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陰陽師朝霧、異世界にクレームをつけにいく ~勇者召喚の裏で女神が雑すぎる件~  作者: 和幸雄大


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第40話 空白の交代

祈りの間を出ると、廊下の空気が少しだけ変わっていた。

砦の兵士たちは、こちらを見ないようにしている。

でも、見ないようにしている時点で見ている。

目を逸らすというのは、案外それ自体が目立つものだ。

人間は気になるところを隠すのが下手だ。

そして、疑われる側はその下手さにすぐ気づく。

だから雰囲気が悪くなる。

本当に面倒くさい。

「ミツネ殿。」

エリシアが低く言った。

「リリアは、祈りの間の隣室にいるはずです。」

「すぐ呼ぶ?」

「はい。」

「その前に、ルークの方を先に見る。」

私は廊下の先を見た。

「バレムとニールの話が先。」

悠真が少しだけ首を傾げる。

「リリアさんの確認じゃないんですか?」

「祈香が一つないのは事実。」

私は答えた。

「でも、排水口の方は時間と人の動きが絡んでる。」

「先にそっちを固める。」

「どうしてですか?」

「祈香だけ見ると、神殿関係者が怪しく見える。」

私は歩きながら言った。

「足跡だけ見ると、門兵が怪しく見える。」

「魔王軍の斥候だけ見ると、全部魔王軍に見える。」

悠真は黙って聞いている。

「でも、一つだけ見て決めるのが一番危ない。」

「答えを急がせるのは、だいたい罠。」

「……女神様の夢と同じですね。」

「そう。」

私は少しだけ悠真を見る。

「よく繋げたわね。」

「昨日から、そればっかりですから。」

「良い傾向。」

「嬉しいような、嬉しくないような。」

サトリが肩の上で、ふすっと鼻を鳴らす。

「勇者、考えてるにおい。」

「においで言わないでくれるかな。」

悠真が少し困った顔をする。

その顔が、さっきより少しだけ自然だった。

不安は消えていない。

でも、不安にただ振り回されているわけでもない。

今はそれでいい。

ルークは、東門脇にある小部屋にいた。

部屋の中には、二人の兵士が立っている。

一人は顔色の悪い年嵩の兵。

もう一人は若い兵。

どちらも緊張していた。

緊張の種類は少し違う。

年嵩の兵は、申し訳なさと不安。

若い兵は、怯えと保身。

見ているだけで、少し分かる。

人間の表情は、帳面よりよほど余計なことを書く。

「バレム。」

ルークが短く言った。

「昨夜の第二交代後、持ち場を離れたのは事実か。」

「は、はい。」

バレムと呼ばれた兵が頭を下げた。

「申し訳ありません。」

「理由は。」

「腹が痛くなりまして。」

「急にか。」

「はい。」

「前兆は。」

「ありませんでした。」

「食事は。」

「他の兵と同じです。」

「水は。」

「門の詰め所の水差しから。」

ルークの眉がわずかに動いた。

私は横から口を挟む。

「その水差し、今は?」

バレムが少し戸惑う。

「おそらく、朝の片づけで洗われたかと。」

「でしょうね。」

私は小さく息を吐いた。

証拠になりそうなものほど、朝の掃除で綺麗に消える。

綺麗好きは悪くない。

でも、現場ではたまにそれが問題になる。

清潔と証拠保全は、仲が悪い。

「腹痛はどれくらい続いたの?」

「半刻ほどです。」

「その間、誰が代わった?」

「ニールです。」

若い兵が肩を震わせた。

「自分です。」

ルークの視線がニールへ向く。

「なぜ記録しなかった。」

「短時間でしたので。」

「理由にならん。」

「申し訳ありません。」

ニールはすぐに頭を下げた。

早い。

謝るのが早い人間は、反省している場合もある。

でも、早く謝れば話が終わると思っている場合もある。

今のところ、どちらとも言えない。

「ニール。」

私は声をかけた。

若い兵がこちらを見る。

「はい。」

「あなた、昨夜、排水口を見た?」

「見ました。」

「どう見た?」

「どう、とは。」

「立ったまま見たのか、しゃがんで見たのか。」

ニールの口が止まった。

それだけで、答えの半分は見えた。

「……立ったままです。」

「格子には触った?」

「触っていません。」

「近づいた?」

「近づきました。」

「どれくらい。」

「二、三歩ほど。」

「暗かった?」

「はい。」

「松明は?」

「詰め所の明かりがありました。」

「排水口の下の留め具は見えた?」

ニールは黙った。

私は頷く。

「見えてないわね。」

「申し訳ありません。」

「謝罪の速さだけは優秀ね。」

ニールの顔がさらに青くなる。

悠真が少し困った顔でこちらを見た。

たぶん言いすぎだと思っている。

でも、ここは少し刺しておく。

「見たつもり、確認したつもり、記録したつもり。」

私は言った。

「その“つもり”の隙間から、だいたい面倒ごとは入ってくる。」

ルークが低く頷いた。

「確認方法の問題は後で改める。」

「はい。」

ニールは小さく答えた。

バレムが隣で唇を噛んでいる。

「バレム。」

私は今度はそちらを見た。

「あなたが持ち場を離れた時、誰かに腹痛のことを話した?」

「ニールにだけです。」

「その前は?」

「誰にも。」

「本当に?」

「はい。」

サトリが私の肩の上で鼻を鳴らした。

「嘘、少ない。」

「ゼロではない?」

「隠してるけど、悪いにおいじゃない。」

なるほど。

悪いにおいではない。

でも、隠している。

私はバレムを見る。

「何を隠してるの?」

バレムの顔が強張った。

「いえ。」

「今の“いえ”は、だいたい何かある時の声。」

「……。」

「言いなさい。」

ルークの声が低く落ちた。

バレムは観念したように息を吐いた。

「見張りの前、少し眠気がありました。」

「眠気?」

「はい。」

「腹痛の前に?」

「はい。」

ルークの表情がさらに硬くなる。

「なぜ報告しなかった。」

「疲れだと思いました。」

「他には。」

「耳鳴りのようなものが。」

「耳鳴り。」

私は少しだけ目を細めた。

「どんな音?」

「鈴の音、のような。」

部屋の空気が止まった。

エリシアの指が、胸元の祈具に触れる。

悠真も息を呑む。

私はバレムから目を逸らさない。

「鈴の音は、一回?」

「いえ。」

「何度か?」

「はい。」

「どこから?」

「分かりません。」

「外?」

「違うと思います。」

「内側?」

「……頭の中、というか。」

バレムは自分で言って、顔を歪めた。

「すみません。」

「謝らない。」

私は即答した。

「今のは大事。」

女神様の声。

夢。

祈香。

鈴の音。

そして腹痛。

綺麗に繋げたくなる。

でも、まだ早い。

こういう時に答えを決めると、あとで足元を掬われる。

「その鈴の音を聞いた後、腹が痛くなった?」

「はい。」

「水を飲んだのは?」

「その少し前です。」

「水差しの水は、誰が用意した?」

ニールが顔を上げた。

「自分ではありません。」

「聞いてないわ。」

ニールは慌てて口を閉じる。

分かりやすい。

分かりやすすぎる。

「用意した者は分かる?」

ルークが門兵に訊く。

部屋の隅に控えていた兵が答える。

「夕方の担当はロイドです。」

「呼ぶか?」

ガルドが低く言った。

いつの間にか部屋の入口に立っていた。

本当に、この男は大きいのに妙に現れる。

「後で。」

私は言った。

「今、人数を増やすと話が散る。」

「そうか。」

ガルドは不満そうではなかった。

むしろ少し感心したように腕を組む。

「バレム。」

私はもう一度訊く。

「腹痛で離れた後、誰かと会った?」

「医務室の前で、リリア殿とすれ違いました。」

エリシアの顔がわずかに強張る。

「リリアと?」

「はい。」

「何か話した?」

「祈りの間へ向かうと仰っていました。」

「時間は?」

「第二交代の少し後です。」

「記録には?」

ルークが帳面を見る。

「ない。」

私は額に指を当てた。

出る。

出る。

記録に残らないものが、また出る。

この世界の記録は、いったい何なら残しているのか。

見栄えの良い帳面を作る前に、中身を仕事させてほしい。

「リリアを呼ぼう。」

エリシアの声は静かだった。

でも、指先に力が入っている。

私は彼女を見る。

「大丈夫?」

「大丈夫ではありません。」

正直な返事だった。

「ですが、呼びます。」

「一人で聞かない。」

「はい。」

「それと、今の時点でリリアを犯人扱いしない。」

「分かっています。」

エリシアは深く息を吸った。

「分かって、います。」

二度目の言葉は、自分に言い聞かせるようだった。

そのくらいでいい。

自分が揺れていると分かっているなら、まだ止まれる。

問題は、揺れていることに気づかない人間だ。

「悠真。」

私は横にいる悠真を呼んだ。

「はい。」

「今、何に反応した?」

悠真は少し驚いた顔をした。

でも、すぐに考えた。

「リリアさんの名前が出たことです。」

「どう反応した?」

「疑いたくないと思いました。」

「どうして?」

「エリシア様がつらそうだったので。」

エリシアが少しだけ目を伏せる。

私は頷いた。

「それは悪くない。」

「はい。」

「でも、誰かがつらそうだから疑わない、は違う。」

悠真は小さく頷いた。

「はい。」

「誰かを守りたい気持ちと、事実を見ることは別。」

「はい。」

「今のところ、できてる。」

悠真が少しだけ息を吐いた。

「そうですか。」

「ええ。」

「なんか、試験みたいですね。」

「実地試験ね。」

「落ちたら?」

「落ちないように横で口を出してるの。」

サトリが小さく笑う。

「ミツネ、口出し多い。」

「仕事してるのよ。」

「雑な仕事じゃない?」

「今のは私に失礼。」

「半分くらい。」

「どこで覚えたの、その返し。」

悠真が思わず少し笑った。

空気がわずかに緩む。

それでいい。

重い話を重いまま続けると、人はだんだん考えられなくなる。

そういう時、少しだけ緩める。

緩めすぎると壊れる。

締めすぎても壊れる。

結局、人の扱いが一番面倒だ。

女神様がそこを雑に済ませている時点で、もう運営としては赤点だと思う。

しばらくして、リリアが部屋に入ってきた。

年は、私より少し下に見える。

淡い金色の髪を後ろでまとめ、白い布を肩に掛けていた。

神官補佐というより、祈りの間の番人みたいな印象だ。

顔色は悪い。

けれど、取り乱してはいない。

「お呼びと伺いました。」

リリアはエリシアへ深く頭を下げた。

「リリア。」

エリシアの声は静かだった。

「昨夜、祈りの間へ行きましたか。」

リリアは一瞬だけ黙った。

その一瞬を、私は見逃さない。

「……はい。」

「記録はありませんでした。」

「申し訳ありません。」

「なぜ記録しなかったのですか。」

リリアは両手を前で握りしめた。

「長くいるつもりはなかったからです。」

「何をしに?」

「祈香の確認を。」

「確認?」

エリシアの声が少しだけ硬くなる。

リリアは顔を上げなかった。

「夜に、鈴の音が聞こえました。」

まただ。

私は黙って聞いた。

「祈りの間から、です。」

「祈りの間の鈴?」

エリシアが問い返す。

「はい。」

「誰かが鳴らしたのですか。」

「分かりません。」

リリアは震える声で続けた。

「ただ、呼ばれた気がしたのです。」

呼ばれた。

また嫌な言葉が出た。

神様関係の話で“呼ばれた気がした”ほど扱いに困るものはない。

本人には本当にそう感じている。

でも、外から見れば誘導と区別がつかない。

信仰と操作の境目が、また雑に溶けている。

「それで、祈りの間へ?」

エリシアが訊く。

「はい。」

「中に入ったのですね。」

「はい。」

「鍵は。」

「私のものを使いました。」

「祈香は触りましたか。」

リリアの手が強く握られる。

「触りました。」

エリシアが目を閉じた。

部屋の空気が重くなる。

悠真が息を止めるのが分かった。

私は口を挟む。

「使った?」

リリアは首を横に振った。

「いいえ。」

「抜いた?」

「いいえ。」

「数は見た?」

「見ました。」

「いくつあった?」

「六包ありました。」

私は少しだけ目を細めた。

エリシアも顔を上げる。

「六包?」

「はい。」

「昨夜の時点で?」

「はい。」

「確か?」

「確かです。」

リリアの声は震えていたが、そこだけははっきりしていた。

サトリが私の肩で鼻を鳴らす。

「嘘、少ない。」

「なるほど。」

私は腕を組む。

昨夜の時点で六包。

朝には五包。

では、リリアが入った後に抜かれた。

もしくは、リリアの記憶がずらされている。

あるいは、リリアが六包見たと思い込まされている。

面倒。

かなり面倒。

「祈りの間を出る時、誰か見た?」

「いいえ。」

「音は?」

「鈴の音は止んでいました。」

「祈香の匂いは?」

「いつもより強かった気がします。」

「甘い?」

リリアが少し驚いたようにこちらを見た。

「はい。」

「焦げた花みたいな?」

リリアの顔が青くなった。

「なぜ、それを。」

「林の奥で同じような匂いがしたから。」

リリアは口元を押さえた。

「そんな。」

「まだ決めない。」

私は先に言った。

「あなたが持ち出したとも、あなたが騙されたとも、まだ決めない。」

「はい。」

「でも、昨夜あなたが祈りの間に入ったことは事実。」

「はい。」

「記録していないことも事実。」

「はい。」

「祈香が一つ足りないことも事実。」

リリアの肩が震えた。

エリシアが一歩前に出かける。

私は小さく手で制した。

ここで慰めに入ると、話が切れる。

冷たいけれど、今は切れない方がいい。

「リリア。」

私は言った。

「鈴の音を聞いた時、あなたはどう思った?」

「……女神様の、導きかと。」

悠真の目が揺れた。

エリシアの表情も苦しくなる。

私は続ける。

「それで確認に行った。」

「はい。」

「誰にも言わずに。」

「はい。」

「記録もせずに。」

「はい。」

「それは、導きだったから?」

リリアは唇を噛んだ。

「急がなければならない気がして。」

出た。

急がなければならない。

迷わせずに動かすための言葉。

女神様の夢とよく似ている。

でも、まだ同じとは決めない。

似せている可能性もある。

「悠真。」

私はあえて悠真を呼んだ。

「はい。」

「今の、どう聞こえた?」

悠真は少し苦しそうに答えた。

「夢の時と似ています。」

「どこが?」

「急がなきゃいけない気がするところです。」

「他には?」

「自分で決めたように感じるところ。」

リリアがはっと悠真を見る。

悠真は少し戸惑いながらも、続けた。

「俺も、そうでした。」

「命令されたわけじゃないのに、そうしなきゃいけない気がして。」

「あとで考えると、自分で決めたのか分からなくなる。」

リリアの目が揺れた。

「私も。」

声がかすれる。

「私も、そうでした。」

沈黙が落ちる。

部屋の中にいた全員が、その言葉の重さを飲み込んだ。

女神様の声。

鈴の音。

祈香。

急がなければならない感覚。

これで完全に繋がったわけではない。

でも、線は見えた。

かなり嫌な線だ。

「主。」

後鬼が静かに口を開いた。

「これは、夢への干渉と同系統でしょうか。」

「近い。」

私は答えた。

「でも、対象が違う。」

「勇者殿だけではない。」

「そう。」

私はリリアを見る。

「信仰心の強い人間にも、似た押し方ができる。」

エリシアが小さく息を呑んだ。

「つまり、女神様への信仰そのものが入口になると。」

「可能性の一つ。」

私はすぐに言った。

「断定はしない。」

「でも、入口になり得る。」

エリシアは目を伏せた。

その顔は痛そうだった。

当たり前だ。

信じているものが、自分たちを守る盾ではなく、誰かに使われる扉かもしれないと言われたのだから。

それは痛い。

でも、痛くても見なければいけない。

見ないまま祈ることを、私は信仰とは呼びたくない。

それはただの思考停止だ。

しかも、思考停止は管理者側からするととても都合がいい。

雑な運営ほど、考えない利用者を好む。

本当に嫌な構図だ。

「リリア。」

エリシアが静かに言った。

「あなたを責めるために聞いているのではありません。」

リリアが顔を上げる。

エリシアの声は震えていなかった。

「ですが、何が起きたのかは見なければなりません。」

「はい。」

「昨夜の行動を、最初から話してください。」

「分かりました。」

リリアは少しずつ話し始めた。

夜の祈りを終えた後、部屋へ戻ったこと。

眠りかけた頃、遠くで鈴の音を聞いたこと。

胸がざわつき、祈りの間へ行かなければならないと思ったこと。

廊下でバレムとすれ違ったこと。

祈りの間に入り、祈香の箱を開けたこと。

六包あることを確認したこと。

その時、甘い匂いがいつもより強かったこと。

そして、なぜか安心して部屋へ戻ったこと。

「安心?」

私が訊く。

「はい。」

「何に?」

「分かりません。」

リリアは困惑した顔で首を振った。

「ただ、これで大丈夫だと。」

「何が大丈夫なのかは?」

「分かりません。」

まただ。

目的の分からない安心。

行動だけをさせて、意味を空白にする。

人を動かすには十分。

でも、本人が説明しようとすると穴だらけになる。

ずいぶん都合の良い誘導だ。

「ミツネ。」

サトリが小さく言う。

「リリア、におい薄い。」

「焦げた匂い?」

「うん。」

「残ってる?」

「少し。」

「手?」

「袖。」

私はリリアの袖を見た。

白い布の端。

一見、汚れはない。

でも、符を近づけると、ほんのわずかに墨が滲んだ。

灰色。

そこに、白。

林の焦げ跡と同じ反応。

「触ったわね。」

リリアが青ざめる。

「私は、祈香の箱にしか。」

「責めてない。」

私は符を見た。

「箱か、箱の中か、その周辺に残っていたものに触れてる。」

「では、祈りの間にすでに。」

エリシアが言いかける。

「何かが仕込まれていた可能性はある。」

私は頷いた。

「祈香が一つ抜かれたのは、リリアの後かもしれない。」

「でも、仕込み自体はその前からかもしれない。」

ルークが低く言った。

「つまり、リリアは誘導されたが、持ち出したとは限らん。」

「そう。」

私は答えた。

「今のところはね。」

リリアの肩から少しだけ力が抜けた。

でも、完全に安心はしていない。

それでいい。

完全に安心されても困る。

まだ何も終わっていない。

「では、祈香を抜いた者は別にいる可能性が高いのですね。」

悠真が言う。

「高いとは言い切らない。」

私は返した。

「可能性が増えた。」

「またそれですか。」

「またそれ。」

「断定しないの、難しいですね。」

「楽な断定は、だいたい後で高くつく。」

私は祈香の箱を思い出す。

綺麗な封。

丁寧な帳面。

そのくせ、中身が抜かれている。

見た目だけで安心する仕組みは、本当に危うい。

女神様の世界は、全体的にそれが多すぎる。

信仰。

勇者。

神殿。

記録。

どれも表面は整っている。

でも、少し触ると隙間が出る。

そして、その隙間を誰かが使っている。

「ルーク。」

私は言った。

「祈りの間を一度封鎖。」

「分かった。」

「鍵を持っている人間は全員確認。」

「予備もだな。」

「ええ。」

「東門の水差しを担当したロイドも呼ぶ。」

「それと、昨夜の清掃担当。」

「全員か。」

ガルドが眉をしかめる。

「全員じゃない。」

私は首を振った。

「まず触れた可能性がある人間だけ。」

「広げすぎると噂になる。」

「狭めすぎると逃がす。」

「面倒だな。」

「だから面倒だって言ってる。」

ガルドは苦笑した。

「お前、ずっと面倒って言ってるな。」

「面倒なものを面倒と言わずに綺麗な言葉で包むから、管理が腐るのよ。」

部屋の空気が少しだけ静まる。

少し刺さったかもしれない。

でも、今は刺さっていい。

「女神様の導き。」

私は低く言った。

「信仰。」

「勇者。」

「祈り。」

「そういう綺麗な言葉を使うなら、なおさら管理は丁寧じゃないといけない。」

「雑に扱えば、誰かがそこを利用する。」

エリシアが静かに頷いた。

「肝に銘じます。」

「あなた一人の責任じゃない。」

「ですが、私にも責任はあります。」

「それを言えるなら、まだ大丈夫。」

エリシアは少しだけ苦笑した。

「まだ、ですか。」

「まだ。」

私は答えた。

「ここから先、たぶんもっと面倒になる。」

悠真が小さく息を吐く。

「怖いことを普通に言いますね。」

「怖くないふりをしても、怖いものは消えない。」

「それはそうですけど。」

「だから見る。」

「はい。」

悠真は頷いた。

その目は、また少しだけ強くなっていた。

怖がっている。

でも、見ようとしている。

それなら、まだ折れない。

ルークが兵に指示を飛ばし、リリアは一時的にエリシアの監督下に置かれることになった。

バレムとニールも、拘束ではなく待機。

ただし、持ち場には戻さない。

その場で犯人扱いはしない。

けれど、自由にも動かさない。

人を疑う時の距離感は難しい。

近すぎると感情が混ざる。

遠すぎると見えなくなる。

本当に、人間の扱いは面倒だ。

祈りの間を出る直前、サトリが棚の方を見た。

「ミツネ。」

「なに。」

「箱の下。」

私は足を止めた。

棚の下。

祈香の箱が置かれていた奥の板。

そこに、細い白い粉が落ちていた。

ほんのわずか。

普通なら見落とす。

でも、サトリは見つけた。

私は符を折り、粉の近くへ寄せる。

墨が滲む。

灰色。

白。

そして、ほんの少しだけ黒。

林で見つけた黒い針の反応に近い。

「これ、祈香じゃないわね。」

エリシアが息を呑む。

「では。」

「祈香に似せるための混ぜ物。」

私は符を持ち上げた。

「たぶん、祈香そのものが目的じゃない。」

「祈香の匂いを使って、神殿由来に見せるため。」

悠真が言う。

「つまり、疑わせるため?」

「それもある。」

私は答えた。

「でも、もう一つ。」

「もう一つ?」

「祈香の匂いは、信仰心の強い人間にとって“正しい場所”の匂いになる。」

「正しい場所。」

「そう。」

私はリリアを見る。

「鈴の音を聞いた時、甘い匂いもあった?」

リリアは少し考え、青ざめた顔で頷いた。

「ありました。」

「やっぱり。」

私は符を握り込む。

「匂いで安心させて、鈴で呼び、記録を残さず動かす。」

部屋の中が静まり返った。

「ずいぶん丁寧な雑さね。」

悠真が困ったように訊く。

「丁寧なのか雑なのか、どっちなんですか。」

「仕組みは丁寧。」

私は答えた。

「人の扱いが雑。」

誰も反論しなかった。

反論できる要素が、あまりなかった。

私は袖の中に符をしまう。

材料は増えた。

増えすぎた。

でも、輪郭は少し見えた。

誰かは、神殿の匂いを利用している。

鈴の音を使っている。

記録の空白を作っている。

そして、人の信仰心や不安に入り込んでいる。

魔王軍だけでできるのか。

神殿内の誰かが関わっているのか。

女神様の干渉と同じ経路なのか。

まだ分からない。

でも、一つだけ確かなことがある。

この仕掛けを作った相手は、勇者だけを狙っていない。

砦そのものを、内側から揺らし始めている。

私は祈りの間の扉を見る。

白い布が揺れていた。

清めの布。

祈りの象徴。

その下に、記録されない空白がある。

本当に、笑えない。

この世界は――

空白の作り方まで、いちいち雑すぎる。

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