第47話 観測する水路
砦に戻ってすぐに、私たちは排水路についての資料や文献を手分けして探し始めた。
エリシアは古い構造図を集めてくれた。
持ってきたのは、保管されていた新しい図面が三枚。
それから、端が破れた古い図面が二枚。
最後に、神殿の保管庫にあったという、湿気で波打った古い羊皮紙が一枚。
見た瞬間、私は少しだけ嫌な予感がした。
こういう時に一番大事なものほど、だいたい一番読みにくい。
本当に、資料管理まで雑すぎる。
「これは、かなり古いものです」
エリシアが羊皮紙を広げながら言った。
「今の砦になる前の排水構造が描かれています」
「今の図面には載ってない?」
「一部しか」
ルークが横から図面を覗き込む。
「東門側の排水路は、改修時に埋めたと聞いていた」
「聞いていた?」
私が言うと、ルークは苦い顔をした。
「ああ」
「確認は?」
「記録上は、封鎖済みだ」
「出たわね」
私は額に指を当てた。
「記録上」
悠真が少しだけ困ったように笑った。
「ミツネさん、その言葉にだいぶ敏感になってますよね」
「敏感にもなるわよ」
私は古い羊皮紙を手に取り、よく見る。
「記録上閉じている道が、実際には閉じてなかった」
「記録上誰も出ていない門の外に、足跡があった」
「記録上六つあるはずの祈香が、五つになっていた」
「記録上安全な水差しに、未確認の残留物が残っていた」
「そろそろ記録する担当者に反省文を書かせたいくらいよ」
サトリが机の端で小さく手を叩いた。
「記録、だめ」
「全部だめとは言ってない」
「だめなところ、多い」
「否定できないのがつらいわね」
エリシアが少しだけ苦笑した。
けれど、すぐに表情を引き締める。
「古い排水路は、東門の外側から砦の下を通り、井戸の近くを迂回して外へ抜けていたようです」
「井戸と直接繋がっていたの?」
「直接ではありません」
エリシアは指で古い線をなぞった。
「ですが、地下水が近い部分があるようです」
「つまり、水そのものの通路ではなく、気配や揺れを拾うには十分近い」
「その可能性があります」
ルークの顔が険しくなる。
「そこを使われたか」
「たぶんね」
私は地図を見た。
「ただし、まだ全部は見えていない」
「今日は奥まで行くのか」
「行く」
私は即答した。
「ただし、前回より準備して」
前鬼が少しだけ嬉しそうに腕を鳴らした。
「奥へ行くなら、今度こそ壊していいのか」
「だめ」
「なぜだ」
「調査だから」
「敵がいたら」
「その時は止める」
「止める?」
「倒す前に止める」
前鬼は本気で分からない顔をした。
「面倒だな」
「今回の仕事というか、こういう案件はだいたい面倒なの」
後鬼が静かに頷く。
「前鬼」
「なんだ」
「今回は相手の捕獲と確認が優先です」
「分かっている」
「本当に?」
「半分は」
「前回よりは進歩しましたね」
「褒められたのか?」
「半分ほど」
それでも、前鬼は少しだけ満足そうだった。
それで満足していいのかは分からない。
でも、今は細かいことを言っている場合ではない。
私たちは再び、黒い鳥の羽が落ちていた岩場へ向かった。
今回は、砦から連れてくるルーク配下の兵をさらに減らし、入口周辺には二人だけを残した。
大人数で入れば足跡が増える。
気配も増え、相手に気づかれる可能性がある。
何より、相手にこちらの動き方を余計に見せることになる。
監視されているかもしれない場所で、集団行動の見本市を魔王軍相手に開く趣味はない。
「ミツネさん」
悠真が小さく言った。
「今日は、何を見ればいいですか」
「三つ」
私は指を立てた。
「ひとつ目は、水路の構造」
「はい」
「ふたつ目は、誰かがここを使った痕跡」
「はい」
「三つ目は、自分の反応」
悠真の顔が少しだけ強張る。
「俺の反応」
「そう」
私は足を止めずに続けた。
「水音」
「助けてという声」
「家に帰れる気配」
「そういうものが来たら、まず言う」
「動く前に言う」
「見続ける前に言う」
悠真は頷いた。
「はい」
「前に出たいと思っても?」
「言います」
「助けたいと思っても?」
「言います」
「水面を見たくなっても?」
悠真は一瞬だけ黙った。
でも、逃げなかった。
「言います」
「よし」
私は短く答えた。
「今日はそれで十分」
エリシアが隣で、私と悠真のやりとりを静かに聞いていた。
彼女にも、悠真と似た部分はある。
女神様の名。
祈り。
清め。
神殿の匂い。
そのあたりを誰かに突かれた時、エリシアは悠真とは別の揺れ方をする。
でも、彼女は自分でそれを分かっている。
分かっている人間は、まだ止まれる。
一番危ないのは、自分が揺れていると認めない人間だ。
岩場の入口は、前回開けた時のまま封印してある。
私の符。
エリシアの封蝋。
それから、ルークの部隊印。
三つとも壊されてはいなかった。
「触られていない?」
ルークが訊く。
「表面はね」
私はしゃがみ込んだ。
「サトリ」
「うん」
サトリが入口の周りを嗅ぎ回る。
「人、来た」
「いつ?」
「昨日のあと」
「封印に触った?」
「触ってない」
「見ただけ?」
「たぶん」
見ただけ。
つまり、こちらが入口を見つけたことを確認しに来た可能性がある。
本当に嫌な相手だ。
近くにいる。
でも、無理に触らない。
こちらの反応を見るために、わざと痕跡を残すこともある。
わざと痕跡を消すこともある。
考えれば考えるほど面倒だ。
「入るわよ」
私は短く言った。
前鬼が先に下りる。
次に後鬼。
私。
悠真。
エリシア。
ルーク。
前回と同じ順番だ。
地下の空気は、前より少し冷たく感じた。
足元の浅い水が、灯符の光を細く反射している。
水路の壁は古い石組み。
ところどころ苔が剥がれ、そこだけ不自然に新しい傷がある。
「前回より静かですね」
悠真が囁く。
「そうね」
私は足元を見ながら答えた。
「静かなのは良いことですか」
「場合による」
「静かすぎる時は、何かが息を潜めていることもある」
「怖い言い方ですね」
「怖い場所だから」
悠真は黙って頷いた。
それでいい。
怖いのに勇者らしく平気な顔をされる方が困る。
後鬼が水面に小さな符を浮かべる。
符は沈まず、水面から少し上で止まった。
そして、ゆっくりと奥へ引かれるように揺れた。
「流れが二重です」
後鬼が言った。
「水の流れと、気の流れが違います」
「井戸側?」
「一部は」
「やっぱり予想どおりね」
私は壁に手を触れない距離で符を近づける。
墨が薄く滲む。
黒。
水色。
灰色。
前回と同じ反応だ。
「この水路は、ただの水路じゃない」
「見張られているのですか」
エリシアが訊く。
「今もかは分からない」
私は答えた。
「でも、見張られていた痕跡は残ってる」
「痕跡?」
「水の揺れ」
「足音」
「声」
「人が止まった場所」
「そういうものを拾うための痕跡」
ルークが低く言った。
「砦の中へ入らずに、動きを探っていたのか」
「可能性は高い」
「密偵が砦の中に入ったというより、外側の水路から様子を拾っていた」
「そう考える方が自然ね」
私は足を止めた。
前回見つけた横路の入口に来ていた。
狭い点検路。
壁に古い排水記号。
その上から引かれた新しい細い線。
昨日より、少しだけ色が薄くなっている気がした。
「消えかけてる?」
悠真が訊く。
「消そうとしているのか、役目を終えたのか」
私は符を近づける。
墨が滲む速度が遅い。
「反応は弱くなってる」
「では、相手が撤退した?」
エリシアが言った。
「完全には分からない」
「でも、少なくともここをそのまま使い続ける気は薄いかも」
ルークが横路を見た。
「こちらに見つかったからか」
「ええ」
「見つかった経路を、同じようには使わない」
「普通はね」
「普通ではない相手なら?」
「もっと面倒」
ルークは嫌そうな顔をした。
「聞くべきではなかったな」
「現実は聞かなくても来るわよ」
「それもそうだ」
前鬼が横路の奥を見ている。
「奥に何かある」
「動いてる?」
「いや」
「壊していい?」
「なんでそうなるの」
「動かないなら、壊せば分かる」
「分からなくなる場合もあるの」
前鬼は納得していない顔をした。
後鬼が前へ出る。
「私が確認します」
「お願い」
後鬼が横路へ入る。
その動きは静かで、ほとんど水音を立てない。
前鬼も続こうとして、私の視線で止まった。
「主は本当に目で止めるな」
「止まるなら便利」
「雑な使い方だ」
「あなたにだけは言われたくない」
サトリが小さく笑った。
横路の奥から後鬼の声が返る。
「主」
「何」
「前回の空間の奥に、さらに隠された道があります」
「隠し通路?」
「壁の一部が幻で覆われています」
私は眉を寄せた。
「幻術?」
「はい」
「前回は見えなかった?」
「水音の方へ意識が向けられていました」
なるほど。
前回の水音は、誘いではなく確認。
そう思った。
でも、もう一つ役割があったのかもしれない。
こちらの視線を奥へ向けて、横の隠し通路を見せないため。
本当に嫌な小細工だ。
「行くわ」
私は悠真を見る。
「水音がしても、横を見る」
「はい」
「目の前に見えたものだけ信じない」
「はい」
「前鬼」
「応」
「壁は壊さない」
「まだ何も言ってない」
「言う前に言った」
「理不尽だ主よ」
「あなたの行動の実績よ」
前鬼とそんなやりとりをしながら、私たちは前に進む。
横路の奥の小部屋は、前回と同じく狭かった。
黒い羽の破片があった床。
焦げた匂い。
壁の新しい線。
そこまでは同じ。
後鬼が指し示したのは、右奥の壁だった。
一見、ただの石壁にしか見えない。
けれど、私が懐から符を取り出し、灯符を近づけると、光が少しだけ歪んだように見える。
そこに壁があるように見えて、実際には奥行きを感じられた。
「雑に隠しているようで、嫌な場所にだけ丁寧ね」
私は符を一枚取り出した。
「幻を剥がす」
エリシアが祈具に触れる。
「私も補助します」
「お願い」
「ただし、祈りの力を強く出しすぎないで」
エリシアは一瞬だけ目を見開き、それから頷いた。
「分かっています」
「ここでは、神聖魔法も反応として相手に拾われるかもしれない」
「はい」
「だから、薄く」
「はい」
エリシアは小さく息を整えた。
祈具の光は、いつもよりずっと弱い。
けれど、安定している。
良い。
自分の信仰を否定せず、使い方を調整している。
これはかなり大事だ。
私は符を壁へ向けて滑らせた。
「ほどけ」
符の墨が壁に伸びる。
石壁の輪郭が、布をめくるように揺れた。
次の瞬間、壁だと思っていた場所に低い入口が現れる。
前鬼が嬉しそうに一歩出た。
「入るか」
「まだ」
「まだか」
「確認してから」
「毎回それだな」
「毎回必要だから」
入口の先を覗き込むと、さらに狭い通路だった。
自然の洞窟ではない。
完全な人工物でもない。
古い排水路を削って、後から広げたような場所。
足元の水はない。
代わりに、床が黒く湿っていて不快感さえある。
サトリが嫌そうに鼻を鳴らす。
「黒い水」
「強い?」
「薄いけど、古い」
「古い黒い水」
「うん」
私は符を床へ近づける。
墨がじわりと黒く滲んだ。
水色も混ざる。
「ここは通路じゃなくて、溜まり場ね」
「水が溜まる場所ですか」
悠真が訊く。
「水じゃなくて、反応」
私は床を見た。
「音」
「匂い」
「水面の揺れ」
「人の足音」
「そういうものが、一度ここに集められていた感じがする」
「集めて、どうするんですか」
「情報として送る」
ルークが低く言った。
私は頷いた。
「たぶん」
「ここは中継点」
「本拠地じゃない」
「でも、人間側の砦を見るための場所」
奥へ進むと、小さな丸い空間に出た。
天井は低い。
壁の中央に、黒く濡れた板のようなものが埋め込まれている。
板といっても木ではない。
石にも見える。
骨にも見える。
表面には細い記号がびっしり刻まれていた。
その下に、乾いた祈香に似た粉。
黒い羽の細片。
水差しの底に残っていたものと同じ白い粒。
全部が少しずつ置かれている。
「うわ」
私は思わず声を出した。
「気持ち悪いくらい丁寧」
悠真が顔をしかめる。
「丁寧なんですか」
「材料の置き方はね」
私は近づきすぎないようにしゃがむ。
「祈香に似た匂い」
「黒い羽」
「水の印」
「白い粉」
「全部、反応を見るための部品」
「攻撃用ではないのですか」
エリシアが訊く。
「直接の攻撃ではないと思う」
「じゃあ」
「ここに届いた反応を、整理していた」
私は黒い板を見る。
「誰が、何に反応したか」
「水音で止まったか」
「走ったか」
「勇者が動いたか」
悠真の顔が硬くなる。
私はすぐに付け足した。
「まだ推測」
「はい」
「でも、かなり嫌な推測」
「はい」
サトリが黒い板の周りを歩く。
「におい、いっぱい」
「誰の?」
「兵」
「水」
「祈り」
「勇者」
悠真が小さく息を呑んだ。
「俺の匂いも?」
「少し」
サトリは真面目な顔で頷いた。
「でも、前より薄い」
「前より?」
「動かないにおい」
悠真は困ったように私を見た。
「動かないにおいって、何ですか」
「私にも分からないけど、たぶん良いこと」
「良いことなんですか」
「走らなかったからじゃない?」
悠真は少しだけ目を伏せた。
「見られていたんですね」
「ええ」
私は黒い板を見る。
「たぶん、そこが重要」
「相手はあなたを倒すためだけに見ていたんじゃない」
「どう動くかを見ていた」
「召喚直後のあなたなら、たぶんすぐに動いていた」
「助けてと言われたら走った」
「女神様の名が出たら、疑う前に受け止めた」
「でも、今は止まる」
「報告する」
「一人で判断しない」
私は黒い板を指差した。
「その変化は、向こうから見れば異常なのよ」
悠真の拳が握られる。
「俺が変わったから」
「そう」
私は言った。
「でも、悪い意味じゃない」
「向こうが困っているなら、むしろ良い」
「困っているんでしょうか」
「少なくとも、確認したがっている」
私は黒い板を指差した。
「だから、こんな場所を使ってまで反応を拾っている」
エリシアが板の記号を見つめる。
「これは魔王軍のものですか」
「ルーク」
私は振り向いた。
ルークは壁の記号を見て、低く唸った。
「正式な軍印ではない」
「だが、魔王軍の斥候が使う暗号に近い線がある」
「斥候」
「前線の密偵が使う簡易記号だ」
「つまり、神殿の印ではない」
エリシアが静かに言った。
ルークは頷く。
「少なくとも、俺が知る限り神殿のものではない」
エリシアは小さく息を吐いた。
安心ではない。
ただ、確認できたことへの息だった。
「よかった、とは言いません」
「でも、分けて考えられます」
「そう」
私は頷いた。
「そこは分ける」
悠真が静かに言った。
「女神様の導きそのものじゃなくて、俺たちがどう反応するかを見ている……ってことですか」
私は少しだけ彼を見た。
「今は、その整理でいい」
「女神様の声かどうかを決める前に、人がその名前にどう揺れるかを見ている」
「勇者と女神様の関係を見ている」
「それを、逆手に取って戦略に使おうとしている」
ルークの顔が険しくなる。
「魔王軍が本格的に動き始めたと見るべきだな」
「ええ」
私は答えた。
「ただの嫌がらせじゃない」
「砦と勇者の反応を測っている」
「測った上で、次を選ぼうとしている」
「厄介だな」
「とても」
私は黒い板に符をかざした。
「でも、こちらも見つけた」
「ここを?」
「ええ」
「相手が見ていた場所を、こちらも見つけた」
「それは小さくない」
前鬼が壁の記号を覗き込む。
「これを壊せばいいのか」
「まだ」
「またまだか」
「記録してから」
「壊すのは?」
「その後、必要なら」
「必要なら、だな」
「私が言ってからね」
前鬼は少しだけ不満そうに頷いた。
後鬼が黒い板の周囲に符を置く。
私は記号を一つずつ写し取った。
全部は読めない。
でも、繰り返し出てくる印がある。
水を示すような波線。
門を示すような四角。
人を示す棒のような印。
そして、ひとつだけ、他より強く刻まれた印。
剣にも見える。
光にも見える。
その横に、小さな丸が三つ。
「これ」
悠真が小さく言った。
「何ですか」
「分からない」
私は正直に答えた。
「でも、たぶん重要」
ルークが記号を見て、眉を寄せる。
「勇者を示す印に似ている」
「魔王軍側の?」
「ああ」
「勇者の紋章そのものではない」
「だが、戦場で勇者を示す時に使われる略号に近い」
悠真の顔が固まった。
エリシアも息を止める。
サトリが板の前で鼻を鳴らした。
「勇者のにおい、ここ」
沈黙が落ちた。
地下の狭い空間で、その沈黙は重く響いた。
私は黒い板を見た。
勇者の印。
水の線。
門。
井戸。
祈香に似た粉。
黒い羽。
そして、観測のための中継点。
かなり繋がってきた。
繋がってきたけれど、まだ全部ではない。
ここで分かった気になったら危ない。
「悠真」
私は呼んだ。
「はい」
「今、何を考えた?」
悠真は少しだけ迷った。
それでも答えた。
「怖いと思いました」
「うん」
「俺が、ただ狙われているだけじゃなくて、調べられているのが」
「うん」
「あと、俺が今までと違う動きをしているから見られているなら」
悠真は唇を噛んだ。
「俺のせいで、砦が狙われているのかもしれないって」
「違う」
私はすぐに言った。
悠真が顔を上げる。
「狙っているのは向こう」
「あなたが考えて止まれるようになったことは、悪いことじゃない」
「むしろ、向こうの予定が崩れている可能性がある」
「だから見ている」
「はい」
「責任を感じるのは勝手だけど、背負いすぎるとまた走るわよ」
悠真は少しだけ目を見開いた。
そして、小さく頷いた。
「はい」
「怖いなら怖いと記録する」
「自分のせいだと思ったことも記録する」
「でも、それを事実として確定しない」
「はい」
「よし」
私は黒い板へ視線を戻した。
「持ち帰れる?」
後鬼が板の縁を見る。
「外せます」
前鬼が嬉しそうに手を上げる。
「任せろ」
「前鬼は待機」
「なぜだ」
「割るから」
「割らない」
「信用がまだ足りない」
前鬼は本気で不満そうだった。
後鬼が静かに板の周囲を切り離す。
私は符で反応を抑え、エリシアが薄く清めの結界を重ねる。
ルークは入口側を見張る。
悠真は私の少し後ろで、黒い板から目を離さずにいた。
「見続けすぎない」
私が言うと、悠真ははっとした。
「すみません」
「謝らなくていい」
「見たくなった?」
「はい」
「何が見えた?」
悠真は慎重に答えた。
「見えたというより」
「俺の名前を呼ばれそうな気がしました」
「名前は聞こえた?」
「いえ」
「なら、そこで止まって正解」
悠真は深く息を吐いた。
「これ、ずっと気を張ってないといけないんですね」
「ずっとは無理」
私は答えた。
「だから手順にする」
「一人で見ない」
「声がしそうなら言う」
「見たくなったら距離を取る」
「気合いより手順」
「はい」
後鬼が黒い板を外した。
その瞬間、部屋の奥で水音が鳴った。
ぽつん。
前回と同じ。
でも、今回は誰も動かなかった。
悠真も。
エリシアも。
前鬼は少しだけ肩を動かしたが、踏み出さなかった。
後鬼が静かに板を符で包む。
ぽつん。
もう一度鳴る。
私はあえて声を出した。
「聞こえた」
悠真が続く。
「聞こえました」
エリシアも言う。
「私にも」
ルークが入口から低い声で言葉を返す。
「こちらにも聞こえた」
私は頷いた。
「よし」
「全員、聞こえたことを言葉にした」
「それで十分」
水の音は、それ以上続かなかった。
まるで、反応が取れないと分かって引いたみたいに。
本当に腹が立つくらい、相手はこちらを見ている。
「撤収」
私は言った。
「今日はここまで」
前鬼が不満そうに振り向く。
「奥は」
「行かない」
「なぜだ」
「中継点を見つけた」
「板を回収した」
「勇者の印も確認した」
「これ以上進むと、相手が用意した趣向に付き合うことになる」
前鬼は少し考えた。
「試験だったら嫌だな」
「そうでしょ」
「壊していい試験ならいいが」
「そういう問題じゃない」
後鬼が板を抱え、私たちは横路を戻る。
背後でまた水音が鳴るかと思ったけれど、今度は鳴らなかった。
静かすぎる。
静かすぎるのも嫌だ。
けれど、今は戻る。
情報を持ち帰る。
整理する。
砦に伝える。
その順番を崩さない。
地上へ戻ると、朝の光は前より明るくなっていた。
岩場の外で待っていた兵たちが、緊張した顔でこちらを見る。
ルークが短く指示を出す。
入口を再封鎖。
足跡の記録。
周囲の警戒継続。
余計なことは言わない。
良い手順だ。
砦に戻る道で、悠真はしばらく黙っていた。
私は急かさなかった。
言葉にするには、少し時間が必要な時もある。
森の影を抜ける頃、悠真がようやく口を開いた。
「ミツネさん」
「何」
「俺、見られているのが怖いです」
「うん」
「でも、見られているなら、俺が止まることも見られているんですよね」
私は少しだけ彼を見た。
「そうね」
「それなら」
悠真はゆっくり言った。
「止まれるところを、ちゃんと見せた方がいいのかもしれません」
悪くない。
かなり悪くない。
私は少しだけ口元を緩めた。
「良い答え」
悠真は驚いた顔をした。
「本当に褒めました?」
「褒めた」
「分かりやすく?」
「かなり」
サトリが肩の上で頷く。
「今のは褒めた」
悠真は少しだけ笑った。
その笑いには、まだ怖さが残っている。
でも、怖さだけではなかった。
それでいい。
観測されているなら、こちらも反応を選べる。
相手が勇者の衝動を見たいなら、こちらは勇者が止まるところを見せればいい。
相手が砦の混乱を見たいなら、こちらは手順で踏みとどまるところを見せればいい。
簡単ではない。
でも、できることはある。
砦の門が見えてきた。
その向こうには、砦の生命線でもある水を管理する兵たちがいる。
祈りの間を守る人たちがいる。
そして、たぶん不安を抱えながら、それでも手順に従っている人たちがいる。
私は袖の中で、回収した黒い板を確かめた。
観測する水路。
勇者を示す印。
魔王軍側の斥候記号。
これで、少しだけ見えた。
相手は、女神の力を真似しているわけではない。
勇者と女神様の関係を見ている。
人がその名前にどう揺れるかを見ている。
水や祈りや記憶に、どんな反応を返すかを見ている。
なら、こちらも見る。
相手がどこを見ているのか。
何を知りたがっているのか。
何を恐れているのか。
面倒でも。
地味でも。
一つずつ。
私は砦へ戻りながら、小さく息を吐いた。
本当に、この世界は雑だ。
けれど、雑な穴を覗いている相手がいる。
なら、こちらは、その覗き穴ごと見つけてやればいい。




