第48話 勇者の反応
黒い板を回収し、私たちは地下水路を砦に向けて戻っていた。
背後にある小部屋から、水音はもう聞こえない。
けれど、音が消えたから安全になったわけではない。
むしろ、相手が黙った時ほど嫌な感じがする。
反応を取れないと分かったから引いたのか。
別の反応を待っているのか。
それとも、こちらが安心するのを待っているのか。
考えれば考えるほど面倒なことばかりだった。
本当に、この世界は面倒の出し方だけは丁寧だ。
「主。」
後鬼が黒い板を包んだ布を抱えながら、静かに言った。
「板の反応が、まだ完全には消えていません。」
「どのくらい?」
「弱いです。」
「ただ、動いています。」
「動いている?」
「はい。」
「こちらを追っているというより、誰かを探しているような反応です。」
嫌な言い方だった。
私は足を止めた。
前を歩いていた前鬼も止まる。
ルークがすぐに周囲を見る。
エリシアは祈具へ手を添えた。
悠真は、少し遅れて立ち止まった。
その顔を見て、私は眉を寄せる。
「悠真。」
「はい。」
「今、何か感じた?」
悠真はすぐに答えなかった。
それが答えでもあった。
「……音がしました。」
「水音?」
「違うと思います。」
悠真は地下水路の奥を見た。
「でも、水音みたいでした。」
「どこから?」
「奥から。」
「さっきの小部屋?」
「いえ。」
悠真は首を横に振った。
「もっと、遠くです。」
「でも、近い気もします。」
その言い方が引っかかった。
遠いのに近い。
外から来ているようで、内側から聞こえている。
水を使った仕掛けと同じだ。
「動かない。」
私は短く言った。
悠真は頷いた。
「はい。」
ちゃんと止まっている。
足は前に出ていない。
目は揺れている。
けれど、止まっている。
それでいい。
「何が聞こえるか、言葉にして。」
「はい。」
悠真はゆっくり息を吸った。
「水の音です。」
「でも、地下水路の音じゃありません。」
「もっと、別の場所の音です。」
「場所は分かる?」
「分かりません。」
悠真は唇を噛んだ。
「ただ、懐かしい感じがします。」
懐かしい。
また来た。
水面に母親を見た兵。
故郷の井戸を見た兵。
帰れる気がした兵。
相手は、喉の渇きだけではなく、人の心の奥にあるものを引っかけてきている。
「悠真。」
「はい。」
「見える?」
悠真は少しだけ目を伏せた。
「……少し。」
エリシアの顔が強張る。
ルークも剣の柄に手をかけた。
私は手で制する。
まだ斬る段階じゃない。
今必要なのは、止まること。
そして、言葉にすることだ。
「何が見える?」
「道です。」
「石の道?」
「いえ。」
悠真の声が小さくなる。
「黒い道です。」
「白い線があります。」
「横断歩道?」
私が言うと、悠真は驚いたようにこちらを見た。
「はい。」
「それから?」
「信号があります。」
「赤です。」
「車の音がして。」
「雨が降っていて。」
悠真の呼吸が浅くなった。
私は一歩近づく。
「今、地下水路にいる。」
「はい。」
「足元は石。」
「はい。」
「周りにいるのは、私、エリシア、ルーク、前鬼、後鬼、サトリ。」
「はい。」
「見えているものを追わない。」
「はい。」
悠真は答えている。
聞こえている。
まだ戻れる。
「続けて。」
私は言った。
「見えるものを、外に出して。」
悠真は震える息を吐いた。
「車が、止まらなくて。」
「音が大きくなって。」
「誰かが叫んで。」
「俺は、動けなくて。」
言葉が途切れる。
地下水路の冷たい空気の中で、悠真だけが別の場所を見ている。
元の世界。
交差点。
事故。
たぶん、悠真がこの世界へ来るきっかけになった場所。
私は奥歯を噛んだ。
召喚した側が、こういう記憶の扱いを何も説明していなかったことに腹が立つ。
異世界へ勇者を呼ぶなら、せめて本人の精神状態くらい確認しろ。
召喚した側の一方的な都合や説明不足のせいで、今こっちが情緒の後始末までしている。
本当に、女神の管理内容を見てみたい。
たぶん、綺麗な言葉で一行だけ書いてある。
勇者を異界から召喚し導くこと。
それで済ませていたら、あとで本気で苦情を入れる。
なにより、呼び出すほうの世界の神に許可は取れているのかも疑問だ。
「ミツネ殿。」
エリシアが小さく呼ぶ。
「今、何が起きているのですか。」
「悠真の記憶に触ってる。」
私は短く答えた。
「正確には、記憶そのものを取り出しているというより、悠真が反応しやすい場所を水音で叩いている感じ。」
「それは、女神様の導きでは。」
「違う。」
私は即答した。
「これは導きじゃない。」
「導くなら、本人を壊さないための手順がいる。」
「これは反応を見ている。」
「悠真が何を見て、どう動くかを測っている。」
エリシアは唇を引き結んだ。
ルークの声が低くなる。
「魔王軍の観測か。」
「たぶん。」
「ただし、これもまだ断定はしない。」
「でも、女神様本人の導きとして扱うのは危ない。」
「分かった。」
ルークはそれ以上言わなかった。
助かる。
「悠真。」
私はもう一度呼んだ。
「はい。」
「次に何が見える?」
悠真は目を閉じかけて、すぐに開いた。
閉じるなと言う前に、自分で戻した。
いい。
「家です。」
「自分の家?」
「たぶん。」
「でも、はっきり見えません。」
「玄関の灯りだけが見えて。」
「誰かが待っている気がします。」
「誰かって?」
「分かりません。」
悠真の声がかすれた。
「でも、帰れる気がします。」
空気が重くなった。
元の世界に、帰れる。
その言葉は、悠真にとって刃物みたいなものだ。
勇者。
召喚。
女神様。
魔王軍。
この世界では色々な名前をつけられているけれど、悠真は元の世界から連れてこられた人間だ。
帰りたいと思うのは当然だ。
帰れるかもしれないと言われて揺れるのも当然だ。
それを利用する相手が、最悪なだけだ。
「行きたい?」
私は訊いた。
悠真はすぐに答えなかった。
誤魔化さなかった。
そこも大事だった。
「行きたいです。」
「うん。」
「帰れるなら、帰りたいです。」
「うん。」
「でも。」
悠真は拳を握った。
「今、見えているものが本物か分かりません。」
「はい。」
「分からないまま、動いたら駄目だと思います。」
「はい。」
「だから。」
悠真は顔を上げた。
目は潤んでいた。
でも、足は動いていなかった。
「俺は、動きません。」
私は少しだけ息を吐いた。
よかった。
本当に、よかった。
勝ったわけじゃない。
揺れていないわけでもない。
でも、動かなかった。
それは大きい。
「合格。」
私が言うと、悠真は少しだけ顔を歪めた。
「今ので、合格なんですか。」
「合格。」
私ははっきり言った。
「今のは、勝ったわけじゃない。」
「怖くなくなったわけでもない。」
「帰りたい気持ちが消えたわけでもない。」
「でも、衝動で動かなかった。」
「見えたものを言葉にした。」
「自分一人で判断しなかった。」
「それで十分。」
悠真の肩から、少しだけ力が抜けた。
「……よかった。」
その声は小さかった。
本当に小さかった。
でも、地下水路の中でははっきり聞こえた。
サトリが私の肩の上で、耳をぴんと立てた。
「ミツネ。」
「何。」
「におい、変わった。」
「悠真?」
「うん。」
「どう変わった?」
「沈んだけど、流されてない。」
また感覚的な言い方だ。
でも、今はなんとなく分かる。
悠真は沈んだ。
自分の記憶に触れられて、揺れた。
けれど、流されてはいない。
「良い表現ね。」
私が言うと、サトリは得意げに胸を張った。
「もっと褒めて。」
「あとで。」
「またあとで。」
「今は本当にあとで。」
水路の奥から、また音がした。
ぽつん。
今度は、さっきより遠い。
悠真は反応した。
でも、動かなかった。
「聞こえた?」
「はい。」
「何に聞こえた?」
「今度は、声の前みたいでした。」
「声にはなった?」
「なっていません。」
「何か言われそうだった?」
悠真は少し考える。
「名前を呼ばれそうでした。」
「誰の声で?」
「分かりません。」
「でも、聞きたくなりました。」
「それも言えた。」
私は頷いた。
「距離を取る。」
「はい。」
悠真が一歩下がる。
私がその前に出る。
後鬼が黒い板をさらに布で包み直す。
エリシアが薄い結界を重ねる。
ルークが入口側を固める。
前鬼は奥を睨んでいる。
「前鬼。」
「応。」
「追わない。」
「まだ何も言っていない。」
「言う前に顔で分かる。」
「なら聞く。」
前鬼は低く言った。
「奥にいるもの、殴らなくていいのか。」
「今はだめ。」
「なぜだ。」
「向こうが何を見たいか、まだ分かってない。」
「殴れば分かるかもしれん。」
「分かる前に、分からなくなることもある。」
前鬼は納得しきっていない顔をした。
でも、止まった。
今日はそれで十分だ。
「後鬼。」
「はい。」
「黒い板の反応は?」
「弱まっています。」
「悠真への反応は?」
「まだ少し。」
「切れる?」
「完全に切ると、板が割れるかもしれません。」
「割れるのは困る。」
「はい。」
「なら、薄く塞ぐ。」
「承知しました。」
後鬼が黒い板の包みの上から、指先で印を結ぶ。
私は符を重ねる。
エリシアが祈具の光を細く解放する。
三つの力が重なり、板の中で揺れていた黒い水の反応が少しずつ弱まっていく。
ぽつん。
最後に、もう一度だけ音がした。
でも、今度は水音ではなかった。
何かが遠ざかる音だった。
水の奥へ引いていく。
通路のさらに向こう。
地下のどこか。
あるいは、この水路とは別の場所へ。
「逃げた?」
ルークが訊く。
「撤退した、の方が近いかも。」
私は耳を澄ませた。
もう何も聞こえない。
「こちらが反応しないと分かって、引いた。」
「あるいは、悠真が前と違う反応をしたから、持ち帰った。」
「持ち帰った?」
悠真が訊く。
「情報として。」
私は答えた。
「勇者が走らなかった。」
「帰れる幻を見ても、動かなかった。」
「名前を呼ばれそうになっても、報告した。」
「相手にとっては、かなり重要な反応だと思う。」
悠真は少しだけ目を伏せた。
「見られてたんですね。」
「ええ。」
「でも。」
私は続けた。
「見られて困る反応だけじゃない。」
悠真が顔を上げる。
「あなたが自分で考え止まったことも、見られた。」
「それは、悪いことじゃない。」
「向こうが今までの勇者みたいに動くと思っていたなら、予測は少しずれる。」
「ずれる。」
「そう。」
私は黒い板を見る。
「観測してくる相手には、その観測結果を狂わせるのも手よ。」
ルークが低く笑った。
「勇者が突撃しないことが、相手への対抗になるわけか。」
「ええ。」
「地味だけど。」
「地味だな。」
「でも、大事。」
悠真は小さく息を吐いた。
「俺、戦ってないのに。」
「戦ってるわよ。」
私は即答した。
「剣を振るだけが戦いじゃない。」
「衝動で走らない。」
「見えたものを言葉にする。」
「一人で抱え込まない。」
「それも今は、立派な戦い。」
悠真は黙った。
その顔は、少し泣きそうにも見えた。
でも、無理に笑おうとはしていなかった。
それでいい。
「ミツネ殿。」
エリシアが静かに言った。
「悠真様に見えたものは、記録した方がよいですね。」
「そうね。」
「ただし、扱いは慎重に。」
私は悠真を見る。
「全部を晒す必要はない。」
「はい。」
「でも、何が引き金になったかは残す。」
「横断歩道。」
「事故の音。」
「家の灯り。」
「帰れる感覚。」
「名前を呼ばれそうな気配。」
悠真の表情が少し強張る。
私は続けた。
「書きたくないところは、後で相談して。」
「無理に全部出さなくていい。」
「ただ、自分の中だけに閉じ込めない。」
「はい。」
「閉じ込めると、次にまたそこを突かれる。」
悠真はゆっくり頷いた。
「分かりました。」
ルークが周囲を確認する。
「ここに長居しない方がいい。」
「同感。」
私は符を回収した。
「今日の収穫は十分。」
「黒い板。」
「勇者の印。」
「地下水路の中継点。」
「そして、悠真への反応。」
「嫌なものばかりね。」
サトリがこくこく頷いた。
「嫌なもの、いっぱい。」
「でも、見つけた。」
「見つけたのは良いこと。」
「そう。」
私はサトリの頭を軽く撫でた。
「えらい。」
「もっと。」
「地上に戻ったら。」
「またあとで。」
「今度は本当。」
「ほんと?」
「たぶん。」
「たぶん。」
サトリは不満そうだった。
でも、尻尾は少し揺れていた。
私たちは地下水路を引き返した。
今度は、誰も水音に引っ張られなかった。
奥から何も聞こえない。
それが逆に不気味だった。
相手が消えたのではない。
たぶん、引いた。
反応を持ち帰るために。
地下から地上へ出ると、朝の光が眩しかった。
湿った空気から抜け出したせいで、外の風が妙に冷たく感じる。
岩場の外にいた兵が、こちらを見る。
ルークが短く指示を出した。
入口の封鎖強化。
周辺の足跡保存。
黒い板の搬送経路の確保。
そして、地下水路への再侵入禁止。
言葉が短い。
でも、手順は明確だった。
良い。
少しずつ、砦も変わっている。
「悠真。」
私は岩場から少し離れたところで声をかけた。
「はい。」
「今、自分で歩ける?」
悠真は一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、自分の足元を見た。
「歩けます。」
「無理してない?」
「少し無理はしてます。」
「正直でよろしい。」
「でも、歩けます。」
「なら、ゆっくり戻る。」
「はい。」
エリシアが悠真の隣に並んだ。
「悠真様。」
「はい。」
「先ほどの記録は、私も一緒に整理します。」
「でも。」
「神殿としてではありません。」
エリシアは静かに言った。
「一人で抱え込ませないためです。」
悠真は少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます。」
そのやり取りを見て、私は少しだけ息を吐いた。
悪くない。
女神様や神殿の名前が揺さぶりに使われた。
それでも、エリシアは神殿として逃げず、悠真の横に立とうとしている。
そこを相手に見せられたなら、それも一つの反応になる。
分断できなかった、という反応だ。
「ミツネさん。」
悠真が歩きながら言った。
「俺、さっき帰りたいって言いました。」
「言ったわね。」
「それって、駄目ですか。」
「駄目じゃない。」
私は即答した。
「帰りたいのは当然。」
「当然、ですか。」
「当然よ。」
私は前を見たまま言った。
「勝手に呼ばれて、勇者だと言われて、戦えと言われて、帰りたいと思うなという方が無茶。」
「でも。」
「でも、帰りたい気持ちを利用して誰かがあなたを動かそうとするなら、それは別。」
悠真は黙って聞いている。
「気持ちは悪くない。」
「利用するやつが悪い。」
「そこを混ぜない。」
悠真は、小さく頷いた。
「混ぜない。」
「そう。」
「帰りたいと思った自分を責めない。」
「ただ、その気持ちで勝手に走らない。」
「はい。」
「今日は、それができた。」
悠真は少しだけ目を細めた。
泣くのをこらえているようにも見えた。
でも、私はそれ以上言わなかった。
言いすぎると、逃げ場がなくなる。
私一人なら、元の世界へ帰れないわけではない。
けれど、それを今ここで口にする気はなかった。
今の悠真に必要なのは、帰れるかどうかの答えではない。
帰りたい気持ちを、自分だけで抱え込まないことだった。
今は、このくらいでいい。
砦の壁が見えてくる。
東門の上には、まだ警戒中の兵が立っていた。
井戸も封鎖されたまま。
祈りの間も、入室制限が続いている。
水の確認も続いている。
何も解決していない。
でも、少しずつ手順は増えている。
「主。」
後鬼が黒い板を抱え直しながら言った。
「板の反応が、また少し弱まりました。」
「悠真から離れたから?」
「それもあります。」
「もう一つは?」
「向こう側が、接続を切ったように感じます。」
「やっぱり持ち帰ったか。」
「その可能性が高いかと。」
「勇者の反応が変わったって?」
「はい。」
私は小さく息を吐いた。
相手がどこにいるのかはまだ分からない。
魔王軍のどの部隊かも分からない。
けれど、今ので確実に何かは伝わったはずだ。
勇者は以前のように走らない。
女神様の名だけでは動かない。
水面の幻だけでは飲まない。
帰還の気配にも、踏みとどまる。
それは相手にとって、面倒な変化のはずだ。
面倒だと思ってくれればいい。
こちらはずっと面倒を押しつけられているのだから、少しくらい返しても罰は当たらない。
「ミツネ。」
サトリが肩の上で言った。
「向こう、嫌がった?」
「たぶんね。」
「じゃあ、よかった。」
「そうね。」
私は狐面の位置を指先で直した。
「嫌がってくれたなら、少しは前進。」
悠真がこちらを見る。
その顔にはまだ疲れがある。
恐怖もある。
でも、地下に入る前とは少し違っていた。
自分が観測されていること。
自分が揺れること。
それでも、止まれること。
その全部を、少しだけ受け止めた顔だった。
砦の門をくぐる直前、私は地下の方角を振り返った。
もう水音は聞こえない。
けれど、あの奥で何かが引いていった感覚だけは残っている。
次は、向こうもやり方を変えてくる。
勇者の反応が変わったと知ったなら、別の揺さぶりを考えるはずだ。
帰還。
救助。
女神。
神殿。
家族。
材料はいくらでもある。
本当に嫌になる。
でも、こちらにも材料はある。
悠真は止まれた。
エリシアは逃げなかった。
ルークは手順を作れる。
兵たちも少しずつ報告を覚えている。
前鬼は三割くらい止まれる。
後鬼はかなり止められる。
サトリはよく嗅げる。
悪くない。
まだ穴だらけだけれど、穴を見つける目は増えてきた。
「戻るわよ。」
私は言った。
「記録する。」
「整理する。」
「それから、次の手を考える。」
悠真が頷いた。
「はい。」
その返事は、さっきより少しだけ強かった。
勇者の反応。
相手が見たかったもの。
そして、こちらが選び直したもの。
地下の水音は消えた。
でも、その結果だけは残った。
勇者は走らなかった。
それだけで、今日は十分だった。




