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陰陽師朝霧、異世界にクレームをつけにいく ~勇者召喚の裏で女神が雑すぎる件~  作者: 和幸雄大


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第50話 黒い水の使い魔

会議で決めたことは、すぐに砦全体へ広がった。

井戸の封鎖。

水の二名確認。

祈香の管理。

排水口の見回り。

勇者への伝令手順。

もちろん、全員が気持ちよく受け入れたわけではない。

水を飲むたびに確認される。

排水口の近くで音がしただけで報告する。

祈香を焚くにも記録がいる。

兵からすれば、面倒に決まっている。

でも、面倒だからやらないで済むなら、最初からこんな騒ぎにはなっていない。

雑な管理の穴に、敵が手を突っ込んできている。

なら、雑なままにはしておけない。

本当に、魔王軍も面倒なところを突いてくる。

正面から来るなら、前鬼に殴らせるだけで済むのに。

いや、それはそれで困るけど。

「主。」

後鬼が窓の外を見ながら言った。

「水場周辺の見回りは、今のところ手順通りです。」

「報告は?」

「三件あります。」

「多いわね。」

「一件は、井戸の周囲で水音を聞いた気がしたというものです。」

「一件は、祈香の匂いがした気がしたというものです。」

「もう一件は、排水口の水が黒く見えたというものです。」

私は椅子から立ち上がった。

「最後。」

「はい。」

「場所は?」

「東側の小排水口です。」

「誰が報告したの?」

「第三班の若い兵です。」

「勝手に覗き込んだ?」

「いえ。」

後鬼は少しだけ表情を緩めた。

「報告して、その場を離れ、近くの兵と二人で見張っています。」

「優秀。」

「はい。」

それはかなり大きい。

もし昨日までなら、排水口を覗き込んでいたかもしれない。

あるいは、黒く見えた水を確かめようとして触っていたかもしれない。

でも、今は違う。

報告した。

離れた。

一人で判断しなかった。

こういう地味な一つが、砦を守る。

派手な魔法より、こういうものの方が効く時がある。

本当に、異世界に来てまで現場改善をやるとは思わなかった。

「行くわよ。」

私は符を手に取った。

「前鬼。」

「応。」

扉の横で腕を組んでいた前鬼が顔を上げる。

「今度こそ殴るか。」

「まだ決まってない。」

「黒い水だろう。」

「黒い水だからこそ、まず捕まえる。」

前鬼は露骨に不満そうな顔をした。

「捕まえる前に殴ったら駄目か。」

「駄目。」

「少しだけ。」

「駄目。」

「主は厳しい。」

「あなたが雑なのよ。」

サトリが机の上から私の肩に飛び乗ってきた。

「ミツネ、黒いにおい。」

「強い?」

「少し強い。」

「近い?」

「うん。」

「じゃあ、急ぐ。」

私は狐面の位置を直し、部屋を出た。

廊下には、すでにルークが来ていた。

悠真とエリシアも一緒だ。

悠真は剣の柄に手を置いている。

でも、握りしめすぎてはいない。

前に飛び出す顔でもない。

「ミツネさん。」

悠真が言った。

「俺も行きます。」

「何をしに?」

私はいつものように訊いた。

悠真は少しだけ息を整える。

「排水口の周りの兵が動きそうになったら止めます。」

「それと、何か見えたり聞こえたりしたら、すぐ言います。」

「倒しに行くんじゃない?」

「違います。」

「逃げ道を塞ぐ必要があれば、指示を待ちます。」

よし。

悪くない。

「合格。」

悠真は少しだけ表情を緩めた。

エリシアも静かに頷く。

「私も清めの結界を薄く張ります。」

「強くやりすぎないで。」

「はい。」

「今回は、祓うより囲う。」

「承知しています。」

ルークが短く言った。

「現場の兵には、触るな、近づくな、見たものを報告しろと指示してある。」

「良い判断。」

「お前に褒められるとは、まだ慣れないな。」

「慣れて。」

「努力する。」

こういう軽いやり取りができるくらいには、砦の空気も少しだけ戻ってきている。

でも、油断はできない。

敵が本格的に力で攻めてくる前に、こちらの穴を調べているのだとしたら、ここからが面倒だ。

東側の小排水口は、砦の外壁に近い場所にあった。

普段なら、誰も気にしないような小さな石組みの穴。

雨水や洗い水を外へ逃がすための出口らしい。

その手前で、若い兵が二人、距離を取って立っていた。

顔色は悪い。

けれど、勝手に近づいてはいない。

「報告したのはあなた?」

私が訊くと、片方の兵が背筋を伸ばした。

「はい。」

「何を見た?」

「排水口の奥で、水が一瞬、黒く跳ねました。」

「黒い水?」

「はい。」

「魚のようにも見えました。」

「触った?」

「触っていません。」

「覗き込んだ?」

「近づこうとして、手順を思い出しました。」

兵は少しだけ恥ずかしそうに言った。

「それで、報告しました。」

私は頷いた。

「良い判断。」

兵は驚いた顔をした。

「良い、ですか。」

「ええ。」

「気のせいかもしれないのに報告した。」

「触らなかった。」

「一人で確かめなかった。」

「今の砦では、それが一番大事。」

兵の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。

こういうところも大事だ。

報告した人間を安心させないと、次から報告が止まる。

「ミツネ。」

サトリが肩の上で低く言った。

「いる。」

「排水口の奥?」

「うん。」

「動いてる?」

「ゆっくり。」

「何に近い?」

サトリは少し考えた。

「水。」

「鳥。」

「魚。」

「獣。」

「まとまってない。」

嫌な答えだ。

つまり、形を決めきっていない使い魔。

黒い鳥の残りか。

地下水路の黒い水を使ったものか。

あるいは、観測用に作られた小型の魔物。

どれでも面倒だ。

「ルーク。」

「分かっている。」

ルークが兵に指示を出す。

「周囲を空けろ。」

「ただし、離れすぎるな。」

「何か見えた者は、黙らず言え。」

「勝手に追うな。」

兵たちが動く。

前より遅い。

でも、丁寧だ。

それでいい。

早さより、今は崩れないことの方が大事だ。

私は排水口の前に符を三枚置いた。

水を止める符。

音を拾う符。

そして、逃げ道を狭める符。

「前鬼。」

「応。」

「出てきても、いきなり潰さない。」

「分かっている。」

「本当に?」

「半分以上は。」

「不安しかない。」

「努力はする。」

後鬼が静かに前鬼の横へ立った。

「私が止めます。」

「お願い。」

前鬼が少し不満そうにした。

でも、否定はしなかった。

エリシアが薄い清めの結界を張る。

光は弱い。

でも、排水口の周囲を丸く囲むには十分だった。

強い浄化で吹き飛ばすのではなく、こちらへ黒い水が飛ばないようにする壁。

良い。

「悠真。」

「はい。」

「あなたは右側の石段の前。」

「はい。」

「排水口から何か出て、そっちへ逃げたら塞ぐ。」

「斬る?」

「斬らない。」

「押し返す。」

「はい。」

「何か聞こえたら?」

「言います。」

「助けてと聞こえたら?」

「言います。」

「帰れると感じたら?」

悠真は一瞬だけ息を止めた。

でも、すぐに答えた。

「言います。」

「よし。」

私は排水口へ向き直った。

水音はしない。

でも、空気が湿っている。

排水口の奥で、何かがこちらを見ているような感覚がある。

黒い板の時と同じ。

ただし、あれよりずっと小さい。

小さいけれど、近い。

「出すわよ。」

私は符に指を添えた。

「流れを返せ。」

符が淡く光る。

排水口の奥で、水が一度だけ揺れた。

ぽちゃん。

今度は本物の水音だった。

でも、その後に混じる音が違う。

ぬるり。

石の上を何かが這う音。

兵の一人が息を呑む。

「見えた?」

私は訊いた。

「はい。」

兵が震える声で答えた。

「黒い、魚みたいなものが。」

「口は?」

「ありました。」

「目は?」

「多分、ないです。」

「よし。」

「よし、なのですか?」

「説明できているからよし。」

兵は困惑していた。

でも、黙り込んでいない。

それでいい。

排水口の奥から、黒い水が盛り上がった。

最初はただの水の塊だった。

それが細長く伸び、魚のような形になる。

すぐに崩れ、今度は鳥の頭のようなものが浮かぶ。

さらに四本の脚が生えかけて、小さな獣のように石の上へ這い出た。

本当に、まとまりがない。

黒い水の中に、羽と鱗と毛が混ざったような使い魔だった。

「気持ち悪い。」

私は正直に言った。

悠真が小さく頷く。

「はい。」

前鬼が嬉しそうに一歩前へ出た。

「殴っていいか。」

「まだ。」

「もう動いているぞ。」

「捕まえる。」

「動くものを捕まえるのは面倒だ。」

「だから仕事なの。」

黒い使い魔は、排水口から半分だけ出た状態で止まった。

そして、こちらを向いた。

目はない。

でも、見ている。

やっぱり、攻撃より確認。

こちらの配置を見ている。

誰が前に出るか。

誰が怖がるか。

誰が手順を崩すか。

「全員、今見えているものを言葉にして。」

私は言った。

「黒い小型の使い魔。」

ルークが答える。

「排水口から半分出ています。」

エリシアが続く。

「清めの結界に触れて、止まっています。」

悠真も言う。

「右へ逃げようとしているように見えます。」

若い兵が震えながら言った。

「水が、こっちを見ている気がします。」

「よし。」

私は頷いた。

「全員、言えた。」

黒い使い魔が、わずかに震えた。

反応を取られているのは、こちらだけではない。

こちらも、あちらの反応を見ている。

次の瞬間、使い魔の体が弾けた。

黒い水滴が周囲へ飛ぶ。

エリシアの結界に触れた水滴が、じゅ、と小さく音を立てて止まった。

「来ます。」

エリシアが言う。

「来てるわね。」

水滴の一部が、結界の内側へ入り込もうとする。

私は符を投げた。

「散るな。」

符が空中で広がり、黒い水滴をまとめて押し返す。

その瞬間、排水口の奥から声がした。

『助けて。』

短い。

弱い。

誰の声にも聞こえるような、曖昧な声。

悠真の肩が揺れた。

でも、動かなかった。

「聞こえました。」

悠真が言った。

「助けて、と聞こえました。」

「よし。」

私は言う。

「誰の声?」

「分かりません。」

「動きたい?」

「少し。」

「でも?」

「動きません。」

「右側を塞ぎます。」

「合格。」

黒い使い魔が、右へ跳ねた。

悠真は前へ突っ込まない。

剣を振り下ろさない。

代わりに、石段の前で足を開き、盾のように立った。

剣の腹を横に構える。

黒い使い魔は、その前で一瞬迷った。

その迷いが、隙になった。

「前鬼。」

「応。」

前鬼が横から踏み込む。

拳ではなく、手のひらで使い魔の進路を叩き落とした。

黒い水が石畳に広がる。

「後鬼。」

「はい。」

後鬼が印を結ぶ。

黒い水の周囲に、薄い結界の輪が浮かび上がった。

使い魔は魚のように跳ね、鳥のように羽ばたこうとし、獣のように走ろうとする。

でも、形が定まらない。

どの形にもなりきれない。

「まとまりがないわね。」

私は符を重ねる。

「あなた、攻撃用じゃなくて偵察用でしょ。」

黒い使い魔が震えた。

分かっているのかは分からない。

でも、反応した。

私は続ける。

「力で押し切るには弱い。」

「でも、逃げ足と覗き見だけは得意。」

「魔王軍って、もっと正面から来るものだと思っていたけど。」

私は符を構え直した。

「下水経由で偵察してくるとか、思ったより地味で嫌らしいわね。」

前鬼が低く笑った。

「殴れば地味ではなくなる。」

「まだ殴らない。」

「分かっている。」

本当に分かっているかは怪しい。

でも、今回はちゃんと手のひらで落とした。

かなり進歩だ。

黒い使い魔が、今度は水面のように薄く広がった。

その表面に、何かが映る。

家。

井戸。

母親。

女神像。

次々に姿形が変わっていく。

周囲の兵たちが息を呑む。

「見えたものを言え。」

ルークが即座に命じた。

「母親です。」

一人の兵が言う。

「故郷の井戸。」

別の兵が言う。

「女神像から光のようなものが。」

エリシアが言った。

「俺は、横断歩道みたいな白い線が見えました。」

悠真が言った。

よし。

全員、言葉にできている。

飲み込まれていない。

「それは本物じゃない。」

私は言った。

「本物かどうか分からないものを、勝手に本物にしない。」

「言葉にしたら、次は距離を取る。」

兵たちが一歩下がる。

悠真も下がる。

エリシアが光を少しだけ強める。

黒い使い魔が、急に動きを速めた。

結界の輪の隙間を探している。

「逃げる気です。」

後鬼が言った。

「逃がさない。」

私は袖から赤い紐を出した。

日本で使っていたものとは違う。

この世界の素材で作った、仮の捕縛具だ。

正直、出来はあまりよくない。

でも、今は文句を言っている場合ではない。

「本当に、備品の質まで一から見直したいわね。」

私は紐に符を通す。

「神様も魔王軍も雑なら、せめて現場の道具くらいまともにしてほしい。」

悠真が、こんな時なのに少しだけ笑った。

「今、それ言います?」

「今だから言うのよ。」

黒い使い魔が跳ねる。

私は符を投げた。

「縛れ。」

赤い紐が空中で伸び、黒い水の塊を囲む。

使い魔は鳥の形になって抜けようとした。

そこを前鬼が手で塞ぐ。

魚の形になって足元へ逃げようとした。

そこを後鬼の結界が止める。

獣の形になって悠真の横を抜けようとした。

悠真が剣の腹で押し返す。

斬らない。

追いかけない。

ただ、逃げ道を塞ぐ。

「今。」

私は紐を引いた。

黒い使い魔の体が、ぎゅっと小さく縮む。

水の塊が握り拳ほどの大きさになり、符の中に閉じ込められた。

まだ震えている。

でも、逃げない。

「捕獲。」

私が言うと、周囲の空気が一瞬止まった。

それから、兵の一人が小さく息を吐く。

「捕まえた、のですか。」

「ええ。」

私は符の中の黒い塊を見る。

「今回はね。」

悠真も、ゆっくり息を吐いた。

「俺、走りませんでした。」

「ええ。」

「斬りませんでした。」

「ええ。」

「逃げ道を塞げましたか。」

私は少しだけ笑った。

「かなり良かった。」

悠真の顔に、驚きと安堵が混ざった。

「かなり、ですか。」

「かなり。」

サトリが肩の上で頷く。

「勇者、今日は浮いてる。」

「またそれですか。」

「良いこと。」

悠真は少しだけ笑った。

その笑いは、前より自然だった。

ルークが捕獲された使い魔を見る。

「これで相手の痕跡を調べられるか。」

「たぶん。」

私は符を何重にも重ねる。

「ただし、油断しない。」

「これ自体が目かもしれない。」

「こちらを見返している可能性もある。」

エリシアが顔を引き締める。

「では、封印庫へ?」

「まずは仮封印。」

私は小さな陶器の壺を取り出した。

「中に入れる。」

前鬼が首を傾げる。

「壺に入るのか。」

「入れるの。」

「割れたら?」

「割らないで。」

「前鬼には持たせない方が良いかと。」

後鬼が静かに言った。

「なぜだ。」

「割るからです。」

「割らん。」

「信用がありません。」

「ひどい。」

「実績です。」

前鬼は不満そうだった。

でも、今回は誰も反論しなかった。

私は黒い使い魔を符ごと壺の中へ押し込む。

蓋をして、さらに符を貼る。

壺の中で、ぬるり、と何かが動く感触があった。

気持ち悪い。

本当に気持ち悪い。

でも、捕まえた。

それは大きい。

「ミツネさん。」

若い兵が、おずおずと声をかけてきた。

「自分が報告したから、捕まえられたのですか。」

「そうよ。」

私は即答した。

兵は目を見開いた。

「あなたが触らなかった。」

「一人で確かめなかった。」

「気のせいかもしれないと思っても報告した。」

「だから捕まえられた。」

兵の顔が少し赤くなる。

「ありがとうございます。」

「次も同じようにして。」

「はい。」

これも必要なことだ。

手順を守った人間が報われる。

それを見せないと、面倒な手順は続かない。

ルークが周囲の兵に向けて言った。

「今の通りだ。」

「報告は無駄ではない。」

「空振りでも構わん。」

「勝手に触るな。」

「勝手に追うな。」

「見たものは言葉にしろ。」

兵たちが頷く。

完璧ではない。

でも、かなり砦の空気が変わった。

昨日なら、黒い使い魔が出た時点で誰かが叫んでいたかもしれない。

水面に母親を見て、近づいた兵がいたかもしれない。

悠真が助けを求める声に反応して走ったかもしれない。

前鬼が殴り潰して、証拠ごと消したかもしれない。

今日は違った。

みんなが一度止まった。

言葉にした。

手順に従った。

その結果、捕まえた。

地味だけど、かなり大きい。

「主。」

後鬼が壺を見ながら言った。

「中に、細い記号のようなものがあります。」

「見える?」

「はい。」

「黒い板と似ています。」

「観測用?」

「おそらく。」

私は壺を耳元に近づけないように持ち上げた。

中から、水音のようなものがする。

ぽつん。

ぽつん。

でも、今はもう誘いの音ではない。

閉じ込められた音だ。

「これ、向こうへ繋がってる?」

悠真が訊いた。

「完全には分からない。」

私は答えた。

「でも、細い糸くらいは残っているかもしれない。」

「じゃあ、相手は。」

「捕まったことを知った可能性はある。」

悠真は少しだけ緊張した。

でも、すぐに頷いた。

「なら、向こうも困りますか。」

「困るでしょうね。」

私は壺を見下ろした。

「少なくとも、使い魔が戻らなかった理由を考えるはず。」

「勇者が衝動で走らなかった。」

「兵が触らなかった。」

「砦が手順を守った。」

「そして、使い魔が捕まった。」

「報告としては、向こうにとってかなり嫌だと思う。」

悠真の表情が少しだけ明るくなる。

「嫌がらせ返しですね。」

「そう。」

私は頷いた。

「正しい手順による嫌がらせ。」

ルークが呆れたように息を吐いた。

「言い方がひどい。」

「魔王軍相手なら十分丁寧よ。」

「そうかもしれんが。」

前鬼が楽しそうに笑う。

「次は殴る嫌がらせでもいいぞ。」

「それは必要になったら。」

「必要にしてくれ。」

「しない。」

サトリが壺の周りを嗅ぐ。

「におい、覚えた。」

「追える?」

「たぶん。」

「すぐ追う?」

サトリは首を振った。

「今は水が閉じてる。」

「閉じてる?」

「向こうが、引いた。」

私は壺を見る。

なるほど。

接続を切った。

使い魔が捕まったと分かって、向こう側が線を切ったのかもしれない。

本当に、分かりやすいくらい逃げ足が速い。

「つまり、今すぐ逆探知は無理。」

「うん。」

「でも、匂いは残った。」

「残った。」

「十分。」

私は壺を布で包んだ。

「持ち帰るわ。」

ルークが頷く。

「排水口は?」

「封鎖。」

「ただし、完全には塞がない。」

「また来るかを見る。」

「監視対象か。」

「ええ。」

ルークは周囲の兵を見る。

「聞いたな。」

「ここは封鎖。」

「二名で監視。」

「水音、匂い、幻、全部報告。」

「勝手に対処するな。」

「触るな。」

兵たちが声を揃える。

「了解しました。」

その返事は、昨日より少し強かった。

私はそれを聞いて、小さく息を吐いた。

砦が少しずつ変わっている。

戦場で剣を振るう強さではない。

けれど、こういう敵には必要な強さだ。

面倒を面倒なまま受け止める強さ。

気のせいかもしれないことを報告できる強さ。

勇者を一人で走らせない強さ。

「ミツネさん。」

悠真が言った。

「今日のは、勝ちですか。」

私は少し考えた。

「小さい勝ち。」

「小さいんですね。」

「大勝利ってほどじゃない。」

「でも、初めて相手の手を捕まえた。」

「それは大きい。」

悠真は頷いた。

「小さいけど、大きい。」

「そう。」

「分かりにくいですね。」

「現実はだいたいそう。」

悠真はまた少し笑った。

今度は、ちゃんと笑えた。

それで十分だ。

私は壺を抱え直し、砦の中へ戻る。

背後の排水口からは、もう水音はしない。

けれど、静かな石組みの奥に、何かがこちらを避けた気配だけは残っていた。

向こうは見ていた。

こちらも見た。

そして今夜、こちらは一つ捕まえた。

次は、これを調べる。

黒い水の使い魔。

魔王軍側の観測の痕跡。

勇者が走らなかった証拠。

砦が手順を守れた証拠。

材料は揃ってきた。

もちろん、面倒も増えた。

本当に増えた。

でも、今度の面倒は少し違う。

ただ押しつけられた面倒ではない。

こちらから相手を見返すための面倒だ。

「戻るわよ。」

私は言った。

「捕まえたものを、今度はこちらが見る番。」

サトリが得意げに尻尾を揺らす。

「見る番。」

「ええ。」

私は狐面の位置を直した。

「魔王軍がどこまで見ていたのか。」

「何を知りたがっていたのか。」

「何を見られたら困るのか。」

「一つずつ確認する。」

悠真が頷いた。

エリシアも。

ルークも。

前鬼は少し物足りなさそうだった。

後鬼は静かに壺の封印を確認している。

砦の空は、夕方に近づいていた。

井戸は封鎖されたまま。

水桶の確認は続いている。

排水口には新しい見張りが立つ。

地味な手順ばかりだ。

でも、その地味な手順が、今夜は使い魔を捕まえた。

勇者が走らなかったから。

兵が報告したから。

神殿が結界を薄く張ったから。

前鬼が殴らず、後鬼が囲ったから。

みんなが、一度止まったから。

私は壺の中でかすかに揺れる黒い水を見下ろした。

「今夜は、こちらの勝ち。」

小さくそう呟く。

壺の中で、黒い水が一度だけ震えた。

まるで、その言葉が向こう側に届いたみたいに。

私は少しだけ笑った。

届いたなら、ちょうどいい。

面倒を押しつけてきた分。

こちらの面倒さも、少しは味わえばいい。

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