が鳴った。

それが水音にも、骨が擦れる音にも聞こえた。

たぶん、気のせいだ。

でも、気のせいでも記録する。

そういう手順にした。

私は机の上の紙に、短く書いた。

東側慰霊地。

死者置き場。

黒水。

骨の匂い。

モルディス・カースの可能性。

そして、その下にもう一つ。

女神へのクレーム追加。

死霊術師や魔王がいる世界に、違う世界から拉致同然に勇者を送るなら、死体管理と防衛手順くらい整えておけ。

書いてから、私は少しだけ笑った。

やっぱり、これは言わないと気が済まない。

「向こうが報告するなら。」

私は呟いた。

「こっちも記録してやるわ。」

窓の外で、夕闇が濃くなる。

ガストニア軍が次に何をしてくるのかは分からない。

けれど、ひとつだけ分かっている。

もう、こちらは見られているだけでは終わらない。

捕まえた。

記録した。

次は、追う。

そしていつか、女神にもガストニアにも、まとめて言ってやる。

この世界。

本当に管理が雑すぎる。

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