第49話 見られていた砦
井戸はまだ封鎖中。
祈りの間も制限中。
水の配布も確認制のまま。
地下水路から持ち帰った黒い板は、布と符で何重にも包んで、指揮室の机に置いてある。
見た目だけなら、ただの怪しい荷物だ。
いや、怪しい荷物にしか見えない時点で十分に問題なのだけれど。
中身は、もっと問題だった。
魔王軍側の斥候記号に近い線。
水の反応を集めていたらしい跡。
勇者を示すような印。
それから、悠真の記憶に触れてきた現象。
曖昧なまま放っておけば、砦の中に余計な疑いが増える。
水より厄介なものが流れる。
噂だ。
噂は本当に面倒くさい。
流れた先で勝手に濁る。
尾ひれがつく。
いつの間にか、誰かを悪者にしている。
だから、昼前に会議を開くことになった。
場所は砦の指揮室。
集まったのは、ルーク、ガルド、エリシア、リリア。
それから隊長格が数人。
悠真も同席している。
本人は少し疲れた顔をしていたけれど、椅子には座っている。
前のように、すぐ立ち上がれる位置ではない。
それだけでも、少し変わったと私は思う。
前鬼と後鬼は扉の近くでこちらを見ている。
サトリは机の端で丸くなっていた。
ただし、眠ってはいない。
鼻だけは、ずっと何かを探すように動いている。
「では、始めるぞ。」
ルークが短く言った。
「地下水路で確認されたものについて、ミツネ殿から説明を受ける。」
全員の視線が一斉に私へ向いた。
嫌な注目だ。
でも、ここで濁すと、もっと嫌なことになる。
私は机の上に、黒い板を包んだ布を置いた。
直接は見せない。
見せる必要がある部分だけ、符越しに反応を映す。
「まず、結論から言うわ。」
私は言った。
「今回の件は、神殿側が敵だと断定するものではない。」
エリシアの肩が、ほんの少しだけ動いた。
リリアも息を呑む。
隊長格の何人かが、互いに目を合わせた。
やっぱり、そこを気にしていた。
「それから、女神様が魔王軍と繋がっていると断定するものでもない。」
室内の空気が少し変わる。
安心ではない。
でも、暴走しかけた疑いに、一度杭が打たれた感じがした。
「ただし。」
私は続けた。
「女神様の名前。」
「神殿の匂い。」
「祈香。」
「清めの水。」
「勇者への期待。」
「そういうものが、魔王軍側に利用されている可能性は高い。」
ガルドが腕を組んだ。
「つまり、神殿そのものが裏切ったのではなく、神殿に関わるものを魔王軍側に使われたということか。」
「今の時点では、そう見るべき。」
私は答えた。
「敵か味方かを急いで決めると、向こうの思う壺。」
「魔王軍が女神の力を使っているわけではないのだな。」
隊長格の一人が訊いた。
「分からないことは、まだある。」
私は正直に答えた。
「でも、少なくとも今見えているのは、女神様の力を奪ったとか、導きをそのまま真似たとか、そういう話じゃない。」
「では、何ですか。」
「下見。」
私は言った。
「様子見。」
「勇者がどう動くか。」
「砦がどう乱れるか。」
「神殿の名前を出された時に、人がどう反応するか。」
「それを探っている。」
少しだけ間が空いた。
私は机を指で軽く叩いた。
「つまり、女神様が雑に勇者を放り込んだ結果、その雑な運用を魔王軍に見られているってことよ。」
部屋の空気が少しだけ死んだ。
知っている。
言い方が悪い。
でも、事実はたぶんもっと悪い。
リリアが小さく咳き込んだ。
エリシアは額に手を当てかけて、ぎりぎりで止めた。
悠真は少し困った顔をしている。
「ミツネ殿。」
ルークが低く言った。
「言い方。」
「かなり柔らかくしたつもり。」
「それでか。」
「ええ。」
ガルドが小さく笑いかけて、すぐに真顔に戻った。
「だが、意味は分かる。」
「勇者がどういう存在として扱われているかを、敵に見られているわけだな。」
「そう。」
私は頷いた。
「勇者だから走る。」
「神官だから信じる。」
「清めた水だから安全。」
「女神様の名を聞いたら従う。」
「そういう雑な例外処理を、敵が拾っている。」
悠真の手が、膝の上で少し握られた。
けれど、彼は立ち上がらなかった。
口も挟まなかった。
それでいい。
「魔王軍は、本来もっと力で攻めてくる相手でしょうね。」
私は続けた。
「人間を滅ぼすために来ているなら、最後は殴ってくる。」
「大軍で来るか、魔物で押すか、砦を壊しに来るか。」
「そこはたぶん、そんなに上品じゃない。」
前鬼が扉の近くで頷いた。
「殴る敵は分かりやすい。」
「あなたは黙ってて。」
「なぜだ。」
「会議が壊れるから。」
前鬼は不満そうに鼻を鳴らした。
後鬼が静かにその肩に手を置く。
私は話を戻した。
「ただ、その前に見ている。」
「今の勇者が、昔の勇者と同じように動くのか。」
「砦が神殿を疑って割れるのか。」
「水を止められた兵が、どれくらい不安になるのか。」
「それを見てから、力で来るつもりかもしれない。」
ルークの表情が厳しくなる。
「本格的な攻撃の前の下見か。」
「その可能性がある。」
私は黒い板を包んだ布に手を置いた。
「地下水路の奥に、反応を拾うための中継点みたいな場所があった。」
「そこには魔王軍側の斥候記号に近いものが残っていた。」
「勇者を示すような印もあった。」
「つまり、向こうは勇者を倒すためだけに見ていたんじゃない。」
「勇者がどう動くかを見ていた。」
部屋の空気が重くなる。
悠真の手が、さらに強く握られた。
けれど、止まっている。
それだけで、今は十分だ。
ガルドが低く言う。
「勇者殿の動きが、向こうの想定と違ったということか。」
「たぶんね。」
私は答えた。
「これまで向こうは、勇者なら助けの声に反応して走ると思っていた。」
「女神様の名を出せば、迷いながらも前へ出ると思っていた。」
「誰かが苦しめば、手順より先に助けようとすると見ていた。」
「でも、今の悠真は止まった。」
「見たものを言葉にした。」
「一人で判断しなかった。」
「だから、向こうは確認を重ねている。」
悠真が小さく息を吸った。
何か言おうとして、やめた。
私は続ける。
「これは、悠真のせいで砦が狙われたという話じゃない。」
悠真の肩がわずかに揺れる。
「狙っているのは魔王軍側。」
「見ているのも魔王軍側。」
「ただ、悠真の反応が変わったことで、向こうの予定がずれた可能性がある。」
「そこは悪いことじゃない。」
ルークが隊長格を見渡した。
「つまり、勇者殿を責める話ではない。」
「そう。」
私はすぐに言った。
「責める相手を間違えたら、全部崩れる。」
その時、隊長格の一人が口を開いた。
「しかし、祈香や清めの水が使われていたなら、神殿側から漏れた可能性はあるのでは。」
室内が静まった。
エリシアの顔が少し青ざめる。
リリアは唇を噛んだ。
言いたくなる気持ちは分かる。
でも、そこを雑に進ませるわけにはいかない。
「可能性はある。」
私は言った。
隊長格の男が少し身を乗り出す。
「ならば。」
「でも、可能性があることと、神殿側が敵だと決めることは別。」
私は遮った。
「安易に対象を作らないで。」
男が言葉を止める。
私は続けた。
「考えるのが面倒だから誰かを悪者にするなら、それも魔王軍につけこまれるわよ。」
空気が少し凍った。
でも、言うべきところだ。
「神殿を疑った。」
「勇者を疑った。」
「水を止めたせいで兵が不満を持った。」
「祈香を使っただけで神官を遠ざけた。」
「そういう反応を、向こうが見ている可能性がある。」
「こちらが勝手に仲間割れすれば、敵は戦わずに済む。」
男は黙った。
怒っているというより、言いたい言葉を飲み込んでいる顔だった。
ルークが低く言う。
「今は断定ではなく確認だ。」
「疑いを持つなとは言わん。」
「だが、疑いを処罰や排除に変えるのは早い。」
ガルドも頷く。
「神殿側にも確認は必要だ。」
「だが、敵と決めて動けば砦内が分裂する。」
「そういうこと。」
私は頷いた。
「疑うな、じゃない。」
「混ぜるな、という話。」
「女神様の管理が雑だったこと。」
「神殿の物品が利用されたこと。」
「魔王軍が下見をしていたこと。」
「勇者が揺さぶられたこと。」
「全部、関係はある。」
「でも、同じものではない。」
エリシアがゆっくり顔を上げた。
「私からも、話させてください。」
ルークが頷く。
エリシアは立ち上がった。
少し緊張している。
けれど、逃げてはいない。
「神殿として、祈香や清めの水が利用された可能性は重く受け止めます。」
「保管数、使用記録、持ち出し経路は再確認します。」
「ただし、神殿の信仰そのものを盾にして、確認を拒むことはしません。」
リリアが驚いたようにエリシアを見る。
エリシアは続けた。
「祈りは、確認を怠る理由にはなりません。」
「女神様の名を聞いたから従う。」
「清められた水だから疑わない。」
「祈香の匂いがするから安心する。」
「そういう態度が、今回利用された可能性があります。」
声は少し震えていた。
でも、最後まで止まらなかった。
「だから、神殿側も手順に従います。」
「祈香は数を記録します。」
「清めの水は二名以上で確認します。」
「神官が単独で水場に近づくことも避けます。」
「神殿を守るためにも、確認を怠りません。」
沈黙が落ちた。
私は少しだけ目を細める。
良い。
かなり良い。
神殿が被害者顔だけで済ませたら、砦は二つに割れただろう。
でも、エリシアは自分たちも確認される側に立つと言った。
これなら、神殿を疑う空気は少し抑えられる。
「今の方針は正しい。」
ルークが言った。
「神殿側の協力に感謝する。」
エリシアは小さく頷いた。
「こちらこそ。」
ガルドが腕を組んだまま言った。
「それで、具体的な手順はどうする。」
「そこが本題。」
私は机の上に、簡単な図を広げた。
地下水路。
井戸。
排水口。
祈りの間。
水の配布場所。
兵の詰所。
東門。
昨日から今日にかけて、問題が起きた場所を線で結ぶ。
見た目は地味だ。
でも、線が多い。
多すぎる。
「まず水。」
私は言った。
「井戸は封鎖継続。」
「ただし、完全に無視するわけではなく、監視対象として残す。」
「水の配布は封印済みの桶から。」
「配布前に二名確認。」
「確認役は固定しすぎない。」
隊長格の一人が訊く。
「なぜ固定しないのですか。」
「確認役そのものが狙われるから。」
私は答えた。
「この人が見たなら安全、という思い込みを作らない。」
「人ではなく手順で確認する。」
男は頷いた。
「次に、祈香。」
エリシアがすぐに頷く。
「保管数を朝夕で確認します。」
「持ち出しは二名記録。」
「燃やした後の灰も回収します。」
「祈香に似た粉が出た場合は?」
「神殿だけで判断せず、ミツネ殿とルーク隊長へ報告します。」
「いい。」
私は頷いた。
「次に、排水口と地下水路。」
ルークが地図を指差す。
「東門側の入口は再封鎖。」
「兵を常時二名置く。」
「ただし、入口の前に固めすぎない。」
「少し離れて見る兵も置く。」
「近くにいる兵だけが幻を見たり、気分を悪くしたりした場合に備える。」
「良いわね。」
私は言った。
「排水口は、水が出る場所だけじゃなく、音が聞こえる場所も報告対象。」
「水音がする。」
「水がないのに水音がする。」
「誰かの声に聞こえる。」
「懐かしい感じがする。」
「そういう曖昧な報告も受ける。」
ガルドが渋い顔をした。
「兵が言いづらい内容だな。」
「だから、言いやすくする。」
私は答えた。
「水音が聞こえたら報告してよい。」
「気のせいでも怒られない。」
「これを明言する。」
「気のせいで怒られたら、次から黙るものね。」
「そう。」
「黙られる方が困る。」
ルークが隊長格に目を向ける。
「報告者を叱責しない。」
「空振りでも記録する。」
「各隊に徹底する。」
隊長格が頷いた。
「次に、悠真への声かけ。」
私は言った。
悠真が少しだけ背筋を伸ばす。
「勇者だから大丈夫。」
「勇者なら見れば分かる。」
「勇者なら女神様の声を聞き分けられる。」
「そういう言い方は禁止。」
隊長格の何人かが少し驚いた顔をした。
悠真も目を見開く。
私は続けた。
「悠真を特別扱いしないという意味じゃない。」
「でも、勇者という言葉で本人の判断を縛らない。」
「助けてくれと言う時も、状況を言う。」
「誰が。」
「どこで。」
「何に困っているのか。」
「今すぐなのか。」
「確認できているのか。」
「助けて、だけで動かさない。」
ルークが低く頷く。
「勇者殿への伝令にも手順を作る。」
「そう。」
「緊急時でも?」
「緊急時ほど。」
私は答えた。
「敵がそこを突いてくる。」
悠真が静かに言った。
「俺も、その方が助かります。」
部屋の視線が悠真に向く。
悠真は少し緊張した。
でも、口を閉じなかった。
「助けてと言われたら、今でも行きたくなります。」
「女神様の声みたいに聞こえたら、迷うと思います。」
「だから、状況を言ってもらえる方が止まれます。」
「俺が間違えて走らないためにも。」
その言葉は大きかった。
勇者本人が、自分は揺れると言った。
それは弱さの告白ではない。
手順を必要とする理由の提示だ。
私は内心で少しだけ頷いた。
良い。
本当に良い。
「勇者殿がそう言うなら、徹底する。」
ガルドが言った。
「助けを求める時ほど、状況を言え。」
「兵にも伝える。」
悠真は小さく頭を下げた。
「お願いします。」
リリアが恐る恐る口を開いた。
「あの。」
「何?」
「神殿側でも、女神様の名を使う時は、気をつけます。」
「女神様のお告げです、という言い方だけで人を動かさないように。」
エリシアがリリアを見る。
リリアは緊張しながら続けた。
「私たちがそう言うと、兵の人も信じやすいと思うので。」
「だから、何を確認したのかも一緒に言うようにします。」
私は少しだけ目を細めた。
この子も変わってきている。
怯えているだけじゃない。
自分たちの言葉が持つ重さを見始めている。
「良いわね。」
私が言うと、リリアは少し驚いた顔をした。
「え。」
「良い方針。」
「ありがとうございます。」
「ただし、言い方はエリシアと相談して。」
「はい。」
サトリが机の端で尻尾を揺らした。
「みんな、少し覚えた。」
「そうね。」
「でも、まだ穴ある。」
「言わなくていいことを言うわね。」
「大事。」
「そうね。」
私は苦笑した。
「大事。」
会議はそこから、さらに細かい手順へ移った。
夜間交代の時は、前任と後任の二人で水を確認する。
井戸の見張りは、同じ組み合わせを続けない。
排水口付近で水音を聞いた者は、必ず場所と時間を記録する。
祈香の残り香を感じた場合は、神殿だけで処理しない。
水面に何かを見た時は、飲む前に報告する。
母親でも、故郷でも、女神様でも、帰還の気配でも。
とにかく、見えたものを言葉にする。
地味だ。
本当に地味だ。
書類仕事みたいで、冒険っぽさはかなり薄い。
でも、これが一番効く。
相手がこちらの反応を見ているなら、反応を一人の中に閉じ込めない。
言葉にして、記録にして、手順に乗せる。
それだけで、動かしにくくなる。
たぶん。
いや、かなり。
「しかし。」
隊長格の一人が、少し苦い顔で言った。
「兵から不満は出るでしょう。」
「出るわね。」
私は即答した。
「水を飲むだけで確認。」
「水音を聞いただけで報告。」
「井戸に近づくな。」
「祈香も勝手に焚くな。」
「面倒に決まってる。」
「なら。」
「だから、理由を短く説明する。」
私は言った。
「水や祈香を通じた揺さぶりが確認された。」
「見間違いでも報告すれば守れる。」
「黙って飲む方が危険。」
「これだけでいい。」
ガルドが頷く。
「余計な話はしない。」
「そう。」
「魔王軍が勇者を見ている、とまで全員に言う必要はない。」
「不安を増やすだけだから。」
ルークが腕を組む。
「隊長格には共有する。」
「一般兵には手順と理由を伝える。」
「神殿への疑いを煽らない。」
「勇者殿の状態も噂にしない。」
「それでよいか。」
「ええ。」
私は頷いた。
「あと、噂が出たら止める。」
「神殿が敵だ。」
「勇者が呪われた。」
「女神様が見捨てた。」
「そういう言葉は、敵にとって餌になる。」
ガルドが鼻を鳴らした。
「噂まで敵の餌か。」
「そう。」
「面倒な敵だな。」
「面倒な敵なのよ。」
「だが、分かった。」
ガルドは隊長格を見た。
「兵には、敵は水や噂を使って揺さぶってくる、と伝える。」
「それ以上の話を勝手に広げるな。」
隊長格が頷く。
これで、少なくとも方針はできた。
完璧ではない。
穴はまだある。
でも、穴があると分かった上で、まず布を詰めた。
板を打った。
落ちないように看板も立てた。
それくらいの進歩だ。
会議が終わりに近づいた頃、悠真が小さく手を上げた。
「俺からも、一ついいですか。」
ルークが頷く。
「言ってくれ。」
悠真は少しだけ迷った。
それでも、前を向いた。
「もし、俺がまた何かを見たり聞いたりして動きだしたら、止めてください。」
「俺が大丈夫と言っても、確認してください。」
「たぶん、自分だけだと分からない時があります。」
室内は静かだった。
勇者本人が、自分を止めてくれと言っている。
以前なら、弱音と受け取られたかもしれない。
でも今は違う。
少なくとも、この部屋の中では。
ルークが答えた。
「分かった。」
ガルドも頷く。
「必要なら止める。」
エリシアが静かに言う。
「一人にはしません。」
リリアも小さく頷いた。
悠真は少しだけ息を吐いた。
その表情を見て、私は思った。
これも相手に見せたい反応だ。
勇者が一人で抱え込まない。
地味だけど、かなり強い。
「良いわね。」
私は言った。
「今日の会議で一番大事なのは、そこかもしれない。」
悠真が驚いたように見る。
「俺の話がですか?」
「そう。」
「敵は、あなたを一人で動かしたい。」
「助けてと言えば走る。」
「帰れると言えば揺れる。」
「女神様の声なら従う。」
「そういう反応を期待している。」
私は机の上の黒い板を見る。
「でも、あなたが自分から止めてくれと言えるなら、敵はあなたを一人で動かしにくくなる。」
悠真は黙った。
その目に、少しだけ力が戻る。
「一人で強くなる必要はない。」
私は続けた。
「手順で強くなればいい。」
「周りを使えばいい。」
「報告すればいい。」
「それが今の戦い方。」
ガルドが少し笑った。
「勇者らしくはないな。」
「勇者らしいって何?」
私は即座に返した。
「剣を抜いて走ること?」
「一人で全部背負うこと?」
「女神様に言われたら疑わず進むこと?」
ガルドは肩をすくめた。
「悪かった。」
「分かればいい。」
ルークが少しだけ口元を緩めた。
リリアは小さく笑っていた。
エリシアも、少しだけ表情を緩める。
重い会議だった。
でも、空気が完全に沈みきってはいない。
それは悪くなかった。
会議の最後に、ルークが決定事項を読み上げた。
井戸の封鎖継続。
水の配布確認。
祈香と清めの水の管理強化。
排水口と地下水路の監視。
夜間交代時の確認手順。
水音、懐かしさ、妙な安心感の報告。
勇者への伝令手順。
噂の抑制。
神殿との共同確認。
ひとつひとつは地味だ。
でも、必要なものばかりだった。
砦が急に強くなった、なんて綺麗な言い方はしない。
水を飲むにも、祈香を焚くにも、勇者を呼ぶにも、確認事項が増えただけだ。
でも、それで誰かが勝手に走らずに済むなら、増えた手間にも意味はある。
会議が終わると、隊長格たちはそれぞれ持ち場へ戻っていった。
リリアはエリシアと一緒に、神殿側の記録を確認しに行く。
ガルドは兵への説明を引き受けた。
ルークは黒い板の保管場所を決めるため、後鬼と話している。
悠真は少しだけ椅子に座ったままだった。
私は近づく。
「疲れた?」
「はい。」
「正直でよろしい。」
「でも、少し楽です。」
「どうして?」
悠真は机の上の地図を見る。
「俺だけじゃない感じがしたので。」
「それは大事。」
「はい。」
悠真は小さく笑った。
「勇者なのに、止めてくださいって言うのは情けないかと思いました。」
「情けなくない。」
私は答えた。
「止めてと言える人間の方が、勝手に走る勇者よりずっと厄介よ。」
「敵にとって?」
「そう。」
「あと、私にとっても少し楽。」
「ミツネさんにとっても?」
「毎回首根っこを掴むのは面倒だから。」
悠真は少しだけ笑った。
ちゃんと笑えた。
それで十分だ。
サトリが机から飛び降り、悠真の足元を一周した。
「勇者、今日、沈んでない。」
「え?」
「少し浮いてる。」
「それは、いい意味ですか?」
「たぶん。」
悠真は困った顔で私を見る。
私は肩をすくめた。
「サトリ語はだいたい感覚。」
「でも、悪くない時は悪くない。」
「なるほど。」
悠真はサトリに小さく頭を下げた。
「ありがとう。」
サトリは得意げに尻尾を立てた。
「もっと褒めていい。」
「えらい。」
「もっと。」
「えらいです。」
「よし。」
本当に、この式神は遠慮がない。
でも、空気が少し緩んだ。
こういう緩みは必要だ。
私は黒い板を包んだ布へ視線を向けた。
相手は、こちらの様子を見ている。
砦を見ている。
勇者を見ている。
神殿を見ている。
水と祈りと記憶の間にある穴を見ている。
けれど、こちらも見た。
相手がどこを見ているのか。
何を知りたがっているのか。
何を材料にしているのか。
まだ全体は見えない。
でも、ひとつははっきりした。
見られていることを知る。
一人で反応しない。
言葉にする。
記録する。
手順に乗せる。
地味だ。
派手な魔法より、ずっと地味だ。
でも、今の砦にはそれが必要だった。
「ミツネ殿。」
ルークが声をかけてきた。
「黒い板は、封印庫に置く。」
「神殿の封印庫?」
「いや、砦側の武器庫の奥だ。」
「神殿だけに預けると、余計な疑いが出る。」
「砦だけで持つと、神殿側が疑われたままになる。」
「だから、保管は砦。」
「封印確認は神殿と共同。」
私は少しだけ目を細めた。
「良い判断。」
「お前に言われると、少し不安になるな。」
「褒めてるのに。」
「分かりにくい。」
「今のは分かりやすかったでしょ。」
ルークは小さく息を吐いた。
「まあ、そうだな。」
本当に、少しずつ変わっている。
砦も。
悠真も。
エリシアも。
ルークも。
たぶん、私も。
指揮室の外では、兵たちが動き始めていた。
水桶の確認。
井戸の見張り交代。
排水口の確認。
祈香の保管。
どれも地味だ。
でも、昨日までとは違う。
ただ命令に従っているだけではない。
何を守るための手順なのか、少しずつ理解し始めている。
それが続けば、この砦は簡単には崩れない。
たぶん。
「主。」
後鬼が静かに言った。
「次に仕掛けがあるとすれば、手順そのものを崩しに来る可能性があります。」
「でしょうね。」
「兵が面倒がる。」
「誰かが近道をする。」
「勇者様なら例外だと言う。」
「神官だから大丈夫だと言う。」
「そういうところを突かれる。」
「はい。」
私は窓の外を見た。
井戸の周囲には兵がいる。
ただし、固まりすぎていない。
少し離れた場所にも見張りがいる。
水桶の近くでは、二人組が確認をしている。
その横に、悠真の姿はない。
今日は休ませる。
それも手順だ。
勇者を便利な確認係として使い潰すのは違う。
「次は、向こうも変えてくるわね。」
私は呟いた。
「はい。」
「こちらが止まった。」
「砦が割れなかった。」
「神殿も逃げなかった。」
「勇者も一人で走らなかった。」
「それを見たなら、別の手を使う。」
「どのような手でしょうか。」
「分からない。」
私は正直に答えた。
「でも、たぶん試してくる。」
「新しく決めた手順が、本当に守られるか。」
「勇者が本当に走らないか。」
「神殿への疑いが本当に広がらないか。」
「それを確認しに来る。」
後鬼は静かに頷いた。
「では、次は捕らえる準備ですね。」
「そうね。」
私は黒い板を包んだ布を見る。
「見られているだけで終わるのは、そろそろ癪だし。」
サトリが耳を立てた。
「捕まえる?」
「できればね。」
「サトリ、におい覚えた。」
「えらい。」
「もっと。」
「えらいえらい。」
「雑。」
「あなたにだけは言われたくない。」
サトリは満足そうに丸くなった。
私は小さく息を吐く。
会議は終わった。
手順は決まった。
砦は少しだけ落ち着いた。
けれど、終わりではない。
見られていた砦が、ようやく見返す準備を始めただけだ。
窓の外で、封鎖された井戸の周囲を兵が歩く。
水音はしない。
でも、見えないどこかで、こちらを測っている気配はまだ残っている。
なら、次はこちらが測る番だ。
面倒でも。
地味でも。
一つずつ。
その手順だけは、絶対に崩さない。




