第45話 導きではなく、観測
井戸で見た黒い鳥の痕跡を調べていると、サトリが匂いに気づいた。
匂いは、朝の薄闇の中で、森の方へ細く伸びていた。
完全に見えるわけではない。
目で追った感じは、ただの鳥に見えた。
けれど、サトリはずっと鼻をひくつかせていた。
「こっち。」
「まだ追える?」
「うん。」
「無理はしない。」
「ミツネも。」
「はいはい。」
私たちは東門を出て、砦の外周に沿うように歩いていた。
空は少しずつ明るくなり始めている。
けれど、森の影はまだ濃い。
夜と朝の境目みたいな時間帯は、見える範囲の輪郭が曖昧になる。
追うには向いていない。
見失うにも向いている。
つまり、相手にとってもこちらにとっても面倒な時間帯だった。
前鬼が少し前を歩く。
後鬼は私の横。
悠真とエリシアは、少し後ろについてきている。
ルークは兵を二人だけ連れていた。
大人数では動かない。
黒い鳥を追っていることを、全員に知らせる必要はない。
情報は水と同じだ。
流しすぎると、どこかで濁る。
淀む。
「鳥はどこの方向に向かった?」
ルークが、周囲に配慮しながら低い声で訊いてきた。
「森の上を抜けて、東側。」
「魔王軍の方角か。」
「可能性はある。」
私は空を見上げた。
「でも、まだ決めない。」
ガルドがいれば、またそれか、と言ったかもしれない。
ルークは言わなかった。
代わりに、小さく頷いただけだった。
こういうところは、本当に助かる。
「ミツネさん。」
悠真が声を抑えて言った。
「黒い鳥は、昨日の水の仕掛けと同じなんですか?」
「同じ系統ではある。」
「魔王軍が、女神様の導きを真似しているんでしょうか。」
私は足を止めた。
悠真も止まる。
エリシアも、少し表情を硬くしながら私を見た。
このまま放っておくと、話が危ない方向へ転がる。
だから、ここで切ることにした。
「違う。」
私ははっきり言った。
「違う、ですか。」
「少なくとも、今の時点でそう考えるのは危ない。」
私は悠真を見る。
「魔王軍が女神様の導きを完全に真似ている、と決めるのは早すぎる。」
「でも、夢とか、鈴とか、水とか。」
「似ているように見える。」
「はい。」
「見えるだけかもしれない。」
悠真は黙った。
私は森の奥へ視線を戻す。
「魔王軍がやっているのは、たぶん模倣じゃない。」
「じゃあ、何を。」
「観察。」
「観察。」
「そう。」
私は短く息を吐いた。
「勇者が何に反応するか。」
「兵士が何を恐れるか。」
「神殿の人間が何を清いと感じるか。」
「女神様の名前を出された時、人がどう動くか。」
「それを見ている。」
悠真の顔が少し青くなる。
「俺たちを、見ているんですか。」
「ええ。」
私は答えた。
「女神様の力を奪ったとか、導きを再現しているとか、そういう話ではないと思う。」
「もっと嫌な話よ。」
「嫌な話。」
「女神様の雑な運用もある。」
「でも、それとは別に、魔王軍は人間がどう反応するかを見ている。」
エリシアが息を呑んだ。
その反応は当然だった。
神殿にとっても、女神様にとっても、かなり痛い話だ。
でも、今は言葉を柔らかくしすぎる方が危ない。
「女神様が勇者に声を届ける。」
「勇者は、それを特別なものとして受け取る。」
「神殿は祈香や鈴や清めの水を、正しいものとして扱う。」
「兵士は勇者と女神様の関係を、半分信仰みたいに見ている。」
私は指を折りながら言った。
「そこを観察すれば、魔王軍は十分に揺さぶれる。」
「本物の女神様の力なんて、使わなくても。」
悠真は、ゆっくりと唇を噛んだ。
「じゃあ、昨日の水に見えたものも。」
「人間の反応を引き出す餌。」
「餌。」
「喉が渇く。」
「家を見た気がする。」
「母親が見えた気がする。」
「水を飲めば大丈夫だと思う。」
私は言った。
「それが本当に女神様の導きに似ているかどうかなんて、相手にとっては重要じゃない。」
「重要じゃないんですか。」
「重要なのは、魔王軍が仕掛けた出来事で、こちらがどう動くか。」
「女神様かもしれない。」
「魔王軍かもしれない。」
「神殿の誰かかもしれない。」
「そうやって、お互いを疑い合うこと。」
「それが狙いなら、完全な模倣なんていらない。」
エリシアが小さく言った。
「私たちが勝手に、女神様の導きと結びつけてしまう。」
「そう。」
私は頷いた。
「だから厄介なの。」
「相手が全部知っている必要はない。」
「こちらが勝手に怖がって、勝手に疑って、勝手に穴を広げる。」
「それを見て、次の手を打つ。」
悠真の拳が握られる。
怒りなのか、不安なのか。
たぶん両方だ。
「じゃあ、魔王軍は女神様のことを詳しく知っているわけじゃない。」
「分からない。」
私はそこだけは切らなかった。
「知ろうとしている可能性はある。」
「勇者を観察して、女神様がどう動くのかを測っている可能性もある。」
「でも、完全に理解しているとは限らない。」
「だから、決めつけない。」
悠真は頷いた。
「女神様の導きを真似している、じゃなくて。」
「女神様の導きに反応する人間を見ている。」
「そう。」
私は少しだけ口元を緩めた。
「よく言えた。」
悠真は少しだけ息を吐いた。
「怖さは増えましたけど。」
「正しく怖がれるなら、それでいい。」
「正しく怖がる。」
「怖がる対象を間違えると、敵の思う壺だから。」
サトリが耳を立てた。
「ミツネ。」
「何。」
「におい、濃くなった。」
私たちは会話を止めた。
森の入口から少し離れた場所。
低い岩場の陰に、黒い羽が一枚落ちていた。
普通の羽ではない。
濡れている。
朝露ではない。
羽の芯から、水が滲んでいる。
しかも、その水は透明ではなかった。
ほんの少し黒い。
「触らないで。」
私は先に言った。
前鬼の手が止まる。
「まだ何もしてない。」
「しようとしてた。」
「拾うだけだ。」
「それがだめ。」
前鬼は不満そうに鼻を鳴らす。
後鬼が静かに膝をつき、丁寧に符で羽の周囲を囲む。
符の墨が滲む。
灰色。
白。
黒。
そして、水色。
もう見慣れてきた。
見慣れたくない色だった。
「同じ系統ですね。」
エリシアが言った。
声は落ち着いている。
でも、指先には力が入っている。
「ええ。」
私は羽を見下ろす。
「ただし、これは観測用。」
ルークが言った。
私は頷いた。
「たぶんね。」
「黒い鳥そのものが、目だった。」
「井戸へ粉を落とすだけじゃなくて、砦がどう反応するかを見ていた。」
悠真が羽を見つめる。
「俺たちが井戸を閉じるか。」
「水をどう扱うか。」
「誰が動くか。」
「誰が止まるか。」
私は答えた。
「あなたがどう反応するかも。」
悠真の顔が強張る。
でも、目は逸らさなかった。
よし。
逃げていない。
「相手は、勇者を倒したいだけじゃない。」
私は言った。
「勇者がどう動くかを知りたい。」
「女神様の影響がどの程度なのかを見たいのかもしれない。」
「助けてと聞いた時にどう動くか。」
「仲間が苦しんだ時にどう動くか。」
「水面に自分の望む姿が映った時にどう動くか。」
「それを見ている。」
「魔王軍が本格的に動き始めた、ということか。」
ルークの声が低くなる。
「そう見ていいと思う。」
私は答えた。
「ただの斥候や嫌がらせじゃない。」
「勇者と砦の反応を把握してきている段階に入っている。」
ルークの表情が厳しくなった。
兵を預かる者の顔だった。
「なら、次は直接来るか。」
「分からない。」
私は羽の黒い水を見た。
「でも、向こうは材料を集めている。」
「こちらの反応という材料を。」
「嫌な言い方だ。」
「嫌な状況だから。」
サトリが羽の周囲をくるりと回った。
「鳥、こっちじゃない。」
「どういうこと?」
「鳥は、ここで消えた。」
「消えた?」
「うん。」
サトリは地面を嗅ぐ。
「羽だけ落ちた。」
「鳥のにおい、ここで薄い。」
「その先は?」
「水のにおいだけ。」
私は眉を寄せた。
鳥が飛んで逃げたのではない。
ここで形を保てなくなった。
もしくは、鳥の形を捨てた。
「鳥じゃなくて、水の器だった可能性がある。」
「器?」
悠真が訊く。
「鳥の形をした、水の術具。」
私は羽を符で包む。
「あるいは、この世界の魔法で作った器。」
「生き物じゃなくて、飛ばすための形。」
「だから、中が濡れてた。」
「サトリの言った通り。」
「中、濡れてた。」
サトリが得意げに頷く。
私は少しだけ頭を撫でた。
「えらい。」
「もっと。」
「あとで。」
「またあとで。」
「今は仕事。」
「けち。」
前鬼が岩場の向こうを見ている。
「影があった。」
「今?」
「少し前。」
「人?」
「小さい。」
「鳥を回収しに来た?」
「分からん。」
「追った?」
前鬼は黙った。
私はじっと見る。
「少しだけだ。」
「また。」
「逃げられた。」
「でしょうね。」
前鬼は悪びれずに言った。
「だが、足跡はある。」
「それを先に言って。」
岩場の裏へ回ると、湿った土の上に小さな足跡が残っていた。
子どもくらいの大きさ。
でも、歩幅が変だ。
片足だけ深い。
もう片方は、ほとんど跡がない。
まるで、体重のかかり方が人間と違う。
「人ではない?」
ルークが低く言った。
「人に見せたい何かかも。」
私はしゃがみ込む。
足跡の底に、黒い水がわずかに滲んでいる。
「この足跡も、観測役のものかもしれない。」
「魔物か。」
「魔物。」
私は少し考えた。
「あるいは、魔王軍が使う小型の使い魔。」
「女神様の模倣ではなく?」
悠真が確認するように言う。
「そう。」
私はすぐに答えた。
「これは女神の力じゃない。」
「女神を真似たものでもない。」
「人間側が女神や信仰にどう反応するかを、利用しているだけ。」
エリシアが静かに頷いた。
「その整理は、必要ですね。」
「必要。」
私は立ち上がった。
「ここを間違えると、砦の中が混乱する。」
「女神様が敵だと騒ぐ者。」
「神殿が裏切ったと疑う者。」
「魔王軍が神の力を奪ったと怯える者。」
「全部、相手の餌になる。」
悠真が小さく言った。
「じゃあ、兵にはどう伝えればいいんですか。」
「短く。」
私は答えた。
「黒い鳥は、砦の反応を探る魔王軍側の観測手段。」
「女神の導きとは断定しない。」
「神殿の関与も断定しない。」
「ただし、信仰や水や記憶を利用した揺さぶりがある。」
「水面に何か見えても、信じる前に報告。」
「それだけでいい。」
ルークが頷く。
「余計な解釈を足させないためか。」
「そう。」
「人は空白があると、自分で納得する物語を作る。」
「昨日からずっと、それを見てるでしょ。」
「勇者が出ないから見放された。」
「祈香が減ったから神殿が怪しい。」
「水に母親が見えたから本物だ。」
「全部、空白に物語を入れている。」
私は足跡を見る。
「相手は、その癖を見ている。」
悠真は何かを飲み込むように黙った。
それから、ゆっくり言った。
「俺も、物語に逃げていたかもしれません。」
「勇者だから。」
「女神様が導いてくれるから。」
「助けを呼ばれたら行くべきだから。」
「それが正しいって。」
私は少しだけ彼を見る。
「逃げていたというより、そう教えられていた。」
「でも、今は?」
「今は、見るしかないと思っています。」
「いい答え。」
「まだ怖いです。」
「怖いままでいい。」
「またそれですね。」
「便利なのよ。」
悠真は少しだけ笑った。
短い笑いだった。
でも、悪くない。
ルークが兵に指示を出す。
足跡の周囲を保存。
羽は回収。
岩場周辺の見張りを増やす。
ただし、魔王軍の観測手段という情報は、まず隊長格だけに伝える。
兵全体への説明は、砦に戻ってから整理する。
正しい。
この場で広げる話ではない。
「ミツネ殿。」
エリシアが私の横に来た。
「今回の件、神殿側からも説明を出すべきでしょうか。」
「出すべき。」
私は答えた。
「ただし、女神様の導きが偽物だったとか、そういう言い方はしない。」
「はい。」
「魔王軍が信仰を利用して揺さぶりをかけている。」
「だから、祈りを捨てるのではなく、祈りを言い訳に確認を怠らない。」
「その方向。」
エリシアは少しだけ目を伏せた。
「祈りを言い訳に確認を怠らない。」
「刺さった?」
「はい。」
「なら、言い方はあなたが柔らかくして。」
「ミツネ殿のままだと、刺さりすぎますからね。」
「自覚はある。」
「本当でしょうか。」
「半分くらい。」
エリシアは小さく笑った。
疲れた笑いだった。
でも、笑えるならまだいい。
神殿側がここで折れたら、砦は本当に割れる。
彼女が踏みとどまっていることは大きい。
本人には、まだ言わないけど。
「ミツネ。」
サトリがまた鼻を動かした。
「足跡、森に行ってない。」
「どこへ?」
「土の中。」
私は眉を寄せた。
「土の中?」
「うん。」
足跡は岩場の陰で途切れている。
その先に草の揺れはない。
枝も折れていない。
けれど、足跡の最後だけ、土が少し沈んでいた。
後鬼が静かに膝をつき、指先で土を見た。
「主。」
「何。」
「下に空洞があります。」
「地下か。」
ルークの声が低くなる。
「砦の外に。」
「排水路か、古い獣道か、魔王軍の掘った穴か。」
私は土の沈みを見た。
「また穴。」
本当にこの世界は穴だらけだ。
物理的にも。
制度的にも。
精神的にも。
そして、相手はその穴を使うのが上手い。
「入るか?」
前鬼が少し楽しそうに訊く。
「入らない。」
「なぜだ。」
「今入ったら、入口を塞がれるかもしれない。」
「なら広げればいい。」
「そういう発想が一番怖い。」
前鬼は不満そうだった。
後鬼は静かに頷いた。
「入口の位置だけ記録し、戻って準備を整えるべきかと。」
「後鬼が正解。」
「前鬼は?」
「力仕事が必要になったら正解になる。」
「なら待つ。」
本当に素直なのか、素直じゃないのか分からない。
でも、今はそれでいい。
私は土の沈みへ符を一枚置いた。
反応は薄い。
黒。
水色。
そして、土の匂い。
「地下に水路があるかもしれない。」
「それを使って井戸へ?」
ルークが訊く。
「可能性はある。」
「魔王軍は、女神の動きを真似ているんじゃない。」
私はもう一度言った。
「砦の水路、排水口、井戸、信仰、勇者の反応。」
「そういう現実を確認して穴を探している。」
「かなり地に足のついた嫌がらせよ。」
悠真が苦い顔をした。
「地に足がついている嫌がらせって、嫌ですね。」
「嫌でしょ。」
「はい。」
「でも、そういう相手の方が危ない。」
私は森の方ではなく、砦を見る。
「派手な魔法で攻めてくる相手なら、守り方も分かりやすい。」
「でも、観察して、穴を見つけて、少しずつ揺らす相手は面倒。」
「こちらが勝手に崩れるのを待っている。」
ルークが低く言った。
「砦を内側から戦わずに腐らせる。」
「そう。」
あの斥候の言葉が、また戻ってくる。
勇者が出ない砦は、内側から腐る。
あれは煽りであり、観測でもあった。
その言葉を聞いて、砦がどう揺れるか。
勇者がどう動くか。
女神様をどう扱うか。
全部、見られていたのかもしれない。
「戻るわ。」
私は言った。
「ここは一度封鎖。」
「地下の確認は準備してから。」
「兵への説明も整理する。」
「黒い鳥は?」
悠真が訊いた。
「追跡は続ける。」
私はサトリを見る。
「匂いは覚えた?」
「覚えた。」
「なら十分。」
「鳥、また来る?」
「来ると思う。」
「なぜですか。」
悠真が訊いた。
「相手は、こちらの反応をまだ見たいはずだから。」
私は羽を包んだ符を袖にしまう。
「井戸を閉じた。」
「水の手順を変えた。」
「黒い鳥を落とさず追った。」
「地下の穴を見つけた。」
「これだけ見せたら、向こうも次を考える。」
「こちらも?」
「もちろん。」
私は狐面の位置を直した。
「観察されているなら、こちらも観察する。」
「向こうがどこを見たいのか。」
「何に反応するのか。」
「何を守ろうとしているのか。」
「それを見る。」
ルークが少しだけ目を細める。
「攻守が入れ替わるか。」
「少しだけね。」
私は答えた。
「でも、まずは間違えないこと。」
「女神様と魔王軍を雑に混ぜない。」
「神殿と敵を雑に混ぜない。」
「勇者の反応と本人の意思を雑に混ぜない。」
「雑に混ぜると、相手の思う壺。」
悠真が頷いた。
「一つずつ見る。」
「そう。」
私は歩き出した。
朝の光が、砦の壁を薄く照らし始めている。
夜は終わる。
でも、面倒は終わらない。
黒い鳥の羽。
地下へ消えた足跡。
水を通る観測。
魔王軍の本格的な動き。
材料は増えた。
増えすぎた。
けれど、ひとつだけはっきりした。
これは、女神様の導きを偽装しているわけではない。
女神様の声に揺れる勇者や、信仰に反応する人間を、外側から見ている何かだ。
それを間違えたら、全部が崩れる。
本当に、この世界は雑だ。
でも、雑な部分を探している相手がいるなら、こちらも雑には対応できない。
私は砦へ戻りながら、小さく息を吐いた。
面倒でも。
地味でも。
一つずつ見る。
その手順だけは、絶対に崩さない。




