第44話 黒い水の欠片
夜明けの少し前、砦の空気は妙に乾いていた。
水を止めた夜の後だから、というだけではない。
誰も大声を出していない。
誰も騒いだり、報告で走ったりもしていない。
でも、静けさの下に緊張が残っている。
井戸は封鎖された。
水差しは回収された。
祈りの間も、まだ封鎖されている。
兵たちは決められた桶から水を受け取り、確認役を通してから飲む。
それだけのことなのに、砦全体が別の場所になったように感じた。
水を飲む。
ただそれだけの動作が、手順になっている。
本当に面倒くさい。
でも、昨日までのように何も考えず口をつけるよりはましだ。
雑に安心するくらいなら、面倒な確認の方がずっといい。
私は井戸の見える廊下の窓辺で、黒い欠片を包んだ符を見下ろしていた。
昨夜、井戸の裏手にいた影が落としていったもの。
石のようにも見える。
焼けた骨のようにも見える。
割れた札の一部のようにも見える。
表面には、細い記号が刻まれている。
読めない。
読めないけれど、ただの飾りではない。
触れるたびに、符の墨がじわりと滲む。
灰色。
白。
黒。
そして、水色。
何度見ても、嫌な色だ。
「ミツネ。」
机の上で丸くなっていたサトリが、片目だけ開けた。
「まだ見てる。」
「見てる。」
「寝てない。」
「少し寝た。」
「まばたきは寝たに入らない。」
「厳しいわね。」
「ミツネがよく言う。」
それはそう。
人に言っていることが、自分に刺さる。
よくあることだ。
できれば避けたいけど、避けられない。
「主。」
後鬼が静かに部屋へ入ってきた。
「井戸の反応は弱いままです。」
「完全には消えてない?」
「はい。」
「水の配布は?」
「ルーク殿の指示で継続中です。」
「悠真は?」
「確認役として、エリシア殿と共にいます。」
私は少しだけ息を吐いた。
悠真は、自分から水の確認役を申し出た。
昨夜の時点では止めようか迷った。
でも、条件付きで認めた。
本人が直接配らない。
一人で判断しない。
異変があればすぐ呼ぶ。
そして、自分が喉の渇きを感じたら必ず報告する。
勇者に対する注意事項としては、ずいぶん生活感がある。
魔王軍と戦う前に、水分報告。
聞くだけなら笑える。
でも、笑って済ませられない。
この世界は、その水を使って人を動かしてくる。
本当に、いちいち雑で、いちいち厄介だ。
「悠真の様子は?」
「緊張しています。」
「でしょうね。」
「ですが、昨夜より落ち着いています。」
「ならいい。」
少しずつでいい。
派手な成長なんていらない。
昨日止まった。
今日も確認できた。
それで十分だ。
勇者という肩書きは、一足飛びの成長を求められる。
でも、人間はそんなに都合よくできていない。
勇者だから平気。
勇者だから立てる。
勇者だから信じればいい。
そういう雑な期待の積み重ねが、本人を追い詰める。
神様がそれを分からず召喚しているなら、本当に運用資料を一から作り直した方がいい。
「主。」
後鬼が黒い欠片を見る。
「解析しますか。」
「する。」
私は欠片を包んでいた符を一枚ずつ外した。
「ただし、深くは追わない。」
「はい。」
「向こうに覗き返される可能性がある。」
「承知しました。」
「前鬼は?」
「外で待機しています。」
「入れないの?」
「入ると、壊したくなると。」
「自覚があるなら偉いわ。」
サトリが小さく笑った。
「前鬼、えらい。」
「今度褒めておく。」
私は机の上に符を四枚並べた。
中央に黒い欠片。
東西南北に小さな結界符。
それから、水を一滴だけ皿に落とす。
水面は静かだった。
けれど、欠片を近づけると、ほんのわずかに揺れた。
水音はない。
ただ、表面だけが震える。
昨夜と同じ。
「やっぱり水に反応する。」
私は呟いた。
「水を動かす道具ですか。」
「たぶん、道具というより目印。」
「目印。」
「ここを通っていい、みたいな印。」
私は欠片の刻印を見た。
「水の中に道を作る。」
「そこへ鈴や匂いや安心感を流す。」
「井戸や水差しに直接毒を入れるより、ずっと見つかりにくい。」
「でも、人は動く。」
後鬼の目が細くなる。
「人間を水路にする。」
「そう。」
私は皿の水を見る。
「体の中の水にも触ろうとしていた。」
「主にも。」
「ええ。」
昨夜、喉が渇いた。
不自然なほど。
井戸の水を飲めば大丈夫だと、頭の隅に置かれた。
あれは怖い。
命令ではなかった。
声でもなかった。
自分の欲求に見えた。
だから、気づきにくい。
「これを作った相手は、人体の扱い方をある程度分かってる。」
私は言った。
「でも、人の心は分かってない。」
「分かっていないのですか。」
「分かっているなら、もっと尊重する。」
私は欠片を指先で押さえた。
「これは、人を反応の集合として見てる。」
「喉が渇けば飲む。」
「助けてと聞けば走る。」
「祈りの匂いがすれば安心する。」
「正しいものに見える声なら従う。」
「そういう反応だけを拾って、個人の意思を見ていない。」
後鬼は静かに頷いた。
「雑ですね。」
「あなたに言われると、妙に刺さるわね。」
「主の言葉を借りました。」
「よく覚えてる。」
「よく聞いておりますので。」
後鬼は本当に真面目だ。
真面目すぎてたまに怖い。
でも、今は助かる。
私は息を整え、欠片へ符を重ねた。
「少し開く。」
「はい。」
「何か聞こえたら、すぐ閉じる。」
サトリが耳を伏せる。
「嫌なにおい、強くなる。」
「我慢して。」
「あとで褒めて。」
「褒める。」
「おやつも。」
「考える。」
「けち。」
こういうやり取りがないと、正直やっていられない。
私は短く唱えた。
「映せ、残り香。」
符の墨が、黒い欠片の表面に吸い込まれる。
欠片が一瞬だけ濡れたように光った。
次の瞬間、水皿の中に細い波紋が走る。
波紋の奥に、暗い色が映った。
黒。
水の黒。
井戸の底ではない。
川でも湖でもない。
もっと深い。
もっと広い。
でも、海とも違う。
水というより、水の記憶が腐った場所。
そんな印象だった。
「サトリ。」
「黒い水。」
サトリの声が硬い。
「大きい?」
「すごく。」
「どこか分かる?」
「分からない。」
「でも、遠い?」
「遠いけど、つながってる。」
遠いけど、つながっている。
最悪に近い答えだ。
私は水面を睨む。
そこに、影が映った。
人の形。
細い。
顔は分からない。
ただ、腕のようなものが水の中へ伸びている。
その指先から、白い糸が垂れていた。
鈴の形。
私はすぐに符を押さえた。
「閉じる。」
その瞬間、水面の向こうから声がした。
『見つけた。』
短い。
小さい。
でも、はっきり聞こえた。
私は奥歯を噛み、符を叩いた。
「閉じろ。」
水面が弾ける。
黒い欠片が小さく震え、包んでいた符が一枚焦げた。
部屋の空気が急に重くなる。
サトリが机の上で毛を逆立てた。
後鬼が一歩前へ出る。
「主。」
「大丈夫。」
私は息を吐いた。
「覗き返された。」
「相手に場所は。」
「たぶん、完全には知られてない。」
私は水皿を見る。
水は静かに戻っていた。
ただ、表面に黒い薄膜のようなものが一瞬だけ浮かび、すぐ消えた。
「でも、こちらが欠片を見たことは知られた。」
「危険ですね。」
「ええ。」
私は焦げた符を外し、欠片を再び包む。
「だから朝まで待ったのに、結局危険だった。」
「解析をやめますか。」
「やめない。」
「主。」
「深くは追わない。」
私は欠片を見た。
「でも、何も見ないまま放置する方が危ない。」
後鬼は少し黙った。
「承知しました。」
「ただ、今はここまで。」
「はい。」
私は欠片を袖の奥へ入れ、立ち上がった。
少しふらつく。
後鬼が手を出しかける。
「平気。」
「平気ではありません。」
「まだ立てる。」
「それを平気とは言いません。」
本当に、言い返しが的確になってきた。
主としては少し困る。
でも、たぶん良いことだ。
「ミツネ。」
サトリが鼻をひくつかせた。
「水のにおい、まだついてる。」
「私に?」
「うん。」
「最悪ね。」
「あと、誰か来る。」
「誰?」
「勇者。」
廊下の向こうから、足音が近づいてきた。
急いでいる。
でも、走ってはいない。
ちゃんと止まろうとしている足音だ。
少しだけ、安心する。
扉が叩かれた。
「ミツネさん。」
悠真の声だった。
「入って。」
扉が開く。
悠真はエリシアと一緒に入ってきた。
顔色は悪くない。
ただ、目が真剣だった。
「どうしたの。」
「水の確認で、変なことがありました。」
「内容は?」
悠真は一度息を整えた。
「兵の一人が、水を飲む前に急に泣き出しました。」
「泣いた?」
「はい。」
「喉が渇いたとか、大丈夫だとかじゃなく?」
「違います。」
悠真は首を横に振った。
「急に、家に帰れる気がしたって。」
部屋の空気が止まった。
私は眉を寄せる。
「家。」
「はい。」
「その兵は?」
エリシアが答える。
「北方出身の兵です。」
「長く帰っていないと聞いています。」
「水を見たら?」
悠真が頷いた。
「水面に、故郷の井戸が見えた気がしたそうです。」
嫌な方向に広がった。
喉の渇き。
安心。
助けて。
祈り。
今度は、帰りたい場所。
人を動かす感情の種類が増えている。
「水を飲んだ?」
「飲ませていません。」
悠真はすぐに答えた。
「エリシア様に止めてもらって、俺はその人の話を聞きました。」
「よく止めた。」
私が言うと、悠真は少しだけ表情を緩めた。
「でも、怖かったです。」
「何が?」
「その人、本当に幸せそうな顔をしたんです。」
「帰れるって信じているみたいで。」
「だから、水を渡したくなりました。」
「でしょうね。」
私は小さく息を吐いた。
「相手、やり方を変えてきた。」
「やり方を。」
「喉の渇きだけじゃない。」
「本人の望みを水面に写して乗せてきてる。」
エリシアの顔が青ざめる。
「望みを。」
「信仰だけじゃない。」
私は言った。
「不安だけでもない。」
「帰りたい。」
「助けたい。」
「安心したい。」
「正しくありたい。」
「そういう気持ちを入口にしている。」
悠真は黙った。
その顔には、はっきりと恐怖があった。
でも、逃げてはいない。
「俺にも、来ますか。」
「来ると思う。」
私はごまかさなかった。
「あなたなら、何を見せられるか分からない。」
悠真の手が少し握られる。
「元の世界かもしれない。」
私は言った。
「家族かもしれない。」
「助けを求める誰かかもしれない。」
「女神様の声に似たものかもしれない。」
「あなたが一番、動きたくなるものを見せてくる。」
悠真は喉を鳴らした。
「それ、止まれる気がしません。」
「止まれないかもしれない。」
「ミツネさん。」
「だから、一人で水面を見るなって言ってる。」
私は悠真を見る。
「自信で勝とうとしない。」
「手順で止まる。」
「手順。」
「そう。」
「見たものを言う。」
「飲む前に言う。」
「動く前に言う。」
「言葉に出せば、少し外に出る。」
悠真はゆっくり頷いた。
「自分の中だけに置かない。」
「そう。」
「毒も、望みも、声も。」
「中に閉じ込めると、本人のものみたいな顔をする。」
エリシアが静かに息を吸った。
「信仰も、そうでしょうか。」
私は少しだけ彼女を見る。
難しい問いだ。
でも、ここで綺麗に逃げると意味がない。
「信仰も、口に出して確かめた方がいい時はある。」
「はい。」
「自分が何を信じているのか。」
「誰の声を聞いているのか。」
「何に従おうとしているのか。」
私は続けた。
「見ないまま従うのは、たぶん信仰じゃない。」
「それは、ただの思考の放棄よ。」
エリシアの目が揺れた。
でも、彼女は頷いた。
「……重い言葉ですね。」
「軽く言う内容じゃないから。」
「はい。」
悠真が机の上を見る。
「何か、分かりましたか。」
「少し。」
私は欠片を包んだ袖を押さえた。
「この欠片は、水に道を作る目印みたいなもの。」
「黒い水の匂いがする。」
「黒い水。」
「サトリがそう言った。」
サトリが頷く。
「深い。」
「遠い。」
「でも、つながってる。」
悠真は顔をしかめた。
「魔王軍ですか。」
「魔王軍が関わっている可能性は高い。」
「でも、それだけではないかもしれない。」
「女神様は?」
「まだ混ぜない。」
私はすぐに言った。
「女神様の夢と、今回の水の仕掛けは似ている。」
「神殿の祈香も使われている。」
「魔王軍らしい痕跡もある。」
「でも、似ているものを全部一つにするのは危ない。」
悠真は小さく頷いた。
「一つずつ見る。」
「そう。」
「魔王軍が女神様の導きを理解している、と決めつけるのも違う。」
私は言葉を足した。
「勇者や信仰が、どんな言葉や状況に反応しやすいかを、経験で悪用しているだけかもしれない。」
「女神様の仕組みそのものを知っているとは限らない。」
「でも、相手は繋げてきている。」
エリシアが言う。
「魔王軍。」
「神殿。」
「水。」
「信仰。」
「勇者。」
私は頷いた。
「全部を一つの疑いに混ぜるために、わざと並べている可能性がある。」
「砦を落とすためですね。」
「たぶん。」
「女神様を疑わせる。」
「神殿を疑わせる。」
「兵を疑わせる。」
「勇者を迷わせる。」
「その上で、水を使って撹乱する。」
私は息を吐いた。
「丁寧に嫌なことをしてくるわね。」
「雑ではないのですか。」
エリシアが訊く。
「仕掛けは丁寧。」
私は答えた。
「でも、人間の扱いは雑。」
悠真が小さく苦笑した。
「そこは変わらないんですね。」
「変わらない。」
私は少しだけ肩をすくめた。
「相手がどれだけ手際よくても、人を道具みたいに扱った時点で、そこは雑。」
その時、廊下の外から軽い足音が聞こえた。
続いて、ルークの声。
「入るぞ。」
「どうぞ。」
ルークが入ってくる。
表情は硬い。
嫌な報告を持っている顔だ。
「何かあった?」
「水を確認していた兵の一人が、似た幻を見た。」
「家?」
「違う。」
ルークは短く答えた。
「母親だ。」
悠真の顔が強張る。
エリシアが口元を押さえる。
私は目を閉じそうになって、やめた。
やっぱり広がっている。
望み。
記憶。
後悔。
会いたい人。
そういうものを、水面に映してくる。
「飲んだ?」
「止めた。」
「誰が?」
「勇者殿が止めた。」
私は悠真を見た。
悠真は驚いた顔でルークを見る。
「俺は、さっきの人しか。」
「その後だ。」
ルークは悠真を見る。
「お前が言った手順を、兵が覚えていた。」
「水に何か見えたら言え。」
「飲む前に確認しろ。」
「それを聞いた兵が、口に出した。」
「周囲が止めた。」
悠真は言葉を失った。
私は少しだけ笑った。
「ほら。」
「え?」
「手順が効いた。」
悠真の目が揺れる。
「俺が止めたんじゃ。」
「あなたの言葉で、誰かが止まった。」
私は言った。
「それは、あなたが直接走って助けるよりずっと大事なことかもしれない。」
悠真は黙った。
その表情が、少しだけ変わる。
自分が前に出て斬ることだけが助けではない。
自分が止まること。
誰かが止まれる手順を残すこと。
それも助けになる。
今の悠真には、たぶん必要な実感だ。
ルークも小さく頷いた。
「兵にも伝える。」
「水面に何か見えたら、飲まずに報告する。」
「妙な安心感や懐かしさも報告対象に加える。」
「いいわね。」
「妙な懐かしさまで報告する砦か。」
ルークが少し苦い顔をする。
「嫌な規則だ。」
「ええ。」
私は答えた。
「でも、懐かしさで操られるよりまし。」
「まったくだ。」
サトリが机の上で耳を動かした。
「またにおい。」
「水?」
「違う。」
サトリは廊下の方を見る。
「外。」
ルークがすぐに剣へ手をかける。
「東門か。」
「違う。」
サトリは首を振った。
「上。」
「上?」
全員が一瞬、天井を見る。
そこではない。
私は窓へ向かった。
夜明け前の空。
まだ青黒い空の端に、薄い光が混じり始めている。
その空に、鳥の影があった。
一羽。
いや、二羽。
黒い鳥が砦の上を旋回している。
普通の鳥に見えなくもない。
でも、サトリが低く唸った。
「水のにおい。」
「鳥なのに?」
「中、濡れてる。」
嫌な表現だ。
私は窓を開けた。
黒い鳥が一羽、井戸の上をゆっくり回る。
そして、何かを落とした。
小さな粒。
井戸へ向かって落ちていく。
「前鬼!」
私が叫ぶより早く、外で前鬼が動いた。
中庭から跳び上がり、落ちてきた粒を爪で弾く。
粒は空中で砕け、白い粉になって散った。
一瞬だけ、甘い匂いが広がる。
焦げた花。
祈香。
黒い水。
全部が混ざった匂い。
「やっぱり補充に来た。」
私は窓枠を掴んだ。
「井戸を閉じたから、上から入れようとしたのか。」
ルークの声が低い。
「鳥を使ってか。」
「鳥か、鳥の形をした道具か。」
黒い鳥は前鬼を避けるように高度を上げた。
もう一羽が、東門の方へ流れる。
逃げるつもりだ。
「撃ち落とすか。」
ルークが訊く。
「できる?」
「弓を出す。」
「待って。」
私はサトリを見る。
「におい、追える?」
サトリは鼻をひくつかせる。
「追える。」
「じゃあ、落とさない。」
ルークがこちらを見る。
「尾行か。」
「そう。」
「鳥を泳がせる。」
「泳がせるって鳥に言うのか。」
「今は水の鳥みたいなものだからいいでしょ。」
「雑な理屈だな。」
「相手に合わせてるのよ。」
ルークは少しだけ口元を動かした。
「分かった。」
私はサトリを抱き上げた。
「追える範囲だけ。」
「うん。」
「無理はしない。」
「ミツネも。」
「今それ言う?」
「言う。」
本当に、よく見ている。
私は苦笑して、窓の外を見た。
黒い鳥は朝の薄闇へ消えかけている。
その軌跡に、ほんのわずかな黒い水の匂いが残っている。
相手は井戸を閉じられても、次の手を出してきた。
水。
人。
祈り。
記憶。
空からの補充。
手数が多い。
けれど、今ので分かったこともある。
相手は井戸を完全に捨てていない。
井戸を使いたがっている。
つまり、ここは相手にとってまだ重要な経路だ。
「ミツネさん。」
悠真が窓の外を見ながら言った。
「俺も行きます。」
返事は早い。
でも、いつもの無条件な前のめりとは少し違った。
私は訊く。
「何をしに?」
悠真は一度、息を吸った。
「見ます。」
「何を?」
「自分が、何に反応するか。」
「それと、兵たちがまた水を見て動きそうになった時、止まれるように。」
「俺が直接助けるんじゃなくて、手順の中で。」
私は少しだけ黙った。
悪くない。
かなり悪くない。
「合格。」
悠真の表情が少し緩んだ。
「ただし、条件。」
「はい。」
「前に出ない。」
「はい。」
「水面を見る時は一人で見ない。」
「はい。」
「懐かしいものが見えたら、すぐ言う。」
悠真は少しだけ顔を強張らせた。
それでも頷いた。
「はい。」
「よし。」
エリシアも一歩前に出る。
「私も行きます。」
「祈りの間は?」
「リリアに近づける者は制限しています。」
「それに、祈香の匂いが使われている以上、私が見なければなりません。」
その顔はまだつらそうだった。
でも、逃げる顔ではない。
「分かった。」
私は言った。
「ただし、あなたも一人で判断しない。」
「はい。」
「女神様の導きだと思ったら、まず言う。」
「……はい。」
少しだけ間があった。
でも、言った。
それでいい。
ルークはすでに兵に指示を出していた。
井戸の監視継続。
水の確認手順維持。
黒い鳥を射落とさず、見失わない距離で監視。
ガルドは中庭側の兵をまとめる。
前鬼は不満そうに空を見ている。
「落とした方が早いぞ。」
「早いだけでしょ。」
「早いのは良いことだ。」
「雑な早さは高くつくの。」
前鬼は首を鳴らした。
「難しい。」
「覚えて。」
「努力する。」
後鬼より少し信用できない努力だけど、ないよりはいい。
私は狐面の位置を直した。
黒い欠片。
黒い鳥。
黒い水。
水面に映る望み。
人を操る鈴。
繋がってきた。
まだ答えではない。
でも、線は太くなっている。
この世界は、穴だらけだ。
そして相手は、その穴を知っている。
でも、こちらも少しずつ見えてきた。
穴を塞ぐだけでは足りない。
穴の先にいる相手を見なければならない。
「行くわよ。」
私は言った。
「水の次は、鳥の追跡。」
悠真が小さく頷く。
エリシアも続く。
サトリは私の肩で、黒い鳥が消えた空を見ていた。
夜明け前の砦は、まだ静かだった。
水音はない。
でも、空の向こうに残る黒い匂いが、次の道を示していた。
本当に、この世界は雑だ。
けれど、雑な穴を使う相手がいるなら、そこを逆に辿ればいい。
面倒でも。
地味でも。
一つずつ。
私は朝の薄闇へ向かって歩き出した。




