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陰陽師朝霧、異世界にクレームをつけにいく ~勇者召喚の裏で女神が雑すぎる件~  作者: 和幸雄大


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第46話 地下へ続く水音

森の奥、黒い鳥の羽が落ちていた岩場をもう一度調べることになった。

その場で奥へ入らなかったのは、正解だったと思う。

勢いで入れば、入口を塞がれるかもしれない。

中で待ち伏せされるかもしれない。

あるいは、こちらがどれくらい不用意に動くかを見られるかもしれない。

どれも嫌だ。

本当に嫌だ。

だから一度砦へ戻り、最低限の準備をした。

水を通す符。

土の中で、他に道がないか探る符。

暗がり用の灯符。

それから、前鬼用に「勝手に壁を壊すな」と書いたわけではないけれど、そういう意味を込めた視線も用意した。

「主。」

後鬼が静かに言った。

「前鬼は、理解しております。」

「本当に?」

「半分ほどは。」

「半分か。」

前鬼は腕を組んでいた。

「壊すなと言われた。」

「そう。」

「必要なら壊していいとも思っている。」

「そこが半分なのよ。」

「必要なら必要だろう。」

「必要かどうかを私に聞いてからにして。」

「面倒だな。」

「面倒でもやる。」

前鬼は不満そうに鼻を鳴らした。

けれど、反論はしなかった。

今回はそれで十分だ。

こちらの面子は少数にした。

私、悠真、エリシア、ルーク。

前鬼と後鬼。

サトリ。

兵は二人だけ、少し離れて外側を固める。

ガルドは砦に残り、東門と井戸周辺の警戒を任された。

本人は来たそうな顔をしていたけれど、あの体格で地下へ入ると、通路より先に天井が心配になる。

もちろん、それを口に出すほど私は親切ではない。

いや、少しは親切か。

「ミツネ殿。」

ルークが東門の前で声をかけてきた。

「行けるか。」

「ええ。」

「井戸は封鎖継続。」

「水の配布も確認制。」

「祈りの間は?」

「エリシア殿の指示で、リリアと神官補佐以外は近づけていない。」

「いいわね。」

私は頷いた。

「今日は、黒い鳥の痕跡が消えた岩場の裂け目を確認する。」

「見た目は洞窟でも、中が自然洞窟とは限らない。」

「魔王軍の通路か、砦の古い構造か。」

「まだ決めない。」

ルークは小さく息を吐いた。

「分かっている。」

「助かる。」

「お前に何度も言われれば、さすがに覚える。」

「良い傾向。」

ルークは少しだけ眉を動かした。

褒めたつもりだったけれど、たぶん伝わっていない。

まあいい。

伝わらない褒め言葉は、私の得意分野だ。

悠真は黙っていた。

いつもより少し緊張している。

けれど、前に出ようとする気配はない。

手順を意識している顔だった。

「悠真。」

「はい。」

「今日は何をする?」

悠真は一度だけ呼吸を整えた。

「見ます。」

「何を?」

「この地下の通路と、水路のつながり。」

「あと、自分が何かに反応したら、すぐ言います。」

「走らない?」

「走りません。」

「水音がしても?」

「まず言います。」

「助けてと聞こえても?」

「まず言います。」

「女神様の声みたいに聞こえても?」

悠真の表情がわずかに強張る。

でも、目は逸らさなかった。

「まず言います。」

「よし。」

私は短く答えた。

「合格。」

悠真は少しだけ肩の力を抜いた。

こういう確認をいちいちしないといけないのは、正直面倒だ。

でも、しないよりずっといい。

勇者を召喚して、戦わせて、あとは本人の善意と根性で何とかしろ。

そんな雑な運用より、よほど現実的だ。

本当に、女神様の引き継ぎ資料を一度見てみたい。

たぶん白紙か、綺麗な言葉だけが並んでいる。

東門を出ると、朝の空気がまだ冷たかった。

昨夜の水騒ぎが嘘のように、森の方から鳥の声が聞こえる。

普通の鳥だ。

たぶん。

今の私は、鳥を見てもまず疑うようになっている。

生活に必要な水を疑い、鳥を疑い、祈香を疑う。

異世界生活としては、だいぶ情緒がない。

「ミツネ。」

サトリが肩の上で鼻を動かした。

「におい、残ってる。」

「黒い鳥?」

「うん。」

「強い?」

「昨日より薄い。」

「でも追える?」

「追える。」

サトリは得意げに胸を張った。

「えらい。」

「もっと。」

「帰ったら。」

「またあとで。」

「仕事が終わったらね。」

「けち。」

いつものやり取りを挟みながら、私たちは岩場へ向かった。

黒い羽が落ちていた場所は、昨日のままだ。

足跡の周囲には簡易の印が残してある。

ルークの兵が勝手に踏まないよう、外側から細い縄で囲っていた。

現場保存。

少しずつだけれど、みんなも学んでいる。

私はしゃがみ込み、土の沈みをもう一度見る。

小さな足跡。

片足だけ深く、もう片方は浅い。

人の足跡に似ているけれど、人間らしくない。

「後鬼。」

「はい。」

「下。」

後鬼が膝をつき、土に手を触れない距離で気配を探る。

しばらくして、静かに頷いた。

「やはり空洞があります。」

「深さは?」

「浅いです。」

「人が通れる?」

「入口を広げれば。」

前鬼が少し前に出た。

「広げるか。」

「待って。」

「まだ何もしていない。」

「しそうだった。」

「主は前鬼を疑いすぎではないか。」

「実績があるから。」

前鬼は黙った。

自覚はあるらしい。

私は土の上に符を一枚置いた。

墨がじわりと滲む。

黒。

水色。

そして、土の湿った匂い。

反応は強くない。

けれど、確かに下へ続いている。

「魔法で掘った穴ではなさそうですね。」

エリシアが言った。

「どう見える?」

「新しい土の乱れが少ないです。」

「砦の外壁近くの古い構造かもしれません。」

「水路?」

「可能性はあります。」

エリシアは岩場の奥を見た。

「この砦は、古い砦を増築して使っています。」

「地下の排水構造までは、すべて把握されていないかもしれません。」

「把握されていない地下構造。」

私は小さく息を吐いた。

「いい加減、その言葉が出てくるだけで頭が痛くなるわね。」

ルークが渋い顔をする。

「耳が痛い。」

「痛いだけならまだいいわよ。」

私は土の沈みを見下ろした。

「使われた通路は、痛いじゃ済まない。」

入口は、岩場の陰に開いた小さな洞窟口のように見えた。

土と草に覆われ、普通に歩いているだけなら、ただの岩の裂け目だと思って見落とすだろう。

けれど、近づいてみると自然の洞窟とは少し違った。

入口の縁に、古い石組みが残っている。

その奥には、半分割れた石蓋のようなものが斜めに沈んでいた。

後鬼が丁寧に周囲を切り出し、前鬼が不満そうにしながらも力を抑えて石をどかす。

石蓋の表面には、古い模様が刻まれていた。

魔王軍の印ではない。

神殿の印でもない。

もっと古い。

砦そのものの排水記号らしい。

「これは。」

エリシアが息を呑んだ。

「見覚えある?」

「城塞建築で使われる排水標です。」

「かなり古い形式です。」

「つまり、魔王軍が新しく掘った通路じゃない。」

「少なくとも、この入口自体は違います。」

ルークの表情がさらに険しくなる。

「砦の構造を利用されたか。」

「その可能性が高い。」

私は符を貼りながら言った。

「こちらの世界は、神殿も砦も水路も、対応や行動が雑なのよ。」

悠真が少し困った顔をした。

「それ、結構ひどい言い方ですね。」

「事実を少しだけ飾った表現よ。」

「飾ってるんですか。」

「ええ。」

「かなり棘があります。」

「棘は大事。」

私は石蓋へ視線を戻した。

「管理の隙を、綺麗な言葉だけで覆うと、誰かがそこから入ってくる。」

「今みたいに。」

誰も反論しなかった。

反論できる状況でもない。

後鬼が石蓋の隙間に短い刃を入れ、静かに持ち上げる。

湿った空気が下から上がってきた。

水。

土。

古い石。

そして、ほんのわずかな甘い焦げ臭さ。

サトリが耳を伏せる。

「ある。」

「焦げた花?」

「薄い。」

「黒い水は?」

「奥。」

嫌な答えだった。

でも、予想通りでもある。

私は入口を覗き込む。

石で組まれた狭い縦穴があり、その下に横へ続く通路が見えた。

梯子のようなものはない。

壁に足場用の凹みがある。

古い。

かなり古い。

「先に私が下りる。」

前鬼が言った。

「壊さないで。」

「下りるだけだ。」

「下りる時に壊さないで。」

「難しい。」

「難しくない。」

前鬼は不満そうにしながらも、静かに縦穴へ入った。

意外なくらい慎重だった。

数秒後、下から声が返る。

「通れる。」

「罠は?」

「殴るものはない。」

「その報告、範囲が狭い。」

後鬼が続いて下りる。

その後、私。

悠真。

エリシア。

ルーク。

順番に地下へ下りた。

地下の空気は重かった。

湿気が肌にまとわりつく。

最初は洞窟の中へ入ったように感じた。

けれど、数歩進むとすぐに分かる。

壁は自然の岩肌ではなく、古い石で組まれていた。

ところどころ苔が生え、足元には浅く水が流れている。

洞窟に見えたのは入口だけだ。

奥は、砦の外側に残された旧地下水路だった。

雨水や生活排水を逃がすための古い構造。

ただし、今は一部が詰まり、流れが歪んでいる。

「こんな場所があったのか。」

ルークが低く言った。

「知らなかった?」

「少なくとも、東門の管理図には載っていない。」

「でしょうね。」

私は足元の水を見る。

「載っていない道は、敵にとっては道になる。」

「厳しいことを言う。」

「優しく言っても隙は塞がらない。」

ルークは黙った。

怒っているわけではない。

受け止めている顔だった。

それならいい。

この人は現場側の人間だ。

痛いことを言っても、必要なら飲み込める。

そういう相手は信用できる。

「ミツネさん。」

悠真が足元を見ながら言った。

「この水も、危ないんですか。」

「危ないと思って扱う。」

「全部ですか。」

「全部じゃないかもしれない。」

私は答えた。

「でも、どこが繋がっているか分かるまでは、全部疑う。」

悠真は頷いた。

「触らないようにします。」

「靴は濡れてるけどね。」

「それは。」

「大丈夫。」

私は袖から小さな符を出して、悠真の足元に貼った。

「足元に入ってくる気配だけ止める。」

「ありがとうございます。」

「感謝はあとで。」

「はい。」

サトリが肩の上で鼻をひくつかせる。

「水、古い。」

「黒い水は?」

「まだ奥。」

「鳥の匂いは?」

「こっち。」

サトリが示したのは、水路の奥ではなく、横へ少し曲がった先だった。

通路は狭い。

大人が一人通るのがやっと。

壁には古い排水記号が刻まれている。

その中に、一部だけ新しい傷があった。

「最近触られてる。」

私は指差した。

「どこで分かる。」

ルークが訊く。

「苔が削れてる。」

「傷の縁が湿ってる。」

「それと、ここだけ妙に綺麗。」

悠真が覗き込む。

「綺麗なのが怪しいんですか。」

「地下ではね。」

私は壁を見る。

「汚れるはずの場所が綺麗。」

「残るはずの苔がない。」

「そういうのは、人の手が入った証拠になる。」

「なるほど。」

「綺麗なものほど怪しい場合もある。」

「ミツネさんらしいです。」

「褒めてる?」

「半分くらい。」

サトリが嬉しそうに耳を動かした。

「勇者、覚えた。」

悠真は少しだけ笑った。

地下の空気は重い。

だから、その短い笑いだけでも少し助かる。

緊張しすぎると、人は小さな違和感を見落とす。

私は前へ進んだ。

通路は水路に沿ってゆるく曲がっている。

足元の水は浅い。

けれど、流れている方向が少し変だった。

普通なら外へ向かうはずなのに、一部だけ砦側へ戻るように揺れている。

「後鬼。」

「はい。」

「流れ、逆になってる場所がある。」

「確認します。」

後鬼が水面に符を浮かべる。

符は水に触れる直前で止まり、薄く揺れた。

本来の流れとは別に、細い引き込みのような気配がある。

「井戸側へ繋がっているかもしれません。」

後鬼が言った。

「やっぱり。」

私は水面を見つめる。

「地下水路、排水口、井戸。」

「完全に同じ水じゃなくても、気配の通り道としては繋がる。」

エリシアの顔が険しくなる。

「水そのものではなく、流れの感覚を使っていた。」

「たぶんね。」

私は首を横に振った。

「まだ断定はしない。」

「でも、かなり近い。」

「魔王軍はここを使っていたのでしょうか。」

「使った可能性は高い。」

私は壁の傷を見る。

「通り道。」

「または、覗き穴。」

「覗き穴。」

悠真が小さく繰り返す。

「砦を見ていたんですか。」

「そうかもしれない。」

「井戸の反応。」

「門兵の交代。」

「水を止めた時の混乱。」

「勇者がどう動くか。」

言いながら、私は足を止めた。

また言いすぎた。

自分でそう決めたのに、つい線を引きたくなる。

悪い癖だ。

「今のは可能性。」

私は言い直した。

「ここで分かるのは、水路と井戸と排水口が繋がっているかもしれないこと。」

「それから、誰かがここを最近使ったこと。」

「そのくらい。」

悠真が頷く。

「決めつけない。」

「そう。」

「でも、疑う。」

「そう。」

「難しいですね。」

「難しいのよ。」

私は短く答えた。

「簡単な答えが欲しい時ほど、だいたい危ない。」

少し進むと、通路の先に低い横穴があった。

自然に崩れた穴ではない。

後から入口を広げ、人が通れる程度に整えたものだ。

ただし、乱暴ではない。

きれいに広げられている。

「前鬼。」

「入れる?」

「入れる。」

「壊さず?」

「努力する。」

「そこは断言して。」

前鬼は黙った。

やっぱり信用しきれない。

後鬼が代わりに先へ入る。

中は短い横路だった。

その先で、空気が少し変わる。

湿った水路の匂いに、甘い焦げ臭さが混じった。

サトリが耳を伏せる。

「近い。」

「黒い水?」

「少し。」

「鳥?」

「少し。」

「焦げた花?」

「少し。」

「全部少しね。」

「混ざってる。」

嫌な言い方だった。

私は横路へ入る前に、ルークへ視線を向ける。

「ここから先は、足跡を増やしたくない。」

「俺は後ろに残る。」

「助かる。」

「兵も入れない。」

「ええ。」

悠真が一歩前に出かけて、止まった。

自分で止まった。

「入っていいですか。」

「いい。」

私は答えた。

「でも、私の後ろ。」

「はい。」

エリシアも続く。

足元の水はさらに少なくなった。

通路というより、点検路に近い。

壁には古い排水記号。

その上から、新しい細い線が引かれている。

魔法陣というには雑。

落書きというには意味がありすぎる。

「これは。」

エリシアが眉を寄せた。

「神殿の印ではありません。」

「魔王軍?」

「そこまでは分かりません。」

「分からないなら、それでいい。」

私は線を見た。

「読めないけど、用途はなんとなく分かる。」

「何ですか。」

悠真が訊く。

「目印。」

私は答えた。

「水の流れを見るための印。」

「水位。」

「振動。」

「誰かが通った時の反応。」

「そういうものを拾うための観測線。」

「観測線。」

「仮称よ。」

私は壁に符を近づけた。

墨が薄く滲む。

黒。

水色。

灰色。

「水を通して、ここの変化をどこかへ送っていたかもしれない。」

「どこかへ。」

悠真の声が硬くなる。

「まだ分からない。」

私はすぐに言った。

「分からないまま、怖がりすぎない。」

「はい。」

「でも、軽く見ない。」

「はい。」

「よし。」

私は横路の奥へ進んだ。

そこには、小さな空間があった。

人が三人入ればいっぱいになる程度の狭い場所。

天井は低い。

壁の一部だけが新しく削られている。

床には乾いた泥。

古い木片。

それから、黒い羽の細かな破片が一つ。

「見つけた。」

私はしゃがみ込む。

「鳥の残り?」

悠真が訊く。

「たぶん。」

「ここで作ったのですか。」

エリシアが周囲を見る。

「作ったというより、ここで形を保っていたのかもしれない。」

私は羽の破片を符で包む。

「井戸に粉を落とした後、戻るか消えるかした。」

「その一部が残った。」

「では、ここが拠点ですか。」

「拠点というには小さい。」

私は壁を見る。

「中継点。」

「観測点。」

「そういう場所に近い。」

言ってから、少しだけ止まった。

観測。

その言葉は次の話で強く出したい。

ここでは、あくまで匂わせる。

「少なくとも、本拠地ではない。」

私は言い直した。

「誰かが砦の反応を拾うために、一時的に使った場所。」

「それくらいに見た方がいい。」

悠真は狭い空間を見回した。

「ここから、砦を見ていた。」

「直接見ていたかは分からない。」

「でも、水路や井戸の反応を拾うには近い。」

私は床を見る。

「黒い鳥の羽。」

「水の印。」

「焦げた匂い。」

「そして古い地下水路。」

「材料としては、かなり嫌ね。」

サトリが床の隅に近づいた。

「ミツネ。」

「何。」

「音。」

「水音?」

「うん。」

私は耳を澄ませた。

最初は何も聞こえなかった。

地下水路の遠い流れ。

石の隙間から落ちる水滴。

自分たちの呼吸。

その程度だ。

けれど、少し待つと、奥の方から小さな音がした。

ぽつん。

水滴の音。

でも、違う。

水が落ちた音なら、次に響きが続く。

床か水面に当たって、跳ねる音が残る。

これは違った。

音だけがある。

水がない。

「今の。」

悠真が言った。

「聞こえました。」

「どこから?」

「奥。」

「何に聞こえた?」

悠真は少し考えた。

「水音です。」

「でも、変です。」

「どう変?」

「水が落ちた感じがしません。」

「正解。」

私は小さく頷いた。

「実際の水音じゃない。」

エリシアが緊張した顔で周囲を見る。

「では、術ですか。」

「たぶん。」

もう一度。

ぽつん。

今度は少し近い。

悠真の肩が揺れる。

エリシアも息を止めた。

ルークが横路の入口から低く訊く。

「何があった。」

「水音。」

「実際の水か。」

「違う。」

私は床の符を拾う。

「こっちの反応を見ている。」

「音で?」

「たぶん。」

ぽつん。

また鳴った。

私は動かない。

悠真も動かない。

エリシアも動かない。

前鬼は動きたそうにしている。

後鬼が静かにその体を押さえていた。

よし。

止まっている。

誰も音の方へ走っていない。

「今のは、誘いじゃない。」

私は小さく言った。

「じゃあ、何ですか。」

悠真が訊く。

「確認。」

「確認?」

「音を鳴らした時、誰が反応するか。」

「誰が前に出るか。」

「誰が止まるか。」

「そういうのを見ている感じがする。」

自分で言いながら、腹の底が冷えた。

断定はできない。

でも、感触がある。

これは攻撃ではない。

誘導でもない。

測定に近い。

こちらがどう動くかを、水音に似た何かで測っている。

本当に嫌な相手だ。

「ミツネさん。」

悠真が小さく言った。

「俺、動きませんでした。」

「ええ。」

「でも、少し行きたくなりました。」

「それも言えた。」

私は悠真を見る。

「今のは勝ちじゃない。」

「はい。」

「でも、動かなかった。」

「言葉にした。」

「それで十分。」

悠真は静かに頷いた。

怖がっている。

でも、見ている。

本当に少しずつだ。

それでいい。

水音が、もう一度鳴った。

ぽつん。

今度は、少し遠くなった。

反応を見た。

そして、離れた。

そんな感じがした。

「今日はここまで。」

私は言った。

前鬼が振り返る。

「奥へ行かないのか。」

「行かない。」

「なぜだ。」

「相手がこちらの反応を見ているなら、こちらも手順を崩さないところを見せる。」

「見せる?」

「そう。」

私は狭い空間を見渡す。

「勢いで奥へ進まない。」

「見つけたものを持ち帰る。」

「入口を記録する。」

「準備してから戻る。」

「それも反応の一つよ。」

ルークが入口で頷いた。

「賛成だ。」

「今は情報を持ち帰る。」

「ええ。」

「地下に通じる水路があった。」

「砦の古い排水構造が使われていた。」

「井戸や排水口に繋がる可能性がある。」

「黒い鳥の痕跡があった。」

「そして、音で反応を見られたかもしれない。」

私は符をしまった。

「十分すぎるくらい、嫌な収穫ね。」

エリシアが小さく息を吐いた。

「戻ったら、砦の構造図を確認します。」

「古い図も?」

「探します。」

「お願い。」

「神殿の保管庫にも、城塞建築の古い記録が残っているかもしれません。」

「それも見る。」

エリシアは頷いた。

表情は硬い。

でも、折れていない。

それでいい。

神殿が関わるものを避けずに見る。

それは今の砦に必要な姿勢だ。

「悠真。」

「はい。」

「戻ったら、今日聞こえた音について書く。」

「書くんですか。」

「言葉にする。」

「自分が何を聞いて、どう反応したか。」

「はい。」

「感想文じゃなくて、記録。」

「分かりました。」

「でも、怖かったなら怖かったと書く。」

悠真は少しだけ笑った。

「それ、感想じゃないんですか。」

「大事な記録よ。」

私は答えた。

「怖さは、反応だから。」

悠真は真面目な顔で頷いた。

「分かりました。」

私たちは狭い横路を戻った。

背後で、水音が一度だけ鳴った。

ぽつん。

誰も振り返らなかった。

いや、正確には、私は振り返りたくなった。

悠真もたぶんそうだった。

エリシアも。

でも、振り返らなかった。

後鬼は最初から振り返っていない。

前鬼は少しだけ振り返りかけて、後鬼に体を掴まれて止まった。

あとで前鬼も褒めておこう。

たぶん、三割くらいは。

地上へ戻ると、朝の光が砦の壁を照らしていた。

地下の湿気を抜けたせいか、外の空気が妙に軽く感じる。

でも、気分は軽くない。

洞窟のように隠された入口。

その奥に続いていた、旧地下水路。

黒い羽の破片。

水に似た音。

そして、誰かがこちらの反応を見ているような感覚。

材料は増えた。

まだ答えではない。

けれど、答えはなんとなく見え始めている。

この砦は、外から攻められているだけではない。

地下からも見られている。

水路から。

排水口から。

井戸から。

そして、人の反応。

本当に、この世界は隙だらけだ。

石の壁も。

水の管理も。

信仰も。

勇者の運用も。

全部、どこかに隙がある。

「ミツネ。」

サトリが肩の上で小さく言った。

「音、まだ覚えてる。」

「どんな音だった?」

「水じゃない水音。」

「嫌な表現ね。」

「でも、そう。」

「そうね。」

私は地下の入口を振り返った。

あの音は、水音ではなかった。

誰かがこちらを見るために落とした、小さな問いかけのようなものだった。

そこに答えない。

少なくとも、雑には答えない。

「戻るわよ。」

私は言った。

「次は、砦の中の図面と照らす。」

「地下の水路がどこへ繋がっているか。」

「誰が知っていたのか。」

「どこが使われたのか。」

「一つずつ見る。」

悠真が頷く。

「はい。」

エリシアも、ルークも頷いた。

前鬼は少し物足りなさそうだった。

後鬼はいつも通り静かだった。

私は狐面の位置を直し、砦へ向かって歩き出した。

背後の地下から、もう水音は聞こえない。

でも、聞こえないから終わったわけじゃない。

むしろ、始まったばかりなのだと思う。

地下へ続く水音。

それは、こちらの反応を測るための音だった。

なら次は、こちらが測る番だ。

面倒でも。

地味でも。

この世界の雑な隙を、一つずつ塞ぎながら。

私は朝の砦へ戻った。

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