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陰陽師朝霧、異世界にクレームをつけにいく ~勇者召喚の裏で女神が雑すぎる件~  作者: 和幸雄大


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第41話 水差しの底

祈りの間が封鎖されると、砦の中の雰囲気はさらに悪くなった。

当然だ。

神聖な場所に兵が立ち、白い布の前で武器を持つ。

それだけで、見ている人間の胸には引っかかりが生まれる。

祈りの場所を守っているのか。

疑っているのか。

その境目が曖昧になるからだ。

本当に面倒くさい。

神聖な場所ほど、疑う時の手順が難しくなる。

そして、難しいからと後回しにすると、だいたいもっと面倒になる。

「ミツネ殿。」

ルークが廊下の向こうから戻ってきた。

横には、気の弱そうな兵士が一人いる。

年は三十前後。

肩幅はあるが、目が泳いでいる。

手には布袋を持っていた。

「ロイドだ。」

「水差しの担当?」

「ああ。」

ロイドは慌てて頭を下げた。

「ロ、ロイドです。」

「そんなに怯えなくていいわよ。」

私が言うと、ロイドはますます怯えた顔になった。

「は、はい。」

「怯えなくていいって言われて余計に怯えるの、分かるけど面倒ね。」

「す、すみません。」

「謝らなくていい。」

謝罪が増えると話が進まない。

この砦、最近その傾向が強い。

それだけ不安が広がっているということでもある。

私はロイドの持っている布袋を見る。

「それは?」

「昨夜使った水差しです。」

ロイドが答える。

「朝に洗ってしまいましたが、ルーク隊長から持ってこいと言われましたので。」

「洗った水差しを持ってこられてもね。」

私がぼそっと言うと、ロイドの顔色がさらに悪くなった。

「責めてない。」

「はい。」

「ただ、証拠っていうのは洗われるとだいたい死ぬの。」

「死ぬ。」

悠真が少し変な顔をした。

「証拠って死ぬんですか。」

「死ぬわよ。」

私は布袋を受け取りながら言った。

「触られ、洗われ、片づけられ、善意で埋葬される。」

「善意で埋葬。」

「朝の掃除は、証拠にとっては葬式みたいなものよ。」

サトリが肩の上で、ふすっと鼻を鳴らす。

「ミツネ、言い方。」

「事実。」

ロイドが完全に固まっている。

私は布袋を開いた。

中には素焼きの水差しが入っていた。

表面は濡れていない。

きちんと乾かされている。

口の部分も綺麗だ。

底にも目立った汚れはない。

見た目は、何も問題ない。

だから信用できない。

「ロイド。」

「はい。」

「昨夜、この水を用意したのはあなた?」

「はい。」

「いつ?」

「夕方の食事前です。」

「どこから水を汲んだ?」

「中庭の井戸です。」

「その後、水差しはどこに置いた?」

「東門の詰め所です。」

「置いてから、ずっと見てた?」

「いえ。」

「誰でも触れた?」

ロイドは少し困った顔をした。

「門兵なら。」

「つまり、触ろうと思えば触れる。」

「……はい。」

ルークの眉がわずかに動く。

「それは通常運用か。」

「はい。」

ロイドは小さく頷いた。

「水差しは共用ですので。」

私は水差しの口を覗き込んだ。

内側は暗い。

けれど、底の方にほんのわずかな白い曇りがある。

洗い残しと言われればそれまで。

ただの水垢と言われても、それまで。

でも、サトリが鼻をひくつかせた。

「甘い。」

「残ってる?」

「少し。」

「焦げた花?」

「うん。」

ロイドがびくっとした。

「な、何か。」

「まだ決めてない。」

私は袖から細い符を出し、水差しの内側へ入れた。

底に触れるか触れないかのところで止める。

墨の端がじわりと滲んだ。

灰色。

白。

そして、ほんの少し黒。

祈りの間の粉と同じ反応だ。

「当たり。」

私が呟くと、ロイドが青ざめた。

「わ、私ではありません。」

「まだ何も言ってない。」

「ですが。」

「言ってないうちから否定すると、余計に怪しく見えるわよ。」

ロイドが口を閉じる。

悠真が少し困った顔をした。

たぶん、私の言い方がきついと思っている。

でも、ここは緩めすぎると話がぼやける。

人を責めるためじゃない。

経路を見るためだ。

「ロイド。」

私は言った。

「あなたが水を用意した時、この水差しの底に何か入ってた?」

「いえ。」

「見た?」

「見ました。」

「どれくらい。」

「水を入れる前に、軽く中を。」

「軽く。」

ロイドはまた顔色を悪くした。

「すみません。」

「謝罪は後でいい。」

私は水差しを机に置いた。

「今大事なのは、あなたが何をしたかじゃなくて、どこから何が入ったか。」

ルークが低く訊く。

「水に混ぜられたのか。」

「その可能性が高い。」

私は水差しの底を軽く叩いた。

「でも、毒というより誘導補助ね。」

「腹痛と眠気、鈴の音か。」

「たぶん。」

「殺すためではない?」

「少なくとも今回は違う。」

私は言った。

「殺すより便利な使い方をしてる。」

悠真の顔が曇る。

「便利って。」

「門番を殺せば大騒ぎになる。」

私は答えた。

「でも、少し眠らせて、少し腹を痛くさせて、少し持ち場を空ければ、騒ぎは小さいまま穴だけ開く。」

部屋が静まった。

「ずいぶん嫌なやり方だ。」

ガルドが低く言う。

「嫌だけど合理的。」

私は水差しを見る。

「人を壊さず、記録も残さず、動きだけずらす。」

「仕組みは丁寧。」

悠真が小さく言った。

「人の扱いが雑。」

私は少しだけ悠真を見た。

「覚えたわね。」

「覚えたくない言葉でしたけど。」

「分かる。」

ロイドは震える手を握りしめている。

「私は、本当に。」

「今のところ、あなたが混ぜたとは見てない。」

私は言った。

「ただ、水差しの管理が雑だったことは確か。」

ロイドはうなだれた。

「申し訳ありません。」

「それも後。」

「はい。」

「今後は水差しの置き場所と担当者を記録する。」

「共用なら、誰がいつ触ったか分からなくなる。」

「見た目が綺麗なだけの管理は、管理じゃなくて飾りよ。」

ロイドは小さく頷いた。

エリシアがそれを聞いて、わずかに表情を曇らせる。

祈りの間の管理にも刺さったのだろう。

でも、刺さっていい。

刺さらないとなにも変わらない。

「清掃担当は?」

私が訊くと、ルークが部屋の入口へ視線を向けた。

「呼んでいる。」

ほどなくして、二人の兵が入ってきた。

一人は中年の女性。

もう一人は若い少年兵に近い年齢の兵士だった。

女性はメルダ。

少年兵はトーマというらしい。

どちらも清掃担当として、朝に東門詰め所と祈りの間周辺を回ったという。

メルダは落ち着いていた。

トーマは明らかに緊張している。

その緊張が悪事のせいか、ただ怖いだけかはまだ分からない。

人間の震えは、使い道が多すぎる。

「メルダ。」

ルークが低く言った。

「今朝、水差しを洗ったのはお前か。」

「はい。」

メルダはすぐに答えた。

「私です。」

「中身は残っていたか。」

「少し。」

「どの程度。」

「底に、ひと口分ほど。」

「捨てた?」

「はい。」

「どこへ。」

「裏の排水桶へ。」

私は額に手を当てた。

「また排水。」

「申し訳ありません。」

「謝らなくていい。」

私は少し疲れた声になった。

「悪意じゃなくて習慣で証拠が消えていくの、ほんと厄介ね。」

メルダは眉をひそめる。

「証拠、ですか。」

「そう。」

私は水差しを指差した。

「その水に何か混ざっていた可能性がある。」

メルダの顔色が変わった。

「水に?」

「ええ。」

トーマが小さく息を呑む。

サトリの耳がぴくりと動いた。

私はトーマを見る。

「何か知ってる?」

トーマは慌てて首を横に振った。

「いえ。」

「今の“いえ”はだいぶ軽かったわね。」

トーマの目が泳ぐ。

メルダが彼を見る。

「トーマ。」

「本当に、何も。」

「何も知らないなら、そんなに怖がらない。」

私は言った。

「怒られるのが怖いのと、隠してるのが怖いのは少し違う。」

トーマは唇を噛んだ。

「……朝、排水桶を運びました。」

「どこへ。」

「外の溝へ。」

「その時、何か見た?」

トーマは黙った。

「見たのね。」

「白い粉みたいなのが、桶の底に。」

場の空気が固まる。

「捨てた?」

「はい。」

「どこに。」

「東門の外の溝です。」

ガルドが低く唸った。

「そこも見る必要があるな。」

「そうね。」

私はため息を吐いた。

「この砦、証拠を丁寧に外へ送り出す仕組みでもあるの?」

「ミツネさん。」

悠真が少しだけ困った声を出す。

「今のは、ちょっと。」

「分かってる。」

私はトーマを見る。

少年兵は泣きそうな顔をしていた。

「責めてるんじゃない。」

「はい。」

「でも、次から白い粉があったら捨てる前に言いなさい。」

「はい。」

「白い粉に限らず、変な匂い、変な色、変な音、変なもの全部。」

「はい。」

「変かどうか分からなかったら?」

トーマは小さく答えた。

「聞きます。」

「よろしい。」

サトリが肩の上で小さく手を叩く。

「清掃、えらい。」

トーマは困惑した顔でサトリを見た。

妖怪に褒められて、どう反応していいか分からないのだろう。

分かる。

私でもたまに分からない。

「メルダ。」

私は続けた。

「祈りの間の周辺も掃除した?」

「はい。」

「棚には触った?」

「いいえ。」

「床は?」

「軽く。」

「白い粉は?」

メルダは少し考え、首を横に振った。

「記憶にはありません。」

「甘い匂いは?」

「ありました。」

エリシアの表情が硬くなる。

「祈香の匂いだと思いましたか。」

「はい。」

メルダはエリシアへ頭を下げた。

「祈りの間ですので、当然のものだと。」

私は小さく息を吐いた。

当然。

また便利な言葉が出た。

「当然だと思うと、人は確認しない。」

誰も答えない。

私は続けた。

「祈りの間だから祈香の匂いがする。」

「水差しだから水が入っている。」

「帳面があるから記録されている。」

「門番がいるから門は守られている。」

「全部、表面だけ見ればそう見える。」

水差しの底を、指先で軽く叩く。

「でも、その“当然”の中に混ぜ物を入れられると、見逃す。」

悠真が静かに聞いていた。

エリシアも。

ルークも。

「雑な世界で一番危ないのは、雑に見える場所じゃない。」

私は言った。

「整って見える場所よ。」

「どうしてですか。」

悠真が訊く。

「誰も疑わないから。」

私は即答した。

「女神様の名前がつけば正しい。」

「神殿にあれば清い。」

「勇者なら女神様に導かれているから正しい。」

「そういう“正しそうな顔”をしたものほど、確認されない。」

エリシアが深く息を吸った。

少し痛そうだった。

でも、逃げない。

「つまり、この仕掛けは神殿や祈りを隠れ蓑にしていると。」

「可能性は高い。」

私は言った。

「ただし、神殿そのものが敵とは限らない。」

「神殿の仕組みを利用している者がいる。」

「あるいは、信仰心そのものを利用している。」

「そこは分ける。」

ルークが頷く。

「分けなければ、砦の中が割れる。」

「そう。」

私は水差しを符で包み直した。

「敵が欲しいのは、たぶんそれ。」

「砦の中を疑心暗鬼にすること。」

「勇者を迷わせること。」

「神殿を疑わせること。」

「兵の記録を信用できなくすること。」

「全部、いっぺんにやろうとしてる。」

ガルドが腕を組んだ。

「ずいぶん欲張りだな。」

「欲張りだけど、筋は通ってる。」

私は答えた。

「外から攻める前に、内側の足場を柔らかくしている。」

「土台を腐らせるわけか。」

「そう。」

私は昨日の斥候の言葉を思い出した。

勇者が出ない砦は、内側から腐る。

あれは、ただの捨て台詞ではなかったのかもしれない。

腐らせる手順を、向こうはもう始めている。

言葉で。

匂いで。

鈴で。

記録の空白で。

かなり嫌な相手だ。

「主。」

後鬼が静かに口を開いた。

「東門外の溝を確認して参りましょうか。」

「お願い。」

「前鬼も連れて行きます。」

「前鬼には掘り返しすぎないように言って。」

「承知しました。」

後鬼が静かに消える。

廊下の向こうで、前鬼の低い声が聞こえた。

「掘るのか?」

「掘りすぎるなと言われています。」

「加減が難しいな。」

本当に難しそうで困る。

私は額を押さえた。

「大丈夫でしょうか。」

悠真が訊く。

「たぶん。」

「たぶんなんですね。」

「前鬼に細かい現場保存を求める方が間違ってる。」

「言い方。」

「でも、後鬼がいるから大丈夫。」

「それなら、はい。」

悠真は少し笑った。

それでいい。

このくらいの笑いは必要だ。

空気が重すぎると、全員が何かを隠し始める。

重さは人を正直にしない。

むしろ、保身を育てる。

しばらくして、後鬼が戻ってきた。

手には、布で包まれた小さな土塊がある。

前鬼も後ろからついてくる。

少し不満そうな顔をしていた。

たぶん、もっと掘りたかったのだろう。

「主。」

後鬼が布を広げる。

中には、湿った土と、白く濁った小さな粒が混じっていた。

「溝の底に残っていました。」

私は符を近づけた。

墨が滲む。

灰色。

白。

黒。

さっきより、黒が少し濃い。

「同じ系統ね。」

「水差しと祈りの間と林の焦げ跡。」

ルークが言う。

「繋がったか。」

「物質としては繋がった。」

私は答えた。

「でも、人までは繋がってない。」

「誰が入れたかはまだ分からん、か。」

「そう。」

私は白い粒を見る。

「ただ、流れは見えた。」

悠真がこちらを見る。

「流れ?」

「水差しに混ぜ物が入る。」

私は指を一つ立てる。

「バレムが飲む。」

二つ。

「眠気、耳鳴り、腹痛。」

三つ。

「持ち場を離れる。」

四つ。

「ニールが代わる。」

五つ。

「排水口の確認が浅くなる。」

六つ。

「その間に誰かが動く。」

七つ。

「祈りの間ではリリアが鈴と匂いで誘導される。」

八つ。

「祈香の数に空白ができる。」

九つ。

「林には焦げ跡と声の仕掛けが残る。」

十。

私は指を下ろした。

「こうして並べると、かなり悪質ね。」

悠真が顔をしかめる。

「全部、少しずつなんですね。」

「そう。」

私は頷いた。

「一つ一つは小さい。」

「少し眠い。」

「少し腹が痛い。」

「少し記録しない。」

「少し確認が甘い。」

「少し匂いが強い。」

「少し声が聞こえる。」

「少し急がなきゃいけない気がする。」

私は水差しを見る。

「その少しを積むと、砦に穴が開く。」

沈黙が落ちる。

一気に攻めてくる敵より、こういう相手の方が厄介だ。

派手な爆発は人を警戒させる。

でも、小さな違和感は日常に紛れる。

そして、日常に紛れたものほど見つけにくい。

「本当に、たちが悪い。」

エリシアが呟いた。

「ええ。」

私は短く答えた。

「たちが悪いし、手際がいい。」

「魔王軍でしょうか。」

悠真が訊く。

「魔王軍の斥候だけじゃ無理。」

私は言った。

「でも、魔王軍が関わっていないとも思えない。」

「神殿は?」

「利用されている可能性。」

「内通者は?」

「いる可能性。」

「女神様は?」

悠真の声が少しだけ小さくなる。

私は少しだけ間を置いた。

「同じ手触りはある。」

悠真の顔が強張った。

「でも、断定しない。」

「はい。」

「女神様本人がやっているのか。」

「女神様の仕組みを真似ているのか。」

「女神様の導きに似せた術なのか。」

「それとも、神殿の信仰経路そのものが使われているのか。」

私はゆっくり言った。

「そこを混ぜたら危ない。」

「混ぜない。」

悠真が自分に言い聞かせるように呟く。

「そう。」

私は頷いた。

「怖いからといって、全部を一つの敵にしない。」

「楽だからといって、全部を一人の犯人にしない。」

「楽な物語に逃げると、現実の穴を見落とす。」

悠真は少しだけ目を伏せた。

たぶん、今の言葉は自分にも刺さったのだろう。

勇者という物語。

女神様の導き。

魔王軍という敵。

分かりやすい構図。

それだけなら楽だ。

でも、この世界はその楽さを許してくれない。

本当に雑なくせに、面倒なところだけ妙に現実的だった。

「ロイド、メルダ、トーマ。」

ルークが三人を見る。

「今日聞いたことは、こちらで整理するまで口外するな。」

三人が頷く。

「ただし、思い出したことがあればすぐに言え。」

「些細なことでも?」

メルダが訊く。

「些細なことほど言え。」

私は横から答えた。

「今回みたいなのは、些細なものの積み重ね。」

「はい。」

「あと、変なものを見つけたら捨てる前に呼ぶ。」

トーマが勢いよく頷いた。

「はい。」

「よろしい。」

サトリがまた小さく手を叩く。

「清掃、学んだ。」

トーマは今度は少しだけ笑った。

まだ引きつっている。

でも、笑えた。

それならいい。

ルークは水差しと土塊を預かる兵を選び、祈りの間の鍵の確認を始めるために動き出した。

ガルドは東門周辺の再確認へ向かう。

エリシアはリリアのもとへ行くと言った。

彼女を一人にしないためだ。

正しい判断だと思う。

疑われている人間を放置すると、噂が勝手に罪を作る。

噂は、だいたい本人のいない場所で育つ。

その育ち方が一番悪い。

「ミツネさん。」

悠真が私の横に残った。

「何。」

「俺、女神様のことを疑っているんでしょうか。」

また、難しいことを聞く。

でも、避けるわけにはいかない。

「疑ってるというより、見ようとしてる。」

「見ようとしてる。」

「そう。」

私は水差しを包んだ符を見る。

「信じたいものほど、ちゃんと見た方がいい。」

「見ないまま信じると、誰かに使われる。」

悠真は黙っている。

「あなたが女神様を信じたいなら、それでいい。」

「はい。」

「でも、女神様の名前を使って、あなたを動かそうとするものまで全部信じたら駄目。」

「名前を使って。」

「そう。」

私は悠真を見た。

「優しい声。」

「正しい匂い。」

「神聖そうな鈴。」

「それっぽい言葉。」

「そういう包装紙を見て、中身を確認しないのは危ない。」

悠真は少しだけ苦笑した。

「包み紙だけ綺麗で、中身の扱いが雑。」

「覚えてるじゃない。」

「忘れられない言い方だったので。」

「なら成功。」

「成功なんですね。」

「ええ。」

少しだけ空気が緩む。

けれど、すぐに悠真は真面目な顔に戻った。

「俺、怖いです。」

「うん。」

「魔王軍に狙われるより、こっちの方が怖いかもしれません。」

「どうして?」

「何を信じればいいのか、分からなくなるから。」

私は少し黙った。

それは、かなり正直な言葉だった。

そして、今の悠真にとって一番大事な場所だ。

「全部を一気に信じようとしない。」

私は言った。

「全部を一気に疑おうともしない。」

「じゃあ、どうすれば。」

「一つずつ見る。」

私は水差しを指差す。

「水差しには混ぜ物があった。」

次に祈りの間を見る。

「祈りの間には粉があった。」

林の方を向く。

「外には焦げ跡と声の仕掛けがあった。」

そして、悠真を見る。

「夢には女神様の声があった。」

「はい。」

「全部まとめて答えを出すんじゃない。」

「一つずつ見る。」

「そう。」

悠真は小さく息を吐いた。

「地味ですね。」

「地味よ。」

私は即答した。

「でも、派手な答えを急ぐと、だいたい誰かが損をする。」

「ミツネさんらしいです。」

「褒めてる?」

「半分くらい。」

サトリが嬉しそうに耳を動かした。

「勇者、返し覚えた。」

「覚えなくていいところを覚えてるわね。」

悠真は少しだけ笑った。

その笑いは短かった。

でも、今はそれで十分だった。

夕方が近づくにつれ、砦の中には静かな緊張が広がっていった。

祈りの間は封鎖。

東門は警戒強化。

水差しは管理変更。

清掃担当には報告義務。

バレムとニール、リリアは待機。

誰も拘束されていない。

でも、誰も完全に自由ではない。

それが、今できるぎりぎりの線だった。

私は廊下の窓から外を見た。

林の方は、まだ明るい。

けれど、木の下にはもう影が溜まり始めている。

そこに何がいるのかは分からない。

ただ、何かがこちらの動きを見ている気がした。

魔王軍か。

それとも、別の何かか。

「主。」

後鬼が静かに戻ってくる。

「東門外の溝に、足跡が一つ増えていました。」

「増えていた?」

「はい。」

「いつ?」

「我々が一度砦へ戻った後です。」

私は目を細めた。

「つまり、誰かが現場を見に来た。」

「その可能性があります。」

「足跡は砦側から?」

「外側からです。」

ルークがこちらを見る。

ガルドも足を止めた。

悠真の表情が硬くなる。

私は息を吐く。

ほんと、休ませる気がない。

「見に来たのね。」

「証拠が残っているか確認しに来たのか。」

ルークが低く言う。

「あるいは、こちらが気づいたかを見に来た。」

私は答えた。

「どちらにせよ、向こうも焦ってる可能性がある。」

「追うか?」

ガルドが訊く。

私は少し考えた。

すぐに追えば、相手の思うつぼかもしれない。

追わなければ、逃げられるかもしれない。

いつも通り、面倒な二択だ。

「追わない。」

私は言った。

「今は。」

ガルドが眉を上げる。

「いいのか。」

「足跡を追えば、こちらの人員配置がまた見られる。」

「それより、向こうがもう一度来た理由を考える。」

私は窓の外を見る。

「証拠を消したかったなら、消しに来る。」

「様子を見たかったなら、見える位置にいる。」

「どちらにせよ、まだ近くにいる可能性がある。」

ルークが頷いた。

「なら、東門を静かに閉じる。」

「見張りは増やすが、表向きは変えない。」

「ええ。」

私は袖の中の符を確かめた。

「あと、今夜は水差しにも符を貼る。」

悠真が目を丸くした。

「水差しにもですか。」

「もちろん。」

私は即答した。

「夢にも門にも祈りの間にも水差しにも気を遣わないといけないなんて、ほんとに面倒だけど。」

サトリが肩の上で頷く。

「水も見張る。」

「そう。」

私は小さく息を吐いた。

「この世界は――」

言いかけて、少しだけ止まる。

まだ一日は終わっていない。

今言うには、早い気がした。

たぶん、夜にまた何か来る。

そういう嫌な確信があった。

だから、私は言葉を飲み込んだ。

飲み込んで、代わりに窓の外の林を見る。

雑な世界で、丁寧に仕掛けてくる相手。

それが今、一番たちが悪い。

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